第8話 突拍子もない画家

「ルネ、お昼休憩が来るから台所あけるのよ。生徒さん困るでしょ」

 机の掃除道具を持った鈴菜。時刻は11時56分だ。磁水はパソコンの画面を見たまま返事をした。

「ああ。そうだね。でも、ここがもう少し……」

「お昼休憩来るでしょ」

「……はい」

 タブレットパソコンとアイデア画などを片付け始める磁水。鈴奈は空いたところから机を拭き始めた。

 その様子を廊下を挟んで教室から見ていたマワリはあさひに話しかけた。真珠はお盆休みをもらっており午後から参加のためちょうど二人だけなのだ。

「先生ってさ、本当に鈴菜さんには逆らえないよね。書面書かされているし」

「まあなー。あの夫婦は前世から美男美女のオシドリだしな」

「え、じゃあ何で不倫なんか……」

 以前聞いたことが、ずっと納得がいかなかったのだ。前世では離婚の話も出た二人が今世でも結婚しているのが。それほど好きならそもそも不倫なんてしないのでは、と。返したあさひの言葉は予想を上回るものだった。

「あと、ダブル不倫な」

「なおさらなんで!」

「知らねえよ! アタシも知った時意味わからなかったよ! でも先生が原因だったし、後悔してるから前世でもやり直せてるんだよ。相当時間はかかっているけどな」

 ホームシックという絵は不倫をしてしまった後悔からできた作品だとも解釈できる。鳩と言った白い翼を描くことの多いマグリットが反省の意味を込めて黒い翼で描いている。

「鈴奈さんもやっぱり先生が好きなんだね」

「そうじゃね。じゃないと今世も結婚なんかしねえよ。鈴奈さんが小さい頃、先生にプロポーズしたぐらいなんだしさ」

「なんて言ったの?」

「『大人になったら結婚しようね』だってさ」

「わー!素敵!」

 目を輝かせるマワリにあさひは言いにくそうに続けた。

「いや、続きがあるんだよ。『今度は他の人好きになったら許さないから。何言っても離婚ね』だってさ」

「そこは聞きたくなかった……。怖い」

「アタシらは前世は男だからな。女から言われたらこれは怖い。でも、今は女だから鈴奈さんの気持ちもわかる。不思議なもんだよな」

 前世で同じ過ちをしているあさひは尚更、両方の気持ちがわかるのだろう。どこか苦い顔をしつつも、一人頷いていた。

「それに芸術への愛情は真の愛情を失わせるからね。ボクは先生じゃないからこれが合っているかは分からないけれど、先生は好きな人への愛があってこそ芸術への愛があるんだろうな。ボクはその逆だけど」

 『芸術愛は真の愛情を失わせる』ゴッホはそう、事あるごとに弟の手紙へ残していた。芸術と他者との愛の両立は芸術家には難しいと行きついた、両者で悩んだ彼らしい言葉だ。だからこそ、ゴッホはある時期を境に異性関係から離れ、絵に没頭するようになったのだろう。

「『恋』の愛を選ぶか、『芸術』の愛を選ぶか。あたしらには永遠のテーマだな。これが噛み合わないから芸術家は恋愛でもめてる。和解出来た先生たちが特例なだけだ」

 あさひの言うこともまた事実だ。今でも仕事と恋愛の両立は難しい人はどんな業界だろうと一定数いる。それは決して悪いことではない。その人なりにプライドと努力があってこその感情なのだから。

「ねえ、あさやん。後悔とか、反省とかしている気持ちって相手に伝わるものなのかな」

 その質問にあさひはすぐ返せなかった。まるで自分の後悔について聞かれている気がしたからだ。だからこそ、彼女はハッキリと自分の考えを言う優しさを選んだ。

「全ては無理でも伝わるんじゃない。でも、許すとかやり直すは相手の気持ちがあっての話。許されたい、やり直したいって言うのは独りよがりな押し付けだ。それでも伝えたいなら伝えるべきじゃねえの。ずっと後悔しながら生きるよりはいいだろ」

「うん。そうだね。ボクもいつか伝えられたらいいな」


 休憩中も資料集めとクロッキー帳にメモをしているあさひの邪魔をしないよう教室に戻ったマワリは次の授業で伝えるアドバイスをメモしている磁水に声をかけた。

「先生。先生もやっぱり有名になりたい気持ちってあったの?」

「どうしたんですか、急に」

「先生の前世も含めてなんで今世も画家になったのか不思議というか。あまり有名になりたくない感じがしたというか……」

 マグリットは近所では犬のことやチェスの腕の方が有名だったという話があるほどに画家としての記録が少ない。時代が近代ではあるため、フェルメールほどではないが。ちなみに前世でも白いポメラニアンを飼っており、犬のためにアパートは庭付きの一階にしている。

「確かに私は前世でも、今でも公に認められている人や認められたい人に対して不信感もありますし、共感もできませんよ」

「じゃあ、尚更なんで、画塾の先生なんて。それこそプロになりたいって夢描いている人の集まりじゃんか」

「生活のためです」

 ハッキリ言った! え、じゃあなんでデザイナー業も。アトリエの中には先生の作品もあるし、時々展覧会の打ち合わせの連絡も来てるから画家だけでも申し分なさそうに見えるんだけどな。

「デザイナーは残業ばっかりですから、副業として仕事をしています。フリーランスだと自分の都合で仕事が出来ますので。本業は画塾講師ですが、転生者の数も限られていますし、私にも抱えられる生徒は限られています。瀬川さんのように多くの転生者の前で教鞭を振るうことが出来る人は普通いません。なので、生徒が減る時期はデザイナー業と掛け持ち、長期休みは画塾の講師のみ。その合間に契約しているギャラリーからの依頼を受けて作品を制作しています」

 所属画家も自由ではないですよ、と付け加える磁水。実際、所属画家は規定や制約が多い。作品のサイズやテーマの指示もあれば、締め切りももちろんある。ギャラリーに対して不信感を抱く事だって当然出てきてしまう。そのため、フリーランスで画家をする人も出てくるというわけなのだ。これは画家に限ったことではなく、小説家などの文字を扱う業界やハンドメイドといったものづくりを扱う業界にも言える。

「お金を気にしてるってことは、奥さんのため?」

 その質問には黙って作業に戻ろうとする磁水。

「図星だ!」

「まあ、そうです。今世でも彼女には救われましたし、生活の基盤があってこそ仕事が出来ますから。生活の安定や健康が大事なのはあなたが一番よく分かっていると思います」

 今度は自分が黙りこくったマワリに磁水は続けた。

「それにこの画塾に生徒として推薦したのも、生まれ変わってることを理事長に口止めしていたのも如月さんですからね」

「えっ。なんでノアがそんなこと。生まれ変わったことをボクに言いたくないのはわかる。でも、それなのになんでわざわざ自分が講師をしている画塾なんかに……」

 自分は恨まれているのだと、まだどこかで思っている彼女は言葉を待つ。同時に聞くのが恐ろしくもあった。記憶があった時の彼が一体自分に対して何を残し、どう思っていたか。短い間とはいえ、前世では一緒に住んでいたので聞いてしまえば分かってしまうのだ。

「『きっと困っていると思いますから助けてあげてください。これがわたしに出来るかつての友への報いです』そう言ってました。口止めしたのもあなたに負担をかけないためでした。けれど、ちょうど記憶を喪う前にあなたを画塾に入れてあげて欲しいと、電話が来ました。前世の苦しみも、善行も今世で報われるべきだと」

 ノア。やっぱり、ボクは君があの絵を描いた理由がわからないよ。

「人はいついなくなるか分かりませんし、私たち転生者は記憶を失う可能性もあります。別れが迫った時にこそ、自分が何をしたいか気づくのです」

 前世は妻を残してガンで亡くなった磁水。その言葉は経験者にしかない重みがあった。


「暑いな~。こんな時は冷えたコーヒーがいいよ」

 午後の授業の十分休憩。喚起の為、油絵を描く際は窓を少し開けているため教室は暑くなるのだ。涼しさを求めて台所へ向かったマワリは中へは入らなかった。磁水とノアが話をしていたからだ。

「先生。申し訳ないのですが、この夏で講師を辞めさせてください」

 盗み聞きはいけないと分かっていても足が動かなかった。大事な話をしているせいか閉まっているドアの前で彼女はずっと立ち尽くしていた。

「理由は聞かなくても大体察しがつきますが」

「ここの生徒たちは確かに才能がありますし、性格も決して悪いわけじゃあないんですけど……」

「星月さんですよね」

「はい……。まだ星月さんが入って一か月ほどなのに一世紀も一緒にいる気分になるんです」

 黄色い家での共同生活を振り返ってゴーギャンは「あの時期は一世紀もの長さに感じられる」と実際、回想記として残している。その言い回しが皮肉にも自分の探していた人だったのだと突き付けられるのだ。

「確かに変わった人ですけど、そんなに拒否反応が出るんですか?」

「正直、東京に帰りたいです」

 断言した彼に磁水も止めはしなかった。記憶を失い、取り戻す気配のない転生者を置くことはそもそも出来ないことだった。転生者の情報の流出にも繋がるからだ。けれどタキと話し合い、記憶が取り戻すかもしれないという可能性にかけて今年だけはと辞めさせることをしなかった。磁水も心配ではあったのだ。画塾の一期生だから余計だろう。私情はこれ以上入れられないのだ。

「分かりました。三十一日付で退職という運びにしておきます。それまではよろしくお願いします」

 マワリは身体が冷えていくのを感じた。そして居ても立ってもいられなくなり、台所に飛び込んだ。

「ノア! 本当に辞めるの……?」

「あ、はい。今、そう決まったので」

 どうしよう。どうしよう、どうしよう……。ボクのせいだ。ボクがあんなこと言わなかったら。違う、ボクがこんな性格じゃあなかったら良かったんだ。全部、ボクが悪いんだ。

 頭の中がぐちゃぐちゃになり、息が詰まる。過呼吸をこのままでは起こしてしまうと自覚もしていた。けれど、最後のチャンスだと気づいたら叫んでいた。

「じゃあ、ボクと絵で勝負して! お互いの自画像を描く。君はボクを描いて、ボクが君を描く。それで負けたらボクは二度と君たち兄弟に関わらない。約束する」

 言葉に詰まるノア。辞める理由になっている人から勝負を申し込まれて困ってしまっているのだ。

「如月さん。最後ぐらい絵を描いたらどうですか。星月さんの油絵の指導もありますし。私は講義の時間を使ってもらって構いませんよ」

 磁水の助け舟にマワリとノアが驚く。まさか、自分の味方をしてくれると思わなかった分、彼女はなんでと言いそうになった。

「先生っ。……分かりました。」

 上司命令として仕方なく受けたノア。磁水はそのまま教室へ行き、準備を始めた。用意されたキャンバスはF15。小ぶりなサイズと言えばそうだが、受験勉強では一般的で、短期間で描くには十分だ。テレピン、リンシードオイル、筆など基本的な画材のみでの使用。大学での試験は持ち込み制限があるのでその再現だ。

「あいつら勝負でも始めるのか?」

 磁水と、絵を描く準備を始めた二人の様子にあさひが真珠に尋ねる。

「そうなんやって。決してお互いの絵は見ない。俺たちと先生が審判やってさ」

 不思議なルールに真珠は首を傾げる。あさひは並んでキャンバスに向かった二人にどこか懐かしい眼差しを向けていた。

「まるで、黄色い家の再来だな」

 

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