第51話 義景、病床に笑うこと




  三



 鎌倉に、うすら寒い雨が降っていた。


 三浦一族の次期総領、三浦義村が見舞いに訪れたのは、長江義景の病床であった。

 義村にとって義景は、父親ほどの年齢である。


 とはいえ治承じしょうよりこのかた、戦場にくつわを並べた幕友であり、あの鎌倉初の流鏑馬やぶさめの折には、射手として研鑽しあった仲でもあった。

 なによりふたりともに野心にあふれた性格で、うまが合った。


 その長江義景も、いまや重い病苦のために、魂はすでに尋常の状態ではなく、たびたびの幻覚に襲われながらも、どうにか余喘よぜんを保っていた。


 義村が枕元で呼びかけた時、病者はふいに覚醒し、その声に応えた。

「平六殿か……」

 平六……義村のことである。

「長江殿、病など気の持ちよう。しっかりと気骨きこつをお保ちくだされ」


 その声が聞こえたか、聞こえなかったか、薄紫色の唇に異様の笑みを浮かべた義景の、その目は果たして、虚ろであった。


 病人はうわごとのような、苦しげなかすれ声で尋ねた。

「平六殿、三浦軍の準備は整っておりましょうな」

「ハ……?」


 まったく預かりも知らぬ話に、義村は困惑し、義景の息子、長江明義あきよしのほうに目くばせし、助け舟を求めた。

 だが明義のほうが逆に、父の錯乱に話を合わせてくれるよう、無言で義村に懇願するのだった。


 その間にも義景は、狂者のごとく、ひとり勝手に喋りつづけていた。

「……それにしても痛快じゃった。わしが糸を繰り、手並みもあざやか、まんまと景義めを鎌倉から追放した。……あとは景義謀反の風聞を流し、三浦の大軍を動かし、大庭御厨おおばみくりやを一挙に占領する。もうすこしじゃ。もうすこしでわしの望みが叶う。大庭御厨を手に入れられる……」


 もどかしげな様子から、病人は突然に上体を起こし、寝具を剥ぎ取り、衰弱しきった足腰で、よろよろと立ちあがった。

 驚いて助けようとした息子たちの腕をも、乱暴にふりほどいた。


「どけ」

「父上」

「寝てなどいられぬ。わしは鎌倉一族のあるじじゃ……。主となるのじゃ……」


 明義と義村が止めようとしたその時には、もう遅かった。

 義景は昏倒し、湿りきった庭土の上に、縁側からどさりと落ちた。


 全身を強打したはずが、もはや痛みさえ感じていないのであろう。

 口のなかに飛び込んできた泥砂利を奥歯の底に噛みしめながら、義景は虚ろな目でうめきつづけた。


「……今は神と祝われし、鎌倉権五郎が拓きし地……」

「父上、父上……」

 明義は雨の庭に飛び降り、涙にむせびながら父の体を助け起こした。


「大庭を……御厨を……」

 明義と義村はふたりして、義景の老体を、縁の上に運びあげた。

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