第4話 奪還

 それは一瞬の出来事だった。

 雨の中、火葬場に着いた霊柩車とバスは、施設の前のエントランスに横付けで止まるためにゆっくりと蛇行しながら進んでいた。

 雨はこの時、ここ数日の中で最も雨量の多い、猛烈な強さとなっており、地面はどこもぬかるんでいた。霧っぽいため視界は悪く、雨音が満ちていた。隣に座る人の声も聞き取りづらい。視界も音も悪いこの暗い雨は、まるでこのバスと霊柩車を巨大な幕で覆われているような錯覚を起こさせた。

 バスと霊柩車の運転手たちは、そんな悪天候のため事故を起こさないように極限の集中力を運転に注いでいた。彼らは無事に火葬場に着いてブレーキを踏んだ時、ホッと安堵の息を落としただろう。バスの中も、乗客たちは「やっと着いた」と口々に言い、みんな足元に置いていた傘を手に取ろうと、それぞれ下を向いていた。――だから、一人の少年が突然バスの窓を開けて外に飛び出した時、誰も声を上げて止めることが出来なかった。

 蒼太はバスの窓を開けて、大粒の雨が降る曇天の空の下に飛び出した。地面に着地した瞬間、泥と雨水が飛び散って蒼太の足を汚したが、それには気にも留めず、蒼太は一目散に霊柩車に目がけて走り出した。

 空は黒い雲で覆われて、まるで夜のように暗かった。火葬場の入り口の照明が煌々と光っている。地面に広がる泥の水たまりにその光が反射して、まるで空よりも地面の方が明るいような錯覚を蒼太は感じた。

 一歩進む毎に冷たい水と泥が蒼太の周囲に放射状に飛び散る。すぐに雨で全身が濡れて、服は重くなった。葬式用に今日は学生服を来てきたのでなおさら重い。それでも蒼太は誰かに止められる前に迅速に動かなければならなかった。

 蒼太は霊柩車の運転席に駆け寄って、手に持っていた傘を握り直した。そして、運転席の窓に目がけて力いっぱい叩き付ける。思ったよりもガラスは丈夫で、少し罅が入っただけだった。

 蒼太が握っているこの傘は少し改造したもので、芯の部分をより固く、重い金属に取り替えていた。

(車のガラスなんて、簡単に割れると思ったのに)

 蒼太は舌打ちして、もう一度傘を窓に打ち付ける。おかしな音をたてて窓が大きくひび割れた。

(あと、少しだ)

 蒼太は傘を振り上げた。腰を落として、傘を握る腕に力を込めて、車窓を睨んだ。

 ふと、その罅の入った歪んだ窓ガラスの向こう側で、運転手が突然の事態に驚きを隠せず、呆然とした顔を蒼太に向けているのが見えた。

 蒼太は目を閉じて、傘を振り下ろした。


 絵美は蒼太が飛び出して行った窓から顔を出した。想像よりも激しい雨粒が頬を打ち、思わず身じろいだ。

 地面に着地した蒼太はすぐに霊柩車に向かって走り出して行った。彼の後ろ姿は、降りしきる雨の分厚いカテーンに覆われてすぐに見えなくなった。――数メートル先の景色が影としてしか認識できない。それほどまでに今の雨は凄まじかった。

 絵美はチラリとバスの中に視線を向けた。蒼太が去った後のバスは騒然としていた。

 突然飛び出して行った少年の後を追おうとバスの出入り口に向かう大人たちと、それを止めようとする運転手がバスの入り口で揉めている。

 叔母は絵美と同じように窓から顔を出して蒼太の行方を捜していた。

(蒼太……)

 その時、ガシャン、と何かが壊れる恐ろしい音がした。絵美は心臓の潰れるような思いで蒼太の行方を案じた。

(どうか無事で……)

 また、割れるような音が聞こえた。絵美は祈るように手を合わせる。

(そして、成功させて)

 絵美は強くそう願った

 ――これは、絵美が企てて、蒼太を巻き込んだ計画なのだから。


「母さんを奪う?」

 蒼太は訝しげに問い返した。

 それに絵美は頷く。

 ザァ、と風が吹いた。ベランダに面した二階の部屋で、二人は窓の外の景色を見ながら、お互いの顔を見ずに話していた。

「お母さんは死んじゃったけど、でも、ずっと家にいてほしいなって思ったらさ……なんか、奪うしか方法がないじゃんって思っちゃって。そしたらいろんな計画が頭に浮かんでね。ヤバイよね」

 絵美は冗談を言うつもりでそう笑った。

「実際にそんなことしちゃいけない、成功するわけないじゃんって思うんだけど、でも……蒼太となら、それが叶えられるんじゃないかって、思っちゃった」

 口元を覆うように手の平で隠す。うまく笑えている自信がなかった。

「それに、お父さんの手からお母さんを解放してあげたい……今のままじゃお母さんが可哀想だし、私が、悔しい」

 蒼太はピクリと反応した。

「……だってそうじゃない? お父さんは全部、自分こそが正しいと思ってるみたいに私たちのことを叱るけど、今のあの人、なんかおかしいよ……。なんであの人は、今までずっと連れ添ってきたお母さんが……自分の愛していた人が死んだって言うのに、平気な顔をしていられるわけ?」

 母の亡骸を見下ろした時の、父の冷たい表情を思い出した。

「……私はお母さんを火葬になんかしてほしくない。絶対にお父さんの手でお母さんを燃やされたりなんて……させてやるもんか」

 母の突然の死は、理不尽で、不当で、許されないことだと絵美は思った。

 絵美はその残酷な現実から母を奪い返さなければならないと思った。

 ――ただの反抗期の世迷言だと思われても構わない。馬鹿だと笑われたっていい。

「お母さんをお父さんから奪い取って、それから、お父さんからも遠く離れて……蒼太と二人で生きていきたい」

 ――それでも本気でそう思った。

 絵美は自分の拳をぎゅっと握って俯いた。

 長い沈黙が二人の間にあった。しばらくして、蒼太はぽつりと溢すように呟いた。

「……お母さんを、連れて」

 絵美は頷いた。チラリと蒼太を見るが、彼は目の前の景色から目を離してはいない。絵美も外を見た。青い空が、次第に分厚い雲で覆われていくのを二人で眺めた。雲と雲の間から光の柱が地上に落ちて、黒い雲とのコントラストが綺麗だった。だが、急激に雲の流れが早くなって光の柱はいつの間にか消えてしまい、空は黒い雲で完全に閉ざされてしまった。

 今にも雨の匂いがしそうな、冷たい風が二人の間を走り抜けていった。

 絵美は蒼太の息遣いを聞いた。

 蒼太は、絵美の息遣いを聞いた。

 しばらくすると、蒼太は突然立ち上がって部屋を出て行った。

 絵美は窓の外の景色から目をそらさずに、どんどんと離れていく蒼太の足音を聞きながら、小さくため息を吐いた。

(……そうだよね)

 絵美は自嘲するように笑った。

 ――誰が、こんな馬鹿げた話に賛成してくれるというのだろうか。

 当然だ。蒼太は理知的で頭が良かった。むしろ、高校生にもなってこんなことを言い出す絵美の方が幼稚なんだ。死んだ母親に依存して、さらには父に反抗しようなんて……馬鹿げていると思われて仕方がない。

 絵美は俯くように下を向いて、小さく鼻を啜った。ポツポツと小さな雨粒が地面を濡らし始めた音が微かに遠くから聞こえた。

 その時、突然頭上でカサリという軽い布同士が擦れる音がした。

 顔を上げると、そこには蒼太がいた。彼は傘を手にしていた。

「……納棺の日は、雨らしいよ」

 蒼太はそう言うと、絵美の頭上で傘を広げた。喪服のように真っ黒な傘だった。蒼太はそれを、震えるほど強い力で握りしめた。

「俺がぶっ壊すよ」

 弟のその言葉に、絵美は目を見開いた。

「……いいの?」

 その問いには、蒼太は答えてくれなかった。彼は黙ったまま広げた傘をじっと見つめる。

 ――馬鹿にされるかと思ってた。

(よくて哀れんでくれるかと……)

 でも、違った。

 絵美は小さく笑った。弟も、姉と同じ気持ちでいたのだと理解して、それが無性に嬉しかった。

 絵美は小さく頷いた。

「やってやろう」

 二人の頭上で、黒い傘はパタパタと雨とぶつかる軽い音を鳴らしていた。


(二人で、やるんだ)

 絵美はバスの窓から身を乗り出しながらそう思った。

 霧が立ち込める雨の中、必死に目を凝らして、ここからでは薄い影にしか見えない霊柩車を睨む。

 三度目の激しく割れる音がしたと思ったら、急に辺りが静かになった。しばらくして、二つの人影がゆらりと陽炎のように雨の向こうで立ちすくんでいるのが見えた。

 絵美はすぐに、それが運転手と父親の影であり、車から追い出されたのだとわかった。

 そのまま霊柩車の大きな黒い影は、霧の中に消えて行ってしまった。

 バスに乗っていた乗客たちは、しばらくの間呆然とその成り行きを黙って見ていた。そして、すぐに騒ぎ出す。

「あれはどういうことだ」

「蒼太君はどうしたんだ? 何を、しでかしたんだ?」

「霊柩車が……蒼太君があれをやったのか?」

「お母様のご遺体は?」

 親戚一同は口々に好き勝手な言葉を吐き出した。運転手もどうしていいかわからず、おろおろと彼らの騒ぎ立てる様子に狼狽えていた。

 やがて大人達は立ち上がり、とにかく霊柩車から追い出された運転手と父を助けることで話は一致した。バスの扉はガシャリと機械的な音を立ててぎこちなく開いた。

 絵美も立ち上がる。どくりと心臓が一際大きな音を立てた。

 唾を飲み込んで、絵美は拳を握る。

 ――ここからは絵美の仕事だ。

 傘を開きながらバスを降りる。霊柩車が止まっていたはずの場所を見ると、先ほど見た通り、二つの人影が見えた。しかし、一方は倒れていた。

 急いで傍に駆け寄ると、倒れているのは運転手だとわかった。その隣で父が雨に打たれながら、霊柩車が消え失せた先を見つめて立ち竦んでいた。

 叔父さん達が「おぉい」と声をかけると、父は振り返った。そのまま、崩れるように足の力をなくして尻餅をついた。

 親戚の男たちが急いで父に駆け寄って助け起こした。そんな様子を遠巻きに女たちは小声で何事か話している。

 絵美はそれを尻目に彼らの輪から外れ、バスに駆け寄った。親戚たちからは死角になる裏側へ回ると、手に持っていたハンドバッグから発炎筒を出す。キャップを外して擦り板で発炎筒を点火した。すぐに真っ赤な激しい光と大量の煙が吹き出される。急いで発炎筒をバスのタイヤの裏側にテープで貼り付けた。

 すぐに絵美はバスから離れて、助け起こされた父親の元に走った。

 彼らの傍まで来ると、ちょうど叔母さんが小さな悲鳴を上げるのが聞こえた。男たちが顔を上げると、バスの下方部で赤い光と、そこから煙が上がっているのが見えた。父に肩を貸していた叔父さんが顔を青ざめてその煙を見つめていた。

「叔父さん、お父さんは私に任せて」

 絵美はそう言って父の肩に手を回した。叔父さんは頷いて父から手を離すとバスに向かって駆け出した。

(……うまくいった)

 父を見ると、頭から血を流していた。蒼太があの傘で殴りつけたのだろうか。出血量はそれほどでもなかったが、血の赤い色を見ると体が微かに震える。

(蒼太……辛い役を任せちゃって、ごめん)

 絵美は蒼太に対して罪悪感の苦い感情を抱きながら、父の肩を掴んで無理矢理バスとは別方向に向かって歩き出した。

「……絵美、どこに行くんだ」

 頭に受けた衝撃でうまく立ち上がれない父でも、絵美の向かう方向がおかしいことには気づいたようだった。

「……うるさい」

 絵美は、絞り出すように言った。我ながら声の冷たさに驚く。

「あんたは黙ってついてこい。もう、引き返せないんだから」

 絵美は唇を噛んだ。――そうだ、もう引き返すことはできない。

 絵美は父を引きずるようにして、暗い山の影に向かって歩を進めた。

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