第55話 魔術師、断つ

 ――時を、少し遡る。




『『ウォウウウウウウゥゥゥゥゥゥ!!』』

「ふッ――!」


 二体の魔物が繰り出す拳を、少年は巧みに避ける。

 完全な同調を誇る前後両面からの猛攻は、けれどすでに見切られていた。彼らの連携は完璧であるが故に、一方の動きを見ればもう一方の動きもある程度は把握できてしまう。


 とはいえ当然ながら簡単なことではないし、何より動きを予測できたところで物理的に回避できなけば何の意味もない。特に疲労の大きい彼には、後者の問題こそが難関だった。

 それでもなお双の大猿を相手取る芦原の姿は、すなわちこの土壇場で進化を遂げたことを意味している。そしてそれは魔術ではなく、体術の成長に他ならない。


 ――そもそも、芦原はこれまでの実戦において、これほどひどく疲弊した経験がない。

 苦境に立たされたことは幾度となくある。しかし魔術師との戦いとは魔術ギミックの攻略と同義であり、一撃必殺の魔術であれば放たれた時点で敗北となる。つまりは心身を振り絞るより前に、勝敗が決することが圧倒的に多かった。


 加えて、数多の戦闘――一対一のみならず一対多や連戦をも経験した百戦錬磨の少年は、逆説的にそれを可能とするだけの強さを有していることを意味する。

 苦戦したこともある。相性の悪い敵もいた。だが全力を出し切った相手がどれほどいるかと問われれば、彼に思い当たる節はない。常在戦場の心構えを持つ芦原だからこそ、余力を残さない勝利に意味などないと無意識に考えているのかもしれない。


 そんな彼が初めて経験する、体力の限界間近での戦闘。

 それはひどく不思議な感覚だった。身体の動きも鈍ければ思考能力も落ちているのに、だからこそ相対的に鋭敏になった直感や反射のおかげで、より無駄のない体捌きが可能となっている。


 身体に力が入らないからこそ余計な力みが消え、自分の限界を悟っているからこそ肉体の調子や使い方の良し悪しを把握できる。

 思考は雑念が消えて単純シンプルになり、真に必要なものしか残らない。マリアのことも、ヴィスペルのことも頭から排除され、今この瞬間の戦闘のみに意識が集約される。


 命の懸かったギリギリの状況でこの境地に立てるのがまず普通じゃないが、彼はそこからさらに一歩踏み込む。

 ここで得たを試し、より効率のいい戦闘技術を得ようとしている。姿勢に足捌き、腕の振り方から呼吸の方法まで全て一から構築し直そうとしているのだ。


 巨腕の連撃ラッシュを、宙を舞う羽毛のような身軽さで避ける。

 口から放たれる冷凍ブレスは、股の下を潜り抜けて逃げる。

 敵もまた対応して動きを変えようとするが、研ぎ澄まされた感覚はその僅かな予兆さえも見逃さない。


 避けて、避けて、避けて、避けて避けて、避けて避けて、避けて避けて避けて、避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて避けて――――新たな動きが身体に馴染んだ末に、


「よし」


 一息で、攻勢に出る。

 打撃のために前屈みになった大猿の身体の下に潜り込むと、ケーキにナイフを入れるかのような気軽さで七支刀を挿し込んだのだ。


『ギャイイイイイイィィィィィィ!?』


 得物から伝わる拍動で、心臓を貫いたことを確信する。

 そして、己の武器から手を離した。死した片割れが崩れ落ちるより早く反対側に向き直り、もう一体の大猿へと無手で突撃する。


 繰り出される拳を足場として跳躍し、顎を狙って蹴り上げた足を振り抜く。

 それは確かに大猿を打ち――しかし痛打を与えるには威力が足りず、僅かな隙を作るに留まる。これは疲弊が原因ではなく、むしろ動きが変わって速度が増したことでこれまで以上の威力を出せていたから、単に身体能力が足りていないだけだ。


 隙は生まれたものの、今の芦原には大猿を仕留める術がない。

 彼の主な攻撃手段である断裂の魔術は、その元となった伝説にちなんで杖やそれに準じるものを掲げることで威力の底上げを可能とし、逆に言えばその動作がなければ威力の低下は避けられない。最悪、木の枝の一本でもあればそれで事足りたのだが、この氷の異界ではそれも望めない。


 いつも杖の代わりにしている七支刀まじゅつも、今は敵の片割れに

 心臓に食い込ませたまま再生を阻害しているあの武器は、同時に一振りしか出現させることができない。一度消した後すぐ手元に顕現させることは容易だが、そうすると死んだ大猿が復活を果たすのは目に見えていた。


 だから、まだ早い。

 一刀で確実に殺すべく、今は奇跡まじゅつを蓄える。


 攻勢を維持すればさらなる隙は作れるが、体力の消耗はより大きくなる。

 守勢に徹すればじわじわと心身を削られるが、より長時間の時間を得られる。


 ――悩むことすらなく、芦原は後者を選択した。


「来なよ」

『ホオオオオオオォォォォォォッッッ!!!』


 咆哮と共に再び放たれる拳。

 芦原はそれを、極めて近い間合いで回避し続ける。


 現状、彼にとって最も致命的な攻撃は、距離を取られた上で氷の吐息ブレスを放たれること。

 攻撃のための魔術を防御に使えないこの状況で、広範囲に及ぶ遠距離攻撃を避けるには、敵との距離を詰めていつでも死角に回れるよう努めるしかない。


 空を切る打撃は、一撃でも食らえば弱った少年の命を奪うに余りある。

 そして魔物の強靭な肉体は、単に攻撃の威力や速度を向上させるだけじゃない。無尽蔵の体力は猛攻を持続させ、揺らぐことのない体幹は万全のバランスを維持する。芦原から動かない限り、スタミナ切れや体勢を崩すといった自滅はまず起こり得ない。


 ――それでもなお、彼にとっては恐るるに足るものではない。

 という攻略法は見えているし、すでに動きは見切っているのだからそれほど難しいものではない。要するに、リズムゲームの如くだけだ。


 それは確かに、言葉にすればひどく単純な解決策だ。実際の難易度は置いておいても、決して間違った考えではない。

 ――そう、芦原の敵が目の前の相手だけだったら、何も問題はなかった。


「……っ!?」


 彼の鋭敏な感覚が、異常を捉える。

 眼前の敵じゃない。後方で倒れ伏す敵だ。突き刺した七支刀が少しずつ、少しずつ外れつつある。再生を阻害する異物を押し出そうと死骸の肉が蠢いているのだ。


 悠長に構えてはいられないと、焦りを覚えた芦原はより集中力を高める。

 攻撃の軌道を読み切って、余波や振動まで含めて自分を害さない距離を維持キープする。その状態で、普段なら十数秒で済むに倍以上の時間を費やし、


「とっ――!」


 振り下ろされる両拳を後ろに避けた後、前進するとそれを足場に跳び上がる。

 ――そして、その手に武器が握られる。片割れが復活するより早く、正中線に沿って一刀両断すべく振りかぶった少年は、


『ウォ――』

「っ!? しまっ……!」


 それを真っ向から迎え撃つべく、大口を開けて構える敵の姿を目にする。

 己の失策――自身が早まったのか、それとも敵が上手かったのかを振り返る間もなく、両者の飛び道具が激突した。


『――オオオオオオォォォォォォッッッ!!!』

「く、あああアアアッ!!」


 超低温の氷のブレスは、断裂の魔術によって斬り拓かれ。

 しかしそれが障害物となったことで、大猿の巨体を両断するには至らなかった。


 跳躍の勢いのまま敵を蹴り飛ばし、命は奪えずとも顔から胴にかけて深い傷を負った大猿は抗えず後ろに倒れる。

 その胸の上に立つ芦原は、急所である首の裂傷に己の得物を突き立てようとする――が、


「ダメ、か……!」


 彼の七支刀まじゅつは、それ単体に物理的な攻撃能力が備わっていない。鍔迫り合いや盾代わりの使用は可能な一方で、なぜか物体や生命へは決して傷をつけることが叶わない。断裂の魔術と併用しなければ鈍器としてすら使えないのが、彼の生まれ持った魔術の特性だった。


 それでも傷口に挿し込めば、また再生を阻害することはできる。そしてもう一度魔術を行使すれば、今度は殺せるだろう。

 だがそのに要する時間が確保できない。先に仕留めたもう一体の魔物は程なく、魔術の再発動よりも早く復活するだろう。そうなれば、また最初からやり直しだ。


 だから、芦原は覚悟を決めるしかなかった。


「――【二十重の縛め】!」


 力強く宣した封印の魔術は、彼のなけなしの体力と引き換えに死骸を縛る。

 光帯が形成する空間内において、その蘇生は阻止される。芦原自身も自覚してはいなかったのだが、ことという点において彼の魔術は高い適性を有していた。


 だがこの封印術は、芦原にとってそれほど得意でもないこともあり、手持ちの札の中では最も消耗が激しい。徒に使えば自滅するのは目に見えていたから、本来なら切るつもりのなかった札だ。

 それをここで使ったということは、つまりはここで決着をつけるつもりであるということ。ここで殺しきれなければ、あるいは『二体同時に仕留める』という攻略法が間違っていれば、彼の敗北は確定だ。


 維持できるのはよくて十秒――それまでの間に終わらせなくてはならない。

 傷口から取り除かれないよう七支刀を支えながら、最後の一撃に必要な力を蓄える。その間に、苦しみもがく大猿が喉元の敵を払い除けようと巨腕を振るう。


 食らえば終わり。よって、避ける以外の選択肢はない。

 芦原が跳び上がった直後、彼のいた首元で両の掌打が激突した。大猿はそのまま片方の手で刀を引き抜き、もう片方の手で守るように首を押さえる。


 致命の危機から脱した魔物は安堵に気が緩み――しかし直後に気づく。

 掴んだはずの得物が消えている。そして仰向けに倒れる大猿の視界には、自分の手の中にあったはずの武器を手に落下する敵手の姿が映っていて。


『ギャウウウ――――』

「ああ――疲れた」


 折れぬ戦意を見せる魔物とは対照的に、芦原は気の抜けた様子で力なく言葉を吐く。

 ――それはすでに、彼が勝利を確信していることを意味していた。


 大猿が氷のブレスを吐くよりも早く、

 顔の上に着地した芦原が、再生しつつある裂傷をなぞるように刀を振るう。


『――――ウ、ガ』


 その無造作な一閃が、

 傷を深くまで押し広げ、首から上を真っ二つにした。


 それを見届けた芦原は、魔物の上から降りた後、崩れるようにへたり込む。

 同時に封印の魔術も消える。二つの死体は、どちらも動き出すことはなかった。


「っ、はあ……」


 疲労を隠さない大きな息を吐く芦原。

 主に勝って終わりじゃない。この魔素溜まりダンジョンから脱出すべく呼吸を整える少年は、そこでふと気づく。


「……空気、が――」


 ――死んでいる、とでも言うのだろうか。

 漠然とだが、魔素溜まりダンジョンという空間から力が失われていくのを彼は明確に感じ取っていた。それは以前に潜った十三号魔素溜まりダンジョンにおいては、最奥まで辿り着くこともなく、異例のショートカットを果たし、また戦闘しながらの離脱であったために気づかなかった事態だ。


 魔素溜まりダンジョンの崩落はすでにその予兆を見せている。

 しかしそれは、すぐさま脱出しなければならないという意味じゃない。崩壊のスピードはおおよそ空間の大きさに比例しているとされ、この魔素溜まりダンジョンであれば少なくとも一時間の猶予がある。主を討伐してなお余力を残していれば、あるいは脱出のための人員が別にいれば、崩落に巻き込まれるということは滅多にない。


 だが今回、芦原はそのどちらでもない。満身創痍の状態で、一人取り残されている。

 加えて彼は、自分を攻撃したヴィスペルを追わなければならない。報復ではなく、その真意を問うために。……連れ去られたマリアに対しては、あまり無体なことはされないだろうと特に心配はしていなかった。


 ともかく、彼には早くここから脱出する必要がある。

 ――だから、最後の最後まで脱出用の体力を温存していた。よろめきながら立ち上がった芦原は、防壁の魔導器が塞ぐ出入口へと向かう。


 防壁を破らなければ通路を抜けられないが、そのために魔術を行使すれば――いや、そうでなくとも脱出するには体力が足りない。

 魔素溜まりダンジョンが完全に崩壊すれば、拡張されていた空間は元の広さサイズに戻る。入口があれだけ狭いとなると、元の空間は人間一人分にすら満たないかもしれない。逃げ遅れて圧死、という可能性は十分にある。


 そんな状況で、けれど芦原はすでに脱出方法を見出していた。

 ……いいや、それはとても策と呼べるものではなく、傍から見れば賭けにも等しい真似だろう。そんなことはできない――と、大抵の魔術師にんげんは思うに違いない。


 ――だからこそ、若き魔術師はその成功を確信している。

 根拠はない。……何の根拠などなくとも、と確かに信じている以上、それは彼にとって間違いなく可能な魔術ことなのだ。


 七支刀を構え、集中する。

 呼吸を整え、姿勢を正し、五感を研ぎ澄ませながら、意識を飛ばす。


 彼が馳せるのは、仲間たちと辿ったこの魔素溜まりダンジョンの道程。

 道の形、方向、広さ、高さ、長さ、質感、色、光、空気、音、匂い、時間――それらをできるだけ鮮明に思い出す。


 その長大な道は今、芦原の行く先を阻む障害として存在している。

 であれば、だ――それを苦難と見做すことで、


「【一太刀の道引き】」


 数分にも渡る、一切途切れることのない完全なる集中の末に、芦原は刀を振り下ろす。

 この魔素溜まりダンジョンで自分が歩んできた、時間と空間の一切を断ち切るかのように。


 ――それは、彼自身が実際にこの最奥までの道を辿ってきたからこその所業だ。

 立ち塞がる苦難を明確に想像イメージできたからこそ、それを排除する認識もまた可能だった。もし最奥までの攻略をヴィスペルが一人で行っていたら、このようなことはできなかっただろう。


 その過程で何が起こったのかは、芦原もよくわかっていない。

 ――ただ結果として、彼は魔素溜まりダンジョンから脱出していた。理屈も何もわからないから、下手すれば遥かな時間が経過しているやもと覚悟していたが、


「――っ、はぁ!?」


 脱出して早々、離れた位置から幼女――ではなくヴィスペルの驚いた声が聞こえ、同時にその足元に弟子が転がっているのも見える。

 それがどのような状況か、理解もできず確認もしないまま、


「やあ――さっきぶり」


 小さな笑みを浮かべてそう言うと、彼はそのまま意識を失った。











「……本当に、とんでもない奴だな」


 突然現れ、そして倒れた師匠の元へとヴィスペルさんが近づいていく。


「何が何だかワケがわからん。ったく、面倒なモン呼び込みやがって……」


 彼女の言葉の意味はわからないが、それでも目で見てわかることが一つ。

 ――足取りが軽い。魔素溜まりダンジョンの最奥で見せたような、剣呑な雰囲気はもうそこにない。


「ま、手間を省いてくれたのは助かるよ――いや、方法が謎すぎて不安の方が勝つな。……やっぱ殺しとくか?」

「っ、ヴィスペル、さん……!?」

「冗談だよ。マリアの本気は十分に伝わったからな、お前に免じて今は勘弁してやる」


 そう言うと、彼女は師匠の身体を魔法で浮かせる。

 ようやく痛みと気持ち悪さが引いて立てるようになったわたしに、ヴィスペルさんは言う。


「こいつが起きたら話してやるよ――クソつまんねえ自分語りを、な」

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