裁定 弐
詠が暮らし、そして護る
一部は御山の直轄寺社領であるものの、土地の大半は農業を営む、ごくありふれた郷であった。
ただ一つ、御山に人が降り立つはるか昔から存在した、『天女』と呼ばれる異形の者の襲撃さえなければ。
天女たちが生きるために人を喰らうのと同様に、薄葉郷の者たちも、生き残るために天女に対抗する術を身に着けていった。
天女と郷の者、それらは、絶妙な均衡を保って共存してきたといってもいい。
しかし二〇年以上前、その均衡が崩れた。
薄葉郷の村の一つ、下薄葉村は天女の手によって滅ぼされたのだ。
肥沃な土地と山の実りが手に入る恵まれた土地。それが下薄葉村であった。
その地にふさわしく、豊穣祭でにぎわっていたはずの下薄葉村は、翌日の朝、鳥さえも鳴くのをはばかる静寂と、大地を覆う血肉にまみれていた。
男どもはもちろん、女子どもにいたるまで、祭りに訪れていた村外の者も、その時村にいたほとんどの者が殺された。
下薄葉には死が横たわっていた。
残ったのは、まだ分別もつかない幼子と、もともと明日をも知れぬ年老いた者数名だけであった。
そして、この状況を正確に伝えるために、伝聞役として生かされた者たちによって、この村が見せしめのために滅ぼされたことを知った。
高貴な人々の求めに応じ、年若い天女とその子どもをとらえ、引き渡そうとしていたこと。そして意図せずとも天女らを死に至らしめたこと。それらを主導していたのは下薄葉の村長であり、少なくとも村の乙名、一部の若衆は知っていたこと。
その結果、天女の長によって報復として村を全滅させられたこと。
詠は。その時の数少ない生存者の一人であった。
六つあった村は五つとなり、下薄葉村は薄葉郷から完全に消し去られた。彼の土地は倭文村の管轄に置かれたものの、人は皆、土地を横切ることさえ憚り、忌み地となったそこから目をそらす。
詠は、倭文村の筆頭である百目鬼家に属するものとして、時々あの土地を見回りに行く。
彼の人は粛々と見回る。顔色一つ変えることなく。
何も語らない。
だが、忘れることはない。
忘れようにも忘れられない。見るも無残な遺体。血で染まった大地。拭い去ることのできない死のにおい。
一生忘れることができない、凄惨な情景だった。
見回りと称して、詠はあの時の戒めを忘れないようにとわざわざあの土地に足を向けているかのようだった。
それは一度は嫁した後も続き、婚家から戻ってきてからも変わらず続いている。
そしてその行為は、郷の者にも影響していた。
郷の掟、天女との暗黙の約定。それらを破ればどうなるか。薄葉郷の面々ははっきりとその結果を目の前に突きつけられたのだ。
そしてそれらの経験から、みな郷の存続をすぐさま反芻し、たった一人の男の愚行で村を滅ぼすわけにはいかないと結論づける。
この裁定は致し方ない。
声に出さずとも皆がそう思っていることは間違いなかった。
与五郎もその空気を読み取り、慌てて懇願する。
「やめろ……、少しでも慈悲があるならば、せめて夜明けにしてくれ!」
「慈悲があるから、お前の母者は面倒みるというておる。それに、お前の手持ちの香を取り上げるようなまねはせぬ」
運が良ければ逃げおおせる可能性もある。
詠はそう呟いたが与五郎は相変わらず顔面蒼白だった。そこには放逐される恐怖だけでなく何か別のものを含んでいると詠は気がついた。
「よもや、香をもっていないなどと言わないだろうな?」
「香は、持っていない」
絞り出すように言われ、詠は眉を寄せた。
「あれは、もうない」
「ないだと? お主ら行商を行う者には村の者たちの三倍は持たせているぞ?」
男は視線をそらし、震えを止めようと己の手を握り締める。
「まさか、売ったのか?」
詠の問いに与五郎は答えない。だが答えないこと自体が答えでもあった。
その愚かな行為には郷の全員が目を向いた。
「あれを売っただと?」
「あれはこの郷の守の要。売りに出すためのものではないわ!」
「何と言うことを……。手に入れるのにどれだけの労力が必要か、郷の者ならば知っていて当然であろうが!」
やいやいと騒ぎ始めた古参の者たちを横目に、詠は黙り込んだ。
もう自分がこれ以上状況説明をするまでもない。
「し、仕方がなかったんだ! 母者に少しでも楽をさせようと──」
「理由にならぬ」
一言でばっさりと言い捨てた詠の耳に、与五郎の言い訳は入らない。それが自分に告げられた最後通牒と気がついて、与五郎の唇は恐怖で戦慄いていた。
「鬼じゃ……。お前は噂どおり、まさに鬼じゃ! 顔色一つ変えずよくそのようなことが言えるものだ」
男の言葉にも詠は微動だにしない。
「そんなことをしても、お、俺は戻ってくるぞ! すぐさまこの地に戻って居座ってやる! どうせ死ぬなら皆を道連れじゃ」
自棄になってわめき散らす与五郎に対し、詠は優雅に笑って琥珀の腕を引き寄せた。
「ならば今すぐこの鬼が、この場でお前を殺す。あの天女にはお前の遺骸をすぐさま献上するとしよう」
平然と恐ろしい申し出をする詠に対して、郷の者たちは固唾をのむ。
「へ? 俺がその男を殺すの?」
「今すぐに出ていかねば、な。郷に害を与えるなど、許されるものではない」
気が進まないなぁ。でも主の言うことには逆らえないからなぁなどと、軽い調子で言い連ねるものの、詠の下人であるこの鬼の力は皆が認めるところだった。
天女に唯一対等の力を発揮する者として。
与五郎は打ちひしがれていたものの、憎悪の目を向けることは忘れなかった。
「鬼が……」
「鬼とて生き残った。当然、お前にも望みはある」
それは限りなく薄い望みであることは明らかだった。せめて香さえあれば可能性はもっと高くなっていただろうに、与五郎はその希望さえも手放していた。
当然追放される男に香を分け与えることなどしない。
ただ冷たく与五郎を見つめているだけだった。
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