二冊目『雷鳴の街』

犬三匹寄ればややこしい


「べー」


「……………………ヴェスペルティリオ」


「べす」


「ヴェスペルティリオ」


「べーすー」


「ヴェスペルティリオだ。いい加減にしろ、何度も言わせるな」


「もういいじゃないですかベスでも。大体あってるでしょ」


「何もよくない。合っていない。重要なことだ」


 隻眼のダークエルフが部屋の入口にほど近い壁により掛かったまま、その身長たっぱによる威圧感を最大限に活用して鋭く見下しているのは、最近ようやく言葉を話すようになったばかりの人間の幼児だ。

 百歳以上は年下の相手に大人げないと言うべきか、はたまた俺達も種族換算ではまだまだ少年期と呼んで差し支えない年齢であるからして、いっそ子供同士の喧嘩と温かく見守るべきか。


 にしても毎度毎度よくやるもんだと俺は呆れ混じりの息を吐く。

 しかしベス……もといヴェスにとっては譲れない事柄であるようで、やつは心底忌々しげに舌を打った。


「おまえと関わりがなければ、こんな幼体とっくの昔にひねり潰している」


「ガチギレじゃないですか。やめてくださいよ、この子の無事に僕の命かかってるんですから」


「分かっている。だから逐一訂正するにとどめてやってるだろうが」


 最大限の譲歩である、といった風情で幼児から目をそらしたヴェスは、その長い黒髪の三つ編みを虎の尾のように翻してこちらへ戻ってくると、机を挟んで俺の向かいの椅子にどかりと腰を下ろした。普段は所作が静かな男なのだが、随分とご機嫌斜めのようだ。

 あの幼児と名前についてのやりとりをした後はいつもこの調子なので、ほとぼりが冷めるまでさわらんどこ、と俺は素知らぬ顔で帳簿を開く。


 このところ諸事情により稼ぐ機会が少ないせいで赤字すれすれだ。

 近々どうにかしてまとまった収入を得なければ、このままでは俺達はともかく幼児の成育に差し障りが出かねない。どうしたものか。


 しかし常々思うけど紙幣が恋しい。金が全部硬貨って重いしかさばるし、行商するときにその価値以外に良いことがない。

 脳内でそんな愚痴を零しつつ旅の資金をジャラジャラ数え、羽ペンにインクをつけてガリガリと数字を書き付ける。ボールペンとペン先の引っかからない良質な紙も恋しい。


「おまえ、走り書きのときに稀に妙な文字を使うのはなんなんだ」


 対面から何くれとなく帳面に目を落としたヴェスが、ふと思い出したように疑問を口に乗せる。その視線の先には、紙面の端に殴り書きされた俺の文章があった。

 内容はなんてことない、後で確認しようと思ったこと等を忘れないように書いておいただけの、ただのメモだ。


 ただしそれはこの世界の文字ではなく、使い慣れた前世の文字で記述されていた。


「エルフ独自の言語か?」


「いやぁエルフっていうか……コル語、ですかね……僕の創作言語みたいなやつです」


 煮え切らない返事と俺の表情からどんな感情を読み取ったのか知らないが、ヴェスは少し目を細めただけで、特に追求はせずに「そうか」と返事ひとつで引き下がった。

 こういうときヴェスが根掘り葉掘り聞いてくるタイプじゃないのは助かるな、と内心胸を撫で下ろす。


 俺は、前世というものの記憶についてを、誰かに話すつもりはない。話すメリットがあるとも思えない。


 その理由はいくつかある。

 まず大前提としてこの世界には“生まれ変わり”――輪廻転生という概念そのものが存在しないのだ。


 生き物が自然の中で生まれて死ぬことに、人々は神秘性を見いださない。

 この世は神が作らず、神に寄らず、神のもとへ還らず、命が尽きればそれで終わる。


 世界はただあるがままにあるものであり、不可思議な奇跡などは主にマナが引き起こす“現象”だと。


 ファンタジー世界のくせに随分リアリストだらけに出来てるもんだと最初は思ったが、旅の中で少しずつこの世界の文化に触れていくうちに、もしかするとと最近思い始めていた。


 前世の世界には、マナや魔法、エルフなどの超常的な力や生物は実在しなかった。

 けれど、ないからこそ人々はそういったものを夢想したのだろう。現実にない何か。現実を忘れられる何か。現実を押し付けられる何かを。


 しかしこの世界には人智の及ばぬ力が、生物が存在し、それは人々には遠く――しかし神などよりもっと近いところで、確かな実像を持って息づいている。

 夢想するまでもない、分かりやすい奇跡がそこかしこにあるのだ。


 人はどこまでいっても無いものを求める生き物だ。

 俺にとっての空想ファンタジーが彼らにとっての現実リアルだというならば、そんな世界で生きる人々が夢想して求めるのは神や不可思議ではなく、どんな超常にも左右されない、あるがままの“自然の摂理”なのかもしれない……と、まぁ全て俺の勝手な推測なのだが。


 ちなみに神はいないがマナというエネルギーそのものを信仰する宗教はあるらしい。

 自然崇拝ともまた少し違う雰囲気だったが、通りすがりに聞きかじっただけなので正直それ以上のことは分からない。ヴェスもそういう方面は詳しくないというし。信仰とか無縁そうだもんなダークエルフ。



 話を戻すと、たとえ俺が前世カミングアウトをしたところでこの世界の人々の反応は「はぁ?」なのである。

 しかも、前世とかこいつヤベェやつじゃんの「はぁ?」ですらない。

 そもそも概念がないということは俺の話を信じる信じない以前の問題であり、ヤベェやつとすら思ってもらえないわけだ。


 百歩譲ってどうにか前世や生まれ変わりの説明を聞いてもらえたとして、その上で俺に別の世界での記憶があると言ったところで、おそらく超常に慣れきっている彼らの反応は「だから?」だろう。

 よくわかんないけどエルフにはそういうことがあるのかな、程度の理解しか得られないに違いない。


 人々にとっては前世の記憶という訳の分からない概念よりも、俺が“エルフである”ということのほうがよほど分かりやすく、重要な問題なのだ。


 であればいっそ堂々と前世の知識をひけらかして利を得ればいいのでは、と思うかもしれないが。


 たとえ超常が当たり前の世界であろうと、人の本質が大きく変わるわけじゃない。

 つまり判断基準が多少違っても、“異質なもの”に対する嫌悪感はこの世界の人々も当然持ち合わせている。

 ただ薬草の知識に長けているだけの女たちが魔女と糾弾され狩られることがあるように、人と違う知識があるだけで異端扱いされ集団から排斥されるなんてのはよくある話だろう。


 そしてここでひとつ致命的なのが、不可思議が常識であるこの世界において俺は、何が普通で、何が異質なのかの区別がつかないということだ。


 どれだけ説明してもこの世界の人々が本質的に前世というものを理解出来ないのと同じく、前の世界で培った常識を元に生きている俺は、この世界の普通と異質の境が、おそらく本質的に理解出来ていない。

 知識や経験をいくら増やしても決して埋められない、致命的な価値観の差がそこにはあった。


 そんな状態でこの世界にない知識を我が物顔で振りかざすのは、火薬庫で火遊びするようなものだ。

 ただでさえ『雑魚でエルフ』というネギ背負った鴨も真っ青なほど都合のいい獲物の化身なのだから、今以上に己の首を絞める事態は避けたい。

 上手くやればどれだけ利益を生む知恵であろうとも、跳ね返ってくるリスクを思えば積極的に活用する気にはなれなかった。


 というかそもそもチートするだけの知識が俺にない。以上。


「こうー」


「はいはいコルですよ」


 家具伝いにまだおぼつかない足取りで俺が座る椅子の足下までやってきた幼児が、まん丸な青い目でこちらを見上げて、その小さな両手をまっすぐに伸ばしてくる。

 俺は羽ペンを一旦置き、よっこいしょ、と美少年らしからぬかけ声で幼児を膝の上に抱き上げた。


 幼児はおさまりの良い位置を探して少しの間もぞもぞと身じろぎした後、納得のいく体勢になったのか満足げにむふんと息をついて俺に抱きつくと、くるりと対岸のヴェスを振り返る。


「べすー」


「ヴェスペルティリオ」


 地の底から響くような重低音で一音一音はっきりと舌に乗せ、暗殺者みたいな顔で己の名を訂正するダークエルフの姿に、俺はやれやれと肩をすくめて幼児を見下ろした。

 しかし大の男でも怯えるヴェスの威圧を真正面から受けてまるで怯まないこの幼児のほうもだいぶ肝が据わっている。


「しょうがないですねぇ。じゃあアルテア、ヴェスのことはひとまず『ちょっとそこの人』と呼ぶことにしましょう」


「ちょこのひおー」


「うん、いいですね。欠片も名前にかすらなくなりましたよ。これならいいでしょう?」


「よくない」


 やっぱり駄目か。


 あだ名もダメで遠すぎる呼称もダメとなると難しいが、幼児――アルテアは最近お名前ブームで何かと人の名前を呼びたがるため、どこかに妥協点を見つけないとヴェスのストレス値が振り切れそうだ。


「兄貴とかどうですか。お兄ちゃんとか、にーにでも」


「断る」


「パパでもいいですよ。あ、僕もそう呼びましょうか?」


「絶対に嫌だ」


 本気で嫌そうでちょっとうける。まぁ無理強いすることでもないとはいえ、上手い具合に双方納得する呼び名が見つかればいいのだが。

 しかしタリタの「ダークエルフの兄さん」呼びはよくてお兄ちゃんはダメとか、俺が「ヴェス」って呼ぶのはよくてベスはダメとかどういう基準なんだ。


 会話をしなくてもある程度の意思疎通が可能な俺とヴェスだが、それはエルフ類が持つファンタジーパワーでもなんでもなく、自由もプライバシーも労基もゼロな実験体時代に必要に迫られて培ったお互いへの観察力のたまものであるからして、本人の中にある細かい独自ルールの仕様まではさすがにお手上げだ。

 ベスも兄貴もパパもちょっとそこの人もめちゃくちゃ嫌そうというのは分かる。


「こー、う……」


「はいはいコルで……眠くなっちゃいました?」


 ぐいぐいと俺の胸に顔を押しつけてくるアルテアの頭を撫でると、「んん~んぅ」と言葉にならない声が返ってくる。寝るなこれ。


 左腕で小さな体を支えながら一定の間隔でやわく背をたたいていると、あっという間に頭が傾いた。

 赤ん坊のころと比べると起きていられる時間は伸びてきたが、やはり普通の幼児より眠っている時間が随分長い気がする。


 そして帳簿を書くのには邪魔なので寝たならサクッとアルテアだけベッドに移植したいところだが、こういうときに俺から引き剥がすと眠いくせに根性で起きてめちゃくちゃぐずるため、結果として抱えたまま作業するほうが効率が良いと学んだ。


 余談だが、俺とヴェスは例のごとく横になって寝ないため、そんな俺にくっついて寝るアルテアも必然的にベッドではなく、いつも俺の膝の上などで丸くなって寝ている。あの原因不明の発熱がなぜか俺の近くにいるときには抑えられるということを、本能で察している部分もあるのかもしれない。

 それにしたってここまでべったり張り付かずとも効果はあるのだから、野宿のときはともかく宿にいるときくらいベッドで快適に寝ればいいものを。いや、おまえが言うな案件ではあるが。


 俺とヴェスの横になって寝るの落ち着かない症候群については、時間が解決するのやらしないのやらといった感じだ。

 まぁ座って寝るのには慣れたし、現状さほど不利益を感じていないので、そのへんは成り行き任せでいいと思っている。ヴェスはどうだか知らないが。



 窓の外からはざあざあと雨が降りしきる音がする。

 その合間に、閃光。数秒もしないうちに雨の音すらかき消すような轟音が響き渡った。


 一日中ひっきりなしに鳴り響く雷の音の中でものんきに爆睡するアルテアは、もはや肝据わってるを通り越して肝ないんじゃないのと言いたくなる豪胆さだ。

 胸にある手術痕のことを考えると笑えない冗談である。まじで無かったらどうすんだよ。


 ふわふわの短い銀髪を手慰みに一撫でしてから顔を上げると、ヴェスは相変わらず不機嫌そうな顔でアルテアを見ていた。


「ちびっ子でもやっぱ嫌いですか? 人間」


 俺とて子供に無条件に愛情を抱くタイプではないが、かといって子供が特別嫌いというわけでもない。

 というか相手が子供であろうと動物であろうと俺にメリットがあるならめちゃくちゃ機嫌取るし、なければ外聞が悪くない程度に社交辞令的コミュニケーションで済ませるだけだ。

 つまり『子供である』という事実は俺にとってプラスでもマイナスでもなく、どんな付加価値が発生するかによって対応を変えるだけであり、ヴェス風に言えば「どうでもいい」に属する問題であった。


 よってタリタのような“子供”への愛情たっぷり人間になれと言われたら困るが、俺とて“アルテア”という個人と極力上手くやっていきたい気持ちはある。

 否が応でも長い時間を共に過ごす相手であるならば、揉めるよりほどほどに円滑な人間関係を築いておこうじゃないかと思うのは、職場の同僚に対する感覚に近いかもしれない。


 そんなわけで主に面倒を見ている俺とアルテアの関係は今のところ良好であるし、俺もアルテアを抱えて眠ることに違和感を抱かなくなるくらいには慣れた。


 しかしヴェスのほうは出会いから現在に至るまで、相も変わらずアルテアに刺々しい態度である。

 ただ普通の子供なら泣いて怯えそうなほどつっけんどんに接されているにも関わらず、肝が無い疑惑が(俺の中で)出ているアルテアは一切気にすることなく、定期的にぐいぐいヴェスに絡んでいってる様子なのが面白……幸いである。

 どれだけブチギレてもヴェスがアルテアに手を出せないのを本能で察しているのかもしれない。知らんけど。


「幼体であろうと関係ない。無害なのは知恵を持たぬ一時だけだ。成長すれば皆奴らと同じ、穢らわしい人間になる」


 俺の問いに、ヴェスはその臙脂えんじの瞳に強い嫌悪感を乗せて吐き捨てるように言った。

 それはアルテアに対してと言うよりもあの施設にいた人間たちに向けられた感情なのだろうが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いし、人間憎けりゃ赤子も憎いということか。さもありなん。


「にしても極端というか……それ言ったら僕のことだって、恩義があろうとエルフはエルフ、忌々しいってなりません?」


「…………」


 ヴェスがむすりと黙り込む。


 実際、理屈よりも感情の問題なのだろう。

 呼び名の件もそうだが、当人が本気で嫌だと思うなら俺がこれ以上無理強いすることでも、ましてや論破するようなことでもない。


 これもまた大前提として、俺たちの立場は対等である。

 戦闘力の差を考えるとどうやったって対等にはならなくね?と思うのだが、どうしたことかこのダークエルフは、俺を自分と同等の強者だと認識しているらしい。もちろん物理戦闘とは別方向で、だが。


 一応パーティとしての舵を握っているのは俺なので、ヴェスはこちらの選択を立てて行動してくれることが多いが、そこに上下関係があるわけではない。俺の言葉はあくまで『お願い』であり『命令』ではないのだ。

 少なくとも俺はその範疇に留めるように心がけているし、多少渋る程度ならごり押しもするが、本気で嫌がることを強いる権利はないと思っている。


 それはヴェス側も同じなようで、苦言は呈せどもその圧倒的な力を笠に何かを強制してくることはなく、俺が本気で触れられたくない話題にはたとえ気づいていても触れてこない。

 相手を対等な存在だと認識していればこそ、払うべき敬意も、守るべき一線もあるということなのかもしれない。



 さて俺も藪をつついてうっかり蛮族全開ダークエルフの逆鱗に触れる前に、さっさと話題を変えることにしよう。

 だがそう思って口を開きかけた俺より先に、ヴェスが静かに口を開いた。


「コル。おまえは、人間に思うところはないのか」


「人間と一口に言っても色々いますからね。例の施設にいたのは、それこそ極端が突き抜けた人達だったと思いますよ」


 元人間の身としては、あれと一緒くたにされても困る。

 いや、俺とて牢屋にいる間は異世界の人類が全員あんな感じにヒャッハーしている可能性も少し考えたが、こうして外の世界を旅して確信した。あんなもん外れ値の極みだ。早々居てたまるか。


「だから彼らに思うところが無いとは言いませんけど、他の人間に対して、彼らと同じ人間だからどうとは思わないですね」


「心の広いことだ」


 皮肉げにそう言って眉根を寄せるヴェスに向け、俺は片手でスッと『金』を示すマークを作ってみせる。


「要は長いか長くないかですよ。それが長いものなら相手が人間だろうとミジンコだろうとぐるんぐるんに巻かれにいきますよ僕は」


「……そうだな、そうだろうな、おまえは。そういうやつだ」


 歪みない俺の姿勢に、ヴェスが毒気を抜かれた様子で深々とため息を吐く。

 その表情から先ほどまでのぴりぴりとした鋭さが緩んだのを見て取り、俺は言葉を続けた。


「まぁ僕の意見は置いといて、別に人間が嫌いなら嫌いのままでいいんじゃないですか? とはいえアルテアとは期限未定で一緒に旅をしていくわけですからね。今後ヴェス自身が楽に過ごすための工夫のひとつとして、アルテアがちゃんと呼べて、ヴェスが呼ばれてもあまり苦じゃない当面の呼び名を考えておくのもいいと思いますよ」


 だってどう考えてもまだ呼べないだろ、ヴェスペルティリオって。幼児が発音しにくい音のオンパレードだろお前の名前。

 コルの二文字すら言えない子供に呼べるわけがない。


 これは努力でどうこうなる問題ではなく、時間が解決する問題だ。アルテアがもう少し成長して喋りが安定すれば、普通に呼べるようになるだろう。

 だがそんなエルフ類の時間感覚からしてみれば瞬く間のことすらも待てないほど名前の件が腹に据えかねるというなら、やはり折衷案を探るしかないと思うのだが。


「……、………………」


「迷ってる迷ってる」


 俺、帳簿つけるから結論出たら教えてくれ。

 険しい顔で悩み始めたダークエルフを横目に、右手に羽ペン、左腕に熟睡するアルテアを抱えながら、俺は改めて帳簿に視線を落とす。


 窓の外にまた閃光が走り、数秒遅れで、大きな雷鳴がびりりとガラスを揺らした。


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