第7話 主は怒れり

 ――その魔物は、人間から『牛頭ゴーシールシャ』と呼ばれていた。


 牛の頭を持つ巨躯の魔物はかつて、群体を統制する毒グモを打ち倒し、魔素溜まりダンジョンの支配権を得た。月の満ち欠けは理解しても、暦という概念を持たない牛頭ゴーシールシャが、それがいつのことだったかなど把握しているはずもなかった。


 魔物にも生きるための糧は必要であり、食欲もある。だが魔素溜まりダンジョンの主ならば、濃密な魔素マナを取り込むことで生命活動は十分に維持できる。

 牛頭ゴーシールシャはこれを喜んだ。弱肉強食の闘争に勤しむ必要もなく、悠々と生きる日々をその魔物は望んでいた。時折武技を磨き、自身に匹敵する可能性のある魔物をあらかじめ叩き潰して、それ以外は漫然と日々を過ごしていた。そしてこういう生態は、魔素溜まりダンジョンの主には珍しいことではなかった。


 ――故に、その障害となる存在は確実に排除する必要があった。


 牛頭ゴーシールシャが何より煩わしく思うのは、住処に時折侵入してくるだ。奴らには力があり、その力で魔素溜まりダンジョンを荒らしていく。主にとってはもはや自らの肉体にも等しいそれを、引っかき回されて不快にならないはずがない。

 それでも、わざわざ浅層へ出向いて駆除しに行くほどのものかと問われれば、決してそういうわけでもない。そもそも魔素溜まりダンジョンは魔物を招き寄せるため門戸を開いており、その内部では大小様々な闘争が連日起きている。浅層をうろつかれる程度なら許容範囲内だ。


 だが、ものの数日で深層まで到達されるのは看過できない。例えるなら、家に招いたばかりの客人に家探しをされるようなものだろうか。自らの聖域を土足で踏み荒らされるような、そんな不快感を覚えるものだ。

 ――だから念入りに潰す。人間は魔素溜まりダンジョンに定住する気がないことを知っているから、時に見せしめとして一人を徹底的に叩いて恐怖を煽り、時に集団を全滅させて力を誇示すれば、後は勝手に寄り付かなくなる。牛頭ゴーシールシャとしては好きでやっているわけでもないのだが、必要ならこの程度の手間は厭わなかった。


 その甲斐あってか、侵入する人間の数は大幅に減り、魔素溜まりダンジョンには秩序と平穏が戻ってきた。

 ……自らの住処が、人間によって都合よく利用されているとも知らずに。


 その日、牛頭ゴーシールシャは複数の侵入者の存在を感知していた。数は多いものの大半は取るに足らない雑魚であり、それだけならば放置していたのは間違いない。

 ――だが、見過ごせない存在がいくつかあった。それらの多くは自らの脅威になり得る強敵だが、その中に異質な気配の持ち主がいた。それは数多の人間を屠ってきた魔素溜まりダンジョンの主にとっても、完全なる未知と言っていい。


 関わり合いになることすら避けたかった。浅層で帰ってくれるのなら、それで構わないとさえ考えていた。

 だが、その気配は三日に渡り奥地への侵入を試みた。奇しくも最後の日、黒満月の影響で力を増した牛頭ゴーシールシャはその感覚も鋭敏になっており、深層を探る存在に対する異物感を強烈に感じていた。


 我慢の限界は程なく、大したきっかけもなく訪れる。


『ヴォアアアアアアアアアアアアァァァァァァ――――――――!!!!』


 怒り、猛り、咆哮する牛頭ゴーシールシャは駆け出した。もはや一秒たりとも耐えられなかった。今すぐに、あの不快な気配を叩き潰さねばと、ただそれだけを望んでいた。


 疾走の最中、とうとう忌々しい敵手の姿を捉えた。

 人間の容姿のことはよく知らずとも、体躯や毛髪の色、纏う衣服の形で個体差を見分けるくらいはできる。対象は五人の集団の中で二番目に背が低い、武器も持たなければ防具も革鎧しかない、みすぼらしい恰好の少年だった。


 妙だと感じたのは、実際に目にした相手の姿からは、何一つ恐れるものがなかったことだ。威圧感も、殺気も、敵意すらない――なのに異様な気配だけは濃厚に放っているから、不気味さに拍車をかけている。

 他の四人に関しては、特に思うこともない。鎧姿の男はそれなりの強さがあるようだが、恐れるほどのものではない。それにも劣る他の三人などはもはやどうでもよかった。


 よって、牛頭ゴーシールシャの標的は最初からただ一人。

 ――芦原理巧という名の少年、ただ一人だった。


 五人が逃げる。それを追う。

 一人が火球を放った。魔力を感知できなかったため、何らかのスキルだと判断した。避けるか払うかしてもいいのだが、時間の浪費タイムロスを避けるためそのまま受けることを選択した。


 火球が命中する。身体が燃え上がる。

 熱い、痛い、苦しい――が、それだけだ。只人を秒で炭にする炎でさえ、表面を炙るだけで命までは届かない。しかも発動者の心が折れたのか、疾走の風圧だけで吹き散らされる有様だ。


 この分なら追いつくまでそう時間はかからない――と、そう思った矢先のことだった。

 標的に動きがあった。逃げる仲間の元へ近づいたかと思えば、その仲間に掴まれ、こちらへ放り投げられたのだ。


 罠の可能性を疑う――いいや、敵は怯えて逃げるばかりで反攻の素振りを見せていない。こちらの狙いが今投げられた人間だとすら気づいていないようだった。

 であれば、躊躇う理由は何もない。完璧に迎撃できるよう位置を調整しながら、固く握り締めた両手を振り上げ、




「――――【二十重のいましめ】」




 芦原が呟いた言葉を確かに聞くと同時、その身体を上から殴りつけた。

 見た目通りの膂力自慢である牛頭ゴーシールシャの一撃をノーガードで食らって、無事で済む生物など滅多にいない。加えて地面に叩きつけられれば、その衝撃だけで原型も留めずグチャグチャになっているだろう。


 ――だからこそ、相手が何らかの防御策を講じたのは明白だった。

 手応えがない、それも物理的に。人間を殴ったという感触はもちろん、硬い壁や柔らかい膜のようでもない。衝撃が流されて伝わっていないような気持ち悪さがある。何より、彼から魔力が感知できない一方で、発せられる嫌な気配が強まっている。


 だが初撃を防がれたことは、攻撃の手を緩める理由にはならない。


『グオオオォォォ!!! ヴルッ、ルオアアアァァァ!!!』


 連打、連打、連打連打連打、連打連打連打連打連打連打連打連打――――魔素溜まりダンジョンの地面を揺らすほどの猛攻は、やはり相手まで届いていない。けれど防御の手段がどのようなものであれ、永続的に持続するものではないと考えるのが自然だ。

 耐久力か、持続時間か、どちらに限界があるにせよ、このまま殴り続けていれば防御が解けた瞬間を叩ける。体力勝負なら人間に負ける気はしなかった。


 ……だが、牛頭ゴーシールシャは理解していなかった。

 根気を競うには、体力のみならず、精神力もまた必要だということを。


『ヴォアアアッ!! グ、ウォ……! ヴ、ルルゥ……』


 牛頭ゴーシールシャの手が止まる。

 疑念を覚えてしまった。己の行為は、果たして本当に意味あることなのかと。相手が操る未知の術理は、あるいはこちらの常識を凌駕したものなのではないか――と。


 ――その逡巡が、明暗を分けた。

 目の前の相手の濃密な気配が、突如として薄くなる。反射的に拳を叩き込む――よりも早く、土煙の中から飛び出す影があった。


「あっぶな……! 封印術って自分に使うとああなるんだ……!」


 傷一つない姿の芦原が、距離を取ってこちらに向き直る。

 その表情や態度に焦燥の色があることを、牛頭ゴーシールシャはこれまで人間を駆逐してきた経験から悟っていた。あのまま攻め続けなかったことを後悔すると同時に、こう考えた。


『ヴォオオオオオオオオオオオオォォォォォォ――――――――!!!!』


 ――敵は自分を脅威と認識している。つまりは、この場で狩ることができる。

 ここで芦原を逃がして、次はいつ来るのかと怯えながら時を過ごすのは御免だった。確実に始末して、後顧の憂いを断つことを決断する。


 じりじりと後退する少年に対して、牛頭ゴーシールシャは真正面から突っ込んだ。

 並の相手ならそれだけで致命打となる巨腕の横薙ぎ――あらゆる防御を破壊する速度と質量を前に、しかし彼は冷静だった。


 迫る暴威を前にしても、恐怖で身を竦ませることはない。腕の軌道を目で追い、同時に牛頭ゴーシールシャの体勢を確認しながら、芦原は気負いなく地を蹴った。

 触れるだけで弾かれる疾走の、その頭上を越える高い跳躍。高速であるが故に巨体はその真下をあっという間に通り過ぎ、事なきを得た少年は着地する。


 だがそれは、牛頭ゴーシールシャにとっても好都合だった。怪物が少年に向き直れば、正面が魔素溜まりダンジョンの奥に、背面が出口へと続いているのは必然だ。

 つまり芦原が脱出するためには、怪物の横を抜ける必要がある。逆に後退すればするほど袋小路に追い込まれ、しかもより魔素マナの濃い深層へ潜るほど牛頭ゴーシールシャは力を増し、魔素溜まりダンジョンへの影響力も格段に高まる。壁を動かして密閉空間に閉じ込める、天井を落として圧殺する、などといったことも可能だ。


 ――故に、牛頭ゴーシールシャ最大の失敗を挙げるなら、これに尽きるだろう。

 最奥で敵を待たなかったこと。本拠地ホームの有利を最大限活かせる場所から離れてしまったことこそが、怪物のとなった。


「仕方ない――」


 そしてもう一つ、小さな失敗がある。


「――やるか」


 逃げ道を塞いでしまったこと。

 それにより、芦原理巧の重い腰を上げさせてしまったことだ。

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