妻と息子の家出

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里美が息子を連れて家を出た。性生活を含め夫婦関係は悪くないはずだった。ある時、修二は互いの思いが噛み合わないことに気づく。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


俺さ、昇進試験受けようかと思ってるんだよね。


「そうなの?けど、何で?」

「何でって…昇進はした方が良くないか?試験に受かれば給料だって上がっていくし、ずっと同じ階級でいるわけにもいかないだろ?」


新卒で入職後、周囲のススメで一度だけ昇進試験を受けたことがある修二。

だが、出世に対しては欲がないこともあり、以降は機会がなかった。


そして数日後には早速試験のための資料やテキストを取り寄せ、帰宅後はもちろん休日も勉強に励むのだった。


ただ、亮二という乳児がいるこの家では落ち着いて勉強ができるはずもなく、つわりに苦しむ里美を目の前にすれば息子も相手をしないわけにもいかず、さらに勉強どころではなかった。


そのため、仕事が休みの日には近所のカフェや図書館へ繰り出し、昼前から夕方までテキストへ向かうのだが、ふと家族へのフォローが疎かになっていることに修二は気づいた。


普段は朝から晩まで通常通り仕事へ向かい、休日はほとんどの時間を勉強の時間に充てていた。

妻や子供と触れ合うことができる貴重な時間を自分のためだけに使えることがどんなに幸せなことだろうか。


里美に至っては24時間ずっと息子と同じ時間を過ごし、ときには一人になりたい時だってあるだろう。

言葉も通じないそして話さない乳児の世話だって、修二の思っている以上に大変なことだと思う。


次の休日は、家にいて亮二の相手を思う存分してやろう。

里美に一人の時間を過ごしてもらおう。

身体を休めるのでも良い、体調が許すのなら気晴らしに外出してもらうことだって構わない。


修二の受ける昇進試験は簡単に受かるほど生半可なものではないが、たまの休息をとるくらい誰も悪くは言わないだろうし結果に大きく影響はしないと予測できた。



今日も無事に仕事を終え、自宅へと向かう帰路。

明日は休日、予定通り家族と過ごす時間として予定を空けてある。


ふとスマートフォンのメッセージアプリを開くと里美からのメッセージが届いていた。

なぜ日中気づかなかったのか自分でもわからなかったのだが、内容を読み修二は驚愕した。


『お疲れ様。

どうしても耐えられなくて、亮二を連れて実家にしばらく居ることにします。

これで家での勉強も集中できるだろうし、頑張ってね。何かあれば連絡ください。』



これは一体どういうことか。

おそらく、仕事を終え家にいても勉強ばかりだった修二に嫌気がさして息子と共に出て行ったという事だろう。


妊娠初期で悪阻もあり体調の良くない里美と、一歳にも満たない息子の世話を任せきりにしてきたツケがとうとうやってきたのだ。


里美の家出は、息子の出産後間も無く経験したが再び繰り返してしまった。


修二は心ここにあらずの状態で何とか自宅マンションに到着すると、マンションエントランスでインターホンを鳴らしても誰も反応せず、玄関を開けても室内は真っ暗な状態だ。

久しぶりに経験する帰宅後の一人時間、缶ビールを飲み干しリビングでそのまま眠ってしまった。



—翌日


予定通り休日の修二は、里美の実家へ向かうことにした。


『きちんと話し合いたい。』


前日の夜、修二はメッセージに気づいてすぐ里美のメッセージアプリへ送信したのだが、その返事はまだ届いていなかった。


里美の言う実家とは実の両親が亡くなった後、幼い妹と共に引きとられた母親の妹夫婦の家の事だ。


義父母とは大学の頃、里美と同棲をする際の挨拶と、亮二の妊娠報告と結婚の報告でしかまだ顔を合わせたことがなかったが、どちらの時もこの家へ足を運んだことで場所は把握していた。


—ピンポーン


里美がいるはずの義実家。


「はーい、どちら様?」

「賀城です。里美と亮二がお世話になってます。」


玄関の扉が開き、亮二を抱いた義母が門まで迎えに来てくれた。


「修二くん、お久しぶりね。元気にしてた?」

「お陰さまで。」

「中、どうぞ。」


招かれるままリビングまで向かうと、修二は亮二を受け取った。


久しぶりに息子をまともに腕に抱くと、気づかない間にだいぶ体重が増えたようでずっしりと重く、いつの間にか腰も安定し感じ抱くのも楽になっていた。


しかしぐずり泣き、パパの大きな身体と腕から逃げ出そうとする息子にかなりショックを受けた修二は、自分の勉強を優先にしたツケがここにも現れていると気づいた。


「あの、里美は…」

「里美ちゃんね、具合悪くて上の部屋で寝てるわよ。次のお腹の赤ちゃん、双子なんだってね?」

「そうみたいで…本当ビックリしました。」

「私、ちょっと上の様子見てくるわ。目、覚ましてたら呼んでくるわね。」


義母が席を離れてしばらくすると、里美も一緒にリビングへ降りてきた。

ママの姿を目にした亮二は、必死に母親の腕の中を目指し手を伸ばしている。


「修二くん…勝手にごめんね。もう辛くて…」


「…いやぁ、俺こそ自分のことばっかりで悪かったな。マンション、帰って来ないか?

これからの休日は家族との時間にしようと思って。家にいないことばかりで…桃瀬に、亮二のことも全部任せて悪かったと思ってる。」


「けど…あの試験って、やっぱり必死にやらないと受かる訳ないわよ。私もいつかは受けるだろうけど、本当に勉強漬けにならないとダメだと思うの。だからその時が来たら同じように家のことはお願いするわ。

今回は私が亮二のことも家のことも引き受けるけど、やっぱり今のこの状況は…厳しいものがあるの。」


修二は何やら里美との会話の噛み合わなさを感じていた。


「家、帰りたくないってことか?」

「帰りたくないとか…そう言うことじゃないの。今は私がここにいる方がお互いのためだと思ってる。」

「わかった。俺は帰るよ。…考えが変わったらまた連絡して。まずは身体、大事にな。」


里美も修二の深刻な表情に何故そんな顔をするのか、そもそもそんなに大事にすることなのか疑問を抱き始めていた。


「待って!修二くんは私がここの家に帰ってきた理由わかってる?何だと思ってる?」

「俺が仕事休みの日も仕事の後も勉強ばかりで、自分のことばっかりだったからだろ?亮二の世話も全部任せっきりで。」

「やっぱりね…そうじゃないのよ。私、つわりが辛くてね、今回は頭痛も結構酷くて…それに加えて吐き気は本当に辛いの。このままじゃ亮二の成長にも関わってくると思う。まずいことになる前にお母さんの所に助けてもらいに来たの。」

「一人になりたいとか、俺に愛想がついたとかそう言うのじゃないのか?」

「違うわよ!私だって同じ組織で働いてたんだもん。あの試験がどれだけ大変なのか、受かれば修二くんにとってこれからの将来に繋がる大切な試験だってこともわかってる。

子どもだって増えるんだもん、昇進できるならした方がいいわよ。応援してる。」


「そうだったのか…けど、俺も少し行動は改めないとな。」

「具合悪くて…つわりだから仕方ないって言えばそうなんだけど、家事ができないことにも罪悪感あるし、ただでさえ大してできる訳じゃないのに。…それからお金のこともね。」


「俺の収入じゃ不安だと?」

「私さ、育休に入る前に入院してて出勤できてなかったじゃない?その分育休の手当も減ってるし、それに双子の妊娠で続けて休むことになって。あと最低2年はちゃんとした収入はないんじゃないかな…私だってそういうことも考えてるのよ。

だから修二くんには頑張ってもらわないと。」


近くで話を聞いていた義母も、このまましばらく里美と亮二が滞在することにも許可を下し、修二を応援すると言ってくれた。


「主人もね、亮くんのことが可愛いのよ。ほら、うちには子どもができなかったからもう血のつながった孫よね。」

「ありがとうございます。…すみません、家族のことに巻き込んでしまって。二人がお世話になります。」

「いいのよ、気にしないで。修二さんも頑張ってね。」


それから修二は一人、里美と亮二のいない自宅マンションへと帰って行った。



「里美ちゃんが修二さんみたいな、こんなに思ってくれて努力する人と結婚できて良かったわ。天国のお母さんとお父さんも安心してるわね。」

「そう思ってくれたらいいけどね…私も色々しでかしてるから。」

「修二さんって、国家公務員?」

「ううん、修二くんも国際公務員になるのよ。実際海外勤務もしてたし、またそうなる可能性はあるの。」

「頼もしい二人だこと。…亮くんのパパとママはカッコいいでちゅね?」


亮二を抱き上げると、義母は孫の両親である二人を誉めた。

里美は若いお母さんにもなりたかったが、安定した職に就き、安定した生活を送ることを願った。


幼くして両親を亡くした身、両親と同じ医者という道は考えておらず、周囲からは親不孝と言われることもあったが、両親の実績と同等の別の職に就くことも自分らしさなのだと里美は思っていた。

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