第6話 避けられない犠牲

 それは、怪物と呼ぶに相応しい異様だった。


 五メートルは優に超える人型で、頭は牛のそれだった。両手には三本の指と鋭利な爪が生え、大蛇の如き尾を振り回し、蹄の足で疾走する。それがどれほど恐ろしい光景かは、実際に目にした者にしかわからないだろう。

 こいつは野生を宿す獣でもなければ、無機質で冷酷な機械でもない。知性と、技と、そして悪意を有する魔物なのだ。殺意に染まる赤い眼は、言葉など通じずともその意志を俺たちに示している。


 ――逃がすつもりはない、と。


「「「――――ッ!!」」」


 俺も含めた未熟者たちは、一瞬で理解させられる。

 これには勝てない――挑めば虐殺されるだけだ。


「――――走れ!!!」


 ウォルフォードさんの喝破が、竦んだ俺たちの身を動かす。

 何も考えていられなかった。無我夢中で走った。深層まで潜った目的などもはや覚えていなかった。


 逃げて、逃げて逃げて逃げて――されど背後から迫るものが三つ。足音、咆哮、そして魔力だ。

 魔力は魔法の発動に伴い、その残滓が周囲に放たれる。空間に散布された魔力の量によって、魔法の規模や出力を大まかにだが測ることもできるため、魔物と対峙すればその強さも自然と判別できるというわけだ。


 だからわかる、わかってしまう――背後から迫る魔物の、その強大さが。

 おそらくはサーシャさんでも、一人では太刀打ちできない相手だろう。ならばそれに遠く及ばない俺と、その俺に劣る馬鹿共が揃ったところで勝負になるはずもない。


「このっ――死になさいよォ!!」


 二階が走りながら後ろに顔を向け、着実に距離を詰めつつある怪物に対しスキルを行使する。翳した手の前に生じた大火球が弓矢のように放たれ、着弾と同時にその上半身を燃え上がらせた。

 彼女の『業火』は、極めて単純シンプルに強いスキルだ。あらゆる生物の天敵である炎を操りながら、威力、射程、範囲、速度のいずれもが高い水準にある。二階はともかく、『業火』というスキルを相手取るのは『聖剣創造』でも手を焼くに違いない。


 ――だからこそ、


「ひっ!? う、嘘っ……なんで!?」


 それでもなお速度の落ちない怪物の猛追は、一層の恐怖を掻き立てる。

 時折漏れる呻き声は、苦悶の証なのだろうか。であれば全く効いていないというわけじゃないのだろう。今この瞬間の有効打にはなり得ない、というだけで。


 距離が縮まる。足音が近づく。死が迫る。

 駆ける通路は未だ広い。深層へ潜るにつれて広がっていく道幅は、逆に言えば浅層まで戻ればあの怪物の体躯で通れるものではない。そこまで辿り着ければあるいは――というのはさすがに非現実的か。その前に追いつかれるのは目に見えている。


 どうする、どうする、どうする――!?


「おい、芦原ァ!!!」


 そんな時、大河原が大声を出して名前を叫んだ。

 最後尾を走る芦原がそれに反応し――


「うん?」

「こっち来い!! 早くしろ!!」


 ――いや待て、どういうことだ。

 なんで芦原が、この速度について来られるんだ? 魔法など使えないはずの愚図が、その身体から僅かの魔力も放たれていない無能が、どうして短距離走の世界記録以上の速度で平然と走れるんだ?


「何か用――」


 そんな俺の疑問など露知らず、大河原の元に駆け寄る芦原を、


「――え」


 スキル『怪腕』で巨大化した腕が掴み取り、


「こいつで満足しとけやッ――――!!」




 怪物に向けて投げつけた。




「なっ――!?」


 一瞬、言葉を失った。

 非道だと、思ってしまった。他ならぬ俺自身がやろうとしていたことを、極限の状況で見せつけられて。


 芦原をデコイにして生き残る――それはあまりに合理的で、かつおぞましい選択だった。

 他人からは五十歩百歩に見られるだろうが、それでもこれと一緒にされたくはないと心底思った。集団のことを考えている俺と、自分のことしか考えていない大河原――結果は同じでも、過程にあるものは全く異なる。


 ――そんなことを考えながら、投げ飛ばされた芦原の姿を目で追う。

 普段のどこか呆けたような表情は、驚きの色に染まっていた。何を言おうとしたのか、口が僅かに開閉した直後、


『グルオオオオオオオオオオオオォォォォォォ――――――――!!!!』


 怪物は足を止め、両手を高く上げると、




 両の拳を芦原に振り下ろした。




「ひっ……!?」


 人体が地面に叩きつけられた轟音に紛れて、二階の悲鳴が微かに耳に届く。

 あの一撃だけででもはや助からないとわかるのに、怪物はそのまま拳を繰り返し振り下ろす。叩いて、叩いて、叩いて、叩いて――もはや原型を留めていないだろう芦原を、しつこいくらい入念に叩き潰す。


 もしも、あそこにいるのが自分だったら――と、そう思ったのは俺だけではなかったのだろう。

 そこからは、もう振り返らなかった。脇目も振らずにひた走った。……あんな光景もの、とてもじゃないが見てはいられなかった。




 ――それから、どれほど経っただろうか。

 精も魂も尽き果て、最後にはよたよたと歩きながら、俺たちは魔素溜まりダンジョンから脱出した。




 中で合流した騎士に肩を貸してもらいながら、ベースキャンプに戻ってきた俺たちを出迎えたのは、不安や困惑の面持ちでこちらを見つめるクラスメイトたちだ。

 ウォルフォードさんが他の騎士たちと連絡を取っていたのは知っていた。おそらく、俺たちと同じタイミングですでに避難を始めていたんだろう。しかし俺たちの身に何があったか、その具体的な事実までは聞かされていないようだ。


「ウォルフォードさん!」


 こちらを一瞥した後、同行していた騎士の元へ駆け寄ったのは海藤だった。俺から話を聞くのは難しいと判断した彼女なら、今回の遠征の責任者であるサーシャさんからが発表されるのを待つべきだとわかっているだろうに――それができないほどの不安に駆られているということなのか。


「何があったんですか!? それに、芦原君はどこに――!」

「……すまないが、その話は後で全員に――」




「――大河原よ!!」




 そんな二人の会話を掻き消すかのように、大声を発した者がいた。

 二階だ。彼女は恐怖を堪えるような表情を浮かべながら、大河原を指差すと、


「アイツが! アイツが芦原を敵に投げたの! アイツが芦原を生贄にしたの! いきなりだった、止められなかった!! だからアタシじゃない――芦原が死んだのはアタシのせいじゃない!!」

「テメッ――オレがアイツを囮にしたおかげで助かったんだろうが!! あんなザコ、オレらの身代わりになるくらいしか役に立たねえだろ!! それとも次はオマエが死ぬか!? あァ!?」


 そんな醜い言い争いが始まり、その言葉にどよめきが生まれる。


『は……え? 死んだ?』

『いや、というか今、囮にしたって――』

『嘘、でしょ? だって、そんな……』


 見知った相手が死ぬ――否、殺されるという初めての事態を前にして、クラスメイトの大半はそれを受け入れられずにいるようだった。

 ――愚かしい。俺が誘導した節もあるとはいえ、これまで散々見下して、陰口を叩いて、死ねばいいとまで言い放ったのはお前たち自身だろうに。そいつが本当に死んだ途端、どいつもこいつも「」という顔で悲しみ、悼み、涙を流す。自分の言葉に責任も持てないような奴ほど、過激な言葉を使いたがるものだ。


 バタリ、と音がする。

 視線を向ければ、クラスメイトの一人が気を失って倒れていた。


「かっ、かしわさん!? 大丈夫!?」


 ――その少女の名前は、柏よよ。二階ら女子グループにイジメられている内気な女で、クラスでの立ち位置は芦原の女版と言ってもいい。顔や髪、服装は野暮ったいが、学校で一番胸が大きいとかで下品な男共から性的な視線を集めることが多い。

 どうやらクラスメイトの死は、彼女には刺激が強すぎたらしい。他にも気分が悪そうな生徒が、男女それぞれに複数いる。柏が倒れたのがきっかけとなって、芦原の死を実感するようになったのかもしれない。


「神仙、くん……? 今の、話は……」


 海藤が俺を見る。揺れる瞳は、大河原たちの言葉を信じたくないと如実に語っていた。

 けれど、俺に言えるのはこれだけだ。


「……すまない」

「――っ!」


 それは、咄嗟に出た一言だった。演技でも何でもない、何に対する謝罪なのかもわからない、本心の一言。


 ――少なくとも、芦原に対してのものじゃないのは間違いないだろう。

 俺の心には、奴の死に抱く感情など微塵もありはしないのだから。

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