第38話 愚か者達の狂乱

「はぁあああああああ!?」


 横から覗いていたのだろう。


 ブチ切れた姫麗の大声が耳元で轟く。


「どわぁ!?」


 驚いている隙に姫麗は直樹の携帯を奪い取り、中指を立てた自撮りを千春に送りつけた。


「ざっけんじゃないってぇええの!」

「は、花房さん?」


 呆気に取られる直樹を、姫麗は怒りと不安がまぜこぜになったような涙目で見返した。


「……まさかとは思うけど、こんなお願い聞くつもりじゃないよね?」


 直樹は暫しポカンとして。


「ないない! そんなわけないだろ! なに言ってんだこいつって呆れてただけだっての!」

「よがっだぁあああああ!?」


 ホッとした様子で姫麗は食堂のテーブルに身体を投げ出した。


 食堂の連中の「何事だ?」という視線が痛い。


「いくら俺でもこんな要求飲むわけないだろ?」

「……だってアッシー甘々だし。もしかしたらって思うじゃん……」


 むくれた姫麗がジト目を向ける。


「そう言われると言い返せないけど……」


 横目で携帯を確認すると、千春からのメッセージが次々届く。


『なんでそこにビッチがいるのよ!?』

『あたしとのライン見せたの!?』

『ルール違反でしょ!?』

『二人であたしの事バカな女だって笑ってたんでしょ! 最低よ!』


 こっちはこっちでご立腹の様子だ。


 言ってる事は一理あるが、お前が言うか? という感じもする。


 そこで開き直れないのが直樹の甘い所だ。


「まいったなぁ……」


 根に持つタイプの千春である。


 ここで変な誤解を与えると余計に話が拗れてしまう。


「もうこんな奴無視でいいじゃん」


 再び携帯を覗きながら姫麗が言う。


 なんだか言葉が刺々しい。


「いや、そうなんだけどさ……」


 姫麗の気持ちも分かる。


 普通ならこんな奴相手にする必要はない。


 だが、千春は異常者である。


 ここで無視したら後々厄介な事になるのは分かっていた。


 それを姫麗に分かってもらうのは難しいだろうが。


「……なんで携帯隠すし」


 姫麗のジト目に険が宿る。


 千春に咎められて無意識に姫麗から見えにくいように傾けていたようだ。


「……いや、その、千春が相手でも勝手に他人にライン見せるのは良くないかなと……」


 ピクリと姫麗の瞼が震える。


「……他人じゃないし、恋人だし」

「そ、そうだけどさ……」


 なんだか浮気を咎められているみたいで直樹はタジタジだ。


 そんな直樹を拗ねた顔で見つめて姫麗は言う。


「……あ~しとちはビッチ、どっちが大事なわけ?」


 直樹は答えに困った。


 だって姫麗との関係は偽りで本当は恋人ではないのだ。


 一方の千春は直樹を裏切って陥れた上に都合よく復縁を迫る悪女である。


 腐れ縁は認めるし大事じゃないと言えば嘘になるかもしれないが、恩人の姫麗より大事にすべきかと問われると勿論NOだ。


 だが、そもそもこの二人を同じ土俵で比べる事自体間違っているように思える。


「……それはもちろん姫麗だけどさ」


 ともあれ直樹はそう答えた。


 嘘でも演技でも直樹は姫麗と付き合っているのだ。


 ここでそう答えられなければそれこそ姫麗に失礼だろう。


 それに、食堂の連中が「なんだあの野郎また浮気か?」と聞き耳を立て始めていた。


「……なんで迷ったし。やっぱまだ未練あるの?」

「それだけはない! 絶対に!」

「……じゃあ推しに誓って」


 直樹にとってそれは神に対する宣誓に等しい。


「刹那に誓う。俺は絶対に千春とよりを戻したりしない」


 もちろんこの辺は小声だ。


「……ならいいけど。今はあ~しがアッシーの彼女なんだから。隠れて元カノと連絡取られたら不安になるじゃん……」

「た、確かに……」


 異常な関係だから忘れていたが、確かにその通りではある。


 今のは全面的に姫麗が正しい。


 だが、千春を無視するのも得策ではない。


 いったいどうしたらいいのか……。


「あーもう! じゃあ三人用の部屋用意してそこでやり取りして! それならフェアでしょ!」

「それだ!」


 そうだろうか?


 作者にはとてもそんな風には思えないが、直樹君がそれで良いのなら言う事は何もない。


 そういうわけで直樹は部屋を立てた。


「名前はどうする?」


 そんな事を気にしている場合だろうか?


 作者には以下略。


「……地獄の修羅場部屋で」


 オクターブ低い声で姫麗は言った。


 怖い。


 だが、必死な直樹は気づかない。


 頼むから気づいてくれ。


「おっけー。招待した」


 マジかこいつ。


『なにこれ? どういうつもり?』


 早速千春がコメントする。


『ちはビッチがガタガタ煩いから三人部屋作って貰ったの! 今度からアッシーとやり取りする時はここでやって。わかった?』

『はぁ!? なんであんたにそんな事指図されなきゃいけないのよ!』

『あんたが卑怯で恥知らずの元カノであ~しがアッシーの今カノだから!』

『二人ともちょっと落ち着けって』

『直樹は黙ってて!』

『アッシーは黙ってろし!』

『……はい』


 自分の優柔不断な態度が招いた結果である。


 直樹は色々諦めた。


『と、とにかくだ千春。気持ちは嬉しいが俺は今姫麗と付き合ってる。だからお前とよりを戻す気はない』

『は? なんでちはビッチに復縁迫られて嬉しいわけ?』

『言葉の綾です! ごめんなさい!』

『ちょっとビッチ! 直樹をイジメないでよ!』

『ビッチはそっちっしょ!』

『あたしは二人、あんたは百人。どっちがビッチかなんて小学生でもわかるでしょ』


「うがああああ! ムカつくううううう!」


 痛い所を突かれて姫麗が地団駄を踏む。


 本当は経験者ゼロの処女ビッチなのだが、そんな事は口が裂けても言えない立場だ。


『はい論破。ていうか直樹、言葉の綾って何? このあたしが自分から謝って頭まで下げたのよ? 変な意地張ってないで復縁する流れでしょうが!』


 これを本気で言っているのが千春の恐ろしい所である。


 そして本音を言えば直樹としても千春の気持ちは嬉しかった。


 長い付き合いの直樹である。


 千春があそこまで言うのなら本気で向こうも直樹が好きでよりを戻したいと思っているのだ。


 それを受け入れる事は出来ないが、気持ちだけは嬉しく思う。


『だから俺は姫麗と付き合ってるんだって!』

『そんなのどうせあたしに仕返しする為の嘘でただの当てつけでしょ!?』


 流石は元カノだ。


 向こうも違和感には勘づいているのだろう。


『そんな事ないし! あ~しは本気だし!』

『ビッチが言っても説得力ないわよ!』

『じゃああ~しビッチ辞めるし! これからはアッシー一筋で生きるもん!』

『それが許されるならあたしだって許されるでしょうが!?』


「確かに……」

「アッシー!?」

「いや、ロジックの話だよ! 本気でそう思ってるわけじゃないから!」


 だからこそややこしい。


 千春は姫麗を本当のビッチだと思っている。


 なら、姫麗はよくて自分はダメなのはおかしいと感じるのも無理はない。


『ねぇ直樹! 冷静になって考えてみなさいよ! そんな訳の分からないポッと出のビッチといつまでも続くわけないでしょ! っていうかそいつ、あたし達のいざこざを引っ掻き回して面白がってるだけなんだから! 悪い事言わないから大人しくあたしと寄り戻しときなさいって! あたし達、小学校の頃からの付き合いで三年以上恋人同士だったのよ? 喧嘩する事もあったけど、なんだかんだ上手くやってたじゃない!』


『あんたが浮気するまではね』

『だから! それについては反省してるって言ってるでしょ! ていうか現在進行形で不特定多数の男に股開いているガバマンビッチに言われたくないわよ!』

『アッシーはそれでもいいって言ってくれたし! アッシーが嫌って言うならあ~しもビッチ辞めるもん! っていうかあんたには関係ない事でしょ!』

『お互い様だって言ってんのよ! ねぇ直樹、お願いよ。たった一度でいいの。あたしの事信じて、もう一度だけチャンスをちょうだい……。お願いだから……』


「アッシー聞いちゃダメ! こんなの絶対口だけの出まかせなんだから!


 必死になって姫麗は言う。


 姫麗には悪いが、直樹としては千春を信じたい気持ちもあった。


 その程度には二人で過ごした時間は長かった。


 千春のいない人生はそれまで違って何かが欠けたようにさえ感じる。


 だとしてもだ。


「そんな顔するなって。さっき誓ったばっかりだろ? 千春とよりを戻す気はないよ」


 優しい顔で言うと直樹はメッセージを打ち込んだ。


『ごめん千春。俺達は本気で付き合ってるんだ。今は姫麗が俺の彼女で、姫麗の事しか考えられない。本当ごめん』


 直樹の良心が悲鳴をあげていた。


 もし直樹が本当に姫麗と付き合っているのならこれ程苦しまずに済んだだろう。


 悩むまでもなく千春を振っておしまいだ。


 だが、現実はそうではない。


 千春の言う通りどこまでいっても姫麗との関係は嘘で演技でお芝居なのだ。


 いつかは終わる仮初の関係だ。


 その事を思えば、全てを水に流して千春と復縁するという手もあるのかもしれない。


 だが、それではここまで協力してくれた姫麗に対してあまりにも不義理だろう。


 嘘でもこんな自分の為に全力で頑張ってくれた姫麗を裏切れない。


 ここで千春とよりを戻したら、姫麗が負け犬扱いされてしまう。


 そんな選択肢は選べない。


「アッシー!」


 嬉しそうに姫麗が涙ぐむ。


 そんな顔をさせてしまった事を直樹は心から申し訳なく思った。


『……そう。あっそう。ああそう! あたしを振った事、絶対に後悔するわよ!』

『ごめん』

『謝ったって許さないから! 絶対に許さない! あんたは敵よ! ビッチも敵! 絶対に許さないから! こうなったらどんな手を使ってでもあったらの嘘っぱちの恋人ごっこをぶち壊してやる! それだけじゃないわ! 上位カーストの地位から引きずり降ろして、惨めな最底辺に叩き落としてやるんだから! 覚悟しなさい!』


 捨て台詞を書き残すと、千春は自分が不利になるであろう証拠を次々削除した。


「せっこ! ちはビッチじゃないんだから晒したりしないっての! ねぇアッシー!」

「……あぁ。そうだな」


 直樹の心は上の空だった。


 間違いなく、千春は今頃大泣きしている事だろう。

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