第26話
ペンを手に取り「ドキドキするな」と銀二が言うので「あんた2回目じゃん」と突っ込むと「こういうのは何度目でも緊張すんの」と渋い顔をした。
まず2回目で慣れたはずの銀二が記入し、続いてアタシが自分の欄を埋めた。
下に進むと『夫の氏か妻の氏か』の選択が必要になり、当たり前のように銀二の持ったペンが夫の方に進んだのを見たアタシはとっさに口を挟んだ。
「アタシ、苗字、変わりたくないんだけど」
こいつはまた何を突然言い出すんだといった表情で銀二は手を止めてアタシを見た。
「いや、特に理由はないんだけど……。夫の氏にするのが当たり前みたいの、違和感で」
ペンを置いて銀二は真剣にアタシの話を聞く。
「名前変わるといろんな手続きまじ面倒だし……」
なにも言わずに頷きながら彼は聞く。
「あなたの苗字になりたいわとか言えなくて。かわいくなくてごめん」
と、アタシは言い終えた。本当に取り立てて大きな理由はない。仕事も苗字が変わったって社員証を変更する手間くらいで問題ない。家名を閉ざしてはならぬという立派な家柄でもない。自分の苗字が特別に気に入ってるわけでも、銀二の苗字が嫌いというわけでもない。ただ何となくの違和感でしかないのだ。
「いや、オレ、おまえのそういうかわいくないとこが好きだし」
と、銀二が話し出した。
「
予想外の展開になった。銀二は子供の頃両親の離婚で父親の苗字から母親の旧姓へ変わった経験があって、小学校時代の友達は父方の姓のまま認識が止まってる人もいるし、たいていの人は自分を『銀二』か『銀ちゃん』と呼ぶから自分の苗字は何だっていいと言うのだ。
自分で言い出してなんだが、きっと重要であろうことを銀二はあまりにあっさりと決めたので
「いや、別にいいんだよ。言ってみただけっていうか……。大義はないの。多分、天邪鬼が発動しただけだから」
と、アタシが言うと
「オレ本当に何でもいいんだって。」
「銀の家は……家柄とかあるしさ。お母さんとか親戚に相談しなくて大丈夫?」
「苗字変わったって、母ちゃんは母ちゃんだし親戚は親戚じゃん」
「だけど……」
「おまえのママさんだって苗字変わっても和菓子屋の娘に違いねぇし、今だって仲良くしてんだろ?」
と、当たり前の答えだった。確かにそうだ。母はたしかに和菓子屋の娘だし、それを継いだ弟家族とは仲良くやってて、頻繁に実家に出入りしている。苗字が変わったって縁が切れるわけじゃないし、現に今だってアタシと銀二は苗字が違うが愛し合ってるし、それが一緒だろうと別だろうと愛情の量は変わらないと思う。結局記号にすぎないのかもしれない。銀二の言い分は簡潔で明瞭だった。
「でも、きっと聞かれるよ。なんで妻側の名前なの? って」
と、アタシはしつこく聞いた。
「オレかわいいから、オレが『あなたの苗字になりたいわ』って言ったってことでいいじゃん」
あいかわらず豪快に笑いながら『妻の氏』にチェックを入れ、婚姻届を仕上げた。
そしてアタシと銀二は区役所へ出かけた。
さすがに親たちは苗字の件は驚いていた。でももう何を言っても手遅れだ。
銀二の家の2階の模様替えをし、アタシの荷物を運び入れた。
しかしアタシ達は週に何度も実家に母の夕食を食べに行っている。姉達ともよく会う。
結婚式は挙げなかった。せめて会食くらいということで、父が高級中華料理店の個室を予約して両家の親戚が集まった。
母からもらった着物と買ってもらったドレスの2パターンで記念写真を撮った。
チェリーも一緒に写った。
そういえば
父が母を伴って
有休をとって新婚旅行に出た。
そのお土産をお腹が大きなった
いつも綺麗で憧れの先輩である
「まさか銀二と桜子がね」と、みんなは口をそろえた。
結婚のチャンチャカチャンが落ち着いたある夜、アタシと銀二は仰向けに布団に入り就寝しようとしていた。
「桜子、覚えてる?」
と、部屋はもう静まっていたが銀二が話しかけてきたので目を開けた。
「なにを?」
「幼稚園の頃かな……誰と結婚するかみんなで話し合いしてたんだ」
「覚えてないし。なにそれ」
と、アタシは笑った。
「オレは『桜子と結婚する』って言ったらさ、おまえ、『銀ちゃんはイヤ!』って言ったんだよ」
アタシは大声をあげて笑った。
「アタシ、ちょうウケるじゃん。まじで?」
「まじだよ。オレそれトラウマだもん」
幼いアタシがなんでそんなことを言ったのか。恥ずかしかったのか、本当にその時はイヤだったのか。まったく逆の将来が来たことを幼いアタシはどう思うだろう。
銀二は右腕をこちらに大きく広げて、アタシは体を横にしてその腕の付け根辺りに頭を乗せて彼の胸元に半身を預けた。銀二はまだクスクス笑っているアタシをぎゅっと包み込んで言った。
「桜子は子供の頃から最悪なんだよ」
THE END
©宇田川 キャリー
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