きよらなる童女 壱
あまりに場違いで、そしてあまりに美しい童女に刹那目を奪われる。
そしてさらに背後。
手を振りかざした天女が一匹。
しまった……。なぜ気がつかなかった。
幾分油断した己を呪い、しかし呪っている暇がないことは明白で、琥珀は咄嗟に叫んだ。
「よけろ!」
その声に反応したかのように天女が勢いよく手を振りおろした。
だめだ。間に合わない。
琥珀は剥いだ床下に手が削られることさえ厭わずに、床下から思いきり引き抜き、そのまま童女の身体を抱えて転がりよける。
本当に間一髪。
琥珀たちがいた場所を中心に床がけたたましく抜け落ちた。
「っつ……」
ざっくりと切られたかのような腕の傷は一瞬後にだらだらと血を流す。
血は、まずい。
天女をさらに興奮させる。
まるで互いに距離をはかっているかのように、天女と、童女を抱えた琥珀は睨み合っていた。
自分の傷のほどを把握して、それから腕の中の童女へと視線を向けた。
「大事ないか?」
心配げにそう声をかけたというのに、童女は何も分かっていない様子できょとんとした顔をしていた。
改めて童女の姿をしっかりと目にとめる。
美しい。
だが、その美しさは人が持つ美しさとは異なる美しさだった。
もしかしてこの娘。
いやな予感が頭をよぎる。
しかし腕の中の童女はそんな琥珀の変化に頓着していないようだった。それよりもこれでもかというくらいに琥珀の顔をまじまじと見つめる。
「珍しい髪の色じゃの」
無防備に髪へと手を伸ばし、思いきりひっぱる。
「それにその瞳も」
何とも無邪気だが、今はそれどころではない。
目の前では天女が飛び上がり、こちらに向かって一蹴り見舞おうとしているところだった。
琥珀は童女を抱えたまま、さらにかわす。
まずい。
血のにおいのせいでさらに気がたっている。
「娘。次に俺が合図したらあちらから出口に向かって一気に走れ」
「なぜ」
「あれに殺される」
その時になってようやく童女は天女に目を向けた。
その姿を見て、それからふうと溜息をひとつついた。
「何と醜怪な」
怖がるそぶりさえ見せない童女に琥珀は確信する。
これは、ふつうの童女ではない。
「今、あれは理性というものが全く働かぬ。おそらく攻撃している対象を認識することはできないだろう。だから逃げろ」
その言葉に含みを感じたのだろう。童女は尋ねてくる。
「お前、わらわが何なのか知っていてそう言っているのか?」
その問いに琥珀が答えることはなかった。
なぜなら琥珀は間合いを測るので精いっぱいだったからだ。
天女がこちらを向く。
来る。
「行け!」
天女が突進してくると同時、琥珀は童女を入口向けて投げ捨てた。
童女は器用にも反転し、入り口付近で体制を整える。
その直後、琥珀はそのまま天女ともつれて壁へ激突した。
既に柱も腐りかけているのだろう。廃坊は思いきり揺れて、壁の一部が崩壊した。
まずい。崩れる。
天女と組みあった格好のまま、童女を投げた方へと視線を向けると、童女は何を思ったのか琥珀と天女を凝視して立ちつくしている。
「早く、い、け!」
ぎりぎりと首を圧迫してくる天女の力を感じつつも、琥珀は童女に促し続ける。
童女がようやく踵を返してそこから離れたのを確認し、琥珀は胸元を探る。
これが最後の香だ。
与五郎は、どうしただろう。
この騒ぎに恐れをなして逃げたか。
あいつ一人だけでも何とか逃げられるだろうか。限りなく、可能性は低いが。
次の瞬間、己の死が頭をよぎった。
自分とて、ここでとりあえず逃れても、逃げおおせる可能性は限りなく低い。腕の血のせいで、天女の攻撃性はより高まっている。せめて傷さえ負わなければ可能性は今より高いものだったかもしれないが、今さら悔やんだところで仕方がない。
だがどんなに絶望的な状況であろうとも、生きることを放棄するつもりはない。
琥珀は最後の香を天女向けてまき散らす。
それに反応し、甲高い声をあげて手を緩めた隙に、天女の手から逃れる。
咳き込み、呼吸を整え、立ち上がる。
逃げろ。
少しでも遠くに。
一瞬、あの壺を探すことも考えたが、そうしている間に天女に殺されるのがおちだと判断して琥珀は走り出した。
しかし最後の香はあまりにも少なすぎた。
天女はすぐさま体制を整え、琥珀の足をがっちりとつかんだ。
まずい。
そう思った時にはすでに遅かった。
天女の爪はそのまま琥珀の右腕から腹部にかけて、まっすぐに下されていた。
一瞬の間。それからたとえようもないほどの激痛。反射的に抑えた腹部からは、じんわりと血が流れ出している。
これは、まずい。
反射的に体を丸め、防御の姿勢をとったものの、天女は足をとらえたまま、無理矢理懐まで琥珀を引き寄せる。
獲物を前にした、愉悦の表情で見下ろされる。
喰われる。
瞬間そう理解した。
喰われるのは仕方がないかもしれないが、発情期に入った天女のお相手だけは絶対に嫌だ。
死と引き換えの歓喜など、琥珀は望んでいない。
次は、どうする。
この身を引き裂かれるか、それとも。
天女の次の一手を固唾をのんで待ち受けていた、その時だった。
「ひぃっ」
喉がひきつれるような声がしたかと思うと、天女の喉元がそのままのけぞった。
首の裏から手が伸びる。
幼い手だ。
右手であごを押さえ、左手には、壺。
──壺?
見覚えのある壺は、間違いなく床下にあった例のあれ。
「あね様、恨まぬでくれ」
そう告げると壺を勢いよく口へと突っ込んだ。
壺から漏れ出る薫りは、なじみとなった伽羅に似た薫り。
『うたて』だった。
突然のことに天女はそのまま嚥下し、その喉元をそれが通過するや否や、あまりの苦痛に背後の童女をふるい落とし、その場で七転八倒するはめに陥った。
ふるい落とされた方の童女は運悪く壁に激突し、肩を押えてうずくまっている。
骨が折れたか。いや、肩が外れたか。
いずれにせよ、天女の力で投げ飛ばされて叩きつけられて生きていられるはずがない。そう、普通の子どもならば。
「う……」
しかし目の前の童女は生きている。
童女のうめき声を確認し、琥珀は痛む身体を無理に起こしながら、童女のもとまで身体を引きずって行った。
「お、い」
反応はない。
直接香をのみこませるなどという荒業を行った娘は、のろのろと身体を起こす。
ああこの娘、やはり。
「天女の、むす、めか」
「いかにも。我はささらの娘、いらか」
ささらの、娘?
思わぬ発言に琥珀は目を見張った。
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