第57話 過日の夢

 これまでの私の人生において、最も無駄な時間。

 それは間違いなく、十年前からの六年間の内、学院に足を運んでいた時間に他ならない。




 ヘルボルト王立学院。

 世界で唯一、国に認められた子どものための教育機関であり、人間の英知が結集された最高学府。卒業者の多くは騎士や官僚、領主に研究者といった華々しい未来を、血の滲むような研鑽の末に掴み取っている。


 ――なんて大嘘を信じて入学した青少年が目の当たりするのは、差別と弾圧、汚職に私刑が横行する、貴族社会の負の側面を便所の排水で煮詰めたかのようなクソ以下の現実だ。


 半年もあれば十分な程度の学問を修めるのに六年も費やし、児戯程度の派閥作りに必死になりながら、徒党を組んで、偉ぶって、弱者を虐げる貴き血統ブルーブラッドの生徒。そしてそんな連中がそのまま図体だけ大きくなったかのような、我欲と保身しか頭にない教師。

 学院を卒業したという実績が、王国では幅を利かせる。そのために、平民や孤立した他の生徒と同様、私もかなり我慢して学院に通っていたものの、学んだことといえば人間の愚かさくらいだ。……それすらも半年で見飽きて、以降は適度にサボって冒険者としての活動を始めたんだけど。


 当時――というかクーデターが起きるまでは、王太子であった第二王子の下に就こうとする悪童ワルガキ共が自儘に振る舞っていた。実際、第二王子あのカスもそいつらを使ってチンケな悪事を働いていたようで、




『――おーっと、手が滑ったぁ!』




 カスに目をつけられていた私も、しょーもない嫌がらせを受けていた。


 学院に入学できる年齢は十一歳から二十歳まで。一般的には十五歳前後から通い始めることが多く、対して私は十一歳で入学したから大半の生徒は私より歳上だ。

 年齢も学年も上の連中が徒党を組んで、こちらに嘲笑を浴びせてくる。その日は食堂での食事を終えようとしていたところを、わざとらしく水をかけられた。アホらしくて避ける気すら起きなかった。


『ククッ、悪いなあ。まさかあの有名なヴィステリエム侯爵家のお嬢さんが、たかが水飛沫すら避けられないとは思わなくてよォ!』

『おいおい、無茶言ってやるなよ。こんなチビにそんなことができるわけねーだろ、なあ?』

『まったくだぜ、今も水被ったまま呆けてやがる。「魔導将軍」ヴィスペル・ヴィステリエムの血も、墜ちるところ墜ちたモンだなあ! ギャハハハッ!』


 まだ『ヴィスペル』を名乗っていなかった当時は、こういうした手合いがわんさか湧いて出た。それも学院だけじゃなく冒険者ギルドにも。

 そして図に乗った連中は、決まって同じ言葉を吐く。


『聞けば先代のヴィスペルは、馬車を吹っ飛ばす程度の魔法で死んだって話じゃねえか。これじゃ祖先の勇名すら事実かどうか怪しいぜ』

『その化けの皮、俺たちが剥いでやろうかァ? あァ?』


 先代ちちの死に様――私が誰より間近で見たそれを、なぜこいつらは得意顔で語るのか。

 ……何が理解できないって、それが私への煽りになるとこいつらが本気で思っていることだ。


『そうだな。確かに父は弱かった』

『なんだよ、ずいぶんとあっさり認め――』

『だから、それより遥かに劣るお前ら三下は十分に気をつけるんだな。じゃないと爆発で死んだ私の父より、よっぽどマヌケな死に様を晒す羽目になるんだから、なァ?』

『――あ?』


 おまけに自分たちは煽り耐性がないから、この程度の軽口にも敏感に反応する。

 そもそもいくら父を嘲ったところで、こいつら自身の強さが増すわけじゃない。だから私にケンカ吹っ掛けてくるような連中は、揃いも揃って彼我の実力差も判断できない程度のザコでしかない。


 怒りをわかりやすく顔に表した三下共に、さらに言葉を畳み掛ける。


『石ころに蹴躓いて頭打って死ぬか? それとも小鳥に目玉を啄まれて死ぬか? ……ああ、食事するならフォークが喉に刺さって死なないように気をつけるんだぞ』

『テメェ!! 誰に口利いてると思って――』


 当然、能無しは簡単に釣れた。

 胸倉を掴まれ強引に立たされたので、自らの身を守るために、




 握っていたフォークを、相手の喉に突き刺した。




『――……………………、ぁ?』

『お前こそ誰にケンカ売ってると思ってんだ、子爵家の三男風情が』


 急所への一撃は、ただの学生に過ぎない相手を黙らせるのに十分すぎるほど効果を発した。

 力なく仰向けに倒れる。遠巻きに眺めていた周囲の生徒たちから悲鳴が上がる。アホのお仲間は信じられないものを見るように、私と倒れた男とに視線を行き来させている。


『だから言ったやっただろうが――フォークが喉に刺さらないように気をつけろ、ってよォ』


 ピクピクと全身を痙攣させる男は、痛みのせいか苦悶の表情を浮かべる。

 恐怖と悲愴に歪んだ顔は、見るに堪えない小汚いものだ。三下共を黙らせるためとはいえ、こんなをさせられて快感などあるはずがない。……力で人を屈服させることの、いったい何が楽しいのやら。


『心配すんな、死にはしねーよ。刺すと同時に治癒と生命維持の魔法を使ったからな。私が魔法を解かない限り、お前の命の安全は保障されるってわけだ』


 その証拠に、フォークは首の太い血管を貫きながら血の一滴もこぼれていない。失血も、肺に血が溜まる恐れもない。


『――でもなあ。墜ちに墜ちたヴィステリエムの化けの皮が、いつ剥がれるともわからんからなあ。この魔法もあと何秒保つことやら』

『ぁ……あぅ、え…………』

『何言ってるかわかんねーよ。助けでも許しでも、請うならハッキリと口にしてほしいモンだね』


 ……まったく、これじゃ完全にイジメっ子だ。

 そして同じ立場になったからこそ、こんなくだらない遊びに興じる連中の気が知れない。こいつらが今抱いている恐怖や敵意が、自分たちが虐げてきた生徒たちの感情と全く同じであることに、きっと死ぬまで気づくことはないんだろう。馬鹿だから。


『た……すぇ、て……!』

『はーいよく言えました。おりこうさんでちゅねー』


 自分が散々してきたことも忘れて泣きながら求めてくる助けに、それでも応じる。

 フォークを抜いたそばから魔法による治癒が働き、そこに一切の傷はない。フォークにベッタリと、そして皮膚にほんの僅か付着した赤い体液だけが、私の行為の残滓だった。


 グラスの飲み水にフォークを突っ込んで軽く洗った後、


『――あ、そういえばさっき水こぼしてたっけか。代わりに私のをくれてやるから、せいぜい感謝するんだな』


 それを寝そべったままの男の顔に浴びせた。

 力を振りかざすのは好きじゃないが、かといって無抵抗のままじゃ付け上がるヤツは確実に現れる。争いを抑制するための暴力は、そもそも他人に見せつけなければ効力を発揮しないというのは、何とも皮肉な話だ。


 食堂はすでに騒ぎになっている。食事ができるような雰囲気じゃない。

 食器を返却してさっさと後にする――と、出入り口に見知った相手がいた。


『――サニー、また騒ぎを起こしたのか』

『そういうお前はまた説教かよ、サーシャ』


 同じ学年で同い年の、寮のルームメイトである男爵令嬢――サーシャ・クレスタン。

 王族親衛隊を志す真面目な少女で、会って間もない頃は時間だの生活態度だの口うるさく言われていた。けれどしばらく付き合う内に慣れてしまったようで、こうして呆れ顔を浮かべながら私についてくる。


『説教というか……いつまでこんな小競り合いを続けるつもりなんだ? サニーがその気になれば、学院内の力関係パワーバランスを覆すなんて容易いだろうに』

『それに何の意味があるんだよ。そりゃ私が居座る間は多少平和になるだろうが、卒業すればまたゴミ溜めに逆戻りだ。意識改革ゲームチェンジを起こすなら、まずゴミの元を断つ必要がある』

『それはそうだが……それでも、学院にいる間に不自由はしないだろう?』

『学院そのものの質が低くて散々不自由させられてんだ、生徒の質が低いなんてのは誤差の範囲内なんだよ。低レベルでわかりにくい授業も、家柄や寄付金の程度で生徒の評価を変える教師も、それに付き合う時間と労力の全てが無駄でしかない。……そして、何より――』


 私がこの学院で一番気に食わないのは、


『――制服がダセェ』

『何度も聞いたし何度でも言うが、普通の礼服じゃないか。少し没個性的だが、変に派手なのよりはマシだと思うが』

『少なくとも私の趣味じゃない。服がダサいと気分がアガらないんだよ……』


 はあ、と本気のため息を吐き出す私に、サーシャは苦笑しながら言葉をかける。


『……まあ、サニーに甘える立場の私が何を言っても、保身にしか聞こえないな』

『――……はァ?』


 かと思ったら、急に見当違いのことを抜かしやがった。


『生活態度と倫理観は全く以て手本にならないが、その強さは私の知る誰よりも上だ。手合わせしてもらっている上に庇護下にも置いてもらって、本当に頭が上がらないよ』

『あのなぁ……そもそもお前が私に構うから、私を敵視している連中がお前も一緒に敵視するんだろうが。学院で平穏に過ごしたいなら、さっさと私から離れればいい』

『……冗談はやめてくれ。私が付け狙われている理由は知っているだろう?』

『そりゃ知ってるさ――私と同じだからな』


 数年に渡り病床に臥せる――おそらくはの――国王に代わって我が物顔で国を牛耳る第二王子あのカスは、凡愚の国王ちちおやに輪をかけた色狂いだった。

 侍女でも、令嬢でも、村娘でも、人妻でも――幼子でさえ、ヤツの目に留まればその身を狙われることになる。比較的利口な側近共が抑えているのもあって大っぴらに略取や監禁などはしないが、それでも毒牙にかかった者が数多いるのは間違いない。


 サーシャはその大人びた美貌故に、かつてはヤツの一派に襲われかけたこともあるという。

 私の場合は少し複雑で、私の母に手を出そうとしたヤツを父が穏便に返り討ちにし、さらに私をに死んだ母が自分のものにならなかったことを、いい歳して引きずっているらしい。刺客を放って父を殺したのは復讐と、それから母に似ているらしい私の身柄を確保しやすくするための、つまらない小細工だろう。


 要は二人揃って、タチの悪い色情魔に目をつけられたということ。

 侯爵家の生まれで実力もある私と違い、後ろ盾もない男爵令嬢であるサーシャが単身で王太子の魔の手を払い除けるのは確かに難しい――が、それはすでに過去の話だ。


『けど今のお前は、第三王子の派閥の一員だろ。まともな思慮のある人間なら敵対派閥の相手を堂々と害することはしないし、政治を理解できないアホ共が手を出そうとするのも止めるはずだ。……下手すりゃそのまま、王子同士の跡目争いないせんに発展するからな』


 私たちが学院に入学して少し経った頃、それまで表舞台に全く姿を表さなかった第三王子が、突如として自らの勢力を携えて台頭した。

 自らの地位を盤石のものとするために弟を飼い殺しにしていた第二王子にしてみれば、檻に閉じ込めていた子猫が獅子となって噛みついてきたようなものだろう。


 ――そしてその裏に、私たちよりも幼いとある少女の暗躍があったことを知る者は少ない。

 その人物は兄である第三王子を傀儡として、同じく兄である第二王子を排除しようとしている。六、七歳の子どものやることとしてはあまりに恐ろしいが、王族の行いとしては悪王の打倒はそれほど間違ったものじゃない。


 その縁から派閥入りして後ろ盾を得たサーシャだが、本人は端整な顔を歪めて憂いている。

 私は見たことも会ったこともないが、その人物の変わり様がひどくショックらしい。以前はかわいいとか賢いとか天使のようだとか無邪気に褒め称えていたのに、年末年始の長期休暇に会いに行ってからは話題にも出さなくなっていた。


『私は――』


 泣き出しそうな笑みを浮かべて、サーシャは呟く。


『――あの方に、そんなことをしてほしくはなかったんだ……』


 主と慕う人物の子どもらしからぬ行動と、それをさせてしまった己の非力さ。

 真面目なこの少女は、おそらくそんなことで悩んでいるんだろう。思い悩む行為が無駄とまでは言わないが、こいつにできることなんて限られているのだから、さっさと割り切ってそちらに注力すべきだ。


『ンなこと言ってる間にも、時間は進むぞ』

『――っ』

『ガキは成長するし、身を置く状況も変わる。今とは比較にならない危険に晒されることもあるだろう。……弱っちいお前が今やるべきは、望んだ時に望んだ舞台に立てるだけの実力ちからをつけることだろうが』


 檄と共にケツを叩いてやると、可愛らしい悲鳴を上げた。


 立ち直るかどうかはサーシャ次第だが、その背を押すくらいのことはできる。

 ……誰もが侮り、嘲り、そして恐れる私という存在に、何の偏見もなく接してくれる。そんなこいつを励ましてやるくらいには、私も友情と感謝を抱いていた。


『はは、手厳しいな。……だが、その通りだ』


 負の感情の全てを拭い去ることはできずとも、サーシャは確かに頷いた。

 今はそれでいい。他人に背を押されながらでも歩いていけば、いつかは自力で目指す道を突き進むことができるだろうから。


『サニー、この後付き合ってくれないか? 適化魔法フェイバリットのアイデアを思いついたんだ、それを試させてほしい』

『バーカ、応用に手を出せるような腕前レベルかよ。そういう話は基礎を鍛えてからだ――ほら、行くぞ』


 そうして二人で学内の修練場へと向かう。

 このクソみたいな学院に約束されたものじゃない――自分たちが望む未来を、自分たちの手で掴み取るために。




 ――その行いが正しいものだと、

 当時の私は、信じて疑わなかった。













 ――目が覚める。


 懐かしい天井――ああ、実家か。そういや昨日、帰ってきたんだったな。

 ベッドから出て、身体を伸ばす。疲労が溜まっているのは、連日の魔素溜まりダンジョン攻略や昨日の長距離飛行の影響もあるが、正直それ以上に、


「…………クソ、嫌な夢を見た」


 昔のことを思い出して、表情が強張る。

 知り合いが死んだのはこれが初めてじゃない――けれど、死んだ知り合いを夢に見たのはこれが初めてだった。あまりの女々しさと、何より失われた命に優劣をつけているかのようで、自分自身が嫌になる。


 ……今なら、サーシャあのバカの気持ちがよくわかる。

 自分があの場にいれば、などと自惚れるつもりはない。第三王女あのガキに協力しないことを選んだ、自分の選択を後悔するつもりもない。


 ――それでも。

 どうしようもない無力感が胸を占めるのは、失ったものの大きさ故だろう。唯一、親友と呼べる存在がいなくなったことを、今さら強く実感している。


 背を押してくれる友はいない。

 私自身の意志で、進むべき道に一歩踏み出さなければならない。


「ったく、面倒くせえ――」


 ――どうせ殺されるなら、悪逆非道の卑劣漢にでも殺されてくれればよかったものを。

 おかげで、あんなと関わらなきゃならなくなった。正義でも巨悪でも、ましてや只人でもない、機構システムじみた気味の悪い少年ヤツと。


 クローゼットからストールを取り出して羽織ると、部屋を出る。

 慣れた様子で頭を下げる使用人たちの前を堂々と通り、食堂ダイニングルームを訪れる。


 そこには、すでに朝食を終えた伯父と従兄、それに食事中のリコーとマリアがいて、


「おおサニー、やっと――」


 声をかけた伯父の言葉が、突然止まった。


 苦虫を噛み潰したような伯父、呆れたように嘆息する従兄、一瞬だけ顔を向けたがすぐに視線を逸らしたリコー、目を大きく見開いて驚きを隠さないマリア。

 誰も彼も妙な反応をするものだと首を傾げると、口の中のものを飲み込んだマリアが言う。


「おはようございます」

「おう、おはよ」

「……すごい恰好ですね」

「ん――ああ、なるほど」


 彼女の言葉で、ようやく合点がいった。

 ――ストールの下はお気に入りの、透明スケスケのネグリジェだった。

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