鬼事 弐


「しにたくないしにたくないしにたくない……」

 琥珀も与五郎も既に身体は傷だらけだった。

 山の木々につまずき転んでできた傷。天女にえぐられた傷。そして与五郎の右腕からは果実の腐りかけた、独特の甘い香りが漂う。

 思ったよりも天女の毒は強かったらしい。もし運よく助かったとしても右腕はあきらめなければならないだろう。

 普通、そこまで天女の毒にやられることはないはずだが、よほど深いところまで天女の『繭』に手を突っ込んだらしい。

 どこの個体だったのかは不明だが、無理矢理起こしたことは間違いないだろう。

 幸か不幸か、成体前の不完全な身体であったこと、郷で『うたて』に長らく晒されたことで、天女の動きが鈍り、何とかここまで生き延びられたといってもいい。

 これが完全な成体であったのなら、おそらく生きてはいなかった。

 本当なら、与五郎の裏に誰が潜んで手引きしているのかまで確認したかったところだが、与五郎の精神はすでに崩壊している。

 ただ本能で逃げてはいるが、先ほどから同じ言葉を繰り返し、時にはけたたましい笑い声さえ上げる。

 今も笑っているのか泣いているのかわからない声を上げてはがたがたと震えている。

 母親に楽をさせたかった。か。

 ちらりと与五郎へと視線を移す。

 見え透いた嘘をつくなよ、与五郎。

 お前が母親のためを思ってそんな危険なことをするわけないと、俺も詠も気が付いていた。いや、郷の者のほとんどが気が付いてた。

 短絡的で自分の欲に忠実な与五郎を言いくるめるのはたやすい。

 だからこそ、誰が裏で糸を引き、最終的に何が目的だったのかを明確にしたかった。

 もう聞いてもまともに答えられないだろうし、その時間もない。

 ──情けをかけるなよ。

 そういった詠の声が耳の奥でこだまする。

 境界はすでに目の前にあった。

 詠の命は十分果たしている。

 このままここに与五郎を残して戻ればいい。琥珀一人ならば十分に逃げられる。

 だが琥珀にはそれができなかった。

 詠の命となれば、いとも簡単に人を殺める非情な男が、たった一人の愚かな男を見捨てることができずにいた。

 琥珀はこうした人間に弱い。

 皆に見捨てられた孤独な人間に。

 詠はそれを十分に知っていたから、あえて言ったのだ。情けは無用と。

「くそ……」

 木にもたれ、何とか隠れようとするが、与五郎のにおいのせいですぐさま見つかってしまう。今、何とか天女とは距離を置いているが、すぐに距離を詰められるだろう。

 おそらく琥珀がいなければ与五郎はふもと近くで絶命していたはず。

 ああ俺、今度こそ死んじゃうかも。

 息を殺しながらそんなふうに自分の死を予期してみる。

 不思議と死は怖くなかった。

 幼いころから死と隣り合わせだったせいか、それとも自分自身が死を与える存在だったせいか、そのあたりは判別がつかない。ただ、自分の命はすでに詠のものであるという認識はしっかりとある。

 詠とあえなくなるのはちょっといやだな。

 どうせなら、詠をかばってとかのほうが華やかだったのに。

 自分の最期に対してその程度の認識しかなかった。

 香はあと一袋分しかない。

 天女を誘導するためには自分に香を塗るわけにもいかず、ぎりぎりのところまで近づいたら香を撒き、距離を取り、また近づいたら香を撒くという行動を繰り返していた。

 手元にある香袋の中身も、軽くなっている。

 どう考えても生存できる可能性は低い。

 天女の領域に足を踏み入れれば、相手にするのは目の前の変化をした天女ばかりではない。

 琥珀は与五郎を木の陰に隠し、辺りをうかがう。

 今のところ天女の気配はなし。だが、もうすぐここまで上がってくる。

 詠の言っていた一本杉は、木陰の間から見えてはいる。

 その右側。木々に覆われて鬱蒼とした森とは違う、規則正しいツタの絡まり方をしている。

 玄真のかつての御坊であることは間違いない。

 急いで天女のもとを離れるか、それとも御坊に香が隠されている可能性に賭けるか。

 与五郎のことを考えるとやはり廃坊に立ち寄るしかないと判断して、琥珀は与五郎の襟元をつかんで強制的に歩かせる。

 木陰に天女の姿を確認し、ゆっくりと物音立てることなく御坊へと向かう。

「いやだいやだいやだい」

「声を立てるな。あの坊まで一気に走るぞ」

 判断のつかない状況にあるはずの与五郎だが、逃げるという行為に対しては本能なのか律儀に反応してくる。

 それだけがせめてもの救いだった。

 一本杉の前まで出て、道の開けている左側ではなく、草木で足元さえも緑に埋もれている右側へと足を向ける。

 緑のツタや雑草を踏みしめ、木々を縫って進むと、ちょっとした広さの庭先が見え、それから崩れかけた建物が現れた。 

 詠の伯父である玄真が過ごした坊だと聞いたが、とてもじゃないが坊とは思えない荒れ果てようだった。

 天女の領域が拡大した時に、この坊は捨てられたと聞いている。

 そもそも天女の領域の目前に坊を置いていたことの方が驚きだ。

 だが、そこにいたのが玄真であるといわれれば納得もする。

 玄真はかつて琥珀を教育した僧だが、正直僧というにはあまりに破天荒で、あまりに豪快な人だった。

 琥珀はざっと御坊の様子を確認する。

 ほとんど柱だけしか残っていない状態だったが、かろうじて隠れられそうな戸口の裏に与五郎を押し込め、琥珀は坊の探索に入る。

 すっかり屋根は抜けていて、ほぼ雨曝し。

 でも、骨組みはしっかりしている。

「さて。あの生臭坊主が隠すといったら」

 あたりをぐるりと見回し、かつて仏像が置いて箇所の床板を勢いよくめくりはじめた。

 ようやく頭一つが入るくらいの穴を確保し、その中に頭を突っ込んで床下を確認する。

「お」

 案の定、というか、少々拍子抜けしたというか。

 柱の足元に小さなつぼが一つ。

「金とか言わないよな」

 あまりそういったものには執着しない人物と認識していたが、実際のところはどうかわからない。

 金は欲しいが今欲しいのは香のほう。お願いだ。香であってくれ。

 琥珀は懸命に手を伸ばし、それに触れようとしたが如何せん距離がありすぎる。

「あと、少しなんだけど、ね」

 めいいっぱい手を伸ばすものの、わずかに指先に触れるだけでつかむところまでいかない。

 あと少し。

 そう念じながらさらに手を突っ込んだ時だった。

「何がじゃ」

 甲高い声。明らかに大人のそれではなく、子どもの声が響いていた。

 場違いな声に、琥珀は手を突っこんだまま背後を振り返った。

 琥珀のすぐそばにしゃがみ込み、小首をかしげて凝視する美しい幼女がそこにいた。

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