御山に住まう僧侶 参




 ここ数日晴れやかな日が続いており、今日も天候には恵まれていた。

 寺の山門が開くにはまだ早かったが、今日中に薄葉郷へ着くつもりなら、早いところ出発しなければならない。

 夏の暑さが過ぎ、冷たい空気が混ざるようになった秋の朝の気を吸い、視線を上げる。

 御山の紅葉は目を見張るほどに美しく、素晴らしい門出といえるかもしれない。

 でも、自分の足どりは軽やかというにはほど遠いものだった。

『郷に帰り、少し養生してくるといい』

 斎覚様はそう言って自分に荷物をまとめるよう促した。

 それはもう決定事項で、自分に拒否する権利などないことは十分承知していた。

 そもそも拒否するつもりなど毛頭ない。

 でも、それでも、だ。長年過ごした御山から出るということは、勇気がいる行為だった。

「奨円様。大丈夫ですか?」

 荷物をまとめて背負いつつ、心配げにのぞき込んできた右近に、奨円は少しだけ笑みを浮かべて頭を振った。

「少し、緊張してしまっているようです」

 ある程度の事情は知っているのか、右近は何と言っていいのか戸惑っている風情ながらも、気遣ってくれている。

 年若いこの青年が今の百目鬼の長と聞いて正直驚いていた。

 常に最前線で鬼と対峙する百目鬼の長というには、優しすぎる印象だった。

 でも考えてみれば、詠様もじゃじゃ馬ではあったが心細やかな気配りをしてくれる女人だったと思い出す。

 詠とは郷を出てから一度もあったことはない。

 本来ならば実兄の葬儀の時に赴くべきだったのだろうが、それもどうしてもできずに結局会わずじまいだ。

 葬儀の席にも足を向けなかったゆえ、さらに郷との距離は遠くなった。

 それでよかったと奨円は思っている。

 少なくともあの時の天女を思い出す要因は各段に減った。

「その、養生先を変えたいということならば、私にもいくつかあてがございますので」

 黙り込んでいる奨円が、今回の養生先に関して不安に思っているととらえたのだろう。遠慮がちながらもはっきりと提案してくる。

 こういうところを見ると、やはり百目鬼の人間なのだと実感する。

 あいまいな提案はしてこない。

 奨円が養生するところは、確かに薄葉村ではあるが、その中でも御山に一番近い庵であった。

 かつて小太郎が山に入る前に立ち寄った庵であり、今では詠が管理している場所でもある。

「お気遣い、ありがとうございます。ですがご心配には及びませんよ。あすこは冷然坊にも近いですし、そもそも私は長らく御山にいた身ですから」

「ああ、そう、ですね。玄真様の坊にも近くていらっしゃいますから、安心ですね」

 右近が納得してくれたことに、奨円はうっすらと笑みを浮かべた。

 冷然坊の玄真は、天女の襲撃の件以来、よく気にかけてくれている。

 あの時、逃げまどい、錯乱気味の彦座を見つけたのは、玄真らの一団だった。

『おぬしはあのように天女に追い立てられたのだ。恐れて当然だ』

 そう口にしては外部と接触を持ちづらい奨円のために、山を忙しく回る中、まめに立ち寄ってくれる。

 天女は確かに恐ろしい。

 だが、天女が襲うという行為自体に恐れは感じていないのだ。

 それより怖いのは、あの甘ったるいにおいと、好色な視線。

 まだ年端もいかない子ども相手に向ける、欲情。

 そしてそれに対抗する術を持たずに追い詰められていく恐怖。

 あの時の状況を思い出し、ほんのわずかに吐き気を覚えたが、少しだけ息を深く吸って思考を整える。

 御山に来る前は、事あるごとに思い出しては気が触れたが如く暴れていたが、そんな奨円を救ってくれたのは御山の御方たちであった。

 あの時の影響で、女人を強く忌避してしまう奨円にとっては、唯一の安息の場となっていった。

 だからこそ、今度は己が御山のためにできることを行わなければならない。

『無理ならば断わってよいのだぞ? お主にこれ以上辛い思いをさせとうはない』

 そう言って己の頬を撫でた御方の声が、手の温かさがよみがえる。

 確かにこの御山を降りるのは怖い。

 だが、ここが無くなるのはもっと怖い。

 御山を存続させるために、己が得る情報が役に立つというならば、今までの恩に報いるためにも自分が動かなければならないと、奨円は決意を固めていた。

 郷で養生し、情報を得る。

 そのためにはかつて兄がよく利用していた庵は格好の場所であった。

 薄葉郷にも近く、百目鬼の屋敷からもほんの僅か。玄真様の坊である冷然坊の様子をうかがうにもちょうどよい距離。

 御山のためならば。

 そう決心して山門を開け、一、二歩ほど進んだ時だった。

 全身が凍り付いたように、すべての動きが止まる。

 目の前に、女が立っていた。

 うつむき加減に、それでも背筋はまっすぐと伸びた姿。

 朽葉色の小袖はきっちりと襟をそろえられて堅苦しいほどであったが、それでも女人である事実に身を固くする。

「姉上」

 固まってしまった奨円との間に慌てて右近が入る。

 姉上。百目鬼の長たるこの青年の姉。

 それの意味するところに、はじかれたように奨円は目の前にいる女を凝視する。

 ゆっくりと上げた顔は能面のようで、奨円は思わず喉を鳴らす。

 感情の見えない目で自分を見返してくるその姿に、かつて姉と親しんだ童女の面影はなかった。

 ただ、己を見ている。

 何を考え、何をしようとしているのか、すべてを暴かれるような。

 天女たちに追い回された切迫した焦燥とは異なる圧迫感に、もういっそ逃げ出してしまおうかと少しばかり後ずさったところで、詠は笑みを浮かべてきた。

 がらりと変わった空気に奨円も右近も拍子抜けする。

 それどころか、常では見られない姉の表情に右近はあっけにとられている様子だった。

「すっかり立派になってしまって、びっくりしたわ、彦座」

 実に懐かしそうに、そして二〇年前と変わらぬ口調で、詠は彦座へと声をかける。

 少し右に小首をかしげ、仕方ないわねといった風に眉根を寄せるその様は、まさに詠であった。

「あ、ねさま」

 彦座が物心ついたころには、すでに兄の許嫁であったが故、彦座は詠を姉と呼んでいた。

 昔と変わらぬ詠の仕草が、つい、昔の呼び方をさせてしまう。

「まだ、そう呼んでくれるのね」

 独り言とも言えそうな詠の言葉に奨円は心が揺らぐ。

 戸惑いを見せる奨円に、詠は慌てて訂正する。

「ああ。もう幼子ではないのにごめんなさいね」 

 今までの親し気な様子を収めて、門前にいた時と同じように感情を消し去って深々と礼をした。

「失礼いたしました、奨円様。郷までの道中は、百目鬼の者が付き従いますのでご安心ください」

 幼いころの名で呼んだことに、奨円が表情を濁したと判断したらしい。

 奨円と呼びなおし、安心させるようにきっぱりと言い放つ。

 百目鬼の実力者と、幼いころの世話焼きな童女とが交差する。

 それは奨円の心を揺り動かす。

「あ……、いや、詠様、は」

 奨円が何を気にしているのか察して、幾分か表情を緩める。

「私は一番後ろからついていかせていただきます」

 女人であり、百目鬼の中でも地位の高い詠ならば、通常は列の中に組み込まれるはず。なのに最後を歩くということは、明らかに奨円に配慮してのことだと察しが付く。

「お気になさらずに。奨円様はどうぞご自身のことを一番にお考え下さい」

 お身体を厭わねばと付け加えられ、反射的に詠の腕をつかんでいた。

「いけませぬ。女人の身で、そのような」

 思いもよらぬ奨円の言動に、詠は戸惑いながらも尋ねる。

「ですが、奨円様のお気持ちを乱したくは」

「いえ。──いえ。詠様は、以前の詠様のままで、その、……平気のようです」

 そうなのだ。

 どのような女人であっても、目の前にすれば奨円は緊張に包まれて、普通通りに振舞うのに時間を要していたのに。

 詠にはそれがない。

 それがかつての幼馴染のせいなのか、密かに慕っていた童女だったせいなのか、それとも、化粧っけもなく、女人らしさが薄いせいなのか。

 とにかくこうして触れていても平静を保てている。

 奨円の様子を目にし、詠は袖をつかむ手に自分の手を重ねる。

「大丈夫ですよ。百目鬼の女は山を歩くのは慣れております」

 そのままちょっとだけ顔を寄せて、右近らに聞こえないように囁く。

「私がいかにじゃじゃ馬娘であったか、奨円様はご存知でしょう?」

 かつて、大人に内緒で野山を駆け巡っていた時と同じような物言いに、奨円も顔が弛む。

 そして今度こそはっきりと罪悪感を自覚する。

 おそらく、この先、郷へ着けば罪悪感はますます大きくなるだろう。

 でも。でも今は。

 ちらりと再度詠を見ると、かつてのように少しだけ、口角を上げて笑みを浮かべる。

 今は、少しだけ。忘れていよう。

 奨円は軽く会釈をして先を促す郷長の後に続いた。


 笑みを浮かべたまま、その姿を見ていた詠の傍を通り過ぎて右近が続く。

 奨円の荷物を運ぶ数名の者たちを見送り、全員の背を確認したところで、ようやく詠は笑みを収めた。

 張り付いた笑みが剥がれ落ちるように、今の詠を象徴する読めない無表情へと変わっていく。

 そこにはかつての、奨円が彦座だったころにともに遊んだ童女など存在していなかった。

 郷を護るためならば、かつての幼馴染も、美しい幼いころの思い出も利用する、御山の鬼女が佇んでいた。

 

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天女凱歌 古邑岡早紀 @kohrindoh

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