第一八四話 暮れはじめた空に
目的地は、豊洲市場の真横だった。
そして書いてある案内で、俺はこの施設について聞いた事があるのを思い出す。
「これってあの、インバウン丼で有名になった施設ですよね」
「インバウンド、ドンですか?」
西島さんは知らない模様。意図して選んだ訳ではなさそうだ。
「五~六年くらい前、この施設が出来た頃に話題になったんだよ。ここの観光客用お買い物施設に、一万円以上するような海鮮丼が出ているって。そんなの普通の日本人観光客は食べない、円安で、かつ日本の相場がわかっていない外国人客だけが相手の値段だろうってことでさ。インバウンド客用の丼、インバウン丼とどっかの媒体が名付けたのが受けて、ちょっとだけ流行った訳だ」
「一万円以上する海鮮丼は、聞いた事がある気がします。かなり前だったと思いますけれど」
俺やアラヤさんがわかって西島さんがわからない、というのは年齢差のせいだろう。
「何なら明日、市場で良さそうなものを探そうか。冷凍ものならまだ大丈夫だ」
「船台でも市場に行きましたね」
「ああ。あそこよりは段違いに施設が大きいからさ。探すのは大変そうだけれど、面白いものがあるかもしれない」
西島さんと上野台さんの会話を聞きながら、俺は駐車場内の表示を確認する。
何処の駐車スペースが一番出入口に近いだろうかと。
◇◇◇
七階のフロント近くで館内服の浴衣や作務衣を選んだ後、六階に下りて、男湯と女湯の入口で三人とは別れた。
今回、風呂は男女別だ。
間違いなくアラヤさんのおかげだろう。
だから待ち合わせの午後七時まで、ひとりでゆっくりさせて貰う。
服を脱いで風呂へ。
広々としていて、なかなかいい施設だ。
サウナや水風呂、炭酸泉など何種類かの浴槽があるけれど、俺はまず露天風呂方向へと行ってみる。
うむ、広々としているし、開放感があっていい感じだ。
屋根はついているけれど、そこそこ高め。
しかも見えている部分は木製で、目に入る部分は和の宿の屋根付き露天風呂そのもの。
周囲は二方向が開放されている。
一応すりガラスっぽい壁で胸くらいの高さまでは隠されているけれど、その先は海、そして街。レインボーブリッジも。
とりあえず、日差しが直接当たらないぎりぎり付近の浴槽内に落ち着く。
お湯の質は正直、よくわからない。
タンクローリーで湯河原から運んでいると書いてあったけれど、人がいなくなった今は、タンクローリーも走っていないだろう。
だから西島さんなら、言いたい事はあるかもしれない。
でも俺にとっては、これで充分だ。
西島さんも上野台さんもいないから、ごろ寝スペースなんてのも後で使ってみよう。
内風呂側にあった寝湯を、試してみてもいいかもしれない。
寝湯と言えば、青森のあの温泉では目のやり場に困った。
ここよりずっと狭い風呂だったし。
ただそれでも、何か足りないと感じるのは何故だろう。
エロ的な意味では勿論ない。
一人で気楽な筈なのに。
そもそも、俺自身は単独行動が好きだった筈なのに。
答は、もうわかっている。
楽しかったのだ。
最初は西島さんと、更に上野台さんが加わり、途中シンヤさんもいた、この世界の毎日が。
別に、どうでもいい筈だった。
西島さんを手頃な行動目的として、同行しただけだった。
それが共依存っぽくなったのは、何処からだろう。
最初からだったかもしれない。
歪んでいると言えば、最初からきっと歪んでいる。
上野台さんを含めて、きっと。
シンヤさんはまあ例外で、きっとまともなのだろうけれど。
それでも、毎日楽しかったのだ。
宿が温泉巡りだったり、スーパーで好き勝手に食べたい物をさがしたり、魔物を倒したり、サービスエリアや道の駅でお土産を漁ったりするのが。
最初は2人で、そして途中からは3人でいるのが。
そんな日々も、もうすぐ終わりを迎える。
ちょうど今、向こう側に見えている、茜色をさしてきた空と同じように。
終わってしまえば、全てが消える。
記憶にさえ残らない。
そんなはかない世界の終わりを前に、俺は何をするべきなのだろうか。
後の世界に引き継げるものがあるとすれば、特典くらいだ。
俺はスマホを見る。
『一定以上の経験値を得た者は、特典を得る事が出来ます。特典とは、自らの願いをかなえる事が出来る権利です。ただし必要な経験値は、願いの難易度、具体的には願いをかなえるために必要な過去改変の困難度などによって上下します。また獲得経験値が高くとも、元の世界に戻る権利を有しない場合は、この特典は有効となりません』
既にわかっている内容しか、表示されない。
かなえられる願いは一つだけなのか、経験値はどれくらい必要なのか。
『元の世界で、西島さんが健康体になっているという願いをかなえるのに必要な経験値は幾つだ』
そう念じてスマホを見ても、何も表示されない。
なら、願いをかなえるのにやるべき事は、経験値を稼ぐことだ。
そして今、可能な経験値稼ぎは、東御苑の魔物相手くらい。
それはわかっているのだが、そうする気にならない。
これは俺の甘さなのだろうか。
ただ、何となくわかった気がする。
この世界が残り少ないにせよ、俺は俺としての行動しか出来ない。
俺自身がやりたくないと思う事は、多分出来ない。
きっとガキっぽい、意味のないこだわりなのだろうけれど。
さて、ちょっとお湯に浸かりすぎた気がする。
すこしごろ寝スペースで休むとしよう。
スマホ右上の時間表示は、まだ午後六時一五分。
待ち合わせの七時までは、まだまだ時間があるから。
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