天女凱歌

古邑岡早紀

天女凱歌

 右手にぬめりを感じたのは、空がようやく白み始めるころのことだった。

 空には十六夜の月。

 青みのある闇の中で私はただ一人、立ちつくしていた。

 本当ならば、ともにこの夜明けを迎え、ともに十六夜の月を見上げるはずだった、夫となる人はもういない。

 多くを望んだわけじゃなかった。ただ、あなたのそばで、土地を耕し、共に生きたいと、それだけを願っただけなのに。

 やめてと。行かないでとあんなに懇願したのに。

 なのに行ってしまった。連れていかれてしまった。

 もう、私には何も残っていない。

「詠さま?」

 誰かが私を呼ぶ声が聞こえたような気がしたけれど、やたらと右手が重くて、熱くて、耳の感覚さえも狂わせる。

 視覚がそれを補おうとするものの、見開いた瞳は目の前の情景を映すだけで精いっぱいだ。

 郷を守り、それと同じくらいの頻度で牙をむく山々が目の前にあるはずだ。

 それももう目に映らない。

 見たくない。

 もう、あの山は私にとって守るべきものではない。

 だから見る必要はない。

「詠様! だれか! 詠様が!」

 誰かが呼んでいる。

 だがそれはあなたの声ではない。

 だから聞く必要はない。

 山々を見据えるかのように立ちつくしていた自分の身体が、ゆっくりとぐらつき倒れて行くのを感じていた。

 まだ暗い山々。明けきらない空。傾いた月。

 それらが目まぐるしく視界をかすめる。

 規則正しく自分の肩から血が流れている感触はあるのに、痛みは全く感じていなかった。

 もう、何も考えたくない。

 このまま眠ってしまえればいい。

 瞼は重く、徐々に落ちて行く。

 そう思っていた私の耳元に届く、甲高い鳥の一鳴き。

 あれは紛うことなき、かちどきの声。

 その声は。

 その声は私の閉じかけた心を無理やりこじ開けるのに十分な一鳴きだった。

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