第2話

 メッセージに返信せずに数日たった。フロアが違うおかげで会うこともない。

あの忌まわしい文章に一瞬動揺はしたもののやはり変わらない日常を送っている。

引きずらず済んでいるのは<、、、>のおかげか、自分の感情がおかしいからか……。

ドラマチックに悲嘆に暮れ飲み明かすとかならまだしも、なぜ一方的に別れを告げたのかと怒り狂って復習計画を練ったり、捨てないでとしがみついてストーカーになったりしなくてよかった。どちらにせよ、変わりない日常を生きている自分に自分で感心していた。


 その変わりのない日常に度々イベントは起こる。

1年後輩の杏奈あんなが社内のニュースを持ってきた。2年前に入社した同じ部署の黒沢くろさわが結婚して退社するという。後輩の女性社員が結婚や出産で辞めていくたびに、毎回思っていた。この大手に入るために就活は努力しただろうし、そしてやっと仕事を覚えて一人前に扱ってもらえるようになったところで退社とはもったいないと……。

しかしそれと同時に、それらの理由で辞めていく女性はそのことにとても満足しているのも理解していた。

 さらには黒沢とは年齢も離れているので仕事以外ほとんど交流がなく、下の名前さえ思い出せない。実際、黒沢という若い女子社員がどれだけの希望を持ってこの会社に入社したのか、そしてまた何を望んでこのような選択をしたのかもわからない。黒沢の人生の選択を詮索するほど彼女に興味がないし、それだけの縁だろう。早々と寿退社することへの批判ではない。

ただ同じ女性でも価値観はそれぞれなんだと改めて思いしらされ、ご祝儀をカンパし、粛々と送り出すのが常だった。


 そう、突如としてイベントは起こる。

黒沢の最後の日、終業時刻になり部署全員で彼女を見送る準備が始まる。集めたお金で花や結婚祝いを買った。それを涙ながらに後輩が渡している。アタシはそういう儀式にはもう1ミリも心が動かなくなっていた。もう何人見送っただろう。杏奈も多分こちら側だ。ただ後ろの方で口角を上げて参加しているふりを続けるのだった。お相手の男性も社内の人で挨拶に訪れるのを待ちつつ、涙目になる黒沢に先輩後輩入り乱れて次々と声をかけていた。

 アタシは言葉を失った。

満を持して登場したお相手の男性は、つい最近まで自分と付き合っていた“<、、、>男”と同一人物だったのだ。

手をグッと握りしめ足を肩幅に開きしっかり両目を見開き、黒沢とその婚約者だという男に強い視線を浴びせた。そのまま何も言うこともなくただ時間が過ぎ去るのを待った。


 思い出したことがある。

ある日ビルの入り口でバッグの中の社員証を探していると、黒沢がちょうど後ろからやってきて自分の社員証を使って入れてくれた。守衛はズルを見ていたけど笑顔でかわし、自分たちのフロアへエレベーターに乗った。

「あ、昨日彼の家でバッグぶちまけたから、それで拾い忘れたかも……」

と、社員証のありかを思い出すと

「再発行、手続きが面倒くさいからあるといいですね」

と、黒沢が人懐っこい愛らしい笑顔で言った。

 結局忙しさですっかり社員証のことなど忘れてしまい、次の日の朝は守衛に申告して入れてもらって『今日こそ彼に言って持ってきてもらわないと』と自分に言い聞かせた。

 ところがデスクの上には自分の社員証があった。まぁ彼が家で発見して人のいない時間にそっと置いといてくれたか、もしくは拾ったとか何とか言って届けてくれたに違いない。

<社員証ありがとう>とメッセージを送ると、ピースの絵文字が返ってきた。

社員証を見た黒沢は

「見つかってよかったですね」

と、またいつものように愛らしい笑顔で言った。


 黒沢は片手で花束を抱えて反対の手を彼の肘辺りに添えて腕を組み、うっすらと涙を浮かべこれ以上ない幸せそうな表情で、盛大な拍手で送られてフロアを後にした。彼の顔など覚えていない。あれはもしかしたらアタシだったのかもしれない。だとしたら、あの彼女の様に注目を浴びながら幸せに満ちた笑顔で退社できただろうか。

 多分交際期間はかぶってただろうし、ということは自分にたくさんのウソをつていただろうことは想像できる。

今思えば、黒沢が自分の社員証を彼の家からデスクまで運んだのだろう。

でも怒りは湧いてこない。早く忘れてしまいたいだけだ。あの男に対する愛情はそんなものだっただろうか?そうなのかもしれない。

アタシが幸せに満ちた笑顔で退社する日があるのなら、相手は彼ではないということだけはわかった。

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