薄葉の鬼女

天女強襲 壱


 けたたましい鐘の音で目が覚めた。

 そして続く怒号。

「天女強襲! 天女強襲!」

 久々に耳にしたその言葉にえいは身体を起こし、夜着のまま屋敷の外へでた。

 月の傾き加減からすると寅の刻に差し掛かるあたりか。

 逃げ惑う村人たちのなか、ゆらゆらと揺らめいている松明の灯りを目で追う。

 いつもならば闇に閉ざされ、灯りはほんの一握りであるはずが、視線の先では多くの松明がゆれている。

 あの方向ということは、御山の入口に立つ鳥居あたり。

 こういったときの対処法は常日頃から叩き込んでいるはずだが、いまいち組織的な色合いを感じられない松明の動きに、詠は眉をひそめた。

 おそらく若衆が主導で動いているのだろう。こういうときに先陣を切って動くのは血気盛んな若衆と決まっている。

 彼らの動きは攻めるだけで、守りはおろそかになるのが常だ。現に逃げ惑う女子ども、年寄りを先導するのは分別ある乙名らであった。

「随分と余裕があるじゃないか、詠」

 いつの間にきたのか、上掛を詠の肩にかけつつ、呑気な調子で声をかけてくる男へとほんのわずか視線を投げた。

 男はこんな状況にあるというのに不謹慎にも笑みを浮かべた。

「気がついたか? この騒ぎに乗じて屋敷の下働きをしていたものがめぼしい財をもって逃げ出したぞ」

 軽口を叩きながらとなりに立つ男を詠はすいと見上げる。

 詠とて女にしては背の高いほうだが、それにしてもとなりに立つ男はまさに見上げるという表現が合う。

 わずかな月明かりが男を照らす。

 葡萄色とも蘇芳色ともいえる赤みがかった髪。獣を思わせる金色の瞳。明らかに日の本の人間ではない。そのうえ体格もこの国の者たちとは全く作りが違っていた。

 それ故に男は幼いころから『鬼』と揶揄されていた。

 それは詠と出会う前からの呼称だったが、詠の下人となってからは今まで以上にそう囁かれることが多くなった。

 何せ主は『鬼女』と呼ばれている女。

「お前こそ余裕があるな、琥珀こはく。天女強襲の報を聞いていながら家財の心配か」

 今度はちらりと視線を送るだけではなかった。

 琥珀のほうへ向き直り、そして襟元を思い切り引っ張り、顔を寄せた。

「事と次第によってはただではおかぬよ。──わかっておるな、琥珀」

 詠は初めて琥珀と会ったときと同様の笑みを浮かべてけん制してくる。

 抗うことを許さない、背筋の凍るような冷徹極まりない笑み。

『鬼女』と呼ばれる詠のこんな笑みを前にして呑気に笑って受けとめられるのは琥珀ぐらいのものだった。

「ご随意に、我が主」

 笑みを絶やすことはなかったが、妙な自負を感じられる対応に、詠は素直に手を離した。

 そのまま村をざっと確認し、裏手の山を見、再び視線を戻して考え込む。しかし次の瞬間には何かを思いついたように動き始めた。

 自室を出て、内廊下を渡り、同じように外へ向かおうとしていた父と鉢合わせをする。

「父上、私は村のほうへ参ります。御山のほうをお願いできますか」

「承知した。こちらの守は任せろ。──気をつけてまいれ、詠」

 さすがに話は早い。

 つい先日隠居したばかりの父、誠二郎せいじろうにそう告げると着替えもそこそこに騒ぎの渦中へと足を向けた。

「え、ちょっとまってよ、詠。このままでいっちゃうわけ? もっていかれた家財の中には詠の着物も含まれていたんだよ? ほら、上方から手に入れたっていう、紅葉をあしらった小袖があったじゃない? 結構な値のしたあれ! 俺、あれお気に入りなんだよね。すごく詠に似合うからさー」

 軽やかな動きで人ごみを縫っていく中、琥珀が慌てて追ってくる。しかも話していることといえば、先日買い求めた小袖のことだ。

 とかく琥珀はすべてがこんな感じだ。危機感というものが欠如しているのか、話題の中心は常に詠であり、それ以外には本当に関心がないそぶりを見せる。

 今だってすぐ隣には死が待ち構えているような状況だというのに、心配するのは小袖ときた。

 まったくこやつは。

 詠はといえばそんな琥珀の様子には慣れているのか、おちゃらけているとも見える琥珀の言葉は完全に無視して、現状の報告を求める。

「大元は何」

「天女が暴れている」

「それはわかっている。私は事の詳細を求めている。──どうせ私の元に来る前に、下調べはすんでいるのだろう?」

 琥珀の主だった仕事は天女に関する動向の把握だ。

 いくらふざけた態度が専売特許とはいえ、手ぶらで詠の下に現れるような男ではない。

 しかし琥珀は頑として小袖の話題からそれることはなかった。

「それより小袖。あれは俺が選んだ中でも一番のお気に入りで」

 このままだと延々とあの小袖がいかにすばらしいかを語り続けると踏んだ詠は、心底面倒そうな顔をしてばっさりと切り捨てる。

「気に入っているならばお前がきればよい」

「えー。いくらなんでもあの柄は俺には無理だよ」

「そうか? お前の髪にも瞳にも映えてよかろう? なんなら仕立て直してやってもよい」

 とにかく難癖をつけて軽口をたたく琥珀の様子に対し、意外にも詠は怒りを表すことはなかった。

 命に関わる面倒事にあうと、琥珀がやたらと饒舌になることは──しかも必ず詠に絡む話をしたがる──いつものことだったからだ。それが何を意味しているのか詠にはわかっていた。だから、琥珀を窘めることはない。

 狗が、狩りを前にして気分が高揚し、やたらと吠えたてるのと同じ。

 そしてその高揚感を主に絡めて表現しているに過ぎない。

 狗はその狩りがいかに危険かどうかなど意に介さない。自分の主がこの狩りに挑むならば、己はそれを享受し、どうすれば主の目的を達することができるのか、その一点だけを考える。

 琥珀は詠のためだけに動く。

 それは昔から終始変わらない。

 二人にとってこれは日常だった。

 とはいえ、逃げ惑う人の中、呑気に家財の会話を繰り返す二人の姿は明らかに浮いていた。

 しかし人々が瞬時に反応し、条件反射のように道を譲るのは、二人のこの場にそぐわない『和やかな』雰囲気のせいではない。

 二人を見る村人の顔には、例外なく畏怖と期待が入り混じった表情が浮かんでいた。

 こんなときだけ詠と琥珀は人々の期待を一身に受ける。

 それ以外の時には蔑むような視線と、忌み嫌う視線しか向けてこないというのに。

 毒を以て毒を制す。化け物を以て化け物を制す。

 彼らが詠と琥珀にかける期待はそういった類のものだった。

 長年郷を護る一族として存在する百目鬼どうめき家は、この郷において唯一天女に対抗しうる術を身に着けた一族だった。

 普段からそれなりの尊敬と畏怖の念を抱かれている。

 だが、その百目鬼家の中心である詠は、その特殊な身の上から、尊敬と畏怖以上に嫌厭され、みなに遠巻きにされる存在であった。

 天女の襲撃事件で生き残ったばかりか、己の婚礼の際に婿を奪われ、右肩に重傷を負いながらもまたも生還した稀有な娘。御山の加護故と敬われた娘の評価が変わったのは、天女に対して異様な執着心を示すようになってからのことだった。

 婿を奪われてからほどなくして、実家に戻った詠は積極的に山に入り、天女の生態を事細かに調べ始めた。

 天女の生息地、行動範囲、そして天女らの身体の仕組みまですべて。

 時には山に打ち捨てられていた羽化後の脱殻、孵化の残骸、果てはその遺骸まで持ち帰り、事細かに調べていたという。

 天女の遺骸を持ち帰り、容赦なくそれを裁く姿はさらに北の地に伝わる鬼女のごとくで、それらを垣間見た行商人は腰を抜かして身動き一つとれなかったという。

 さらにその数年後より片時も離れず付き従うようになった下人、琥珀の容貌も相まって、鬼女とその使鬼といわれるようになってしまった。

 琥珀の登場により『鬼女ならば、天女に襲われて助かったのも道理』と周囲が決定づけたのもこのころのことだった。

 だからこそ、詠の住まいには下働きの者が長続きしないし、こうした騒動があれば、家財を盗まれて一番に逃げ出される。

「一応さぁ、郷の傅役もりやくの屋敷だっていう自覚を、ね? なかなか手に入らない貴重なものもあるわけだし」

 相も変わらずしつこく語る理由はそこかと詠は納得する。

 屋敷にはついこの間手に入れた『うたて』の原料が大量に保管されている。うたての原料を手に入れてくるのは琥珀であり、それゆえにどんなに貴重なものか痛いほど把握しているのだろう。

 外見に似合わず意外に琥珀は細やかだ。

「屋敷のことはあや女が仕切っておる」

 あや女の名前が出てきたことで、琥珀は顔をしかめて盗んだやつに同情するよとつぶやいた。

 略奪、破壊などはこうした天女の襲来時だけでなく、隣郷との小競り合い、果ては隣国との争いにおいても日常茶飯事だが、あや女がそのような行為を己の主の家で働かれて黙っているはずがない。おそらく逃げた使用人たちは無事ではすまない。隣郷に逃げ込もうが山に逃れようが、ふもとの市に身をひそめようがあや女はどこまでも追いかけて、報復する。

 詠がまだ若いころから仕えているあや女はとにかく詠信奉者だ。詠のためならばどんなことでもきっとやってのける。それ故に琥珀同様、鬼の手先と呼ばれているくらいだ。

「そんなことより解せぬのは」

 鳥居まで足を進め、そこで詠は立ち止まる。

 村人は手にした松明でその先にある、異形の者を照らしていた。

 そして明かりに紛れて目に映るその姿に、みな一様に恐怖に彩られた表情を浮かべた。

「なぜ、変化を解いている」

 詠だけが、真正面から平然と、その異形の者と対峙した。

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