第2話 命日
母が死んだ日も雨が降っていた。その日の母は、今日死ぬなんて信じられないほどいつも通りだった。
朝起こしてくれた時も、朝食を食べている時も、家を出るときに「いってらっしゃい」と言ってくれた時だって、母はいつもと同じだった。
なのに、その数時間後に死んだ。
母が死んだその時、絵美は学校で友達と雑誌のページを捲りながら流行りの服と時代遅れの服について話し合っていた。母は誰もいない自宅で、たった一人で倒れてしまったのだ。
なんてことのない平日の昼下がりの出来事だ。家族はみんな仕事や学校で不在だったため、発見されるまでかなりの時間がかかった。死んだ母を最初に見つけたのは蒼太だった。
絵美が母の死を知ったのは、部活動中のことだった。バスケットボール部で日課の基礎練をしている時、顧問の先生が絵美を突然呼んだ。雨の音がうるさい渡り廊下で、先生は母が病院に運ばれたことを教えてくれた。
雨に濡れながら、がむしゃらに走ったことを覚えている。もう今ではあまりその時の記憶がないのだが、後から先生に聞いたところによると、絵美は母のことを聞いた途端、先生の制止を聞かずに走りだしてしまったらしい。
病院では蒼太が待っていていた。彼は一人で待合室にいるのが怖くて耐えられず、病院のエントランスに立って家族の誰かが来るのをずっと待っていた。
肌が寒くなるような雨の中、ずぶ濡れになって走ってきた姉の姿を目にした時、蒼太は驚くのと同時に目に涙が滲んだ。泣き出してしまいそうな顔をしながら、彼は絵美に駆け寄って来た。
二人は並んで母の待つ病室へ向かった。
その部屋は白い蛍光灯の明かりしかなくて、薄暗かったことを覚えている。部屋の隅には影が溜まっていて、病院の飾りっ気のない壁の白さを際立たせた。
部屋の真ん中に横たわった人影には白いシーツが被せられていた。
一目見た時、なぜだか(寒そうだな)と絵美は思った。影が蔓延るその場所が、凍えるように虚ろな場所に見えたのかもしれない。
顔に被せられた白い布を見た時も、あまりに現実味がない光景だと思った。
(ドラマとかだけじゃなくって、本当にこういう布って被せられるんだなぁ)
ぼんやりと、顔の稜線に沿って染められた白い布地の影を見ながら絵美は思った。
医師と思しき男がいつの間にか二人の後ろに立っていた。
「ご家族の方ですね。残念ですが、お母様は先ほどお亡くなりになりました」
そう言って時計を見る。
「死亡推定時刻は午後四時二分、死因はおそらく脳卒中と思われます。確実な死因を確かめるには病理解剖をおすすめしますが、どうしますか」
そう聞きながら、医師は暗い顔のままテキパキと動く。その後も彼は何事かを口にしていたが、絵美はそれを理解することができずに顔を顰めたまま黙っていた。
ただ、唯一理解できたことは、もう母はいないということだ。
母が起き上がることは決してない。「いってらっしゃい」と言って朝送ってくれたのに、「おかえり」と言って家に迎えてくれることは、もう二度とないのだ。
絵美は母の横たわるベッドに目を向けた。蒼太はベッドの傍で膝をつき、微かに嗚咽を漏らしていた。蒼太のその様子を見て、やっと現実味を持って母の死を感じた絵美は思わず顔を両手で覆った。
その時、背後にある扉の外で、かつん、と靴音が響いて聞こえた。
絵美が振り返ると病室の扉の前に父が立っていた。
「……お父さん」
朝見た時と同じスーツ姿の父はじっと病室の中を覗き込んでいた。彼の目はどこを見ているのか、ベッドの傍に立つ絵美や蒼太とは視線が合わなかった。
医師は父に歩みより何事か話しかけた。それに父は応対する。その様子を見ながら絵美は首を傾げた。
(……どうして、そんなに冷静なのだろう)
絵美は遠い世界を眺めるような気分で父を見ていた。だが、悲しみに暮れる絵美には、父親のその分厚い肩がひどく頼もしく感じた。
父は大人だ。……きっと、あれが大人の余裕というやつなのだろう、と絵美は涙を拭いながら思った。
父は医師に軽く手をあげてから母の眠るベッドに歩み寄ってきた。絵美は座り込んでいる蒼太の肩に軽く手を乗せて「父のために少しどいてあげよう」と言った。
それに気付いた父は顔を顰めた。
「そんなことせんでいい」
その言葉に少し絵美は戸惑った。
声にどこか冷たい響きを感じたのは、絵美の勘違いだろうか?
ふと、絵美は父の姿に違和感を感じた。いつも通りに見える父の姿だが、どこかこの場にそぐわないような気がしてならなかった。
絵美は視界の端で、自分の髪の毛からポタポタと雨の雫が、大きな玉になって落ちていくのを見た。
(……そうだ)
絵美は自身の足元と父の足元を見比べて思った。
(濡れてないんだ)
父は今日の朝、家の中で見た時と同じ姿でそこに立っていた。ズボンの裾も、靴も濡れていなかったのだ。今日の雨は生半可な物ではなかった。走ってきた絵美はもちろんのこと、救急車に一緒に乗った蒼太でさえ、その制服のあちこちを濡らしていた。
――なぜ、父は全く濡れていないのだろう。そんな余裕が、彼にあったのだろうか?
絵美は父のことを冷静だと思った。だから頼りになるし、ひどく絵美は安心したのだ。
だけど、今の父はあまりに冷静すぎるように見えた。
父は落ち着いた足取りで母の前に歩いていく。母の亡骸を前に立ち止まり、その顔を覆う白い布を見降ろした。しばらくして、父はそれをつまむようにして指で持ち上げて、露わになった母の顔を眺めた。
絵美は息を止めて、生気を失った母の顔を見た。その表情は想像していたよりもずっと穏やかで、気のせいか、いつもより少し肌が白く見えた。
しばらくの間、誰もがじっと動けずにその母の顔を眺めていた。
最初に沈黙を破ったのは父だった。彼はひとりごとのように小さく呟いた。
「金がかかるな」
ザァ、と部屋の外で雨の音が聞こえた。その音を聞くともなしに聞きながら、絵美は息が詰まるのを感じた。
父の言葉を飲み込むことができなかった。彼が何を言っているのか、理解することができなかった。
(……お金?)
そう思ってから、『お葬式』という言葉が脳裏を横切った。
絵美の目の前が反転し、捻じれ、吐き気がこみ上げてくる。
お父さん、今言ったお金ってどういう意味?
お葬式の心配?
お母さんのことじゃなくて?
お母さんの死は?
ねぇ、お父さん。
どういうこと?
「なんだ?」
突然、父は絵美を振り返って聞いた。びくりと体が震える。思わず絵美は自分が誤って、思っていたことを声に出してしまっていたのかと口元を覆った。
しかし、震える弟の肩を見て、実際に声を出していたのは蒼太だったのだとわかった。
「何、言ってんの、父さん……?」
蒼太は顔を真っ青にして父に問いかける。唇を震わせていた。
父は小さくため息をして、蒼太を諭すように言った。
「お葬式だよ。ちゃんとお母さんを弔ってやらなきゃだめだろう? そのためにはお金がたくさんかかる。……まぁ、蒼太が心配することじゃないよ。それぐらいの貯蓄はちゃんとあるさ。――予想外の出費だけどな」
父は頭を掻きながら顔を顰めて言った。
そんな父の横顔を、絵美は信じられないものを見るように眺めた。
「……お父さん、何、馬鹿なこと言ってるの?」
今度こそ絵美は口に出して言った。
「お母さんは?」
父は首を傾げ、ベッドの上に眠る母を顎で示した。それに絵美はカッと血が上った。
「そうじゃなくって!」
絵美はほとんど叫ぶように声を荒げて言った。蒼太がびくりと体を震わせる。
「今はお金なんてどうだっていいでしょう。そんなことよりお母さんは? お母さんが死んで何も思わないの? 悲しくないの?」
絵美は父のジャケットを掴んで揺さぶった。絵美の濡れた指がジャケットに黒い沁みを作った。
「うるさい!」と今度は父が声を上げた。
「何わかった風な口聞いてんだ!」
彼の口から唾が飛んだ。赤い歯茎を見せて声を荒げる父は、異様に見開かれた目を絵美に向けた。
「このお葬式に使う金は、お前達の進学や生活のために、俺が今まで必死にコツコツ貯めてきた金だぞ! それをこんなところで使わなければならないんだ。気も落ちるもんさ。……落胆して何が悪い? 金の心配をして何が悪いって言うんだ?」
そう言って父は頭を掻きむしった。
「こんなところで使うなんて、考えてもなかったんだ。俺にはお前達を育てる責任がある。母さんが死んだってそこは変わらない。俺が父親だ。お前らを育てなくっちゃならない。悲しむ暇なんてない。今はそんなこと、どうでもいいんだよ」
父はそう言うと苛立たしげに絵美を睨んだ。その強い目に絵美は怯える。父に対して抱くべき感情がわからず、絵美は困惑した。
――そもそも、今私の目の前で怒り狂う男は本当に私の父なんだろうか?
絵美にはもう、目の前にいる男が父親だとはどうしても思うことが出来なかった。
(どうして……?)
父はこんな人間ではなかったはずだ。無愛想だが、穏やかで生真面目な人だった。
だが、今目の前で父は声を荒げて、母の死を侮辱して罵倒を垂れた。母の死ではなく、お金の消費を恐れて苛立っていた。
目の前の男の挙動と、普段の父親のイメージが絵美の中で結びつかなかった。
――それとも、今まで見てきた父親の方が偽りだったのだろうか。
絵美は堪らず、父の襟元を掴んで叫んだ。
「お父さんはお母さんを愛してなかったの?」
父は温かい手でそっと絵美の震える手を引き離し、優しく言った。
「俺は愛したことなんて、一度もない」
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