第一五二話 取り敢えず妥協ということで
「厳しいです」
西島さんはそう言って、一呼吸置いて続ける。
「本当はこの世界最後の時に、私を田谷さんの経験値にしてもらうつもりでした。少しでも経験値が多い方が特典に届きやすいですから」
経験値にして貰う、か。
つまり元の世界に戻るつもりはないと。
「私の場合、元の世界に戻っても、また入院したり、学校でも何もできない生活に戻るだけです。この年齢まで治らないなら将来的に完治する見込みも少ないですし。なら今、一番楽しいこの世界で終わる方がいいです」
そこで不用意に『大丈夫だ』とか『そのうち良くなる』なんて言う事はできない。
今までそういった希望に何度も打ちのめされてきたのだろうから。
「難しいな。何とか翻意してもらいたいところだけれど」
「でも、今は楽しいんです。私自身がここまで楽しめるなんて事は、今まで想像できなかったんです。だからそれだけで充分ですし、田谷さんには感謝しているんです。だから、もし経験値を貯めて特典を使えるようにしたいと思っているのなら、それは田谷さん自身の為に使って下さい」
なるほど、こちらの意図も予想済みという事か。
でもそれは問題無い。
「それは心配しないでいい。俺自身の望みの為に使うつもりだから」
元の世界の西島さんの病気を無くしたい、というのは西島さんの為ではない。
俺自身がそう望んでいるからだ。
だから言葉的には、何も問題はない。
強弁だという自覚はあるけれど。
「さて、何か私が思っていた事をするような雰囲気じゃなくなってしまいました。それでも、何もしなくても一緒の部屋で寝るのはいいでしょうか。一人だと怖いんです。目が覚めると元の世界で、病室にいるような気がして」
これはまあ、仕方ないだろう。
ただ俺としても、ちょっとばかり条件というか、状況を確認しておきたい。
「なら、この近くにダブルベッドではなくて、ツインかそれ以上の部屋はある? 流石に一緒のベッドで一緒の布団というのは、俺としても結構何というか、辛いものがあるんだけれど」
「実はあります。上野台さんが使っている部屋を挟んで向こう側の部屋が、ツインの部屋です。今回は目的があったので、あえて3部屋しかないダブルベッドの部屋を3つとも使ったんですけれど」
なるほど。特別室とか大きな部屋を使わなかったのは、今回の作戦のためだった訳か。
何というか、勘弁して欲しい。
忍耐の限界を試されまくっている。
「それじゃこの部屋を片付けて、代わりの部屋の鍵を取りに行こうか」
「そうですね。どうせフロントまで行くなら、ついでにここの大浴場と露天風呂も見て来ませんか」
それはそれで忍耐を試されるのだけれど、まあ今日のところは妥協しておくか。
西島さんもベッド2つの部屋に妥協してくれたのだから。
「わかった。帰りに寄るか」
「ありがとうございます。それじゃこの部屋、未使用に近い状態に戻しますね」
西島さんの魔法は便利だ。
掃除と洗濯と同時に機能が働くので、あっという間に部屋は未使用状態に。
浴衣は一着使用してしまったというか着てしまったが、まあこれくらいは着たままでいいだろう。
押し入れにはまだスペアがあるし。
「それじゃ行くか」
「ええ」
部屋を出て、廊下を階段の方へと向かう。
◇◇◇
フロントで鍵を交換して、そして大浴場へ。
「女性用の方がちょっと雰囲気がいいらしいので、そっちにしましょう」
普通の大浴場も決して悪くはない。
大きな宿のように多種多様な浴槽がある訳じゃないけれど、そこそこ広い浴槽があり、綺麗な川と森の風景が大きな窓から見える。
そして西島さんは、更に奥にある露天風呂へ。
露天風呂と言っても屋根はしっかりある。
建物の中だけれど、壁が二方向ないという構造だ。
そして川方向は開けているけれど、横方向は簾で目隠しされている。
更に壁がない部分全体に、虫よけ対策なのか、細かい目のネットが張ってあった。
「蚊帳みたいですね。蚊帳の本物は見たことがないですけれど。確かに川沿いだし森も近いし、夏なら必要なんでしょうね」
「今のこの世界には虫はいないけれどな」
「そうですけれど、これはこれで独自に工夫している感じで悪くないと思います。 それにお湯はかなりいい感じです」
確かにただのお湯と違うのはわかる。
透明だけれど、何か微妙な重さと言うかとろみを感じる気がする。
あと浴槽は結構広い。
枠は木製で、床は石畳だ。
これくらい広いなら、今は慣れでなんとかなるな。
そう思ったところで、スマホが振動した。
見るとシンヤさんからの報告だ。
「今日は早いですね」
いつもならシンヤさんからの報告は、もっと遅い時間に入る。
大体午後9時から10時くらいだ。
今日は宿に早く入ったから、まだ午後6時過ぎ。
西島さんが言う通り、今日は早過ぎる。
『埼多摩県古志ケ谷付近で、火球魔法の連射を受けた。相手は魔物五〇〇体以上、ゴブリン上位種、オーク、オーガ等異種混成の大集団。日抗街道武刺野線ガードを糟壁方向から相花方向へ南下。当方はスクーターで脱出、被害なし。以上参考まで』
「これって率いているのは人か魔物、どちらでしょうか……。前に粟原で出遭った集団って可能性は無いですよね」
「可能性はあるけれど、わからないな。それに分かったとしても、あまり意味は無いし」
いや、わかるかもしれない人が、取り敢えず一人いる。
上野台さんは、東北六県のWebカメラをチェックしていると言っていた。
しかし東北六県だけなのだろうか。
あの人なら上手く行くとわかった時点で、もっと広域、下手すれば日本全域を確認出来るようにしていそうだ。
その辺の作業は名鳥の宿で個室だった時にはじめたと言っていた。
そして今日も個室だ。
飲んでいる様子を見せていたが、本当に酔っていたかは疑わしい。
それにひょっとして、多少の酔いは魔法で何とかなるのではないだろうか。
俺はスマホを確認して見る。
『泥酔状態であっても、簡易治療魔法で一〇分以内に治療可能』
ならば、確認しておいてもいいかもしれない。
俺はSNSの画面を呼び出して、上野台さんにメッセージを送る。
『相談したい事があるのですが、今は大丈夫ですか?』
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