夢か現か 壱
夢を見た。
ずっと昔の夢。
身体から急激に熱が奪われて行く感覚。それと同時に薄れていく痛み。
ある意味運がよかったのかもしれない。どうせ死ぬなら安らかに死にたいと思っていたのだから。
左の眼は腫れ上がり、完全に閉じている。かろうじて開けている右の眼の前に白いものが舞い降りてきた。
──雪。
身体が急激に冷え込んだ理由はそれだった。
辺りは暗くなりつつある。
この時になって初めて死を意識した。
危ない橋は沢山渡ってきた。この容姿のせいでさんざ殴られたり、石を投げられもした。
俺の一番古い記憶は見世物小屋の檻の中から見た客たちの姿だった。
この髪の色と眼はこの国ではみられるものではなく、『鬼』と呼ばれ、見世物にされていた。
そのうえ、見世物小屋の一団は裏稼業まで営んでいたものだから、体躯に恵まれ、力もそれなりに強かった自分が裏の仕事まで任されるのにそう時間はかからなかった。
最初はわずかな手伝いから。そのうち自分の手も汚すようになった。
所詮は見世物にされるくらいの化け物だ。使い捨ててもいいくらいの意識だったのだろう。
実際この時も使い捨てられたようなものだ。
殺し損ね、逆に追い詰められ、滑落した先は真っ白な雪の上。
全身を打ちつけ、身動き一つできない。
死ぬかな。
今までで一番、はっきりと死を意識した瞬間だった。
身体はどんどん冷たくなっていき、それに伴って睡魔も襲ってくる。
もう、かまわない。
たとえ生き残ったとしても、次の日に温かい寝床と食い物を確保できる保証はない。
唯一動いていた右の眼もゆっくりと閉じようとしていたのに。わずかに感じ取った人の気配に反応して、意識がわずかに覚醒する。
こんな山奥に人が来ることなどそうそうあることではない。
反射的に目をやろうとしたが、そんな余力はもう残っていなかった。それより眠りへの欲求のほうが強かった。
もう、眠らせてくれ。心の底からそう願ったのに。
「詠様! 近づいてはなりませぬ! それはきっとこのところ噂の鬼子でございまする!」
鬼子。それが自分のことをいっていると理解していた。ずっとそう呼ばれていた。ただ『鬼』と。ほかに名前はない。鬼と呼ばれるか、おいと呼ばれるか、あれと呼ばれるか。
その程度だ。
雪に半ば埋もれた頭のあたりで足音がとまる。
視線を感じる。とても痛いほど、強い視線。
ずっと感覚のなかった自分の痛覚が戻ってくるような気がした。
詠と呼ばれたその人物は無言のまま横たわる俺の頭をつかみ、顔を仰向きにさせた。
「……うぅ」
思わずうめき声を漏らす。
「詠様、お願いです。どうかどうか──。危のうございまする!」
しかし女はそんな御付きの女の言葉など完全に無視して、しみじみと俺を見つめているようだった。
「これは珍しい。こんな燃えるような赤毛、そうはない」
まるでケモノのように扱われたことに不快感を示し、なんとか力をふりしぼって瞳を開けて女を睨みつけた。
そして。俺は出鼻をくじかれたかのように、惚けた。
片目に映るその姿は、黒髪の美しい女。
「それに瞳も。金に輝いてほら。こんなに美しい」
己の眼を見てそんなことを言ったのはその女が初めてだった。ケモノの瞳と呼ばれて、見た者は例外なく恐れ慄く瞳。
「御前さま!!」
背後の女がかなりうるさく感じたのか、女はあからさまに不快な表情を浮かべて彼女を見た。
「鬼だから、近寄るな、か? おもしろいことを言う。鬼女と呼ばれた私が鬼子を恐れるなどと」
そう牽制して再びこちらに視線を移す。
「お前。名前は」
そんなものを答える気力なんて、当然残っていない。もし残っていても、名など告げられるはずもなかった。
しかし女は俺が反抗的な目をして見つめるだけで、一向に口を開かないことに業を煮やしたらしい。
更に髪をわしづかみにし、問う。
「名は」
女の髪が、顔にかかる。白い息が間近に見える。それくらい俺と女の間は近かった。
仕方なく、首を振る。
「──お前、名がないのか?」
それに対して頷く代わりに視線をそらした。
人ではないから名をもらえぬ。そう言われている気がして、嫌だった。
女は相変わらず俺を見つめ、それからふいに侍女に馬を持ってくるように命じた。
侍女は、俺と女を二人きりにすることに躊躇っていたものの、さらに強く促され、渋々ながらも馬の方へと足を向ける。
山には、俺と女だけとなった。
雪は相変わらず降り続ける。
女の身体にもうっすらと積もりつつある。
妙なくらい、きれいだと思った。
染み一つ、傷一つない両手で俺の頬を押さえて固定する。
「──琥珀」
いきなりそうつぶやいた。
なんの事かわからず俺はぼんやりと女を見つめる。
「たった今からお前の名は『琥珀』だ。お前の美しい瞳によく似合う名だ」
女は勝手にそう決めて、俺をやわらかく抱き上げた。
身体に暖かさがしみわたる。
久しぶりに感じた人のぬくもりに、俺は不覚にも涙が出そうになった。
名を与え、居場所を与え、ぬくもりを与えてくれた存在に焦がれた。
しかも、美しい。
美しくて、恐ろしい。
自分の胸に去来する強烈な思慕に戸惑いながら、同時に歓喜さえ感じていた。
手放したくない。離れたくない。せめてそばにいたい。
いらかは、あの時見た詠と同じ瞳をしていた。
まっすぐで、ぶれない。迷いがない。恐れるものなどない、絶対的な強さ。
だからかと納得する。
だから、俺は突き放すことができなかったのだ。
詠以外の者などどうでもいいと思っているはずの自分が、結局いらかを受け入れてしまった理由。
詠と同じものを持つ者を、どうして突き放すことなどできようか。
そんなこと、できるはずもなかったのだ。
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