九死に一生





「……く。琥珀」

 甲高い声に揺さぶられるような形で琥珀は少しずつまぶたを開けた。

 まぶしいというわけではないが、わずかに流れ込んでくる光をやたらと懐かしく感じていた。

 自分を呼ぶ声を耳にして、そちらへと目を向ける。

 鼻先三寸ほどのところで恐ろしいほど美しい童女がじっと自分を見つめていた。

「……いらか?」

 かなり長いこと考え込み、ようやく名前を絞り出した。

 何とか身体を起こそうとしたものの、起こすどころか、微塵とも動かない。

「いきなり起きるのは無理だ。お前は五日意識がなかった」

 五日だと?

 日数を突きつけられて、琥珀は抑えるいらかの手をやんわりと拒否して、意地でも何とか身体を起こそうとした。

「無理だといっているであろう?」

 確かに声を絞り出すだけでもかなりの労力がいる。

 とはいえ、昔からの習慣なのか、すぐに動ける体制をとっていないとどうにも落ち着かないのだ。

 幼いころから命を狙うことを生業としていた、その名残なのだろう。動けないこと、意識を失うこと。これらは死に直結する憂慮するべきことと身体に叩き込まれている。

 どうしてこうなった。

 思考が上手くまとまらない。

 どんよりとした重い雪空のように、己の頭が判然としない。

 目を瞑り、少しずつ記憶を整理する。

 そうだ。俺はあのとき天女に。

 反射的に腹部をさすり、大仰に巻かれた布を確認する。その下からじくじくとした痛みが伝わってくる。

「死んでもおかしくない傷だと玄真が言っておった」

 そういえばあの生臭坊主の声を聞いたような気がする。

 いらかの匂いもかいだ。

 それから血が流れる感覚も、傷口から己の身体が爛れていく感覚も覚えている。

 いろいろと記憶は交差するが琥珀がはっきりと覚えている最後は、薄闇に浮かぶ詠の顔であった。

 その間、ありもしない夢を見たような気もしたが、遠い彼方に追いやられた曖昧な記憶を探っても仕方ないと思い立ち、再び現実にたちかえった。

「五日も寝ていた?」

「寝ていた、ではない。正しく言うならば生死の境を彷徨っていた、だ」

 それは実に的確な物言いだろう。

 実際天女の傷を受けてよく助かったものだと思う。

 死んでもおかしくない傷だった。だが、自分はこうして生きている。

 そこまで考えて、琥珀はあることに思い当たった。

「そういえば、いらか、どうしてここに……」

 ごく当然のように、いらかは琥珀の枕元に坐していた。

 よくよく見れば手元に着物をもっており、拙いながらも繕いをしているようだった。

「お前の看病をしていた」

「俺の? ──詠は」

 それを了承したのか?

「あの女がしろといった。看病をしている間ならばここに置いてやると」

 一体何を考えているのか。

 詠が快く天女の、しかもささらの娘を手元に置いておくなど考えられない。裏があると考えて当然のことだった。

 詠に、確認しなければ。

 自分の状況など省みず、詠に逢わなければとそればかりを思っていた琥珀は、床から出ようとしていらかにとめられる。

「起きるな」

「詠は? あいつに会わないと」

 詠の名前を出したところでいらかは不快な表情を浮かべたが、そんなことより詠と話をつけたい一心だった。

「今はおらん。そもそも居っても、お前自らが会いに行くなど言語道断じゃ」

「なにを」

 あくまでも体を起こそうとする琥珀の肩口をぐいと押し返す。

 小さな、紅葉のような手は事も無げに軽く抑えたといった風だったが、その場に縛り付けられたかのように身動き一つできなかった。

「お前が動けば玄真がうるさい……ええぃ! なんじゃこれは! どうして糸が絡まる!」

 いらかの手元にある布は、途中で糸が絡まり、引っかかってごちゃついている。

 おそらく繕いなどとは無縁の生活を送っていたのだろう。見るも無残な小袖が何枚もそこらに投げられている。

 琥珀の視線に気が付いたのか、非難するかのような目を向ける。

「おぬしが邪魔をするからじゃ!」

 いや、そもそもの技術のなさかと思うがと冷静に判断するものの、そこは己の保身のためかぐっと口をつぐむ。

 暫く押し問答と続けていたところで横やりが入った。

「起きた途端にそうきたか、琥珀」

 あきれた様子で二人を見るのは玄真と、敵愾心いっぱいの視線で見つめるあや女であった。




「なまぐ、さぼうず、──ってぇ!」

 思わず出た言葉に反射的に蹴りが入り、うめく琥珀を満足そうに見下ろす玄真を前に、いらかは慌てて繕いを失敗した残骸を己の後ろに隠す。

 それをこれまた冷たい目で見つめて、無言で琥珀の傷口の手当てにあたるのはあや女だ。

 ゆっくりと傷口を開けて、一歩引く。

 それを玄真がのぞき込んで確認する。

 軽く押し、傷の周りを丹念に確認する。

「ふむ。天女の毒はもう抜けているようだな。どうだ、いらか」

 ついといらかが傷口をのぞき込む。

「妾に聞く前に直に触っておいて、よく言う。──問題なかろう」

 玄真はというと、その答えに満足し、何事念には念をじゃと、笑う。

 そのままあや女に指示をして布を取り換えるよう目で促す。

 問題ない。

 そうか、問題なければ是非にでも。

 俺は何とか身体を動かそうとして、それが叶わず、あや女を目で追う。

 詠の行動について、一番把握しているのはあや女だ。

「あや女、詠はどこに──いぃっっ!!!」

 あや女は琥珀の質問には答えず、傷口に思い切り塗り薬をすりこむ。

「……あや、め。わざと傷口に丹念に触れているだろう」

 実際、痛みを堪える琥珀の姿を見て、あや女はわずかに笑みを漏らしたようにも見えた。

 あや女が昔から自分に対していい感情を持っていないことは十分承知している。

 しかしそれは村人たちが琥珀に抱く感情とは明らかに違う種のものだ。

 世間では詠のことを『災厄をもたらす鬼女』などと揶揄するが、あや女にしてみれば、琥珀こそ『災厄をもたらす疫病神』であろう。

 琥珀をそばに置くことで、詠はますます鬼女としての名をあげてしまった形だから。

 さらに下人という立場なのに、平然と詠への恋慕を公言している点も、あや女の不評を買っている一つだろう。

 その辺の礼節は教えなかったのかと玄真に詰め寄っている姿を見たことがあるくらいだ。

 そんなあや女と琥珀のやり取りを見て、玄真は満足そうにうなずく。

「いやぁ、よかったよかった。そもそも詠に呼ばれてきたときには本当に驚いたぞ。なんせお前ときたら、全身血だらけだし、顔は真っ白だし、何より腹から腸が漏れておってのぅ」

 玄真の軽い調子とは裏腹に、実際にはかなりひどい状況だったのだと突きつけられる。

 すごい勢いでえぐられたのは、はっきりと覚えている。

 あの状態で、臓腑が出たぐらいですんだのなら、儲けものだろう。

「まぁ、その過程で天女の娘をつれてきてしまうのもお前らしい」

 本来、そのつもりはなかったのだが。

 ちらといらかへと視線を向けると、まるでいたずらが成功した子どものような顔で、満面の笑みを浮かべている。

 玄真も同じように笑みを浮かべていたが、いらかのものとは少々違っていた。

 まぁ、心配かけたのだろうとは予測するが、そこにほんのわずか、何か裏を感じずにはいられない揺れがあった。

「玄真、話を、逸らすな」

「何もそらしてはおらぬが」

「く、えない、クソ坊主だ、な」

「おぬしはいつまでたっても気持ちに率直すぎるところは治らぬの」

 息切れの激しい中、それでも言葉で応酬していく。

 確かに玄真は己の感情を隠す術に長けている。

 今の言動にもおかしなところはなかった。

 詠の伯父にあたるこの男は、同時に琥珀の恩人、親代わりといっても過言ではなかった。

 人との関わり方を何も知らなかった琥珀は、一時期玄真と生活を共にしていたことがある。

 人との付き合い方、礼儀作法から読み書きに至るまで、四六時中、それこそ寝る間もない状態で叩き込まれた。

 長年玄真と生活していたその時の経験が、琥珀に訴えかけている。

 何か隠している。

 業を煮やし、玄真の袖をつかんで引きずり倒そうとした時だった。

「御前は見衆様のもとに年貢の交渉で出向かれておる」

 冷たくそうつぶやいたのはあや女だった。

 見衆のもとへ行った。

 途端に琥珀の顔が強張る。

 ああ言ってしまったかといった風情で玄真は天を仰ぐ。

 ごくまれにある、見衆への来訪。

 それは琥珀にとって耐えがたいモノだった。

「斎覚だな」

「そこまでは御前から聞いておらぬ。郷長様、村長様とともに出向くとだけ」

 どう考えても斎覚だろうが。

「明日には戻る予定だ。──お前に聞きたいことがあるとおっしゃっておられたぞ。よう、心しておけ」

 それがいらかの一件だということは明白だった。

 それはそれで対策を打たねばならないが、今、琥珀の心を占めるのは、怒りか、はたまた嫉妬か、いずれにしてもどす黒い感情に他ならなかった。

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