第7話 主は怒れり
――その魔物は、人間から『
牛の頭を持つ巨躯の魔物はかつて、群体を統制する毒グモを打ち倒し、
魔物にも生きるための糧は必要であり、食欲もある。だが
――故に、その障害となる存在は確実に排除する必要があった。
それでも、わざわざ浅層へ出向いて駆除しに行くほどのものかと問われれば、決してそういうわけでもない。そもそも
だが、ものの数日で深層まで到達されるのは看過できない。例えるなら、家に招いたばかりの客人に家探しをされるようなものだろうか。自らの聖域を土足で踏み荒らされるような、そんな不快感を覚えるものだ。
――だから念入りに潰す。人間は
その甲斐あってか、侵入する人間の数は大幅に減り、
……自らの住処が、人間によって都合よく利用されているとも知らずに。
その日、
――だが、見過ごせない存在がいくつかあった。それらの多くは自らの脅威になり得る強敵だが、その中に異質な気配の持ち主がいた。それは数多の人間を屠ってきた
関わり合いになることすら避けたかった。浅層で帰ってくれるのなら、それで構わないとさえ考えていた。
だが、その気配は三日に渡り奥地への侵入を試みた。奇しくも最後の日、黒満月の影響で力を増した
我慢の限界は程なく、大したきっかけもなく訪れる。
『ヴォアアアアアアアアアアアアァァァァァァ――――――――!!!!』
怒り、猛り、咆哮する
疾走の最中、とうとう忌々しい敵手の姿を捉えた。
人間の容姿のことはよく知らずとも、体躯や毛髪の色、纏う衣服の形で個体差を見分けるくらいはできる。対象は五人の集団の中で二番目に背が低い、武器も持たなければ防具も革鎧しかない、みすぼらしい恰好の少年だった。
妙だと感じたのは、実際に目にした相手の姿からは、何一つ恐れるものがなかったことだ。威圧感も、殺気も、敵意すらない――なのに異様な気配だけは濃厚に放っているから、不気味さに拍車をかけている。
他の四人に関しては、特に思うこともない。鎧姿の男はそれなりの強さがあるようだが、恐れるほどのものではない。それにも劣る他の三人などはもはやどうでもよかった。
よって、
――芦原理巧という名の少年、ただ一人だった。
五人が逃げる。それを追う。
一人が火球を放った。魔力を感知できなかったため、何らかのスキルだと判断した。避けるか払うかしてもいいのだが、
火球が命中する。身体が燃え上がる。
熱い、痛い、苦しい――が、それだけだ。只人を秒で炭にする炎でさえ、表面を炙るだけで命までは届かない。しかも発動者の心が折れたのか、疾走の風圧だけで吹き散らされる有様だ。
この分なら追いつくまでそう時間はかからない――と、そう思った矢先のことだった。
標的に動きがあった。逃げる仲間の元へ近づいたかと思えば、その仲間に掴まれ、こちらへ放り投げられたのだ。
罠の可能性を疑う――いいや、敵は怯えて逃げるばかりで反攻の素振りを見せていない。こちらの狙いが今投げられた人間だとすら気づいていないようだった。
であれば、躊躇う理由は何もない。完璧に迎撃できるよう位置を調整しながら、固く握り締めた両手を振り上げ、
「――――【二十重の
芦原が呟いた言葉を確かに聞くと同時、その身体を上から殴りつけた。
見た目通りの膂力自慢である
――だからこそ、相手が何らかの防御策を講じたのは明白だった。
手応えがない、それも物理的に。人間を殴ったという感触はもちろん、硬い壁や柔らかい膜のようでもない。衝撃が流されて伝わっていないような気持ち悪さがある。何より、彼から魔力が感知できない一方で、発せられる嫌な気配が強まっている。
だが初撃を防がれたことは、攻撃の手を緩める理由にはならない。
『グオオオォォォ!!! ヴルッ、ルオアアアァァァ!!!』
連打、連打、連打連打連打、連打連打連打連打連打連打連打連打――――
耐久力か、持続時間か、どちらに限界があるにせよ、このまま殴り続けていれば防御が解けた瞬間を叩ける。体力勝負なら人間に負ける気はしなかった。
……だが、
根気を競うには、体力のみならず、精神力もまた必要だということを。
『ヴォアアアッ!! グ、ウォ……! ヴ、ルルゥ……』
疑念を覚えてしまった。己の行為は、果たして本当に意味あることなのかと。相手が操る未知の術理は、あるいはこちらの常識を凌駕したものなのではないか――と。
――その逡巡が、明暗を分けた。
目の前の相手の濃密な気配が、突如として薄くなる。反射的に拳を叩き込む――よりも早く、土煙の中から飛び出す影があった。
「あっぶな……! 封印術って自分に使うとああなるんだ……!」
傷一つない姿の芦原が、距離を取ってこちらに向き直る。
その表情や態度に焦燥の色があることを、
『ヴォオオオオオオオオオオオオォォォォォォ――――――――!!!!』
――敵は自分を脅威と認識している。つまりは、この場で狩ることができる。
ここで芦原を逃がして、次はいつ来るのかと怯えながら時を過ごすのは御免だった。確実に始末して、後顧の憂いを断つことを決断する。
じりじりと後退する少年に対して、
並の相手ならそれだけで致命打となる巨腕の横薙ぎ――あらゆる防御を破壊する速度と質量を前に、しかし彼は冷静だった。
迫る暴威を前にしても、恐怖で身を竦ませることはない。腕の軌道を目で追い、同時に
触れるだけで弾かれる疾走の、その頭上を越える高い跳躍。高速であるが故に巨体はその真下をあっという間に通り過ぎ、事なきを得た少年は着地する。
だがそれは、
つまり芦原が脱出するためには、怪物の横を抜ける必要がある。逆に後退すればするほど袋小路に追い込まれ、しかもより
――故に、
最奥で敵を待たなかったこと。
「仕方ない――」
そしてもう一つ、小さな失敗がある。
「――やるか」
逃げ道を塞いでしまったこと。
それにより、芦原理巧の重い腰を上げさせてしまったことだ。
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