番外編⑨ 温水プールのチケット(北野ゆかり視点)
※2023年12月1日にサポーター限定近況ノートにて公開した番外編+αになります。
(元の世界にて)
「はぁ……」
秋が終わって冬がやってきた。もはや学校のプールで泳ぐこともなくこれから先、水泳は趣味として続けていくことになるんだろうか。
図書室から見える風景はいかにも寒そうで。そんな中グラウンドを男子水泳部の村上がランニングで周回していてそれを姫川ヒナがメガホンを持って声をかけながらタイム計測している。
私、北野ゆかりの水泳は夏の県大会決勝で終了してしまった。
去年の冬に気になっていた男子生徒がトラック事故で死んでしまってからわずかではあるが泳ぎの調子を崩してしまい、そのままずるずると引退まで過ごしてしまった気がする。
「それに比べてアイツらは前を向いて元気だな」
村上はインターハイ入賞までしている。姫川がマネージャーになってからのアイツの頑張りっぷりは知っているから何も言う気はない。
ただ、姫川も絡んだ事故で多々良が死んでしまったという状況は少しだけど姫川と私の間にしこりを産んでいたのかもしれない。
吹きすさぶ寒風に舞う枯葉を、暖かな図書室から眺めながら私は机に向かう。受験勉強は待ってくれないから。
少なくともみっともないところを見せないで済むように、恥ずかしくない自分でいたいと思った。
(貞操逆転世界にて)
「はぁ……」
私は手元の温水プールのチケットを眺めながらため息をつく。ため息をつくと幸せが逃げると言っていたのは姫川だったか。
ああ、多々良が
あの2人が付き合っていて深く深く愛し合っていることはよく分かっている。
私のこの気持ちが横恋慕なことも多々良が浮気するような男じゃないことも知っているからきちんと部活の先輩としてお別れはした。
「でもなぁ……」
目の前にはインターハイの結果で推薦入学が決まった大学から送られてきたプールのチケット。他のみんなが受験勉強している間にも少しでも体を水に慣らしておけという事だろう。
逆に言えば3年の友人はみんな受験勉強の追い込みに入っているこの時期に温水プールに誘うなどできるはずがない。
では水泳部の2年生は? チケットが1枚につき2名しか入場できないので部員の誰かを連れていくことは難しい。どうしても贔屓してるみたいに見られかねないし。
「明日の土曜日……部活が休みなら良かったんだけど」
私がインターハイで入賞するという結果を出したために碧野高校の女子水泳部は過去にないほどのテンションで練習に打ち込んでいる。
ついこの間まで寒い中、屋外プールをボイラーで温めて一生懸命練習していたので私もそこに参加していたのだ。今は後輩と一緒にランニングやサーキットトレーニングなど毎日体を鍛えている。
「よし、アイツに一応声をかけてみよう。そうだよ、どうせアイツも剣道部で忙しくなってるはずだし、断られたら諦めて一人で行けばいいんだし。うん、そうしよう」
すっかり独り言が多くなってしまったが、アイツのせいだと思う。
さっそく私はラインに「明日温水プールでトレーニングするから暇なら手伝ってくれないか」と打ち込んで送信した。
「はぁはぁ……すみません。ゆかり部長、待たせちゃいましたか?」
駅前の待ち合わせ場所で立っていた私を見つけた多々良はものすごい勢いで駆け寄って来て謝る。大型犬が飼い主を見つけて駆け寄ってくる様を連想させた。
いや、待ち合わせ時間の30分も前だから……男子はナンパされたりする可能性が高いからあんまり早く来て欲しくないんだけど、やっぱり多々良は早く来たか。
「ゆかり……」
「へっ?」
「もう部長じゃないからゆかりでいいから」
「えっ!? でも……」
「もういいよ、好きに呼べば」
「じゃ、じゃあゆかりさん。待たせちゃってすみません」
「約束の30分前に来てたのはこっちだから気にしなくていいって。それじゃあここから電車で3駅だから」
そういうと2人で並んで改札を通過する。本当にあの子の言った通りになりすぎてビックリしてしまう。
「ゆ、ゆかり部長!? い、いえ、ゆかりさん? なんでビキニなんですか?」
「だってここで競泳水着着てたら目立つだろ。多々良は水泳部の時のまんまなんだな」
「そ、それはそうですよ。だってゆかりさんの泳ぎの相手をするんですから俺のレベルだと本気で泳がないと意味がないし」
そうなのだ。私は多々良恭介を温水プールに誘ったのだ。しかも私の格好はいつもの競泳水着ではなく紫色のビキニ。私は名前が「ゆかり」だからか一番好きな色が紫色だったりする。
「じゃあまずは軽く流すからタイムは測らずにフォームの確認をしてもらってもいいか?」
そういうとプールの端に2レーンだけ張られているコースロープのある競泳レーンに向かう。
ふふ、ここで泳ぐなら競泳水着が目立つことなんてないんだけどね。2レーンのうちの1つはおじいさんとおばあさんのスイミング教室が使っているようだが一番端のレーンは貸し切りで使えそうだ。
スタート台に上がってビキニのパンツの食い込みをピチンっと直す。私の後ろからフォームチェックをしようとしてた多々良が前かがみになっているのが見なくても分かる。
「ふふ、本当に……ここまで私にサービスしなくてもいいのに、あの子は本当に何なんだろうな」
バシャッ スイィィーーーバシャバシャバシャ
飛び込むとしばらく力を抜いて進んでそこから自由形のクロールで水をかく。体が軽い。多々良が応援してくれたあのインターハイ決勝の感覚を体が覚えている。
水の中では私は自由だ。今日は公式記録にはならないけど自己ベストが出せそうなくらい。
多々良に来てもらってよかった。そして、多々良を快く送り出してくれた姫川陽菜。あの子には多々良を温水プールでのトレーニングに呼ぶ際に相談に乗って貰った。
多々良のことを本当に信用しているというか私のことを疑わないというか。
私が彼女の立場で同じことが出来たか分からない。本当に懐が深い……底が知れない女の子だ。でもだからこそ、今の時間を大切にしたい。
信用して私の未来を応援してくれる人たちの気持ちを背負って私は泳ぎ続ける。
きっと大学に行っても多々良のことを忘れることはできないだろうけど、今はこの幸せな時間を最大限に楽しみたいと思う。
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ちょっとした小話
プールサイドにて
恭介「ふぅ……ブランクがあるともっとタイムが落ちるかと思っていましたけど意外と落ちないものですね」
ゆかり「剣術修行のたまものだろうな。久しぶりに多々良の泳ぎを見たが体の方はあの頃以上に締まった筋肉で柔軟性も高まってるし体幹のブレも本当に減ってる」
恭介「ちょ……ゆかりさん!? そう言いながら二の腕揉むの止めてもらっていいですか?」
ゆかりとしては上腕二頭筋と上腕三頭筋のチェックをしてるだけだったが恭介が真っ赤になる。隣のレーンで泳いでいたおじいちゃんおばあちゃんが恋人同士のいちゃつき扱いして盛り上がっている。
ゆかり「わ、悪かった……多々良にセクハラをしたわけじゃ……」
2人で真っ赤になってしまう。
恭介「あ、そうだ! 思っていたんですけど泳ぐ相手が欲しかったらさんご先輩を誘ったらどうです? 公務員試験合格してから結構暇そうにしてるんでただで温水プールに入れるって言ったら喜んでついてくると思いますよ」
ゆかり「…………桜島か……考えておく(た、多々良って本当に鈍感なときは鈍感なんだな)」
という会話が交わされたとか交わされなかったとか。
次回は1月28日公開予定です。
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