第4話 「独りぼっちの月」

 沙雪は過去のことを話してくれる前に、お風呂に入りたいと言った。


 彼女は僕と一緒に入りたいと言って聞かなかったが、僕はそれを何とか拒んだ。


 拒んだとは言え、心の中では天使と悪魔が戦っていた。


 見ての通り、沙雪は美少女で顔が整っている。


 そんな女子に風呂に誘われて嫌な男はいない。


 しかし、僕はそんな形で彼女の裸体を見たくはなかった。


 僕は沙雪のことが好きだった。


 それは異性としての好きなのか、友達として好きなのか僕はまだ分かっていない。


 しかし、それはどちらとも彼女に好意を寄せているということに変わりなかった。


 だから、僕は彼女の裸の姿をそんな形で見たくなかったのだ。


 そういうことをするときがあるなら、もっとロマンチックな方がいいと思った。


 僕は意外とロマンチストなのだ。


「意外とそういうところちゃんとしているのね」とバスローブを巻いた沙雪が言った。


 沙雪は風呂から出たばかりで、身体からはまだ湯気が立っていた。


 窓に近いところに置いてあるイスに僕は座り、沙雪はベッドに座っていた。


 彼女は頭を拭きながら僕の方を見る。


「そんなに強く拭いたら髪がいたむ。ドライヤーを使いなよ」と僕は言った。

「いいの。私、ドライヤー嫌いなのよ。髪を乾かすのにあんなに時間を使うなんて、私にはできないわ」

「それなのに君はとても綺麗な髪をしてるんだね。周りの女子から恨まれそうだ」

「確かに、そういうことも昔あったわね」と沙雪は言った。


 沙雪は笑顔を見せた。


 彼女のたまに見せる笑顔はとても魅力的だった。


「じゃあ、僕も風呂に入ってくるよ」と僕は立ち上がりながら言った。

「お風呂場で私のこと想像して、変なことしないでよね」と沙雪はからかうように言った。

「するわけないだろ……」

「そう? 男の子ってそういうことよくするものなんでしょ?」


 僕はそれには何も答えずに風呂場へ向かった。


 それを見て沙雪はさらに喜んだ。


 普段、沙雪はどんなことを考えているか分からなくて謎めいているが、こういうときだけは彼女が何を考えているか、ありありと理解することができた。


 僕はそそくさと風呂場へと向かった。




 僕が風呂場を出ると時刻は夜九時になっていた。


 僕と沙雪は向かい合う形でイスに座り、部屋の照明を消し、間接照明のみを点けた。


 光が横から弱く届いて来る。


 沙雪はグラスに注いだ水を飲みながら、窓から外の風景を眺めていた。


 彼女の視線の先には一つの月が浮かんでいる。


 一体、彼女は月を見て何を思っているのだろうか?


「……何だか、懐かしい」と沙雪は呟いた。

「懐かしい?」と僕は聞き返す。

「向こうの世界ではよくこうやって月を見ていたの。こんな感じに静かな夜に二人きりで。こんなこと言われても、今のあなたは何も分からないでしょうね」

「そうだね。この僕は向こうの世界にはいなかったから」

「あなたは、私が向こうでどういう風に暮らしていたのかを知りたいのよね?」


 僕は肯く。


 沙雪は水を口に含んでから、


「私ね、あなたに自分のことを話す前に少し話さなければならないことがあるの」と言った。

「それもあなたのことよ」


 僕は静かに彼女が続きを話すのを待った。


「……そのとき、私はあなたとどこかの小さな町で生活をしていたの。その町は、私たち以外に人はいなかった。あったのは、少ない家屋、スーパー、そして……多くの死体だった。私たちはその死体を見てすぐに気づいたの。その人たちは核爆発で死んだんじゃない。誰かに撃ち殺されたんだって。私はそのとき、とても怖かった。だって、戦争が始まって、そのときはもう数年が経っていたけれど、初めて人に殺された死体を見たの。今まで死体はたくさん見てきた。だけど、それは全部核爆弾とかミサイルで殺された死体だけだったの。人が殺すのと核爆弾とかで死ぬのは同じようでまったく違うと私は思うの。ミサイルとは違って、その町にいた人達は明確な人の意志によって殺されたの。だから……」


 沙雪は少しの何かを考えているようだった。


 それは考えているというより、悲惨な過去を何とか自分の内に留めるように葛藤しているようだった。


 彼女は視線を下に向けたまま続けた。


「……ごめんなさい。うまく言葉をまとめることができない。だけど、とにかく私はそこで初めて人の殺意というものを感じたの。そして、そんな殺意を持った人がまだ近くにいるかもしれないということを考えたらゾッとした。たまらなく怖かった。だから、私達はあまり目立つようなことはしなかった。ヘタに動くと逆に見つかるかもしれないと思ったの。そのとき、私は本当に精神が疲労困憊していた。戦争が始まって初めて死の恐怖と言うものを感じたからなのかもしれない。核爆弾とかは何だか諦めがつくの。だって、あんなものが自分の頭の上に落ちてきたらどうしようもないじゃない。それはとても残酷なことであるけれど、ある意味では救いがあることなの。つまり、それは神様が決めたことのように抗うことはできない。だから、死を簡単に受け入れることができる。無駄な気持ちを抱えず死ぬことができる。それはとても幸せなことだと思うの。けれど、人に殺されるというのは最後に希望と後悔を抱えながら死ななければならない。それは何よりも残酷なことだわ。死ぬ前に過去のことを思い返し、ジリジリと確かにゆっくりと近づいてくる恐怖に耐えなければいけない」


 沙雪はそこでもう一口水を飲む。


 僕は彼女が話している間、言葉を発することができなかった。


 彼女が話している戦争というものに、僕は圧倒されていたのかもしれない。


 本や物語の中でそういう話を知ることは今まででたくさんあったけれど、実際に戦争体験者の話を聞くのはこれが初めてだった。


 そして、彼女が体験した戦争というものは、この世界にいる誰もが体験したことない、核戦争というあまりにも大きな戦いなのだ。


「……さっきも言った通り、私はそのときあなたと一緒に過ごしていた。そして、その死体を見つけたときも隣にあなたがいた」と沙雪は言った。

「何が言いたいの?」と僕は尋ねた。

「…………」


 沙雪は黙り込んだ。


 それは、とても長い時間のように思えた。


 しかし、部屋は暗く正確な時間を把握することはできない。


 少なくとも、二十分は沈黙が続いた。


 僕は辛抱強く彼女が続きを話すのを待った。


 口出しはしていけないと思った。


 彼女は今まさに、あまりにも大きな過去と戦っているのだ。


「……あなたはね」と沙雪は前置きをした。


 僕は顔を上げた。


 喋り始める沙雪はいつもの沙雪に見えた。


「私達はその日、町で多くの死体を見つけた。そして、それと同じ日にあなたは……殺された。銃で心臓を撃ち抜かれた。誰があなたを撃ったのかは分からない。その日は月も隠れていてとても暗かった。遠くで大きな音がして、その一秒か二秒後に私の横であなたが倒れた。撃たれたのは私だったかもしれない。あなたは、私の代わりに殺されたようなものなのよ」


 沙雪はその話を何百年も前の話をしているかのように話した。


「……今の僕はその場にはいなかったし、君に偉そうなことを言えない。だけど、君がそのことに対して負い目を感じる必要はまったくないと思う。だって、向こうの世界では君と僕は愛し合っていたんだろう?」


 沙雪は肯く。


「もし殺されたのが君だったら、僕は君と同じようなことを考えていたと思う。それだったら、君に代わって死ぬ方がいいに決まってる」と僕は言った。

「……だけど、死んだあなたはあの世でとても後悔していると思う。それに、私は自分を許すことができない。だって、あの町に行くことを決めたのは、私なんだもの……」

「許すよ。君は自分のことが許せないかもしれない。だから、僕が代わりに君のことを許す」


 沙雪は最初、あっけにとられたような表情をした。


 そして、その数秒後に彼女は立ち上がり僕の前までやって来て、僕のことを抱きしめた。


 窒息しそうなくらい強い抱擁だった。


 僕は沙雪の背中に手を回し、彼女を抱きしめる。


どうやら彼女は泣いているようだった。


 すすり泣いているのが、耳元から聞こえた。


 僕らはしばらくの間、抱きしめ合っていた。


 僕らはちらっと窓の外を見る。


 そこから見える空には、燦燦と輝いている月が浮かんでいた。

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