きよらなる童女 参


 かすむ目で確認した限りでは、郷はひっそりとしている。

 まだ警戒は解いていないだろうが、一段落ついたというところだろうか。

 郷から離れた参道の入口すぐあたりにある小さな庵、そこが琥珀の居住であった。

 普通下人に居住など与えられることはないが、郷を見渡すことができ、なおかつ山に一番近いこの庵はもともとは詠の持ち物だった。そこを琥珀の自由にしていいと手渡されたのは随分前の話だ。

 郷の一番北に位置する庵に近づく者はほとんどない。

 しかし昨日の非常時のようなときには、倭文の者が見張りに使うこともあった。

 人気はないが、間違いなく誰かは、いる。

 おそらくそれは。

「た、すか、った。お前は、もう、かえ、れ」

 身をよじり、いらかから体を離して、かろうじて立つ。

ここからは一人で行かなければならない。だが、痛みのせいで足が進まない。

 限界が近いことは明白だった。

「無理だろう?」

いらかは聞こえないといわんばかりに琥珀の言葉を無視して琥珀を支え、郷へ向かう。

「や、めろ」

 ここから先にいらかを連れていくわけにはいかなかった。

「なぜ」

「いけ、ば。お前、は、ころさ、れる」

「捕食をしなければ問題ないと聞いたが?」

「いらか、は別」

 確かに捕食をしない天女をむやみに捕まえることも、傷つけることもないだろう。それは下薄葉を壊滅させたあの襲撃の教訓だ。

 だが、いらかはささらの娘だった。

 詠がそれを知って冷静に対応できるか、琥珀には自信がなかった。詠の下人となってから琥珀は詠が天女の長、ささらのこととなると感情の抑制を失うことに気が付いていた。

 そんな詠にささらの娘と合わせるなど、悪い結果を生むだけだ。

「帰らぬ。郷を出てきたと言っただろう? それに、わらわはお前のそばにいたい」

 まさかそんな直接的な言葉をもらうと思ってもいなかった琥珀は、目を見張った。

 それは多分自分が詠に向けるたぐいと同じ視線。同じ気配。

 それは、まずい。

「だめ、だ。か、えれ」

「鬼はそんなに恐ろしいか」

 鬼? 

 それが詠のことだと気がつくのに少々時間がかかり、気がついてようやく鬼じゃなくて詠だよと訂正しようとしたときだった。

「琥珀」

 その声にはじかれたように琥珀は顔を上げた。

 会いたいと。

 死ぬ時にはその顔を見て死にたいと。

 そう思った女がそこに佇んでいた。

 詠のそばにいたあや女がせわしなく庵の者に指示をしている姿が目に映っていたが、それすらきちんと認識できていなかった。

 詠がそこにいるということだけしか琥珀には理解できずにいた。

 薄闇の中に立っているせいか、白い肌はますます青白く、表情はよめない。

 琥珀の顔をみつめ、真っ赤に染まった腹部に視線を落とし、それからいらかへと視線を向けた。

 琥珀は反射的にいらかを背後に押しやった。

 しかし詠は視線をそらすことなくさらに詰め寄る。

「それは」

 冷たい、感情を感じさせない視線。通常その視線にさらされればだれもがすくみあがるほどの氷の視線。

 しかしさすがというべきか。いらかはひるむことなくにらみ返した。

「わらわは──」

 まずい。

 先ほど自分にしたように、母の名まで持ち出すつもりかと警戒した琥珀は一瞬早くいらかの言葉を奪った。

「いらか、だ。……お、れを、たすけ、てくれ、た」

「天女がか?」

「……まだ、お、おさな、ごだ」

「幼くなどない。わらわはもう一四になる」

 外見的には人間の六、七歳くらいにしか見えないというのに、子ども扱いをされたことが屈辱的だったらしい。いらかは勢いよく否定にかかった。

 しかしそのこと自体が、詠の眉を寄せさせる原因となった。

 少しばかり考えこみ、それから再び尋ねる。

「母は誰じゃ」

 核心を突くような質問に緊張が走る。

 後ろに回したいらかの手を、琥珀はきつく握る。

 言うな、と。

 絶対に言うなとそこに込めて。

 そしていらかもそれを理解し、不承不承ながらも黙り込んだ。琥珀の腕にしがみつき、詠を見上げる姿は一見すると人見知りな子どもを連想させたが、その視線は子どもというにはあまりに堂々としていた。

 いらかが応えないつもりだと判断して、詠は再度琥珀に詰め寄る。

 両肩をつかみ、引き寄せ、耳元でささやく。

「言いなさい。お前が知らないはずはなかろう」

 言っている言葉とは裏腹に、詠の声は甘さを含む。

「し、らない」

 それでも琥珀は口を割ろうとしない。

「琥珀。お前の主は誰?」

 それに対しては笑みを浮かべる。

「薄葉、の、鬼女」

 からかい気味にそういうと、一瞬だけ、憎々しげな表情を浮かべた。

「困った下人だの」

 そういうと、よりにも寄って腹部の傷をぎりぎりと締め上げてきた。

 声にならない琥珀の絶叫にたまりかねたいらかが割って入り、その手を抑え込んだ。

「ささらじゃ」

「いらか!」

 それ以上の発言を止めようと、琥珀は言葉を絞り出す。

 しかし一度声を発したいらかはもう止まらなかった。

「わが母はささらじゃ。──さあ、もうよかろう。早くこの男の手当てをしてやらぬか!」

 表情を変えずに見下ろしていた詠だったが、掴まれた手に視線を移し、やおらその手をつかんでねじり伏せる。

「図に乗るな、娘。ここは私の領域。お前が主導権を握れる場所ではない」

 そのままいらかを殺してしまうのではないかと懸念した琥珀は、何とか身体を動かそうとするものの、もう限界が近かった。

 身体は全くいうことをきかない。詠の胸元に倒れ込み、完全に身体を預けている形となっていた。

「詠様! 床の準備ができました。その鬼、こちらへお運びください」

 手を貸そうとするあや女を詠は視線でやんわりと抑える。

「触るな。天女の毒にやられる」

 事実、琥珀の腹部を抑えた詠の右手は軽いやけどを負ったような状態になっていた。

「詠様!」

 その事実に琥珀も気がつき、慌てて身体を離そうとするものの、詠はそれを許さなかった。

 そもそも瀕死の琥珀にあらがう力など残っていようはずもない。

 詠は暫くその体制のまま押し黙っていたが、ようやく声を絞り出した。

「──看病する者が必要だ。天女の毒に触れても平気な者が」

 いらかと詠の視線が交錯する。

「来るがいい。琥珀の看病をするならばお前を受け入れよう」

 詠の意外な言葉に琥珀は目を見張り、安堵したのか、今度こそ意識を完全に手放した。


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