あなたを愛するつもりはないと、夫が言った

ぺんぎん

あなたを愛するつもりはないと、夫が言った

 寝台に押し倒されている。

 絞め殺さんとばかりに、華奢な手がこちらの首に手をかけたまま。


「何のおつもりですか」


 ありったけの力が込められているのだろう。

 いささか息苦しいが、本当に殺す気がないことは相手の顔を見ればわかる。


「貴方が苦しむ姿が見たくなってしまって」


 甘い言葉のように、柔らかな声が言う。


「またですか」


 悪趣味だと毒を吐けば、変わらない声色で頷かれる。


「ええ、また」


 こちらの首に手をかけ、覆い被さってくるのは美しい少女だった。清楚な夜着は彼女によく似合っている。が、この状況下の彼女の雰囲気とはいささか不釣り合いに見えてしまう。


「何をお考えに?」


 他所事など考えるなと言わんばかりに、首に力が込められる。


「……貴方のことを考えていました」

「嘘つき」


 間髪入れずに非難される。


「貴方が私のことを考えるとは思えない」

「この状況だと、考えざるを得ないのでは?」


 彼女は疑わし気にこちらの顔を見下ろしてくる。信用がないのは今に始まったことではない。他人事のように考えながら、俺は彼女を見上げた。


「何より俺は貴方の夫なのですから、妻のことを考えるのは普通でしょう?」


 彼女は俺の『妻』だった。

 この寝台も夫婦の為にあつらえたものであり、柔らかな寝具は分相応な気がしてくる。俺は彼女の家に婿入りした。よくある話だ。傾きかけた家を支援してもらう条件として、相手の娘あるいは息子と政略結婚する話など。他にいくらでも。


「貴方は初夜で私に仰ったことを覚えていらっしゃらない?」


 長い髪が顔を擽る。


「『貴方を愛するつもりはない』」


 覚えている。一言一句違わずに。耳元で囁かれた言葉は初夜に囁くものではないのに、彼女の声は未だ柔らかなまま。


「貴方にとって私との婚姻はあくまで金銭目的。家の為。重々承知していました」

「……」

「ですが婿入り直後にあのような言葉をおっしゃるとは思いませんでした」

「父からは貴方の『夫』になれと言われただけで、『貴方を愛するように』と命じられた覚えがなかったもので」

「貴方はそういう人でしたね」


 声色は変わらないまま、彼女の手に力が込められる。


 父親から突然、家の為に婿入りしろと命じられた。俺は正妻の子ではなく、外で囲っていた愛人との間にできた庶子。父親が誰なのか知らずとも別にどうでもよかった。母親は父のことを何も話さず、俺も知ろうともしなかった。どうも母は父を愛しているというよりも、上流階級の貴族に目を付けられ仕方なく相手をした。そんな様子だった。当然、生まれた我が子を愛せる筈もなく、ただ淡々と育られた感覚だった。親子でありながら、同じ家に暮らす同居人程度の認識。


 きっかけはひどく単純。父の使いだと言う男が母に子供を引き渡すよう命じたのだ。話を聞けば正妻との間に子供が恵まれず、庶子である俺を引き取りたいらしい。母はあっさりと俺は手放した。使いの男が戸惑う程に。


『金銭はいらない、縁が切れるならそれでいい』


 最後に聞いた母の言葉がそれだった。だからだろう。俺が引き取られて程なく、正妻が跡継ぎを懐妊し無事に生まれた後、腫れ物に触るかのように俺の処遇を決めかねていたのも。愛人の子を迎え入れた。それだけならば大して問題ではないらしい。だが、引き取った後放逐すれば問題だと言う。平民として育った俺にはいまいち感覚が分からないが、要は見栄の為らしい。庶子を育てることがままならない程、経済面が芳しくないのかと社交界では笑いものになる対象のようだ。


 金銭目的で、愛人の子を支援者の娘の元に婿入りさせるのはいいのかと思わなくもないが。


「……」


 どくどくと脈打つ首を絞める彼女は変わらずじっとこちらを見下ろしてくる。この状況はひどく非現実じみていた。夢だと言われたほうがまだ納得できる気がする。


 彼女とは婚姻前から顔見知りだった。まだ正妻が懐妊していると発覚する前。付け焼刃の礼儀作法を身に着けた状態で、社交界入りした。父親を名乗る男に連れ回され、好奇の眼差しを浴びる中で、彼女と挨拶を交わした。一言二言交わしたぐらいだ。彼女に気に入られるようなことは何もしていない。なのに、俺は彼女の『夫』に選ばれた。


『お前の使い道がようやく決まった』


 愛人の子を差し出すだけで、資金援助を約束されるのだ。父親は俺の顔を見ながら、堂々と言った。


『処遇に困るからと始末せずに取っておいてよかった』


 だったら最初から女を孕ませるなよと罵りたくなった。食事を抜かれるのも面倒だったから粛々と従うふりをして黙っていただけだ。


 苛立ちを抱いていたのは変わらないが。父親の書斎でなく、人目のない路地裏ならば殴り飛ばしていたかもしれない。どうしようもない鬱屈とした感情が渦巻いている。


 そんな感情を抱え込んだまま、婚姻を済ませた後、彼女と初夜を迎えた。


『貴方を愛するつもりはない』


 別に彼女に対し悪感情を持っていたわけではないが、自分を取り巻く環境全てに苛立っていた。その中に妻になった彼女も含まれていた。


 初夜にこんな言葉を言い放つ男など、最低以外の何物でもない。

 むしろ無意識に狙っていたのかもしれない。

 支援する条件で婿入りした男が、妻を侮辱したのであれば。

 彼女は自分の父親に泣きつくかもしれない。


 そうすれば、家に対する資金援助が打ち切られ、一矢報いることができるかもしれないと。その場合、今度こそ処分されるだろうが、知ったことではなかった。


『……そうですか』


 彼女は夫の酷い言葉に相槌を打った後、


『でしたら、』


 彼女は抱き着くように、俺を押し倒した。完全に不意打ちだった。流石に息を吞めば、彼女は俺の首に手をかけた。


『私と共に苦しんでくださいませ』


 そう言って彼女は俺の首に爪を立てた。僅かに痛みが走り、彼女の爪の先には俺の血が染み込んでいた。


 以来彼女は夫婦の営みを望まず、寝台の上で俺の首を絞めるようになった。


「何をお考えに?」


 気付けば、圧迫感が緩められていた。変わらず華奢な手は首を抑え込んでいるものの、彼女はじっとこちらの答えを待っている。


「貴方のことを考えていました」

「私は目の前にいるのに?」


 どこか非難じみていて、疑念が拭えない目。その目の中に俺が映り込んでいた。


「目の前にいるからと言って、何も考えないなんて無茶な話では?」

「なら、具体的に仰ってくださいな」


 細い指先が首を撫でる。


「一体、私の何をお考えに?」


 少しでも嘘偽りが混じれば、彼女は即座に見抜くだろう。

 罰と言わんばかりに首に傷跡を残すつもりなのだ。


 すでに首は傷だらけだ。時折痛みが走るだけで、大して支障はないものの。


「常々疑問だったのですが」

「はい、なんでしょう?」

「貴方は何故俺と離縁しないのですか?」


『貴方を愛するつもりはない』と初夜に言い放つ男など、どんな女であれ願い下げだろう。


「そうですね……」


 間を置いた後、彼女は答えてみせた。


「体面の為と言えば、信じてくださいますか?」

「……なるほど」


 白々しい相槌を打った後、俺は手を伸ばす。


「貴方の首を絞めてもいいですか?」


 彼女の首に手をかける仕草をしてみせる。


「信じてくださらないのですか?」

「貴方は体面を気にするような人には見えない」


 呆れた顔をしてみせた。

 他人の評価を気にするような女であれば、俺は既に事切れている。


「よくご存じですね」


 何がそんなに嬉しいのか。

 あどけない笑みを浮かべる時点で、彼女が体面を重視していないのは明らかだ。


「謝罪を受け入れてくださいますか?」

「謝罪はいらないので、事実が聞きたいのですが」


 体面を気にしないのであれば、彼女が離縁しない理由が見当たらない。


「そんなことはありません」


 柔らかな声が否定する。


「むしろ離縁したほうが私にとって不都合と言うもの」

「意に沿わない相手に嫁げと言われているのですか」

「それもありますが」


 何故分からないのだと言いたげに、彼女は言った。


「貴方に生き地獄を与えたいから」

「……は?」

「他でもない私が与えたい」


 首を押さえつける手に力がこもる。


「それが離縁に応じない理由です」

「……それだけですか?」

「十分すぎるほどの理由になっていると思いますが」


 少なくとも私にとってはと、彼女は付け足した。


「そんなことをせずとも、離縁した時点で俺の人生は終わりかと」


 息子の不始末によって支援を打ち切られた父親が、戻ってきた俺を見逃す筈がない。


「それは貴方のお父上が与える罰であって、私が施したい罰とは違います」


 窘めるような声だった。


「何より私は貴方を失いたいわけではありません。生き地獄を味わって頂きたいのです」

「先程から『生き地獄』と仰っていますが」


 彼女の腕に視線を向ける。


「俺の首を絞めることが、貴方が与える生き地獄ですか?」


 確かに息苦しいものの、そこまで危機感は覚えないのだが。


「いいえ」


 彼女の手は俺の首を押さえ付けたまま、彼女は首を振る。


「これは貴方に与えたい罰とは違います」

「なら、俺への罰は何ですか?」

「私と離縁できないことです」

「······は?」

「私の夫であり続けることです」


 どうやら聞き間違えではないようだ。


「それが貴方が与える、俺に対する生き地獄?」

「はい、そうですよ」


 何故と目だけで問えば、彼女は首を傾げる。


「生き地獄になっていませんか?」

「だから、どういう、」

「私が貴方を手放さない限り、父は貴方のお父上に対する支援を打ち切ることはないですよ」


 一瞬、息が詰まった。


「余程のことがない限り」


 どくどくと、彼女の手から振動が伝わってくる。


「······知っていたのですか」


 喉から乾き切った声が出た。


「夫となる方の全てを知り尽くしたいと思うのはごく自然な感情かと」

「······」

「なので、よく知っています」


 父親の愛人の子であることも。母親に捨てられたことも。家に引き取られたことも。正妻が跡継ぎを産んだ後、孤立したことも。


「身売りのような形で、私の夫になったことも」


 全部知っていると彼女は言った。


「『貴方を愛するつもりはない』」


 彼女は夫の無礼な言葉を繰り返す。


「あのように言えば、私が父に離縁を望むと考えられたのでしょう?」


 問いかけでありながら、それはもはや確信に近い。


「離縁すれば、父は貴方の家を支援しなくなる」


 今まで渡していた支援金を利子付きで戻すよう要求するかもしれない。


「そうすれば、貴方は貴方を粗雑に扱ってきた方々に一矢報いることができるでしょう」

「……」

「ですが、」


 彼女はじっと俺を見下ろす。


「私は貴方の為に離縁などいたしません」


 彼女ははっきりと言い切った。


「離縁したところで、貴方にとって何の罰にもなり得ない」


 だからこそ、夫婦であり続けたいと望んでいるらしい。

 そうすれば、俺は望まない支援の手助けをし続けるからだ。


「……それが、俺に与える生き地獄?」

「はい」


 彼女は頷いた。


「貴方にとって何より苦痛になり得るかと」

「首を絞められることよりも?」

「首を絞められることよりも」


 彼女は俺の首に手をかけたまま、肯定した。


「違いましたか?」

「……いいえ」


 俺は彼女の首に手をかけるふりをする。


「貴方は俺のことをよくご存じですね」

「……夫婦ですもの。当たり前でしょう?」


 彼女の細い首に巻き付こうとする俺の手を、恐れる様子は微塵もない。

 照れた様子で、はにかむばかりだった。


「あと一つ聞いても?」

「何でしょうか?」

「何故俺の首を絞めるのですか?」

「え、」


 思ってもみなかった。そんな顔で彼女は俺を見た。


「気になりますか?」

「気にするのが普通かと」


 彼女と離縁できないことが、俺に対する罰だというのならば。

 この行為はいったい何の為なのか。


「答えて頂けないのなら、その首をへし折ります」


 今度こそ彼女の首を掴んだ。

 細い首は少し力を入れただけで、すぐに折れてしまいそうだ。


「それは困りましたね」


 話すのに支障がないよう、力を加えていないのに気付いているのか。

 彼女は怖がる様子もなく、そんなことを言ってのける。


「信じてくださるか分かりませんが、」

「はい」

「これは私に対する罰なのです」

「……は?」

「私にとって貴方に好かれぬ行いをし続けること」


 何の前置きもなく、彼女は俺の首を絞めた。


「……っ」

「夫の望みを叶える気がない。それなのに、貴方に好かれようと擦り寄るなど自分勝手だと思いませんか」


 答えられずにいれば、彼女は力を緩めた。

 激しく咳をする俺を見下ろしながら、彼女は続けた。


「ですから、貴方が私に情が移らぬよう振る舞う」


 ぼやけた視界に、名ばかりの妻の姿が映った。


「貴方に好かれないよう振る舞うことこそ、私にとっては生き地獄」


 先程まで首を絞めていた華奢な手が労わるように撫でてくる。


「ですから、私は貴方の首を絞めているのです」


 呼吸が楽になったものの、彼女の手は変わらず俺の首に添えられたまま。


「貴方は、」

「はい」

「貴方は悪趣味な人ですね」

「そう思って頂いて構いません」


 彼女の手が一瞬ばかり震えた。少しだけ気分が楽になった気がした。


「そういえば、私も気になっていたのですが」

「何ですか」

「何故、貴方は私から逃げないのですか?」

「……は?」


 思わず間抜けな声が出た。


「今更ですか」

「今更ですが、聞く機会がなかったもので」

「……答えなければいけませんか」

「私は貴方の問いに答えたのに?」


 不誠実だと言ってくる。

 この状況では誠実さの有無など、もはや何の意味もないと思いはしたものの、


「逃げたとしても、俺は生きる術を持っていない」


 答えようと思った。


「平民として生まれたのではなかったのですか」

「平民として育ったとしても、数年以上貴族の家にいたのですよ」


 平民だったとしても、当時の俺は子供で、母親に育てられている身分だった。父親に引き取られる前、母親に教えられたのは必要最低限の知識ばかり。そんな俺が逃げたところで、結果は目に見えている。


 あの家に打撃を与えたいが、もみ消される可能性がある。それではただの犬死だ。


「……そうでしたか」

「それと、」

「?」

「貴方に首を絞められるのも、存外悪くない」

「え……」


 彼女は目を見開いた。


「俺は別に自虐主義なんて持ち合わせていません。ただ、」

「ただ?」

「俺に関心を示す相手がいるのだと思えば、」


 この状況も悪くない。


 母親はおろか、父親すら俺に興味を抱かなかった。

 いたから、育てる。その程度の認識でしか俺を見ていなかった。


 だからだろうか。


 生き地獄に放り込まれようが。

 首を絞められようが。


 俺は彼女に悪感情など抱いていなかった。


「人のことを言えた義理ではありませんが」


 彼女の柔らかな声が耳に届く。


「貴方も悪趣味な人ですね」

「そう思ってくださって構いません」

「ですが、旦那様」


 初めて呼ばれた呼び方に驚けば、彼女と目が合った。


「それでも貴方の答えは変わらないのでしょう?」


 何を意味しているのか。聞かずとも知れる。


「ええ、そうですね」


 俺は確かに頷いた。


「俺は貴方を愛するつもりはありません」


 直後、彼女は俺の首に爪を立てた。

 痛みに呻く声を他人事のように聞いていた。

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