「乾杯」

 チン、と涼しい音が鳴る。リップがグラスになるべく付かないよう、浅めに口をつけて液体を口に含む。パチパチと炭酸が弾けて、独特の苦みが口から鼻へと抜ける。

 淡い金色の液体が、琥珀色の照明に照らされて輝いている。細いシャンパングラスの中でシュワシュワと泡が弾ける。

 今日の乾杯の場所は喫茶店じゃないし、相手もくるくるちゃんではない。グラスの中身も当然コーヒーと紅茶ではない、正真正銘のお酒である。

 なぜこんなお洒落なお店で酒を飲んでいるのかと問われれば、時は数日前に遡る――。




『先日はありがとうございました。帰宅してから確認したら、お手当を多めに頂いていたようで、すみません。買っていただいたお洋服、今度お会いするときに着て行きますね』

 前回の渋谷デートから数日が経ち落ち着いた頃、私は義人さんにメッセージを飛ばした。本来なら解散してから数十分でメッセージを送った方が良いに決まっているのだが、どうにも気恥ずかしくてタイミングを逃していたのだ。

 十数分もしないうちに、義人さんから返信があった。

『こちらこそ、僕の我が儘に付き合っていただいてありがとうございました。大変素敵な時間を過ごさせていただいたので、気持ち程度ですがお手当は多めに入れておきました。』

 義人さんはメッセージだとなぜか敬語を使う。そういえば、初めて会う時に見せてもらったくるくるちゃんとのメッセージでも敬語だった気がする。

 そんなことを思い出しながら画面を眺めていると、続けざまにメッセージが送られてきた。

『ところで次回なのですが、ディナーを食べに行きませんか。またも僕の我が儘で申し訳ないのですが、お酒が飲めるお店が良いなと思っています。というのも、伊予さんが酔ったところを見てみたいのです。もちろん、潰れるほど飲んでいただく必要はありません。少し酔う程度で良いのです。』

「えっ」

 思わず肉声が出た。

 お酒なんてほとんど飲んだことがない。二十歳になったときに記念で一口二口飲んだくらいだ。自分のアルコールのキャパを知らないのに、気心知れた相手とはいえ男性と二人でお酒を飲むなんて危険すぎる。しかし友達と飲んでみようにも酔って家に帰るなんてしたら何を言われるか分かったものではないし、かといって家で酒を飲むなんて論外だ。さて、どうしたものだろうか……と考えかけて、やめた。義人さんは少量でいいと言っているんだから、家に帰るまでに酔いが醒める程度だけ飲めばいい。それに、私も義人さんが酔ったところを見てみたいという好奇心が今は勝ちだった。

『わかりました。私自身、酔うほどお酒を飲んだことがないのでどうなるか分かりませんが、それでも良ければ。その代わり、義人さんが酔ったところも見せてくださいね』

 そう返信すると、楽しげに踊る熊のスタンプが返ってきた。楽しみ、の意だと勝手に受け取って、私も踊る猫のスタンプを返した。




 時は戻ってレストラン内、私はふと思ったことを口にした。

「そういえば、あれ言わないんですね」

「あれ? あれって何だい」

「『君の瞳に乾杯』ってやつ」

 義人さんは露骨に顔を顰める。

「そんな小っ恥ずかしいこと言うわけがないだろう。確かに世代ではあるけれども」

 そんなことを言っていると、前菜が運ばれてきた。ウエイトレスが軽く料理や食材の産地の説明なんかをして去ってゆく。初手でカラオケに行ったり渋谷のマルキューでお買い物をしたりしたが、ここに来てやっとオーソドックスなパパ活をできた気がする。高級なコース料理を食べながらお酒を飲むなんて、くるくるちゃんから話を聞く前に抱いていたパパ活に対するイメージそのままだ。

「義人さんって結構キザったらしい台詞が嫌いですよね。前もそんなかんじの反応をされた気がします」

「ああ、そんなこともあったね。あれから随分と経ったような気もするけれど、会った回数で言えばそんなに経ってはいないのか。伊予さんをもう随分昔から知っているような気がしてしまうよ」

 そう言って、義人さんはグラスに口をつけた。私は礼を言えばいいのか同意をすればいいのか迷った末、結局何も言わず義人さんの動作に倣った。

「まだ一杯目ですよ。思い出話には少し早いんじゃないですか」

「まぁいいじゃないか。伊予さんと飲食店でテーブルを挟んで座るというシチュエーションが、出会ったとき以来だからつい、ね」

 なるほど、そう言われてみればそうだ。思えばあの時は右も左も分からなかったが、今ではくるくるちゃんの判断を仰がなくても義人さんといい関係を続けられている。私も成長している、ということだろうか。……いや、事はパパ活だしどちらかというと退化か?

「懐かしいですね。くるく……『くるみ』ちゃんに連れられてあの喫茶店を訪れたときのこと、今でもよく覚えてます」

「くるみちゃん! 久しい名前を出すね。彼女は元気だろうかね。……ああ、君は彼女の友人らしいし、別に久しくもないのかな」

「まあ、私は結構頻繁に『くるみ』ちゃんと会ってますからね。元気にしてますよ」

 何なら元気すぎるくらいだし、もうちょっと大人しくしていて欲しいですけどね……とは言わないでおく。

「こういうことを言うのは何だが、君たちはあまり友人同士になりそうなタイプではないように僕には見えた。あくまで僕から見た『くるみちゃん』の話だけれど、彼女は人に見せるための表層を作る能力に長けているよね。チラリと垣間見えた本性らしきものまで彼女が演出したものなんだから、まったくたまらない。僕から見える『くるみちゃん』もあれはあれで面白い子だったけれど、表層の奥にある彼女の本性の方が数千倍面白いんだろうと僕は思っていた。何度彼女に会おうと見せてくれる気配はなかったけれどね。そういう部分については、伊予さんとは真逆だ」

「真逆、ですか」

「ああ。それでもって、きっと彼女は本当は、結構弱い人間なんじゃないかと思っている。精神的な面でね。行動的な面では、臆せずパパ活なんかをやっている上に友人にパパを紹介してしまうくらいなんだから強いのだと思うが。ただこれは僕の経験則だが、表層を作ることに長けている人間は総じて非常に脆く柔らかい部分を持っているものだ。なぜなら、強い人間は自分を強く見せる必要なんてないからね」

 義人さんの目を見る。口調こそ穏やかだが、その目は初対面の時と同じ、落ち窪んでギラギラと光り、人の内臓の内側までの精査して見抜くような、殺気にも似た何かを孕む目だった。

 私は思わず生唾を飲んだ。そうだ、今までこの人の可愛いところばかり見ていたから忘れていた。この人は一国一城の主、多くの社員を統括する経営者なのだ。人を見る目が一級品なのは考えてみれば当然だった。が、『くるみちゃん』しか見たことがないはずの義人さんが、彼女の友達である私より彼女のことを知っているのだ。ショックを受けるなという方が無理な話だった。

 急に義人さんが遠く感じられて、私は押し黙る。

 黙ってしまった私に代わって、既に饒舌な義人さんが尋ねた。

「さっき、伊予さんとくるみちゃんが真逆だという話をしたね。失礼を承知で言うが、君たちはあまり友達になりそうなタイプには見えない。一体どこで出会ったんだい?」

「ああ、確かに、性格的なところ以外でも、文化が違いすぎるというか、普通に暮らしていたら話すことすらなかったと思いますね。……くるく、じゃない、『くるみ』ちゃんとはSNSで知り合ったんです」

「ほう! SNSか!」

 やたら嬉しそうに手を打つ義人さん。

「なんでそんなに嬉しそうなんです?」

「いやね、何のことはない。僕はSNSが大好きなんだ!」

 さっきまでギラギラの眼光で人の本質を見抜きまくっていたくせに、もう少年のようなキラキラの目をしている。大方、新しいおもちゃを見つけた子供、といったところだろうか。

「なんでそんなにSNSが好きなんです? こう言っては失礼かもしれませんが、義人さんたちの世代ってあんまりSNSに触れる機会って少ないですよね」

 義人さんがSNSにたまにいる「グラビアアイドルや裏垢女子に気色悪いリプを送り続けるおじさん」でないことを祈りながら訪ねる。

 しかしそんな心配は杞憂だったようだった。

「最初はね、会社で必要だったんだ。やっぱり我々もSNSでプロモーションをすべきだと思ってね。そこでまずSNSを知る必要があった。アカウントを幾つ持ってもいいようだから、会社で作ったものとは別に自分のアカウントを作って、様々な使い方を学んでいった。風評、風説を調べるにはもってこいのツールだということ、暇な人ほど声が大きくなりがちで学生・無職・夜職は特に大きなコミュニティを形成していること。SNSでものを調べるとき……今ふうに言うとパブリックサーチをするとき、調べたいことそのままのワードでは肯定的な意見ばかりしか見ることができないということ。伏字なんかを使ったワードでサーチし直すと、もっと混沌とした意見を見ることができるということ。排他的な側面があるくせ気遣いには溢れているこの偏屈なSNSの、虜になってしまったのさ」

 そうだ。初対面のとき、あんなに「価値観が若々しい」という印象をこの人に抱いたのだから、義人さんがクソリプおじさんだったらどうしようなんて杞憂にも程があるに決まっていたのだ。

 というかインターネットの海をサバイブしすぎでは? 私よりネットを使いこなしている四十代のおじさん、怖い。

「パパ活女子である君たちの文化? コミュニティ? にもそういうふうにして辿り着いてね。色んな専門用語を作って排他的なコミュニティを築いている様は実に興味深い。稼ぎ場を荒らされたくないんだろうが、パパ活になんか手を出さない方がいい、という一片の優しさみたいなものが垣間見えて嬉しくなるよ」

 そのパパ活女子のコミュニティとやらに至っては、私は見たことすらなかった。くるくるちゃんの発言から何となくそれらしいものの存在は察していたけれど、くるくるちゃんのような強烈な人間だけが集まるヤバい空間だったらどうしよう……と思い、触れることはおろか調べることすらしていなかったのだ。

 ……ふと、私は初対面のときの義人さんを思い出した。初めて会った日の義人さんは言葉にトゲがある気がして怖かったが、今のSNSの話と合わせたらそれが誤解のような気がしてきた。

「あの、義人さん」

「何だい?」

「初対面のときに、義人さん、『女の子は僕みたいなおじさんのことを『キモオヂ』と呼ぶんだって?』って言いましたよね。あれ、少し怖くて、ずっと気になってたんです。嫌味か何かを言われているのかと思って。でも、あれってもしかして、SNSで覚えたての言葉を使ってみたかっただけだったり……?」

 すると、義人さんは首を傾げた。

「そんなことも言ったかね。覚えていないが、その言葉を使った理由は確実にそれだろう。僕は新しいもの好きだから、新しいサービスや商品にはすぐ手を出してしまうし、覚えた言葉はすぐ使ってみたくなってしまうんだ」

 小学生か。いや、小学生だ。

 心の中でツッコミを入れざるを得ない。行きつけの公園で、小学生が最近覚えたであろう「万が一」と「如何せん」を連呼していたのを思い出す。初対面のとき義人さんに「若々しい人だ」とは言ったが、最近どうも若すぎるのではないかという気がしている。

「というか、怖がらせてしまっていたのだね。そんな刺々しいニュアンスの言葉だとは知らず使ってしまった。すまなかったよ」

「いえ、義人さんが怖い人じゃないってすぐに分かりましたから。……それにしても、こういう狭いコミュニティでの造語文化は問題が多いですね。コミュニティ自体が排他的になるし、ニュアンスの共有も難しくてトラブルの元じゃないですか。それこそ、私が義人さんのことを誤解してしまったみたいに」

 言うと、義人さんは楽しそうに微笑みながら「そうかね」と言った。

「排他的であるのは何も悪いことばかりではない。コミュニティを訪れる人間をフィルタリングできるし、全く違う文化の人間の目から発言を遠ざけられる。不要な争いを避ける面もあるとは思わないかね」

 なるほど。例えばナマモノのBL──実在の人間でボーイズラブの妄想をしたコンテンツ──で厳重に検索避けがされるようなものだろうか。

 或いは、くるくるちゃんを魅力的に思う人はたくさんいても、くるくるちゃんを見てパパ活をやろうと思う人間はそういないだろう。それはくるくるちゃんが決して共感を求めず、一定以上の距離には他人を入れず、義人さん的に言えば排他的な面があるからこそなのだろうか。排他の中に一片の優しさがある、というSNSに対する義人さんの評は、そのままくるくるちゃんにも当てはまるように思える。

「伊予さんは、SNSは好きかい?」

「ええ、まぁ。とは言っても、義人さんみたいに俯瞰したり分析したりできてるわけじゃないですが。私も『くるみ』ちゃんもSNS世代直撃ですから、自分の半身の住処として──現実リアル以外のもう一つの社会として、当たり前にあるものという感覚です」

「その方が僕にとってはありがたい。前々から、SNS世代の子とSNSの話をしてみたかったんだ。それが伊予さんのような聡明な女性とできるならこんなに嬉しいこともないね」

 いちいち恥ずかしいことを言う。人を褒めることに対しての躊躇のなさも、もしかしたら経営者としての側面なのかもしれない……なんて思うことで、どうにか平静を保つ。

「話って言ったって、もう生活の一部ですから話せることなんてそんなにないですよ」

「何、僕が質問をするから伊予さんはそれについて話してくれればいいよ。……では早速聞きたいが、SNSの友達と現実の友達、伊予さんにとってはどう違う?」

 早速難しいことを聞く。

 人にもよるだろうが、私にとっては違いなんて特にない。疎遠になってメッセージでしか話さない現実の友達もいるし、くるくるちゃんのように頻繁に現実で会うSNSの友達もいる。そこに何の違いがあるというのだろう。このあたりの境界はどんどん曖昧になっている気がする。

 少し考えた末、私は答えた。

「過程……ですかね」

「過程、というと?」

「仲良くなるまでの過程です。SNSの運用方法にもよりますが、私や『くるみ』ちゃんは現実では言えないこと、現実で言うと面倒臭がられたりドン引きされたり厄介なことになったりすること、そういうことを主にSNSで言ってます。現実の友達だったら長い時間をかけて親密になった末に言えるようになることを、SNS上の友達は最初から知っているんです」

「興味深いね。秘密の共有などは距離の詰め方の定番だし、ではSNSの方が親密になるのが早かったりするのかい?」

「そうかもしれませんが、いいことばかりでもありません」

 私は実体験を思い出しながら、続ける。

「急速に距離が詰まったような気がして、親しき仲にすら必要な礼儀を欠いてしまう人。普通だったら最初のうちに気づく、初歩的な気性の合わなさに気づくのがずっと後になってしまうこと。秘密の共有で詰まった気がする距離感を悪用する人。間違いはいくらでも起こります。それから、普通に暮らしていたら決して触れることのない文化に手軽にアクセスできてしまって、時には致命的に道を踏み外す人もいます」

 今まで見てきた多種多様なアカウントの投稿とそのアイコンが脳裏を過ぎてゆく。これだけSNSに入り浸っていれば、酸いも甘いも知り尽くした……とまでは言わないが、それなりに思うところはやっぱりあった。今更SNSについて話すことなんてないと思ったが、意外にスラスラと言葉が出てくる。

 義人さんは少し考え込むような顔をして、「なるほどねぇ」と言った。

「伊予さんもSNSをしていなければ、パパ活なんて知りもしなかったのだろうね」

「そうですね。義人さんも仰ったように、『くるみ』ちゃんは異文化の人間ですから。でも私、くるくるちゃんには感謝しているんです。こうして義人さんと出会えましたし」

 私がにっこり笑ってみせると、義人さんは微笑んで

「そうかい」

 とだけ言った。

 そんなことを言っているうちに、メインディッシュが運ばれてきた。

「美味しそう」

 私が呟くと、

「そういえば伊予さんは料理の写真を撮らないね。写真を撮ってSNSに上げたがる子は多いと思うが、君はそういうのはしないのかい」

 と義人さんが尋ねた。言われてみれば確かに、コース料理の写真をここまで一枚も撮っていない。というか義人さんといる時の写真が一枚もない。これは写真を撮りたがらないというよりは、何となく、人と一緒にいるときスマホを取り出すのに抵抗があるという方が主な理由だった。

「食事中にスマホを取り出すと母に怒られるので、人といる時はあまり写真を撮る習慣がないんです。一人だったら写真を撮るときもあるんですが」

「なるほど。伊予さんの家は厳しいんだね。何となくそんな気はしていたが。……僕は怒らないし不快にもならないから、一枚くらい写真を撮ってみてはどうだい? 思い出を形に残すのは重要な営みだと僕は思うよ」

「じゃあ、失礼して一枚だけ」

 私は鞄からスマホを取り出すと、メインディッシュの写真をパシャリと撮った。

「やっぱり義人さんは若々しいですね。義人さんの世代だと、形やデータに残せないものだからこそ重要、って考えの人が多いじゃないですか」

「いや、僕もその考え方だよ」

 義人さんは笑った。

「しかし人は忘れる生き物だ。忘れることには何の責もなく、そういうものだし仕方のないことだ。忘れることができるからこそ人間は人間でいられるとも言える。しかし忘れたくないことを忘れないために、記憶を呼び起こす取っ掛りがあれば随分違う。伊予さんが何となくカメラロールを見たときに今夜のことを思い出せばいいと思うし、逆に僕は伊予さんのスマホに今夜の写真があるという事実を抱いていられる。これは僕にとっては結構嬉しいことなんだ。……ね、取っ掛りとして写真があるだけで、今夜という思い出に形はないだろう」

 なるほど義人さんらしい。写真はあくまで写真でしかなく、思い出そのものではないと言いたいのだ。

「写真は取っ手なんですね。思い出という引き出しを開くための」

「詩的だね。概ねそんな意味だ。旅先でお土産物を買うのと同じさ」

 それなら私は、今夜のお土産であるこの写真を大切にしていようと思った。

 そして、これはSNSで共有したくないとも思った。この取っ手に触れることができるのは私だけでいい。くるくるちゃんにすら見せたくない。

 義人さんとのお金でできた思い出にお金以外の価値を見出していることは、私だけが知っていればいい。

 そんなことを考えていると、義人さんが「伊予さん」と私の名前を呼んだ。

「何ですか、改まって」

「伊予さんって僕以外のパパとは会ったりしてるのかい?」

 藪から棒にそんなことを聞く。もしやと思って顔を上げると、案の定義人さんは顔を赤くしていた。普段以上に饒舌なので薄々察してはいたが、この人はだいぶお酒に弱いようである。

「義人さん、だいぶ酔ってます?」

「酔ってない。いいから質問に答えておくれ」

「酔ってますね」

 酔っ払いは皆酔っていないと言うと、相場は決まっているのだ。

「会ってませんよ。『くるみ』ちゃんに紹介してもらったのは義人さんだけですし。普通はアプリを介して出会うらしいですが、私はアプリをインストールしてすらいませんから」

「そうかい」

 聞いているんだかいないんだか、義人さんは一言そう返事をする。

「ねぇ伊予さん、会うのは僕だけにしてほしい。お金が足りないなら他のパパの分まで出そう。伊予さん、僕もこれでいて実は男だからね、他の男の影が気になって仕方ないんだ」

「独占欲ですか」

「いいや、もっと身勝手な──そうだな、征服欲とでも言った方がいいね」

 両者の違いは私にはよく分からなかった。私たちは恋人ではない。お金という一定の距離があってこその関係で、その距離感が心地良くもあるのだと思っていた。

義人さんはそうではないのだろうか。

 埋めてはいけない距離を埋めるような彼の物言いは、しかし嫌ではなかった。私は「元よりそのつもりです」と答えた。

「義人さん以外と会うつもりなんてないですよ」

 義人さんは、また「そうかい」とだけ答えて、それからコースが終わるまで、私たちの間に会話らしい会話はなかった。




 義人さんとディナーを食べたあの夜から数日が経った。

 私といえば部屋でスマホの画面を見つめ、唖然としていた。唖然とすることしかできなかった。

『伊予さん、先日はありがとう。そして、先に謝っておきます。本当にごめんなさい。』

 メッセージアプリに表示されたそのメッセージは、私たちの関係の分岐点だった。どう返事をしても元には戻れないことが、何となく分かっていた。

『伊予さんといわゆる大人の関係になりたいと思ってしまいました。もちろん断っていただいても構いませんが、受け入れていただいたらお手当は弾みます。ご一考ください。本当にすまない』

 誰かに相談しよう。そう思って、真っ先にくるくるちゃんとのメッセージ画面を開いた。随分前の日付で止まっている。それもそのはず、ここ最近、義人さん以外と連絡を取った覚えがてんでなかった。

『久しぶり、くるくるちゃん』

 私はメッセージの送信ボタンを、トンとタップした。

『相談したいことがあるんだけど、電話してもいいかな』

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