第3話 睡蓮の庭

「おはよう!ノア!」

 いつものように元気に挨拶をするマワリ。生徒が使う道具のチェックや各自の予定の確認など授業の準備をしていたノアが手を止め、返す。

「おはようございます、星月さん」

「マワリでいいっていつも言ってるじゃんか!」

 膨れている彼女にノアが困ったように笑う。それが一週間も続けばだんだんとこの画塾の日常になってきていた。けれど、日に日に本当に記憶を失っているのがただわかるだけだった。

「星月さんは油画専攻志望でしたね」

 授業が始まってすぐに磁水から話しかけられたマワリは大きく頷いた。

「はい! 今世でも油絵を描きたいので!」

 彼女の意気込みとは裏腹に磁水の言葉は現実的だった。

「でしたら、デッサンを鍛える必要がありますね。デッサンは美大受験において基礎ですから。特に石膏デッサンが苦手なようなのでまずは石膏デッサンをしましょう」

 やっぱりデッサンのことは言われるよね……。ボクはヌードデッサンならまだ描けれるけれど、石膏デッサン苦手なんだよな。ヌードデッサンの方がリアリティあるし。でも、受験と言えば石膏デッサンだから仕方ない。今世は前世みたいにワガママできる訳じゃあないから。

 少しため息をつく彼女をよそに磁水は近くにいた女子生徒に話しかけた。

睡庭すいていさん、隣でデッサンさせても大丈夫ですか?」

「聞かなくても大丈夫だよ、先生。ただでさえ一人一人違うカリキュラムなんだ。石膏像、シェアして描くぐらい学校の授業じゃあ当たり前だしな」

 そう言いながら手を動かしている女子生徒。青緑のウルフカットに濃いメイクが一見ギャルに見える。が、鉛筆で描いている石膏デッサンはそんじょそこらの美大を目指す生徒より格段に上手い。

 磁水に指示された席で石膏像に向かう。今回用意されたのはマルス像。石膏デッサンではよく描かれるものだ。そして、いくつか静物デッサンで使われるモチーフも置かれていた。

 大きな板に紙を止めて木炭を持つ。まずは頭と横幅、胴体の切れ目の当たりを取る。そこから正中線を描く。こうして構図を決める。

 構図はデッサンにおいて重要だ。大きく描きすぎるとモチーフの全体像が見えないし、小さく描きすぎると見栄えがしない。また、どこを切り取るかも重要だ。静物デッサンなどは切り取ったもので勝負することもある。

 マワリは木炭デッサンの為まず、陰影をガッツリ入れる。そして、食パンの白い部分で白く抜く。すると柔らかい灰色になる。ハイライトの所は食パンを固めて白抜き。鉛筆デッサンの練り消しのような要領だが、食パンは柔らかい表現が特徴だ。

 食パンをちぎる度に小麦と甘い香りが鼻をくすぐる。そのせいで食欲も湧いてしまった。

「お腹すいたな……食パン……」

 パンの耳だけが余っていくんだよな……。これ、どうやって食べよ。

「星月さん、もう少し筋肉意識してください」

「は、はい!」

「同じ神の像でも、エルメス像とは違いますからね。マルス像は戦うための筋肉です。あと、左右の余白を意識してください」

 先生厳しいよ。でも、実際言われてること当たってるんだよな。

「睡庭さんは同じところを集中する癖に気をつけること。受験は時間制限がありますから。ここの影の描き込みが甘いので強く描いてください。あなたはスピードの速さと集中力が取り柄ですが、時として裏目に出ることもあります。飽きっぽいところもありますから。試験中は周りに流されず全体を見ることを意識してくださいね」

「はい……」

 紅くマットに塗られた唇を尖らせながら女子生徒は描きこんでいく。けれど、指示通りに直していく姿は見た目にもよらず真面目だ。

 ボクも、もう前世のように怒ったりしない。

 前世での画塾ではよく、指導者との意見が合わず上手くいかなかった。だから彼女は最初、画塾に入るのが不安ではあった。けれど、今はこの場所にいる理由がある。前世のように合わないからと辞める訳にはいかないのだ。

 

 午前中の授業が終わった。休憩室にもなっている台所ではマワリが弁当を広げながら涙目になっていた。

「当り前だけど、上手く描けない。道具とかもっと使ってみたいけどそれはズルになるし、受験の時持ち物制限もあるし……。せっかくゴーギャンにも会えたのに。実家に帰りたいよ」

 泣きながら寮で作ってもらっている弁当を食べていると台所のドアが開いた。そこには先ほどの女子生徒がいた。目尻に濃くつけた紅いアイシャドウでも相まって一層眼力を感じたマワリは固まった。

「アンタ、泣いてんの」

「あ、ごめんなさい」

 慌てて涙を拭くマワリの隣に女子生徒は座った。そして、まじまじと彼女を見た。

 この人の目、不思議な色だな。朱い太陽みたいな色に霞みかかった水色が入っている。あ、これ……朝焼けだ。

「動揺して普段通りに描けてなさそうに見えるけど、何かあった?」

 図星だった。ノアの記憶を取り戻す為に必死だったが、実は話しかける度に動揺と緊張が身体を走っていたのだ。

「それが……。前世で知ってた人に会ったから」

「如月兄か。アイツ、めっきり変わったから驚くのは仕方ねえよ」

 言い方からしてこの画塾内では長い付き合いなのだろう。記憶があった時の彼を知っているとなると、マワリも食い気味に返事をした。

「そんなに!?」

 記憶を取り戻すことと関係ない女子生徒までわかる変化。マワリはたくさん聞きたいことがあったが、今はただ話を聞くことに専念した。

「そう。そんなに大人しそうな顔のどこから出てくるんだって言うほど熱意のある奴だった。技術もだけど熱意の方で圧倒された。昔っからアイツ熱意と運はあったもんな。今も熱意はあるんだけどね。なんか、違う」

 彼が熱意のある画家だったことはマワリが一番よく知っていた。だからこそ、違うと感じる意味も。

 女子生徒は思い出したように追加した。

「あと、タヒチ、タヒチ言わなくなった。バイト代貯めて、今度はアフリカ旅行に行きたいってこの時期は言ってたんだけどな」

「ノア……そうなんだ。やっぱり変わっちゃったんだ」

 よくタヒチの話をしてたと思い出すマワリ。ゴーギャンはタヒチを筆頭とした文明から離れた原住民の文化や人々に感銘を受け、その様子を描いたことで有名だ。最期もフランスを離れ、ヒバ・オア島で過ごしたほどに彼はそこに何かを見出していたのだろう。

「アンタ、前世誰? 普段から見てたら前世で仲良さそうに見えたからさ。まあ、そんなに関わりのあるやつって限られてるけど」

 当然と言えば当然の質問だろう。一方的とはいえ普段の距離感と、落ち込みようからして転生者なら誰でも前世で関わりのあった人だと気づくだろう。

「ゴッホだよ。印象派後期に活躍した」

 その瞬間女子生徒の顔色が変わった。その様子にマワリは今の時代でも残っている数々のエピソードのせいかと緊張が走る。自分の友達のように彼女もまた前世のイメージから色々聞かれることはあるのだ。

 また黄色い家でのこと聞かれるんだろうな。あの事は資料があまり残ってないし、ショッキングな話題だから今でも専門家が話題に挙げたがる。もう当事者同士にしか分からないことなのにさ。

 けれど、女子生徒が呟きた言葉は違った。

「印象派……」

「どうしたの?」

 その問いかけに彼女は首を振った。そして、納得したように頷いた。

「いや、なるほどな。ゴッホならよく知っているわけだ」

 うんうんとまた頷いた女子生徒は「アタシも名乗らないとな」と、自分の名前と前世を明かした。

「アタシは睡庭あさひ。モネの生まれ変わりだ」

 女子生徒の前世に驚きを隠せなかったマワリは大声を上げた。

「モ、モネー!?」

「いや、びっくりしすぎだぞ」

 苦笑しているあさひ。印象派を生み出した張本人が目の前にいるわけなのだが、本人は複雑そうだ。

「だって、モネと言ったら印象派を代表する! それにボクの絵を評価してくれた! え、でも女……」

「それは、アンタもだろうが」

 デコピンをするあさひ。予想以上に痛かったのかマワリは額を押さえた。

「転生者って謎だよな。こうやって女に生まれたりもするしさ。アンタもビックリした?」

 猫耳のリュックから菓子パンを取り出しながら、同じく前世とは異なる性別で生まれたマワリの意見を聞く。

「うん。色々勝手が違うから記憶を取り戻したばかりは不便だったし。でも一番びっくりしたのはテオがノアと兄弟だったことかな。でも、生まれてくるお腹ぐらい大差ないからねー」

 今世もテオは可愛い弟だよ、と笑う彼女に今度はあさひが大声でツッコミを入れた。

「いや! 大差あるからな!!」

「そうかな?」

 キョトンとするマワリ。この兄弟は前世から仲が良かったことを思い出したあさひは肩をすくめるとこう言った。

「まあ、絵の事なら教えてやるよ。いい後輩が出来たからな」

「うん!ありがとう!あさやん!」

 

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