第9話 死霊が見ている

 絵の制作期間は五日間。本来の試験では二日で描き切るのだが、最後と言うことで多めに日数が与えられた。

 おつゆ描きなど省けるところは省き、シッカチフという乾燥を促進する専用のオイルを使う。お互い絵の具をたっぷりと使う描き方であるため、こういった工夫は薄く描く人よりもしてるのだ。

 自然と他の生徒の目線も二人に向かっていた。受験が控えているあさひまでもだ。磁水もこの時ばかりは教室にいる時間が長くなり、鈴菜も他の生徒に集中するよう声をかけながらも二人の描く絵を必ず見ていた。

 それほどこの場にいる全員、行く末を気にしているのだ。

 ペインティングナイフがパレットの絵の具を混ぜる音と、キャンバスに絵の具を乗せる音が響く。油絵では一般的によく使われる豚の毛の筆が硬い擦れた質感を残す。

 お互いの絵は見てはいけないルールの為、互いに見えない位置で制作し、絵は休憩時間と授業が終了すると磁水と鈴奈の手によって別のスペースに運ばれる。そして、開始する時にまた持ち込まれるのだ。このルールはマワリがどうしてもと、頼んだのだ。

「姉さんはなんで勝負をしようとしたんでしょうか……」

 三日目になれば休憩時間も描き続ける二人の様子もあってか、タキはあさひと真珠に尋ねた。台所で休憩していた二人は知らないことを伝えた。

「姉さんが、何がしたいのか俺には分かるんです。自画像を選んだ理由も。でも、勝負じゃなくても素直に言えばいいと思うんです」

「マワリちゃんも引き下がりたくないんやろうな。それにオレは、マワリちゃんの絵には大事な意図がありそうな気ぃするんや」

 真珠の言葉にあさひも彼女の描いている絵を思い出して頷く。

「確かに、テーマとしては如月の方が合っているんだよな。よく記憶だけであれほど再現できていると思う。マワリは……意表を突こうとしているのか? やっぱり、アタシはアイツの頭の中はよく分からないな。如月も同じくらいだけど」

 後期印象派の奴は特に変わっているんだよな、とあさひ。同じ頃に画商をしていた前世のあるタキも苦笑いするしかなかった。

「二人はどっちが勝つと思うん?」

「姉さんです!」

 真珠の問いかけに真っ先に答えるタキ。お兄さん泣くで~と、真珠はツッコミを入れた。

「アタシは、如月かな。技術では前世の影響もあって甲乙つけれないのが当然だ。でも、なんかマワリに引っかかるんだよな。アイツから勝負を吹っ掛けた割にはベクトルが違うというか。合格させるならとしての視点として見た場合だけどな。そういう真珠はどうなんだ」

「オレは、そもそもこれは勝負じゃないと思っとるんよ」

「どういうことですか!?」

 そこまでは予想していなかったタキが立ち上がる。椅子が転がってしまったのも気にせず真珠に詰め寄る。

「姉さんは引き下がりたくないからって先ほど仰っていたじゃないですか!」

「まあ、落ち着きなって。で、どういうことだよ」

 隣に座っていたあさひが背中を叩くと、タキは恥ずかしそうに謝ると椅子に座りなおした。真珠は言葉を選びながら自分の予想を話した。

「オレも全ては分からん前提な。けれど、これはマワリちゃんがずっと願っていたことじゃないんかなって思うんや」

「今の二人の仲、良いわけじゃないぞ。共同生活破綻した理由もわかる気がするぐらいには」

「やな。それは否めない。……マワリちゃん、絵が完成したらこのままいなくなってしまいそうなのは気のせいやと思いたいな」

 タキの顔が真っ青になる。今すぐにでも止めにかかろうと椅子を下りようとしたが、あさひが止めた。

「まあ、何をしても不思議じゃない奴だけど……。今は、見守ろう。それがアタシたちに出来ることだろう?」

「何か起きる前にオレたちが止めるから、タキ君は安心しぃーな。だから、一緒に見守ってあげれんやろうか」

「……はい。何かあった時はよろしくお願いします」


 絵を描いていくとぼんやりと翳んだ記憶をいくつか思い出していく。それは一日、二日、と経つと鮮明に、声まで聞こえるようになった。どこか懐かしく、馴染みの深いものばかりだ。ここにある画材の香りでさえ、かぐわしく、自然と手が自分の知らないはずの技法へと動いていく。

 ゴーギャン。そう、かの有名な画家の名前を誰かがずっと呼んでいる。

 そして、絵を描くこと四日目。わたしは記憶の中、誰かに呼ばれた声で自分が何者であったのか思い出した。

 同時に、現代に生まれた時の記憶もより、鮮明に。失っていた学生時代の記憶をも。

 初めに記憶を取り戻したのは、一年生の選択授業の美術の時間で美術教師が見せてくれた画集がきっかけだった。

「ゴーギャンはタヒチに我々が失った楽園を見出していたのだろうね」

 と、語った美術教師がわたしには何よりも嬉しい評価だった。理解者などいなくなり孤独に死んでいった前世を思い返せば尚更。

 そして、またもう一度作品が作りたいと希望するようになった。わたしは美術教師に願い出て、二年生からは美術のコースに入り、噂を聞きつけた万理一空高等学校の理事長の勧めで磁水先生の経営する画塾に入塾した。

 美術教師は基礎のデッサンはもちろん、油絵、デザイン、日本画など多くの分野に触れさせてくれた。その結果、わたしはまた彫刻作品が作りたいと思い始めた。

 東京にある芸大へ行きたい。何浪しようとも、あの大学で学び、今世は心から芸術を楽しもう。欲をかいて無謀に走り周り、自滅し、孤独に死んでいく人生はもうやめよう。もっと視野を広げ、まずは色んな人の感性に触れてみよう。いつかの日、共に過ごした彼を見習うべき所はわたしにもあったのだ。

 そう、前世のことを反省し、受験勉強に打ち込んだ。

 そして、現役合格した。その嬉しさは言葉に出来ないほどだ。わたしはやっとここからやり直せられると。そう、信じていた。

 けれど、現実は苦しいものだった。

 多くの才能ある学生たちは、現代までの技術、浪人時代で鍛えられた技術、元々の才能などあらゆる面で別格だった。確かにわたしはゴーギャンの生まれ変わりだ。けれど、今世は違う人間として生まれてきた。だから、「如月ノア」としての作品を作らなければならない。前世に影響されないように、現代で求められる作品を。そう考えるうちに自分の作りたいものが分からなくなってきた。

 加えて慣れない現代の生活。前世とは違う文化や時代、兄弟を演じること、大学生活。受験勉強の時はひたすら打ち込むことで忘れられていた負担が重くのしかかっているのは確かだった。

 段々と粘土に触れる手が重くなっているのは確かだった。講評が怖くなっていく。転生者なら一度は恐怖するだろう前世の自分のような作品だと言われないか、不安で仕方なかった。でも、手を止められなかった。手を止めてしまえば死んでしまう気さえした。

 あれはちょうど葉桜の季節だった。授業の制作中、急に手が動かなくなった。頭では動けと言っているのにまるで他人の体のように言うことを聞かない。やがて視界も固定され、映画を見ているような錯覚に襲われる。

 わたしは死んでしまう。

 そう、恐怖と焦りが沸き上がった次の瞬間。心臓が鷲掴みされるように痛くなった。立てるわけもなく、しゃがみ込むわたしに周りも異変を感じたのだろう。話しかけてくれるものの、声が出ない。代わりに酸素を取り込もうと必死になっている荒い息が響くだけだった。呼吸をしているはずなのに入ってこない酸素。収まらない心臓の痛み。翳んでいく視界。

 ああ、手を止めてしまったからわたしは芸術家として、いえ、わたしごと死んでしまうのだろう。きっとどこかで死霊が見ているのだ。

 そう、目を閉じてから記憶が無かった。いや、「ゴーギャンの生まれ変わり」として生まれてきたわたしの記憶は無くなったはずだった。なのに彼女を描いていくにつれて思い出していく。前世の記憶と、前世の記憶を取り戻した後の事。

 また今世と前世の記憶がゆっくりと混ざり合って馴染んでいく。わたしは、ゴーギャンわたしを取り戻しつつあった。

 同時に懐かしい気持ちに胸が満たされていく。わたしは誰かとこうして絵を描いていたと。

 その人はわたしとは好みも、考えも真逆でよく討論になった。よく振り回されて頭を悩ませた。

 その人はよく絵が売れないと怒っていたが、絵に対する情熱と真剣さは本物だった。だから、わたしはその人にアトリエを一緒に開こうと誘った。けれどその人は断り、もう二度と会うことは叶わなかった。

 あの人は誰だったのだろうか。とても大事な思い出のはずなのに思い出せない。

 隣にいる生徒の横顔を見る度に何故か既視感を覚える。横顔は女性のもので、この画塾以外で会ったこともないはずなのに。

 何故か、わたしはこの少女の横顔を前世で描いた覚えがあった。


 もしかすると、ボクはこうしてきちんと君を描いたのは初めてかもしれない。人物画は最も崇高な絵画だけど、ずっと長時間座らせたくなかった。だから、ボクは肘掛椅子を代わりに描いたんだ。

 ノア。この絵が完成した時、ボクは……。

「ゔっ……つぅ……」

 心臓が急に痛くなる。目の前が霞んでいくと同時に彼女は前世の記憶を思い返してしまう。黄色い家を去っていく彼の背中を。

 大きな音を立てて画材が落ちていく。パレットについた絵の具が床にべたりとつき、テレピンとリンシードオイルを混ぜた画溶液がズボンにしみていく。だんだん不規則になっていく呼吸は荒くなり、苦しそうにマワリがうずくまった。

「マワリ!」

「マワリちゃん!」

 各自授業をしていたあさひと真珠が駆け寄る。上手く呼吸が出来ない様子に真珠が症状を把握した。

「過呼吸や……」

「真珠! アンタは呼吸整えさせるよう手伝ってやってくれ! アタシは磁水先生呼んでくる!」

 教室を出ようと向かったあさひに真珠は返事をし、過呼吸を止めるよう促した。

「わかったわ! マワリちゃん、呼吸少し止めれるか? うん、上手に出来とる。そしたら、ゆっくり深呼吸しような」

「星月さん……!」

 立ち上がったノアを見るなりあさひは開けた扉をそのままに、振り返ると恐ろしい剣幕で叫んだ。

「アンタはさっさと戻って描け!」

「でも、わたしはここの講師で……」

「いいから描け! この子の気持ちをまた裏切る気か?」

 それはただの怒気ではなかった。そのオーラに気圧されていると真珠も立ち上がった。

「オレもあさひ先輩に賛成や。動揺してええ作品描かんかったら、オレも、あさひ先輩も許さんからな」

 転生者二人。しかも、前世から名を馳せた画家の真のオーラというのは常人では太刀打ちできない恐ろしさがあった。二人なりにこの勝負をいいものとして完結させようと見守っていた。けれど、作品が完成しなかったら。彼女がそれは何よりも望んでいないことはわかっていた。画家は病だろうが、愛する者の別れだろうが、貧困だろうが、描き続けてしまうのが運命さだめだと知り、一度はその人生を終えている二人だからだ。

「オレもあさひ先輩も二人のことに関してはノーサイドや。当事者の問題やからな。でも、ここで手を止めるって言うなら話は別やで」

「如月、早く戻れ。芸術家は如何なる時も手を止めるもんじゃねえ。今度こそ、死ぬぞ」

 死という言葉にノアがたじろいだ時だった。

「落ち着いてください、二人とも」

 肩を叩かれた瞬間、オーラが静まった二人。我に返ったように見えるが磁水が抑えたのだ。

「先生……!」

 振り返った二人に、磁水はまずノアの様子を確認する。動揺していること以外、特出して影響が無さそうなことを把握すると今度は二人に注意した。

「睡庭さんも、群青さんもオーラがコントロール出来てないですよ。転生者のオーラは膨らみ過ぎると常人に影響を与えてしまうので気を付けてください。相手がノアさんで良かったですね」

 納得のいかない様子のあさひはノアに「悪かった」と言うと渋々作業に戻る。ずっと心配そうに背中をさすっている真珠に一緒に教室に入ってきた鈴菜が声をかける。

「群青くん、大丈夫よ。星月さんは私が見ておくから」

「分かりました……」

 いつもの明るい様子がすっかり無くなった真珠も静かに作業に戻る。

 生徒のメンタルが乱れているだろうと判断した磁水はその場に残り、マワリは鈴菜に連れられて居住スペースへと向かった。


「鈴菜さん、ごめんなさい……」

 ソファーに座らされ、やっと落ち着いてきたマワリが謝る。

「大丈夫よ。それより星月さん、もしかして如月くんの記憶を取り戻そうとしてたの?」

 思わず驚いた顔をしてしまうマワリ。それが答えにもなっていた。

「ルネと言っていたの。記憶を取り戻したくて必死なのねって。でも、私は星月さんの気持ちがわかるから二人で話し合って見守ることにしたの」

「磁水先生も記憶を失ったことがあったんですか?」

 鈴菜は首を振る。そして、どこか懐かしそうに彼と再会した時の話を始めた。

「私と再会した時、ルネはまだ記憶を思い出してなかったの。私は七歳の時、ルネは十四歳の時に記憶を思い出したから、私が早いと言えばそうなのかもしれないわ」

 小学生で思い出すことが多い中、磁水は中学生と遅い部類ではある。それでも「遅い」と言わず、自分が「早い」と言う鈴奈に優しさを感じた。

「じゃあ、先生が十四歳になるまで鈴菜さんはずっと待ってたの?」

「うん。前世と違ってルネとは小さい頃からの幼なじみだったけど、昔はヤンチャなところとか、絵画に興味を持っていたのは前世と変わらなかった。それに、もし思い出さなくても私は今世もルネを選びたいと思った。だから、記憶を思い出した時に結婚しようねって約束したの。ルネはそのまま前世と同じように十四歳の時にお母さんを自殺で亡くしてしまった。それがきっかけで思い出したのだけれど、同時に生活のために高校は離れてしまったの。でも、約束通り大学は東京に戻ってきてくれて、そのまま卒業と一緒に結婚して。ここでまた暮らしているの」

 磁水からは絶対語られない二人の話。磁水は今世でも、いや今世ではさらに自分の事を残さない様にしているのであまり自分の事も話さないのだ。磁水の情報は周囲の人の話で知ることが多いほどには。

 思い出さなくても好きな人だから。それは無償の愛に近いものかもしれない。けれど「博愛」ではない。好きな人にしか向けられないものなのだ。

 鈴菜はマワリの頭を撫でるとこう続けた。

「星月さんは如月くんが好きなのね」

「そりゃあ、ボクにとって師匠みたいなものだし、尊敬してるから……」

 キョトンとしている彼女に鈴菜は優しく笑うと手を握った。

「あなたは女の子だからつい、頑張りすぎちゃったのよね。この歳の女の子は純粋で素直だからこそ果敢に挑めるもの。私たち大人が無謀だとか、自己責任から動けないことでも。まだあなたの魂は前世の方に引っ張られているけれど、時間と環境がきっと今世のあなたらしくしてくれる。だから私は、星月さんには前世とか関係なく生きて欲しいかな」

 何故、鈴菜が女の子扱いしてくるのかイマイチ分からなかった。自分が転生者だと知らない人はいざ知らず、知っている人からは女の子扱いされたことなどあまりないからだ。前世との性別が違う場合、どうしてもどう見ていいのか戸惑う人が多いのもあるが、女性性と男性性が人より強く両立している。その為、完全に女性としては見るには少し違う、けれど男性でもない。そんな、セクシャルマイノリティーとはまた違う不思議な状況が生まれてしまうのだ。

 けれど、不思議と落ち着いていく自分がいた。画家とは関係ない彼女だからこその見る視点のおかげかもしれない。

「大丈夫よ。星月さんが信じている限り、いつかその時は来るから」

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