使鬼、琥珀
鬼事 壱
御山の入り口、鳥居のもとに現れた琥珀たちを見て、郷の者たちは一斉にざわめいた。
与五郎の所業はすでに知れ渡っているらしく、皆が向ける視線は厳しいものだった。
自分たちに脅威を与える原因となった者を歓迎する者も、同情する者もいない。
与五郎はそんな周囲の冷たい視線を感じ取ることもできぬほどにおびえていた。
「で、俺の役目は?」
詠の隣に立ち、皆の様子を眺めていた琥珀が尋ねると、詠は当然の如く言い放った。
「決まっておろう? お前の役目はあれを山に帰すこと」
視線の先には四半刻よりも人の様から離れた天女があった。
詠の声はあたりに響き、その言葉の重みを感じてか、一瞬にして静寂が訪れた。
与五郎はというと、さらに身を震わせる。
自分が単に追放されるだけでなく、天女をおびき寄せる餌とさせられることを自覚したためだった。
平然としているのは詠と、やっぱりねとつぶやきながら笑みさえ漏らす琥珀のみ。
「境界まで行ったら、与五郎は捨て置け」
その言葉に与五郎はがたがたと震え、涙を流す。正直まともに歩けるかどうかさえも疑問だ。
「詠……。あまり脅さないでくれる? 俺、こいつを抱えて逃げるのやだよ?」
周りの緊迫した雰囲気とは異なり、いたって軽い調子で返してくる琥珀にその場にいた全員が目を泳がせる。
この状況で平然としていられるなどと、やはり人外の者に相違ない。
そう思っていることがありありとわかる。
詠はというと琥珀のそんな態度はいつものことと言わんばかりに流し、辺りの配置に気を配る。
「鳥居側より陣形を解け。一人ずつ左右へ分かれ、扇方に形をとれ」
女子衆に問うと、皆が一様にうなずく。
人の鼻にはごくかすかな、伽羅に似た香りが漂うばかりだが天女にとっては地獄の苦しみを与える香はゆるゆると流れて行く。
それを懸命に天女に向けて仰ぎつつ、円形を解いていく。
それは天女へ道を作るかのごとく、美しい陣の変形だった。
それに誘われるかのように、目の前の天女がわずかに痙攣し、じりじりと御山へと後退し始める。
「琥珀。手元に香はどの程度残っておる」
「におい袋四つ分。この間山越えの者たちに手渡したし、もう一つは先ほど子どもらに渡した」
詠の眉がかすかにあがる。
自分の命の心配よりも、人の命か。
あきれてしまう。だが、琥珀らしい。
「人の心配をしている場合ではなかろう」
詠の指摘に対して、琥珀はごまかすように首をかしげる。
屋敷にある『うたて』はまだ加工しておらず、香としては役に立たない。今手持ちの分で何とかするしかないのだ。
「どの道筋で向かうつもりだ?」
「蛹化している個体を刺激したくないから、女山めざして谷あい沿いに進む。そのまま可能ならば首塚のあたりまでひっぱっていくかな」
その答えに、詠は黙り込む。
悪い道筋では、ない。
普通の人間が進むのならば。
これは、与五郎に少しでも生存の可能性を与えようとしての選択だった。
琥珀の能力があれば、谷あいを迂回せず、一気に頂上を目指すことも可能だ。
それをあえて谷あいに沿うと言う。
本当にこの鬼は、甘い。
詠は誰にも気づかれないくらいの溜息を洩らした。
「首塚へ向かう前にある大きな一本杉の右手」
「うん?」
「そこにすでに廃した御坊があるのは知っているな?」
「
「そうだ。そこに立ち寄れ。もしかしたら香が残っているかもしれぬ」
すでに廃したどころか、正直雨をしのぐことさえもできないほどのボロ屋だ。廃して一〇年以上はたつ。
「えぇ……」
「伯父上ならば後生大事に隠していて、そのまま忘れて立ち去ることぐらいありえそうだからな」
香だけでなく、なにやら対抗しうるものが置いてあるかもしれない。
「ああ、まぁ、ないとは言えないな……。うん、承知した」
「必ず寄れ。におい袋四つ分ではお前、死ぬぞ」
平然と死の可能性を告げてくる詠に琥珀は笑う。
「俺が死んだら泣いてくれる?」
からかい気味にそんなことを聞いてくる琥珀に、詠は全く表情を崩すことはない。
「子どもらが悲しんでくれよう」
大人たちに忌み嫌われる琥珀が、不思議と子どもたちにひそかに好かれていることを詠は知っていた。
「俺は詠に泣いてほしいな」
「涙など、とうの昔に枯れ果てたわ」
詠らしい返答に琥珀は声をたてて笑った。
その声に反応したのか、それとも与五郎のにおいに気がついたのか、天女は明らかに二人を認識した。
香を厭い、悶絶していた天女は、目を爛々とさせて二人に狙いを定める。
「実に詠らしい」
そういうや、与五郎の手を引きそのまま鳥居の外へと、香の範囲外へと足を踏み出す。
そこは香による安全圏の範囲外。
しかし躊躇することなく詠もそれに続く。
いくら守香である『うたて』をもっているとはいえ、大胆な行動に皆が息をのむ。
天女はそんな三人の動きを一時たりとも見逃すまいと、ねっとりとした視線を投げる。
琥珀と詠はゆっくりと振り返った。与五郎はというと、そのままの体勢で微動だにできずにいる。
天女の姿は醜悪だった。
醜悪で、そして神々しい。
琥珀と詠は並んでその姿をまっすぐに見つめる。
「情けをかけるなよ。──お前の命まで危うくなる」
それに対して琥珀は承知、とは言わなかった。ただ、晴れやかな笑みを浮かべ、天女に向かって手を差し伸べた。
まるで長年の恋人を誘うかのように、甘い態度。
「さあ天女どの。俺とともに山へ帰ろう」
それが合図といわんばかりに、天女は大きく手を振りかざし、琥珀らめがけて突進してきた。
「与五郎、死ぬ気で走れ!」
先ほどまで震え、身動き一つできなかった与五郎が、その声に反応する。
それこそ人のものとは思えない絶叫とともに山に向かって走り出した。
琥珀は風のごとく詠の横を通り過ぎ、与五郎を追う。
そして最後にその二人を追う天女が一体。
すでに二人しか目に入っていない天女が通り過ぎる瞬間、詠は盛大に香を巻いた。
人ならぬ者の絶叫。
しかし危害を加えた本人である詠の姿はすでに目に入っていないらしい。
だらだらと涎を流し、視線はただ琥珀の動きを見逃すまいとせわしなく動く。
「松明をかざせ! 香を東南方向へ仰げ!」
詠の指示に一斉に、統率されて動く。そのわずかな隙にできるだけ遠く、琥珀と与五郎は走り抜ける。
天女はそれに誘われるように、香に追われるように山へと向かう。
「仁助、気を緩めるな! いつまた戻ってくるかわからぬぞ」
山に向かう天女の姿にほんのわずか気を抜いた若衆を叱りつける。
舞う香の匂いとともに、天女を呼ぶ琥珀の声が山の中にこだましていた。
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