第3話 「ただのホテル」

「なあ、いい加減どこに行くか教えてくれてもいいんじゃないか?」と僕は電車の中で隣に座る沙雪に言った。

「私が言わなくても、どこに行くかなんてそろそろ分かるんじゃないの?」

「分かるわけないだろ」


 沙雪は先週の金曜日に、次の土曜日に出かけるから着替え一式を持ってきて欲しいと言った。


 そして、僕はどこへ行くのか先週からずっと聞いているのだが、一向に教えてくれないのだ。


 しかし、どうやら泊ることは確からしく、泊る場所も予約しているのだと言う。


 僕は仕方なく沙雪について行くことにした。


 時刻もう夜の七時になっていて、電車の外は真っ暗であった。


 電車の中には僕たち以外には隅で寝ているくたびれたサラリーマンが一人だけいた。


「おい、さっきから田んぼと山しか見えないんだが……。君は僕をどこに連れて行こうとしているんだ」

「教えない」と沙雪は笑いながら言った。


 僕たちが電車を降りたのは、それから三十分ほどが経過したときだった。


 駅の中や周りに人はおらず、遠くには山しか見えない。


 静かな住宅街がいくらか続いており、少し歩けばすぐに山へ行ける距離に駅はあった。


 僕はその光景を見て、何だか懐かしい気持ちになった。


 恐らく、長野の祖父母が住んでいる町とこの町の風景が似ているからだろう。


「ねえ、何か感じない?」と沙雪は僕の顔を覗きながら言った。

「何だか懐かしい光景だなって思った。それだけだよ」


 沙雪はそれを聞いて、満足そうに笑った。


「じゃあ、今日泊るところへ行きましょ」


 沙雪は僕に手を差し出す。


 僕は彼女の手を黙って握った。


 その手はとても温かかった。


 僕は沙雪に先導されるように、歩き始める。


「本当にこんなところに泊れる場所なんかあるの?」と僕はずっと続く田んぼを眺めながら沙雪に尋ねた。

「大丈夫。あと数分で着くから」

「本当かよ」と僕は疑いながら言った。


 しかし、少し歩くと本当にホテルがあった。


 そのホテルは山のふもとに建っていた。


 住宅街からは離れており、周りは田んぼで囲まれている。


 僕はその光景を確かに見たことがあった。


 いつ、どんなときに見たかは思い出すことができない。


 しかし、僕は確かにその光景を見たことがあるのだ。


 沙雪の僕の手を握る力が強くなった気がした。


 僕らはホテルの中に入り、滞りなくチェックインを済まして部屋へ行った。


 特筆すべきところは何もない、何の変哲もないただのホテルだった。


 部屋へ入るまでに他の客と会うことはなかった。


 ホテル内はシンとしている。


「なあ、もう分かり切ってることなんだけどさ」と僕は部屋に入ってから言った。


 沙雪はベッドに座りながら僕の方を見た。


「君と僕って同じ部屋なんだね」

「当たり前でしょ」と沙雪は言った。

「……僕は君とそういうことをする関係じゃまだないからな」

「何よ、期待してるの?」


 沙雪はからかうようにして言う。


「そんなわけないだろ」と僕は言いながら荷物を置いた。


 まだ一緒の部屋で泊るのは許せる。


 だけど、ベッドが一つしかないというのは許しがたいことだった。


 そんなことを沙雪に言っても無駄なことだと分かり切っているから何も言わなかった。


 僕は沙雪の隣に座る。


 沙雪は嬉しそうに笑った。


「やっと諦めた」

「諦めたんじゃない。受け入れたんだ」

「同じ意味でしょ」と言ってまた笑った。


 僕もそれを見て何だか笑えてきた。


「それで、何でこんなところに来たの? 何か近くに行きたいところでもあった?」と僕は尋ねた。

「私が行きたかったところはここ。私はこのホテルに来たかったの」と沙雪は言った。


 沙雪は身体を倒し、仰向けにベッドに寝転んだ。


 僕はそんな彼女を座りながら眺めていた。


 彼女の表情は幸せそうに見える。


「君は何でこんなホテルに来たかったの?」


 不思議に思った。


 こんなホテルなんてどこにでもある。


 特別なものなんて一つもない。


「私にとってはとても特別な場所なの」

「何故?」

「ここは、あなたと出会った場所なの。向こうの世界でね」

「ここで?」

「そう。私とあなたはここで出会ったの。そして、ここで初夜を迎えたの」

「また君はそんなことを言う」

「いいじゃない。本当のことなんだから。まあ、今みたいにこんな綺麗じゃなかったけど。向こうでは廃墟同然だった。窓ガラスは全部割れていたし、ベッドも壊れていた。英語の缶詰とかがたくさん置いてあったから、アメリカ軍とかイギリス軍とかが泊まるのに使っていたんだと思う」


 沙雪は天井のどこか一点を眺めながら、過去を思い出しているようだった。


「……そう言えば、まだ君がいた世界で何が起きたのか、詳しく教えてもらえてなかったね」と僕は言った。

「できれば教えて欲しいんだ。君がどんな風に戦争の中暮らしていたか」

「……何で?」


 僕も上半身を倒した。


 必然的に沙雪との顔と近くなる。


 近くで見ると彼女の顔は、とても整っていることに気がついた。


「何で?」と沙雪はもう一度言った。

「何でだろう。僕にはよく分からない。だけど、たぶん君のことが気になるんだと思う」

「そう。なら話してもいい」


 沙雪はクスっと笑った。

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