きよらなる童女 弐


 ささらの娘、だと?

 腹部の傷のせいで声を出すこともままならない。経験したことのない痛みを感じ、琥珀は顔をしかめた。

 今までも何度か身体を切られる経験をしているが、こんな痛みは初めてだった。

 まるで傷口からじわじわと侵食されていくような、焼けつくような痛みなど。

 それでも先ほどの童女の発言に、琥珀は驚愕し、何とか声を絞り出した。

「ささら、の娘?」

「いかにも」

 どうして、今。

 それは詠がずっと追い求めていた存在だった。

 天女を統べるささらの存在、それにかかわる事柄に関して詠は異常な執着心を見せていた。

 特にささらの娘に関しては。

 琥珀の本能が警告する。

 絶対にこの娘と詠を合わせてはいけない。

 しかしいらかは琥珀のそんな思いなど我関せずといったふうに、好奇心満々に琥珀に詰め寄る。

「お前は、郷の鬼女の使鬼か」

 どうやら天女の里でも詠は鬼と呼ばれていると知り、思わず苦笑した。

 あけすけない言葉。好奇心をたたえた瞳。きらきらと光る瞳は、今まで自分が対峙してきた天女からはかけ離れている。

 もともとその造形自体も、ずば抜けた美しさを伴っているが、目の前の童女をより魅力的にしているものはその瞳だった。

 その笑いがいらかには実に場違いなものに感じたのだろう、首をかしげてなおも琥珀に詰め寄る。

「なぜそこで笑う。このまま行けばお前、死ぬぞ? お前の腹は搔っ捌かれたときにあね様の血が紛れ込んでおる。我ら天女の血はお前たちにとっては毒であろう? 身体を溶かしてしまうと皆が言っておった」

 無情ないらかの言葉は偽りがなく真っ直ぐで、だからこそそれが現実を帯びて琥珀を襲う。

 死ぬだろうか。

 死は、怖くない。

 だが、詠を一人の残して逝くのは、怖い。

「き、れいだな、と、思って」

 自分を覗き込むいらかは確かに美しいという表現が似合っていた。

 愛らしいではない。年相応の無邪気さはあるものの、美しいという表現が一番適切だった。

「何を、こんなときに」

 途端にいらかは頬を染めて、視線を泳がせた。

 こういうところは、ごく普通の人間と変わらない反応で、それも琥珀にとっては新鮮だった。

「里に、帰れ……。お、こられ、るぞ。……あね、さまにあんな、ことして」

 琥珀は何とか身体を起こした。

「もう、ああなってはもとには戻れぬ。だからわらわは当然のことをしたまでじゃ。それにあね様は最後に十分に腹を満たしておった。悔いはないであろうよ」

 ああ、可哀そうなことをしたなと琥珀はぼんやりと同情したけれど、自分とて同じような身の上だと思い直した。

 郷までもつかどうか。

 だがそれでも、せめて最後くらい詠の顔を見たいと思うのは過ぎた望みだろうか。

 意識が混濁し始めていることは間違いなかった。

「か、えれ。俺も、帰る」

 詠に、会いたい。

 その思いだけが、琥珀を突き動かす。

 天女のことも与五郎のこともいらかのことも、今や琥珀の頭の中には残っていなかった。

 あるのはただ一つ、己の主。己の命。すべて。詠のことだけ。

 普通の人間ならば立ち上がれるような傷ではない。だが琥珀は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。

「待て、鬼。今動けば確実に死ぬぞ?」

 遠くで聞こえる声。それに対して琥珀は首を振った。

 駄目だ。絶対に戻る。

 目の前が、かすむ。

 詠。

 琥珀は必至で足を進める。

 しかし足は重く、まるで鉛でも仕込んでいるかのように動かない。

 登りよりは楽なはずだけど、な。

 何とか自分を奮い立たせ、一歩ずつ足を進めようとしていた時だった。

 急に体が軽くなった。

「え」

 それもそのはず。あっという間に、実にあっけなく、琥珀は背負われていた。

 それも先ほどの天女の娘、いらかに。

「よい。郷までわらわが連れて行ってやろう」

「な、に言って……」

 こんな小さい子に。どう見たって六、七歳くらいしか見えないというのに、この力はどこから出ているのか。

 そう思ったが、天女に関して人間の常識が当てはまらないことに気がついて、押し黙った。

 そもそも天女がこんなに友好的なこと自体、琥珀には信じられなかった。

 先ほどいらかが言っていたように、琥珀は詠の手の者だ。確かに天女からみればうるさい蠅程度の存在かもしれないが、それでも自分たちの生活を邪魔する存在という認識はあるだろう。

 その相手を助けるなんて普通では考えられない。しかも二度も。

「もともとわらわはかか様のところに戻らぬつもりであすこにいたわけだし」

 今、なんと?

 しかし琥珀が聞き返すより先にいらかはしっかりと琥珀をしょいなおした。

「一気に下りるぞ。しかとつかまれ」

 そういうや、いらかは文字通り駆け下りていった。

 器用に跳びはね、障害物を避け、いとも簡単に。

 こういうところは間違いなく天女の血筋だと思い起こさせる。

 おそらく琥珀の身体に負担がかからないようにと思ってのことだろう。できるだけ衝撃を与えないように、そして出来るだけ早く麓へ降りて行こうとしている。

 それでも琥珀の血はいらかの背中を汚していく。

「き、ものが、よご、れるな」

 桜色のそれは美しい染めのもので、随分と高価なものだと一目でわかる。

「おかしなやつだ。己が死ぬかもしれぬときに、着物の心配などしているばあいじゃないだろう?」

「おま、えもな。人を、助ける、て、てん、にょなど」

 聞いたことがない。

 傷を負っても軽口をたたく琥珀に対し、いらかのまとう空気が柔らかくなった気がした。

 好奇心にあふれ、時に尊大な態度を取るものの、他者を思いやりもする。

 凡そ天女らしくない。

 実際、天女にあるのは本能的な感情だけであり、人間独特の感情はないものだ。

 彼女らは何がなんでも生存し、腹を満たし、子孫を繁栄することしか考えていない。それらを基本とした親子の情愛や、餌に対する執着はあろうが、だが今いらかは。

 ──今、もしかして。笑った、か?

 琥珀がそうつぶやく前にいらかは立ち止まった。

「郷だ」

 既に空は白みはじめ、あとわずかで朝日が昇ろうというころだった。

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