第3話 出棺

 納棺の時間になった。外は相変わらずの雨模様だった。外には霊柩車が止まっていた。

 蒼太や父のような男衆で棺が担がれる。遠い親戚や女、子どもたちは会場の入り口の左右に立って、棺が運び出されるのをじっと静かに眺めていた。

 式の間中、父はずっと無表情だった。背中に棒でも入れているように背筋を伸ばして、じっと前を見ながら椅子に座っていた。その姿は、どこか苦痛から逃れようとしているように親戚たちの目には映ったようだった。しかし、絵美にはそうは思えなかった。本当にそれは、母の死のショックに耐えている姿なのだろうか。それとも大量の金がこの葬式によって流れ出てしまう屈辱に耐えているだけなのだろうか。その答えを知るものは誰もいなかった。

 棺を男達が担いで運ぶ様子は、絵美に祭りを想起させた。

 陽気な音楽は流れずに、死者を悼みながら棺という神輿は担ぎ上げられる。悲しみに身を纏いながら運ぶのは生者たち。死者である母は、まさに祭り上げられていた。

 絵美は、なぜ死者は火葬されてしまうのだろう、と思った。

 頭では衛生面の問題などが理由だと分かってはいたが、燃やされるなんてひどいことだと絵美は思えてならなかった。

 ――母にはありのままの姿でいてほしかった。

 この葬式を終えてずっと先の、絵美が大人になった頃。きっと絵美は母のお気に入りだったソファに座って、ふと母のことを思い出して泣くのだろう。その時、母の死体が一緒にソファに座って、すぐ傍にいてくれたら、とても心強いだろうと思った。

 しかし、焼かれて残った骨を見て、絵美は母を思い出せるだろうか?

 絵美は母をいつでも思い出せるようにしていたかった。例え、肉が腐敗し母が人の形でなくなっても、それが『母』だったことには変わりはないはずだ。どこかに母の面影が残り、絵美に思い出を残してくれるはずだ。

 だが、絵美は母の骨など見たことがない。……骨を見て、母の声を思い出せるだろうか?

 焼かれて残った、滓ほどの量しか残っていない母の骨なんて、絵美はいらなかった。絵美は肉を求めた。現実に絵美が触れた母の形が欲しかった。

 棺は無事に霊柩車に納められ、そのまま父は運転手と共に霊柩車に乗り込んだ。

 絵美と蒼太は、他の出席者と一緒に用意されていたバスに乗せられた。固いバスのシートに座りながら絵美はバスの前に止まっている霊柩車に目を向ける。

 ――なぜ、お前がそこにいる。

 絵美は霊柩車の中でゆっくりとくつろいでいるであろう父に向かって怒りを覚えた。

 ――なぜ私ではなくてお前なんだ。

「ねーちゃん」

 絵美はハッと隣を見ると、蒼太がそっと絵美に耳打ちしていた。

「あんま、そうやって露骨に霊柩車を睨むなよ。おばさん達が怪しむだろ」

 やがてバスは動きだし、車内はエンジン音に包まれる。

「あんたは悔しくないの」

「そんなわけないだろう」

 蒼太はバスの前を走る霊柩車に目を向けながら言った。彼の目元は赤く腫れていた。

(蒼太は、泣けたんだ)

 絵美はバスの車窓に映る自分の真っ白な顔を見ながら、より陰鬱な気持ちを膨らませた。

 霊柩車とバスの二台は、雨に打たれながらアスファルトの上を走って行く。

 雨は容赦なく地上に雨粒を叩き付け、バスの車窓には粘液のようにべったりと張り付いていた。濡れた窓から見る外の景色は全てが歪んで見えた。

 絵美はふと、その濡れた窓を見ながら思い出した。

 まだ絵美が幼い頃、こういう日には必ず父が絵本を読んでくれた。父はどんな登場人物もこなせることができる俳優のような人だった。父の低い声はリズミカルで、物語に躍動感を与える。絵美にとって、それはなんとも心地よい時間だった。

 絵美はそっと目を瞑った。

 父が、絵美に対してあの優しげな声を聞かしてくれる日は、もうきっとないのだろう。

「ねぇ」

 絵美は蒼太を横目に見ながら言った。バスのシートに身を沈ませていた蒼太はゆっくりと絵美の方を向いた。

「私たちはお父さんの言う通り、まだまだ『子ども』だけど、だからってお父さんが『大人』だとは、どうしても思えない」

 蒼太は小さくうなずく。

「皆、何か辛いことや理不尽なことを言われると、『大人になれ』、『大人になろう』って私たちに我慢を強いてくるよね。そう言って『俺はお前たちの成長を促しているんだぞ』って尊大な態度を見せるけど……体が成長すれば大人なの? 理不尽を我慢すれば大人なの? お金が心配で仕方がない気持ちになったら、大人になれるの?」

 ほとんど吐き出すように絵美は言った。

「……どうしてだろう」

 絵美はそう言って蒼太の髪を撫でた。彼の短い髪は柔らかくて、絵美の指の間でふわふわと気持ちが良かった。

「大人って、成長すれば単純になれるものではないことはわかってる。……でも、私には何が『大人』と言える条件なのかがわからない」

 絵美は言葉を探す。

「周りから『大人になれ』って言われて『じゃあなろう』なんて思わないでしょう。……成長なんて、自分ではきっと気づけないものだと思う。……たぶん、生きていく中で培ってきた自分の価値観や考え方が、その人らしい形になった時、『大人』になったって言えるんじゃないかな」

 不安定な子どもの心が、譲れない道を知って、その道を進む覚悟を決めた時。それが大人になる瞬間と言えるのではないかと絵美は思った。

 蒼太の横顔を見ていると、随分と昔の顔つきから変わったなと思った。彼の頬は小さい頃のような柔らかさを失って、今はがっしりとしていた。

「……いつの間にか、みんな知らないうちに『大人』になっていくんだろうね」

 絵美はふっと小さく笑う。

「私は、大人じゃないなぁ……大人になれない」

 絵美は蒼太と目があった。その瞳に、小さな炎が宿るのを絵美は見た気がした。

 彼は絵美から目をそらし、自分の手を眺めた。彼の手の平は絵美のそれよりも大きい。

「……でも、子どもだから俺たちは道を選ぶことが出来る」

 そう言って彼は拳を握る。絵美は小さく笑った。

 絵美たちは大人にはなれない。

 ――私たちは、外れた道を選ぶ。

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