第54話 魔術師、立つ

 わたしは、火が怖い。

 それは焼かれる痛みを、辛さを、恐怖を知っているから。二度とそれを、この身で味わいたくはないから。


 ――だとしたら、もしも。

 もしも目の前で、炎に焼かれて助けを求める人がいたとして、わたしにそれを見捨てることができるだろうか――?




「――冗談じゃない」




 そんな真似をするくらいなら、炎の中で苦しみながら死んだ方が遥かにマシだ。


 人間は、己のやりたいことしかできない。それは裏を返せば、絶対にやりたくないことはどう足掻いてもできないということ。わたしにとっては、目の前の人間を見捨てることがそうだ。

 わたしは、わたしという命の価値を高く見積もっていない。もちろん無為に投げ捨てるつもりはないし、わたしを大事に想ってくれる人たちの心を蔑ろにしたいわけでもないけれど、それはそれとして今そこにある命と比べることなどできないと思っている。


 誰かを助けるためならば、火の海に飛び込んだっていい。

 ――その火を生み出したのが、わたし自身だったとしても。


「……全て燃える。何もかも燃えてしまう」


 魔術師となることが、この身を焼くことと同義だったとしても。

 魔術師でなければ救えない誰かがいるのなら、わたしは魔術師でありたいと思う。


「だから、わたしは――」


 わたしが魔術師でなければ、師匠を、そしてヴィスペルさんを救えないというのなら――




「――燃え尽きる前に、その全てを拾い上げる」




 ――その果てに、この身が燃え尽きてしまっても本望だ。




「……っ!」


 右手の袖口から、赤い輝きが漏れ出した。

 魔術師としての意識を高め、かつあえて己のトラウマを刺激したことで、再びわたしの独創魔術オリジナルが発現しようとしている。


 右手の先から恐怖が全身を駆け巡り、心身を等しく侵していく。

 ――けれど、わたしの決意はどうやら強固で確かなものだったみたいだ。今までのように狼狽することもなく、


「うぉ――らァッ!!」


 火の粉がこぼれる右拳で、わたしを囲う半透明な防壁を殴りつける。

 それは硬く、揺らがず、無傷のまま健在で。対して殴ったわたしの拳はひどく痛むけれど、


「――よし!」


 間違いなく、膂力は向上している。魔術師としての、本来の能力を取り戻しつつある。


 同時、輝きが強くなった。熱さと痛みが襲い来る――けれど、これは幻痛だ。ローブの袖も、わたしの腕も燃えていない。わたしの想像イメージする、火という概念を再現するには至っていない。

 まだ足りない。あの日、わたしの服と宿の備品シーツを燃やしたように、確かな形として顕現させる余地がある。それができてようやく、わたしは魔術師としての確固たる信念と決意を得たことになるだろう。


「はあっ! やっ! く、あああっ!」


 拳が腫れて変色し、血が滴って痛みも増していく。

 それでも、わたしは殴り続ける。それはこの防壁ではなく、自分自身の殻を破るために必要な行為だ。この程度の苦痛さえ越えられなくて、人を救うために己の命を張ることなどどうしてできようか。


 右手の袖から、炎がより強く大きく噴き出す。

 ローブの端がジリジリと焦げていく。皮膚がチリチリとした痛みを感じている。


「はっ――はっ――」


 もう少し――もう少しだ。あの燃え盛る赫炎に、もう少しで届くのがわかる。

 ……そして同時に、今のままではその領域に辿り着けないことも。


 最後の一線を越えるための後押し。それは己の核心に至るための確信であり、我が身諸共に目の前の不幸と悲劇を燃やし尽くす覚悟でもある。

 どうやらわたしの心は、なおもあの恐怖を忘れられないらしい。……これじゃ、ヴィスペルさんの中途半端さをとやかく言えないか。


「――よくやるよ、まったく」


 そんなわたしに、ヴィスペルさんが冷めた口調で言う。


「呆れを越えて感心に至ることもあるが、マリアはその逆だな――感心も度が過ぎれば呆れとなる。そうまでして私を救いたいのか? 物好きめ」

「――当然です! あなたに、無用な人殺しをさせたくない……! それに、師匠にも死んでほしくありませんから!」

「……あくまで私のため、ってか。その気概は買うが、私に言わせりゃ善意の押し売りだ」

「……っ」


 責めるように放たれた言葉に、壁を殴りつける拳が止まった。


「善意には少なからずそういった面もあるが、お前のは輪をかけてひどいだよ。救いなんて微塵も求めていない人間が、手を差し伸べられて喜ぶと思うか?」

「それは――」

「安易な救い、表面的な助けが、根本的な解決に至らないことだってある。自死する人間を救ったところで、自死を選ぶに至った要因を取り除かない限り苦しみを長引かせるだけだ。……お前は、救った相手の人生にそこまで関われるのか?」


 彼女の言葉が、わたしの炎を揺らめかせる。まるで強風に煽られたかのように。


「師の仇を討つために裏切り者を倒す――それが常人の思考だ。お前も大人しく、そうしておけばよかったものを」

「――――」

は結構だが、相手を選ぶことを覚えるんだな。救う価値もないクズもいれば、私のような圧倒的な格上もいる。命を落とすならまだしも、心が折れれば悪に傾く危うさが――」

「――――さい」

「――……、あん?」




「うるさいって言ってんだよ!!!」




「…………………………………………えっ」


 

 言葉という風を取り込んで、心という炎は大きく燃え上がる。


「ゴチャゴチャと賢しらに言葉を並べて……! 心の定まっていないヤツが偉そうなこと抜かすなァ!」

「お、おう……?」

「命が助かっても、心が死んでたら意味がないって? ああそりゃわかるよ、がそうだったからねえ! 身体を焼いて、周囲の目が変わって、冷遇されながら死んだように生きてきたさ!」


 そう、あの頃のだった。喜びも、希望も、怒りさえも――未来へ進む原動力の一切を持たずに、ただ生命活動をしているというだけの有様で。

 もしもあの時、あの炎の中で死んでいたら、あの苦しみを知らずに済んだのかもしれない――けれど、


「それでも、今のは幸せだよ! 人に恵まれて、多くをもらって、人生を懸けてやりたいことを見つけた! ――それらは全て、得られたものだ!」


 命を生かして救いとするのを綺麗事だと言うのなら、命を奪って救いとするのもまた綺麗事だ。

 人間の幸福は、生でも死でもそれ単体で定まるものでは決してない。如何に生き、如何に死ぬかの両方が備わってようやく成立する。


「死んだ人間は何も得られない! 再起も、復讐も、贖罪も、その果ての苦難も悟りも喜びも――死ねば全てが失われる! そして、二度と息を吹き返すことはない……!」


 逃げることが、悪いことだとは思わない。時には強引にでも、心身を休めることが必要となるだろう。

 けれど死という形で逃避してしまえば、その生にも死にも絶望しか残らない。それを許容できないこの心を独善と呼ぶのなら、そう呼ばれることが誇らしくさえある。


「心だろうが命だろうが、は救う! 悩んで迷って考えている間に誰かが犠牲になるのなら、、その後のことはそれから考えりゃいい!」


 熱い――この身も心も、等しく燃えている。

 自分こそが正しいと断言はできない。間違うことだってあるかもしれない。それでも、それこそが、の『やりたいこと』に他ならないのだから。


「――馬鹿馬鹿しい」


 ふ、とヴィスペルさんが笑みを漏らす。

 それは言葉通り、あまりの愚かしさに失笑を堪えられなかったという感じだ。


「ガキの理屈だ。それに比べれば確かに、私の言葉は賢しいだろうよ。そんなものを掲げられたら、もうまともな話し合いはできやしない」


 だから、とこちらを見据え、


「思いは伝わった――後は、貫けるかどうかだな」

「言われっ――」


 その強気の笑みに叩きつけてやるつもりで、


「――なくても!!」


 これまでで最高の、渾身の力で防壁を殴りつける。

 すでに両手の感覚はなく、そうまでしてもついぞこの囲みを砕くことは叶わない。


 ――けれど、この手は確かに『それ』を掴んだ。

 顕現する。の――だけの魔術が。


 確かな熱を伴って、炎が噴き上がる。

 火傷痕のある右腕と顔を覆うそれを、意識的に抑え込む。消すためではなく、制御コントロールするために。


 やがて、肌を焼く熱は空気と変わらない温度となり、衣服を焦がすこともなくなった。すでに燃えているローブを脱いで火を叩き消すと、ボロ布同然のそれを右腕に巻きつける。理屈は自分でもわからないけど、直感がそうすべきだと告げていた。


 魔術は成った。

 であれば、後は為すべきことを為すだけだ。


 手を伸ばす。

 防壁越しの、遠くの彼女に向けて。


「届け」




 そして、

 ヴィスペルさんの身体が炎を帯びる。




「――――ッ!?」


 瞠目する彼女と同じように、わたしも自分自身の魔術の結果を確認する。

 炎は彼女の肉体ではなく、そのドレスから上がっている。それもおそらく、わたしにも彼女にも見えない背中から。


 自分の服の内側から噴き出し、相手の背後から湧き上がる炎。

 その元となったのは、盲目の妖精を導くために灯火を手にした少年の物語。

 それを紐解くわたしは、火の恐怖を存分に思い知っている。


 ――なるほど、わかってきた。


「どういう理屈だよ……!?」


 ――そんなところか。

 盲目の妖精に暴威を振るう少年とは、我ながら穿った見方をしたものだ。それとも、火で追い立ててでも妖精を導こうという覚悟の顕れだろうか。


 そして、わたしの魔術にヴィスペルさんが動揺したのは、単に不意打ちを食らったからじゃない。

 魔法じゃない、しかも遮蔽物をすり抜けて作用する能力ちからなんてのは限られる。スキルの中でも該当するものは多くない以上、彼女にとってもあまり経験のない攻撃に違いない。


 ……あと、身体能力の強化と炎の操作を同時に可能とするスキルは過去確認されていないから、この時点で魔法でもスキルでもない能力ちからを持っていることは露見した。

 新種のスキルと言い張ったところで、それを調べるために人を動員されて自分の首を絞めるだけだろう。人前で使うのはどちらか一方だけにするべきか……?


 ――ともあれ、相手の動揺を誘うことができた。

 火力は高くない、すぐに鎮火されてしまうだろう。だからそれより早く、彼女の意識が炎に向けられている内に、


「せあッ――!!」


 注意が割かれたことで強度が落ちた防壁を蹴り砕く。

 キラキラと舞い散る破片を浴びながら、疾走する。今のわたしなら三秒で詰められる距離の彼女は、すでに消火を済ませていて、


「クソ、寄られるとマズい――!」


 そう口走り、魔法を行使する。

 

 ――どうやら魔術師としての知覚は、魔力の感覚もより鋭敏に捉えるらしい。

 わたしの進行方向に、四角い箱のような形で魔力が放たれる。魔法の遠隔発動の予兆、おそらくは先と同じ防壁の檻だ。


 咄嗟に進行方向を変えて避けると、案の定わたしが踏み込むはずだった場所に魔法の箱が出現する。

 そのカウンターで、こちらも再び魔術を発動する。足を止めず疾走したまま、ローブを巻きつけた右腕を彼女に向けた。


 わたしの魔術――もし名前をつけるのなら、


「――【不可知しられずの失火】」


 直後、ローブの内から烈火が噴き出した。

 それはわたしの身や衣服に影響を与えず、しかし確かな熱を伴って彼女に迫る。


 魔法による疑似現象とは違う、魔術による限りなく本物に近しい炎の奔流は、並の人間なら再起不能にするのは容易いだろう。間違っても、軽々しく放っていい能力ちからじゃない。

 ――けれど、相手が強者であれば話は別だ。それも最強の冒険者となれば、むしろわたしに手加減する余裕などない。


「妙な能力モン使いやがって……!」


 そう吐き捨てた彼女の魔法により、幾条もの水柱が立ち昇る。

 激突した。炎は水を削り、水は炎を圧す。互いが互いを食い合うことで均衡を保つ――ことができたのは、ほんの数秒。


「調子に乗るなァッ!」


 彼女の喝破と共に魔法の勢いが増し、波濤が烈火を呑み込んだ。

 そのままこちらに迫る怒涛の質量を、炎を噴射した反動で宙を舞うことで回避する。当然ながら初めての経験で、最初は制御できずに振り回されるも、意外と早く勘所を掴めたのは魔術師としての身体能力が故だろうか。


 津波が過ぎ去った後、光弾が射出される。

 地から天へ降り注ぐそれらを、炎による加速と体捌きによる方向転換で掻い潜る。苛立ちの見える態度の割には、この反撃もずいぶんと。いやまあ、殺す気があるならとっくに殺しているだろうけど。


 最後の光弾を避けながら、ヴィスペルさんの背後に着地する。

 至近に迫った。この距離なら、自分を巻き込む恐れのある大規模な魔法は使えない――とは言わずとも、一瞬でも躊躇させることはできるだろう。自身に防御の魔法を使うとしても、その分だけ魔法を発動する手間が増えてこちらには猶予が生まれる。


「ふッ――!」


 さらに肉薄するべく、その背に回し蹴りを放つ。

 咄嗟にこちらへ振り向くヴィスペルさんの、慌てた表情があまりにも似合わなくて。


 ――その顔から、一切の感情が消え失せた。

 それを見た瞬間、全ての理屈を越えてわたしは理解させられた。




 ああ――わたしの負けだ。




「馬鹿が」


 渾身の蹴りを片手で受け止められる。

 ――直後、わたしの身は回転しながら宙に浮いていた。


 何をされたのか、本当にわからなかった。

 その最大の理由は、彼女から放たれる魔力に何の変化もなかったこと。新しい魔法を発動したのでも、隠れて発動していたのでもない。ただ、――身体強化のみで対処したんだ。


「ふんッ!」

「が、は――ッ!?」


 戸惑いが反応を遅らせた寸暇に、逆に腹を蹴り飛ばされた。

 吹っ飛び、転がり、悶絶して、吐いた。頭も身体も、中身がシェイクされたようにグルグルと気持ち悪さでいっぱいになる。


「対人――いいや、戦闘そのものの経験が浅すぎる。相手の言うことを真に受けるなよ」


 揺れる思考と視界でどうにか立ち上がろうとするも、脚に上手く力が入らない。


「この身体ナリだから、よく勘違いされるんだわ。接近戦に持ち込めばどうにかなる、ってな。……身長タッパの差なんて、魔法と武術の才能次第でどうとでも覆せるってのに」


 脂汗を地面に垂らすわたしの元に、声と足音が近づく。


「あのよくわからん初撃――遠距離から私を直接燃やすのを繰り返していれば、もう少し苦戦させられたかもな。つーか明らかに能力ちからに不慣れだったし、そんな付け焼き刃で私に挑もうなんて十年早い」


 ヴィスペルさんの小さな身体が、わたしの顔に影を作る。

 見下ろす彼女は手を翳し、魔力を昂らせて言い放つ。


「殺す気はないが、適度に弱らせておく。文句ないよな?」

「い、え……わたし、は……まだ……!」

「健気だねえ。――じゃ、しばらく寝とけ」


 無慈悲に、けれど優しさを含む声と共に、魔法を発動する――直前、


「――っ、はぁ!?」


 彼女が意識が逸れ、弾かれたように別の方向を向いた。

 驚愕の半笑いを浮かべるヴィスペルさんの視線の先、魔素溜まりダンジョンの入口にわたしも目を向ければ、




「やあ――さっきぶり」




 剣を振り抜いた姿勢の、満身創痍ながらも五体無事な師匠が、そこに立っていた。

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