第7話 ずっと、ずっと弟だよ


 画塾を出た途端、マワリは糸が切れたように声を上げて泣き始めた。

 一気に不安と後悔がこみ上げてきたのだ。

 季節外れの雨が降り始める。顔は濡れて泣いているかどうかもわからない。パチンと音を立てて髪ゴムが千切れる。足元が滑って何にもないところで転んだ。

「もう無理だよ……ボクなんかに記憶は取り戻せないんだ」

 悔しさよりも悲しみの方が勝っていた。前世から自分は変わってないのだと。

「いっつもそうなんだ。僕はいつも良かれと思ってやり過ぎて、押し付けて、周りが見えなくなって。大事になってから後悔するんだ。また、同じことして嫌われたんだ」

 狂人としてのイメージを持たれがちなゴッホだが、根っこの性格はお人好しが空回りするほどの純粋な心の持ち主だ。それは牧師の家に生まれた影響なのだろうか。ある時は宗教を通じて、画家になってからは絵を通じて農民や貧しい人を救いたい気持ちに溢れていたものの、いつだって上手くはいかなかったのだ。他にも才能があれば救う道はあったのだろうが、芸術でしか生きていけれない人だってこの世の中にはいるのだ。

「神様、ボクが前世も今世も悪かったから。ボクが不幸になるのは当然だから。あんなに芸術を愛している人から本当の芸術への愛を奪わないでよ! ボクたち描くことしか出来ない人には真実の愛より芸術の愛が大事だから! お願いだから、元の彼に戻してあげてよ……」

 その場で肩を震わせながら泣いていると急に雨が止んだ。顔を上げると心配そうな顔をしたタキが傘の中に入れていたのだ。

「テオ……」

「姉さん、ごめんね。また一人で抱え込ませ過ぎた」

 また、というのは前世のことだろう。自分の兄だった人が今世も気丈に振る舞って、こうして追い詰められていたのだから。

「そんなことないよ! ボクの、全部ボクのせいなんだ!」

「違うんだよ、姉さん。これは俺の責任でもあるんだ」

 タキなりに話したいことがあるのだろう。マワリは立ち上がり、タキに提案した。

「学園の寮に外部の人と話せれるところがあるから。そこで聞くよ」

 一つの傘を共有して歩く二人。その姿は兄弟のようであった。

 バスに乗って二十分。寮の近くにあるバス停で降りた二人は無言で寮へ向かう。そして、管理人に伝えロビーに入った。

「マワリ、その子誰?」

 ロビーにいたクラスメイトが話しかける。一年生は帰省する人が多い中、残っている数少ない転生者だ。

「弟だよ」

「え、一人っ子じゃなかったの……?」

 訝しげに聞き返すクラスメイトにハッと口を押える。前世が知名度のある人物であり、今世はSNSでは有名なため、同級生なら今世の自分について知っていることも多いのだ。するとタキが堂々と言った。

「弟です! 俺が生まれてくるお腹を間違えただけで、兄弟です!」

 そして、深々と頭を下げ、

「いつも姉がお世話になっております。ちょっと感情的なところがあると思いますが、姉はこの通り美人で優しいので今後ともよろしくお願いいたします」

と、挨拶をする。マワリは「テオ、照れるよ~」と、笑っている。

 クラスメイトも前世で兄弟だったのだとようやくわかり、若干引きながら女子寮へと向かった。

 けれど、その明るさは作っていただけだった。ロビーのソファーに座った途端、マワリは苦しそうに顔を歪ませる。その顔を見たタキは申し訳なさそうに口を開いた。

「俺、どうしてもノアさんのこと家族として見れないんだ」

 それはマワリも薄々は気づいていた。前世は兄弟仲も家族仲もいい彼だ。今世でも家族愛は深いだろう。けれど、どこかノアには距離感があった。記憶の有無関係なく、タキはノアに対していつもぎこちないからだ。

「やっぱり前世は他人だから?」

「うん。俺が画商だったこともあるから余計。作品を見ても画商の目で見てしまう。だから、心のどこかで距離を置きたい自分がいた。記憶がなくなったと分かった時も姉さんみたいに感情が動かなくて。血縁上は兄弟なんだからって焦ったし、周りにも訝しげに思われそうで怖かった。だから、姉さんに頼ってしまって……。本当にごめんなさい」

 落ち込んでいるタキ。その頭をマワリは撫でた。

「いいんだよ、テオ。ボクは君が頼ってくれて嬉しかったよ」

「姉さん……」

「前世の君はボクに頼れなかった。こんな不甲斐ないボクだったからさ。でも、どんな理由であれ、形であれ、頼ってくれて。前世のボクは君の兄で良かったよ」

 そして、マワリは星明りが消えるように暗く憂いを帯びた顔でこういった。

「テオ。ボクは今世に生まれてから、たくさん後悔してるんだ」

「生まれてきたことを? 姉さん、また自殺なんか……」

 タキの表情が一気に強張る。前世で最期に交わした言葉が「このまま死んでゆけたらいいのだが」だったからだ。その言葉に苦しみや葛藤全てがこもっていた。だからこそ、もう同じような言葉を残して死んでほしくないのだ。

「やめてよ、姉さん! お金だってなんだってどうにでもなるから! 俺が何とかするから! だから、死ぬなんてもう考えないで……」

 堰を切ったように泣き始めるタキにマワリはまず抱きしめた。誤解をしているのは明らかだが、ここまで取り乱す理由もわかっていたのだ。

 前世ではずっと弟にお金を返せないことを悔やみ、返せなければ命を自ら断つと事ある事に叫んでいた。けれど、それは言ってはいけない言葉だった。

 自分の死後どれだけ弟がショックを受け、そして後を追うように衰弱して死んで行ったこと、そして兄の親友ベルナールに兄の絵を託したことをこの情報が簡単に得られる現代で知ってしまったからだ。

 『ああ、母さん。彼は本当に僕の、僕の兄さんだったのです』

 死後、弟が母親に宛てた手紙を思い出す。パリで共同生活をした時は妹に「早く出ていって欲しい」と愚痴をこぼしていたものの、兄への思いはこの手紙の言葉と生涯が物語っていた。

 テオ、ごめんね。ボクは君の思いまで気づかなくなってしまっていたんだ。

「違うよ。前世でのこと」

 そう否定すると少しだけ、安心したようにタキは顔を上げた。けれど、マワリの顔は悲しげなままだった。

「ボクはたくさんの人に迷惑をかけたなって。前世でお父さんが死んだのもボクのせいかもしれない。たくさんの人が絵を学ぶ機会を与えてくれたのに踏みにじってきた。テオ、君にもボクはたくさん怒って酷いことを……」

「姉さん、俺はわかってるよ! 姉さんが、どんなに苦しんでいたか。先の未来が不安なのも、死にたくても死ねなかったのも。それでも姉さんはズルはしなかった。今度は売れる、今度はもっと上手く描く、そうやって信じ続けて描き続けた。だから、姉さんが天才だって証明された現代に生まれて、フィンセント・ファン・ゴッホの弟に生まれたことが誇らしいよ!」

 また涙をためて訴えるタキ。確かに彼女の言うことは正しい。けれど、また彼の言うことも正しいのだ。絵が売れない度に、才能ある人を前にしてうちひがれてしまいそうになる度に、手紙で「もっと上手く描く」と必ず書き残していた。不安だと吐き出したいこともあっただろう。けれど、不安定な精神状態の中で少しでも前向きにもがいていたのだ。

 彼女はただそっとタキを抱きしめた。

「でも、ボクはまだ怖いんだ。いつか誰かが離れていくのも、両親がいつか死んでしまうのも。全部、ボクのせいでそうなって欲しくない。両親のこと大好きなのに描けないんだ、両親の絵。ボクが絵なんか描いてたらいなくなってしまいそうで。ボクは今世では家族と仲がいいのに……心から家族っていうのが怖い」

 両親がいなくなるかもしれない。大事な人達がいなくなるかもしれない。それが人物画を描けなくなった理由であった。前世では両親と仲が悪くなった頃、父親が亡くなってしまった。その時、父親を苦しめて死に追いやったと、妹から責められてしまった傷がまだ残っているのだ。

 タキは真剣なまなざしを彼女に向ける。容姿は変わっても、目の色も違っていても、懐かしい弟の姿がそこにあった。

「姉さん。俺はずっと家族だよ。ずっと、ずっと弟だよ。前世からずっと」

 泣きそうになるのを堪えながらマワリは更に強く抱き締めた。

「うん。ボクもだよ。君に再会して思ったよ。君はボクの仕事仲間で、友で、弟なんだ。前世からずっと」


「アイツら、絶対なんかあったよな」

 コンビニへ来たあさひは真珠に話しかける。頭の回転の早い真珠はすぐに午前中のことだとわかった。

「マワリちゃんと如月さんことやろ? 今日めっちゃ距離感あったし、二人とも近づかんようにしとったな。マワリちゃんはあんなに懐いとったのにな」

「マワリも追い詰められたんだろうな。前世から好き放題したように見えるけど、根は繊細で優しいやつだから」

「オレはあんまり二人の前世知らんのんやけど、そんなに関わりの深い人なんやな」

 バロック美術は印象派の時代よりもはるかに前だ。どちらも美術史において有名な時代とはいえ詳しいことは、調べない限り知る機会はないだろう。

「深いも、何も、現代ではお互いの生涯を語る上では欠かせない存在だ。どちらも後期印象派を代表する画家だし、あの二人が共同生活してなかったら美術史はまた変わっていただろうな。マワリは前世で晩年ほとんどを入院生活で過ごしてる。最期に自分の友であり、憧れの人にもう一度会うことが出来なかった。それなりに話したいことはあるらしい」

「如月さん、記憶なくなってしもうたからな。あさひ先輩から聞いた時、びっくりしたわ」

 画塾の生徒同士でもあり、友達同士でもある二人は連絡先を交換していた。長期休みしか通えない真珠に画塾の情報を伝えているのだ。

「元々如月は前世から身体が弱かったからな。特に今世は心臓が弱くて、高校の時はしょっちゅう発作起こしてる。これも前世の影響だ。だから、転生者として受け入れる器も不安定になりやすかったんだろうな」

 あさひはお目当てのコンビニ限定コスメを手に取ると、飲み物のコーナーへと行き、ブラックコーヒーの缶もカゴに追加した。

「記憶を取り戻す手伝いをする気はないけど、話ぐらい聞いてやるか。先輩だからな」

「せやな。オレにとっても初めての後輩やし、一緒に聞くで」

 あさひは「助かるよ」と言うと真珠の好きなジュースも追加した。


 台所で一人、休憩時間を過ごしているマワリはただずっと虚空を見つめていた。

「姉さん、食べないの?」

 今日は来ているタキがマワリに話しかける。するとぎこちない笑顔を返した。

「そうだね、食べないと絵もいいものが描けないよね」

 けれど、弁当は食べる気にはならずいつも持ってきているいちごのみを食べるだけだった。

「姉さん。休んでいいんだよ」

「そんな訳には行かないよ。両親だってせっかくが塾代払ってくれているんだしさ」

「でも、このままだと姉さんがまた潰れてしまうって。もう姉さんには、あんな死に方も苦しみも味わって欲しくないんだ……」

 昨日のこともあってその場しのぎの優しい言葉もかけることが出来なくなる。沈黙が続いているとコンビニから帰ってきた二人が入ってきた。

「タキくんまで、めっちゃ顔暗くなってるんやけど! どしたんや! 葬式か!」

 葬式に出席しているような二人の様子に真珠の明るい声が虚しく響く。

「今度は前世の兄弟喧嘩か?」

「違います! 姉さんが心配なだけで……」

  その続きは慌ててマワリが無理して作った明るい声で割り込んだ。

「大丈夫だって、みんな! ボクは元気だしさ!」

 とはいうものの、二人の顔は暗いままだ。あさひは真珠に座るよう促すと、自分もキッチンの椅子に座った。そして、全員分の飲み物を置いていく。

「丁度いい。何があったか聞くよ。人生の先輩としてのよしみだ」

「ありがとう……」

 缶コーヒーを半分ほど飲んだ彼女は昨日の事を話し始めた。

「昨日、ノアに酷いこと言っちゃったんだ。今のノアを否定するようなこと。頭では状況が分かってはいる。ボクだって、前世だけで見られたらヤダに決まっている。でも、この現実が辛くて、受け入れられないんだ。ボクは今まで何のために頑張ってきたんだろうって。そう思うのも独りよがりで嫌で仕方なくて。どんどん八方塞がりになって……」

 ブラックコーヒーの苦い味が口に広がる。普段は好きな味がこの時ばかりは牛乳を入れたくなった。

「姉さん。本当にごめんね。やっぱりオレがもっと手伝うべきだった。そしたらこんなに苦しませなかったのに」

 薄っすらと涙が滲んでいるのを見てしまったタキがもう一度謝る。否定をするように首を横に振るマワリ。その二人の様子に真珠は同じくコンビニで買ってきたお菓子を一つずつ置いていく。

「二人とも優しすぎるんやな。ええ所やけど、自分の首締める優しさはアカンで。それにタキくんの作戦も正しいし、マワリちゃんの動揺も正しい。事がそれほど難しいだけなんや」

「お人好し兄弟だからな、アンタらは」

 そう、肩をすくめたあさひと、タキの頭を撫でる真珠。

「言っておくけど、アタシらは今回の事には関わる気は無い。でも、客観的な意見なら言えることもあるだろうよ」

「助かるよ。ボクたちじゃあ、当事者だからもうどうしていいか分からなくてさ」

 当事者からでは距離が近すぎて見えなくなってしまうこともある。そして、どうしても主観で捉えてしまいがちだ。第三者の意見というのは耳が痛いこともあるようで、関係性によっては心配をしているからこそ意見を出してくれることもある。人というのは思っているよりも他人に干渉したくないからだ。

「前世と同じことしたらええんちゃう?」

 二人の前世をあまり知らない真珠の提案にあさひが即座に止めた。

「真珠、そんな事したら授業どころじゃなくなるぞ。磁水先生が怒って二人を追い出したらどうするんだ」

「難しいなぁ。よくテレビとかでは鉄板な方法なんやけど」

 前世と同じこと。黄色い家でのことを、したら、今度こそ最後なんだろうな。

 目の前が一瞬歪む。貧血にでもなったかのように顔の温度が下がる。前世の自分の部分がその先を考えるのを拒否していた。

「姉さん、顔が真っ青だよ」

「あれ、どうしたんだろ……。朝は何ともなかったのに」

 あさひが出したコンパクトミラーに映った自分を見る。唇の色が悪く、クマも出来始めていた。

「マワリちゃん、今日は帰った方がええで。休むのも絵を描くには大事や」

「先生にはアタシから言っておくよ。まだバスの時間には間に合うだろ」

 二人の勧めにマワリは渋々といった様子で帰る支度を始めた。きっと無理やり続けてもここにいる人たちは止めることを分かっていたからだ。

「オレが送らなくて大丈夫?」

 画塾の外。門の前まで心配でついてきたタキに笑顔を向ける。

「うん。大丈夫だよ。ノアは……君とボクが一緒にいるのをよく思ってなさそうだし。でも、責めないであげて。ノアだって悪くないんだからさ」

 今度はタキが渋々といった様子で頷く。マワリは優しく頭を撫でると画塾を出た。

 その背中をタキは消えるまでずっと見つめていた。


 バスは思ったよりも早くやってきた。バスに揺られると心地よく、眠気を誘う。狭くなっていく視界の中、通り過ぎる景色にどこか懐かしさを感じる色を見つけた。

 あれは……!

 思わず停車ボタンを押したマワリ。眠気も吹き飛んだ彼女は停まったバスから降り、その色に向かって走り出した。何度か来たことのある田舎町の記憶を辿り、細い道を何度も繰り返した先に目的の場所はあった。

「あぁ……ひまわりだ」

 青い空の下、太陽の色をしたひまわり畑が広がっていた。

「黄色は、希望の色。神聖で、光の象徴。太陽は、神だから」

 目の前の風景はまるで大きな、大きなキャンバスのようだった。印象派のように色彩豊かに平たく塗った青色に筆の息遣いを感じる白。空気の動き方がまるで新印象派のような点描のような、重なりで動いていく。そして、たっぷりと絵の具をつけ、盛り上がった黄色は象徴的で、自分がかつて生きた後期印象派だ。

「そうだった。君の部屋には白い壁にひまわりの絵を飾るんだって、ワクワクしながら描いたんだ」

 彼女は黄色い家にいた頃を思い出す。日本の文化に憧れ、生活に困窮していた画家をどうにかしたいと思い、画家の共同生活を考えたのだ。黄色は愛のある光。きっと画家たちの希望になると信じて。

「あの頃からボクは無謀だったんだよ」

 黄色い家の結末がどうなったのか。それは一番マワリがよく知っている。そして、ずっと、ずっと悔やんでいた。きっと、自分は恨みのひとつやふたつは持たれていると思っていた。けれど、ある絵を知ってから分からなくなってしまったのだ。

「ひまわり……肘掛の椅子……君の現地妻……」

 ひまわりを見ながら彼女はその絵に対して呟いた。

「なんで、ボクが死んだ後にあんな絵なんか描くんだよ、ゴーギャン」

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