アメとムチ

 ガラスの割れる音で目を覚ました。

 我に返ると、足元にはカップの破片が散乱していた。


 せっかく注いだ紅茶は台無し。

 慌てて破片を取ろうとしたら、角を摘まんでしまい、チクリと指先に痛みが走る。


「いっ――」

「こら」


 ぐいっ。

 手を取られ、驚いたボクはミサキさんの顔を見て固まってしまう。


「ん?」

「あ、いや……」


 目を逸らし、怒られることを覚悟した。


「ねえ。水野くん」

「はい。……すいません」

「まだ、何も言ってないわ」


 嘆息して、ミサキさんが立ち上がる。


「ほら。おいで」


 手を取られて、ボクはソファのある方へ移動した。


「か、片づけは……」

「あんなの、後でいいわよ」


 ソファに座らされると、まずミサキさんはティッシュで指を押さえてきた。ボクの空いた手を持ち、「押さえてて」と添えさせると、キッチンの戸棚にしまってある救急箱を取りに行く。


 その間、ボクは「いつ怒られるんだろう」と、落ち着かなかった。


 戻ってきたミサキさんは、消毒液とガーゼ、軟膏を取り出す。


「疲れてるみたいね」

「すいません」


 ボクはもう意気消沈していた。

 学校では変な事しかなくて、返れば役場から税金の催促。

 すでに一回分の給料は貰ったばかりだが、全ておばあちゃんに預けた。


 20万円の給料の内、10万円を天引き。

 残りがボクの手取り。

 だから、10万円でやりくりしないといけない。


 その中から、他の支払いにもお金が出るから、実質コンビニより安い価格で働いている。その分、支払いは済ませているけど。


 ――何も面白くない。


 ボクは嫌気が差していた。


「ちゅっ」

「わ!」


 いきなり、頬にキスをされ、変な声が出た。

 指の手当てが終わると、ミサキさんは下から顔を覗き込んでいた。


 いつもの仏頂面だけど、少しだけ雰囲気が柔らかい気がした。


「バーカ」

「……うぅ」

「イジメ、酷くなってるの?」

「どうしてですか?」

「死ぬ一歩手前の顔をしてる」


 ボクは何も言えなかった。


「あたしの知り合い、死ぬ前こんな顔してたから」


 ガーゼの残りは適当に箱の中へ放り投げ、ミサキさんは隣に座った。


「きなさい」


 膝を叩いて、ミサキさんが言った。

 どういう意味か分からず、戸惑っていると、胸倉を掴まれて強引に倒された。


「むぐっ」

「今日はお休み」

「……すいません」


 ミサキさんと何度も同じ時間を過ごしたからか。

 ボクは何となく、彼女の事がぼんやりとした形で分かってきた。


 本当にぼんやりとだから、上手く言葉では言い表せない。

 強いて言うなら、『こんな人』って感じ。


 感情が表に出ないし、意地悪だし、冷たい時は冷たい。

 その一方で、今のように、うんと甘やかしてくれる。


 アメとムチ、ってやつだろうか。


 ボクが寝返りを打つ時に、太ももに顔を突っ伏すと、ミサキさんがイタズラで頭を押さえてくる。


「むううう」

「あはっ。バーカ」


 関係性が出来上がってくると、罵倒さえ心地よかった。

 例えるなら、お姉ちゃんに意地悪されてるみたい。


「水野くん」

「ふぁい」

「もう少しで、夏休みでしょう」


 頷くと、ミサキさんが柔らかな口調で言った。


「ここに泊まりなさい」


 心臓が跳び上がってしまった。

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