夢か現か 弐



 玄真が部屋から出てきたのは既に一日が過ぎ、子の刻を過ぎた頃だった。

「いかがですか、伯父上」

 ずっとその場にいたのか、それとも気配を感じ取って出てきたのか。詠は玄真から手桶を預かりつつ問う。

「とりあえず血は止まった。傷も今のところ爛れている様子はない。──あの娘がかなりがんばってくれおった」

「ありがとうございます」

 深々と頭を下げる詠を複雑な目で玄真は見つめていた。

 僧職につきながら、流浪し続け、ようやく玄真が御山の一画に落ち着いたのは一五年ほど前のことだ。

 玄真は詠の母方の伯父であり、北方連山にほど近い、墨谷郷の有力豪族の跡取り息子だった。

 しかし元々奔放で、およそ『家』を護るなどということに頓着しない性格だったため、早々に家督を弟へ譲って出奔してしまっていた。

 次に実家に顔を出した時には、北方連山から御山一体をめぐる山伏となっていたらしい。

 玄真には性に合っていたのだろう。その後も山々をめぐっていたようだったが、天女の惨殺事件で生き残った詠を心配して移り住んできたのだった。

 流浪し続けた結果か、医術に長けており、薄葉郷だけでなく周辺の郷からも重宝がられていることは確かだった。

 今回玄真を呼びにやったのも、このあたりで玄真に敵う医師がいなかったせいもある。

 いや、そもそも天女にやられた鬼の手当てをしてくれる者など、玄真くらいしかいないだろう。

 そんな規格外で破天荒で知られている玄真でさえも、今、詠が置かれている状況にやるかたない表情を浮かべてしまう。

 玄真は詠の身に起こったことをほぼ把握している。

 天女に二度襲われながらも無事であったこと。

 どちらにおいても、詠の心身に多大な影響を与えたであろうこと。

 周囲の人間は、ただ、天女の襲撃から二度も生き延びた稀有な存在、悪く言えば異質で不気味な存在と思うだけだろうが、あまりに過酷で、どうして詠にばかりこのようなと思うことがままある。

 もちろんそれを言動に表せば、詠は不快な表情を浮かべるであろうから、黙っているが。

「琥珀はまだ若い。わしのような醜い傷を残すのは忍びないからのう」

 気を取り直し、豪快に笑う伯父に、詠はわずかに笑みを向けた。

 詠にとって気の置けない数少ない人物の一人である玄真には、見るも無残な傷跡が残っている。

 左半身全体に及ぶそれは、顔にも残っており、ときどきひどく疼くこともあるようだった。

 傷を負ったのは出奔してすぐのこと、まだ若かりし頃のことと聞いているが、そのあたりの事情となると伯父はのらりくらりと躱してはっきりとは口にしたがらない。

 ただ天女の毒におかされたそれは治る見込みはないようだった。

「娘もだいぶ疲労しておる。隣の部屋で休ませて居るから、暫くはそのままにな。わしは薬草を取って戻ってくるでの。言うておくが、あと二、三日がヤマだぞ」

 そう言って帰り支度を始める玄真に詠は再度頭を下げた。

「ご面倒をおかけします」

 そんな詠に玄真は気にするなといわんばかりに軽く手をふる。

 治療にあたって玄真は何も聞かなかった。

 おそらく一昨日の天女の襲撃の話は耳に届いているだろうし、毒に侵された琥珀を素手で看病していただろう娘についての正体も気が付いているだろうが、一言も口にしなかった。

 玄真は余計なことをきかない。

 そして先入観や偏見というものが全くない。

 だからこそかつて、人を殺すことしか知らなかった琥珀を玄真にあずけたのだ。

「伯父上。もう夜も遅うございます。今晩はこちらでお休みくださいませ。薬草はまた明日にでも」

 詠の申し出に玄真は頷き、そこは勝手知ったるといった風情で、案内はいらない、何かあったらすぐに声をかけるようにと言い残して奥へと消えていった。

 玄真が完全に部屋へと消えていったのを見届けて、それから足音を忍ばせながら琥珀のいる部屋の戸を開けた。

 わずかに室内を照らす灯りのもと、死んだように横たわる琥珀を目にする。隣の間にはいらかの横になっている姿が目に入ってきた。玄真は容赦なくいらかをこきつかったらしい。天女の娘もさすがに疲労しきっているらしく、物音一つたてずに寝入っていた。

 詠はわずかに開いた戸の隙間からいらかをじっと覗いていたが、一瞬だけ複雑な表情を浮かべて琥珀へと向き直った。

 呼吸はわずかに荒いものの、運ばれたときに比べたら落ちついているくらいだ。とはいえまだ予断は許さないところだろう。玄真はそういった気休めは一切言わない。だからこそ、信用できる。

 かすかな灯りの元、詠は琥珀の側に腰を下ろして見つめていた。

 少し汗ばんでいる赤銅色の髪を梳く。優しく、いたわるように。

「──ん」

 その詠の手の動きに反応して、琥珀が身体を動かす。

 何かを求めるように手がうごめく。

「しぃっ」

 詠はその手を取り、優しく握る。

 そのぬくもり、その声に反応して琥珀はうめく。

「……、え、い?」

 うっすらと開けた目は、真っ直ぐに詠を見据える。

 まだ朦朧としているものの、意識の戻ったことに対して安堵の表情を浮かべた。

「おやすみ、琥珀。まだ夜は明けぬ」

 しかしそれに反するかのように琥珀は髪を梳く詠の手を取り訴えかける。

「え、い。……お、願い、だ。ころ、こ、ころすな」

 それがいらかの処遇に対する訴えだということはすぐわかった。

 ほとんど力が入らないながらも、琥珀は全身の力を使って詠へと訴える。

 意識を取り戻し、一番に訴えるのが天女の娘の命乞いとは。

 困った子。

 まるで駄々っ子を見るような目で見て、詠は琥珀の手にもう一方の手を重ねた。

 そのまま顔を寄せて囁く。

「その話は後でな。──とにかく今は、眠りなさい」

 そこにいるのは鬼と呼ばれた女ではなかった。柔和な、優しい笑みを浮かべるのは彼女の奥底に眠っているもう一人の詠。

 それはこの郷を治めるためには──ひいては天女を追い詰める為には全く必要としない女だった。

 もちろん、普段の琥珀にも見せたことのない顔。

 そんな詠の表情を見て、琥珀は目を見張り、それから安堵の表情を浮かべて再び深い眠りへと落ちていった。

 

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