「着いた……」

「着きましたね……」

 若者の街、渋谷。

 ありとあらゆる系統の流行が濁流のようにスクランブル交差点を行き交い、それがせき止められる駅前では常に怪しい演説や勧誘が行われ、若いという事実だけを共通点に様々なジャンルや文化が入り乱れる。そしてそんな華やかな街並みとは裏腹に、一本路地を入れば「裏渋」なんて呼ばれる、格安風俗やラブホテル街なんかがあったり――そんな腹に一物抱えたような危うさも孕んでいる、そんな街。

 ただ一つ言えるのは、私にも義人さんにも無縁の街であるということだ。

「なんでよりにもよって渋谷なんですか! てっきり義人さんは慣れてるのかと思ったら私と同じくらい絶望的な顔してますし!」

「いやね……これには深いようで大して深くもないちょっと深い訳があって……」

「聞きましょう」

 ハチ公前。と断言できれば良かったのだが、オシャレでキラキラした若者たちに気圧されて、像からは少し離れた場所に私たちはいた。スマホを片手にした若者がずらっと並ぶ壁沿いの端の方で、私と義人さんは肩身狭く人の流れを眺めることしかできない。場違いとか浮いているとかそんな言葉では物足りず、私たちははっきり言ってこの街の異物だった。

「……友人にね、聞いたんだ。今度親戚の若い女の子と買い物に行くんだけど、どこに行けばいいかって。そうしたら友人がそれならシブヤのマルキュー一択だって言ったんだ」

 だから僕は悪くないんだ、という一文が省略されているのが目に見えるようである。

「本当に親戚ならそれもアリだったのかもしれないですけど……」

 そう。今日は義人さんと「お買い物」に来ていた。メッセージ上で日時を決め、場所はいつもの駅にしますかと尋ねたら「いや、渋谷にしよう」と返ってきたのである。義人さんの方から指定してくるくらいだから、渋谷にいい店でも知っているのかと思ったのに……まさか肉食獣を前にした小動物よろしく震えて過ごす羽目になろうとは、誰が予想できただろうか。それで、店もマルキューと来たもんだ。恐ろしくて入店すらできたものではない。

「私より前に会っていた女の子とは、お買い物に行ったことはなかったんですか?」

 暗に「こんなにパパ活が目立つ土地に今までも連れて行っていたのか?」という意味を込めて、尋ねる。

「いや。今までは相手の子が僕より慣れていたから、相手の子が行きたいお店を指定してくれてたんだ。でも伊予さんはあんまり慣れてなさそうだったから、僕が決めてあげなきゃと思ったんだけれど……いやはや、格好つかなかったね」

 そう言って申し訳なさそうにする義人さんを見ていると、何だか私まで悪いことをしたような気分になる。よく考えれば私だってくるくるちゃんにお店を聞いておくことだってできたわけで、今回の渋谷事件は私にも非があると考えるのが妥当だ。

「いえ……私のこと考えて、ご友人に聞いてくださったんですよね。その気持ちだけで十分です。ありがとうございます。それに、私もお店調べたりするべきでしたね」

「伊予さん……」

 感動したようにこちらを見つめる義人さん。私もそれを見つめ返す。BGMに「ロマンスの神様」を流したくなるような、熱い視線のやり取り。今ここで、ひと冬の恋が始まる。今は五月だけど。

「それはそれとして」

 私は声のトーンを落とした。

「どうします。この土地」

 そう、ここにあるのは「ハチ公前で見つめ合うパパ活おじさんとパパ活女」の図なのだ。ロマンスの要素などどこにもなく、流すとしたら「ミッション・インポッシブル」のテーマの方が合っているくらいだ。冷静に考えると最悪である。

「ど、どうするって……じゃあ、あのビルとか倒産させるかい?」

「やだ社長さん怖い」

 なんという職権乱用。というか義人さんの会社ってそんなことができる規模なんだろうか? 怖すぎる。

「そうじゃなくて……移動します?」

 移動の手間はかかるが、人目を気にして今日のお買い物を楽しめないよりはずっといい。こんな若者だらけの街からはさっさと脱出して、もっと落ち着いた街で落ち着いたデートをしよう。そう思って私は移動を提案した、のだが。

「いや」

 義人さんは、首を横に振った。

「決行しよう。シブヤのマルキューでお買い物」

「えぇ! なんでですか!」

 思わず抗議の声を上げる。なんでまたわざわざ試練を選択してしまうんだ。気でも狂ったのだろうか? 狂っているのはくるくるちゃんだけで十分だ。

 そんな私をよそに、義人さんは恥ずかしそうに言った。

「いやぁ、僕が学生の頃は恐ろしくて渋谷なんて来られなかったんだ。ネクラ……今で言う陰キャラ? だったからね。だから、可愛らしい女の子とシブヤのマルキューでお買い物デートなんて、夢のまた夢だ。それを今になって叶えられるなんて、僕は少しワクワクしているんだ。ネアカの若者がたくさんいるのはちょっと怖いけれどね」

「なるほど、失われた青春を取り戻そうってわけですね。私もネクラ側の人間なので気持ちは分かります」

 義人さんの言っていることは大いに理解できた。例えば陰気な高校時代を過ごした私がくるくるちゃんに「制服コスプレで渋谷でデートしてタピオカ飲まない?」なんて誘われたら一も二もなく飛びつくだろうし、ワクワクするだろう。いくつになっても青春は取り戻したいものなのだということは、何となく想像できる。

 しかしそれとこれとは別問題だ。私も断固として首を横に振る。

「いやでも、移動はしませんか? 青春はもうちょっとだけ落ち着いた土地で取り戻しましょう?」

 ところがどっこい、義人さんの決意はなかなか固かった。頑として首を縦には振ろうとしない。

「お願いだよ、伊予さん。僕はあくまで渋谷という土地に執着しているんだ。君のような若い子から見れば愚かしいことかもしれないし、普段の僕でも愚かしいと思うだろう。しかしね、伊予さん、歳を取るとどうしても、二度とは取り戻せない『正しい青春』の亡霊になってしまう時というのがあるんだ。ここは一つ、年寄りの介護だと思って折れてくれないかい」

「えぇ……」

 前回はカラオケなどという密室に行きたいと言い出すし、今回は渋谷でパパ活を決行したいと言い張るし、なんて困った人なのだろう。喋り方は文語的だし偏屈だし変人なのに、やりたいことや楽しいことを優先して周りが見えなくなる小学生のような面がある。そして、四十代のおじさんのそんなところを可愛いと思っている私も、大概どうかしている。更に、そんなふうに思っている相手と渋谷でお買い物なんて確かに青春っぽいな、とつられて少しワクワクしている私もいるわけで、本当にどうかしているとしか思えなかった。

 パパ活ってこんな楽しくていいんだろうか?

 …………まぁ、いいか。

「仕方ないですね。しましょう、シブヤのマルキューでお買い物デート」

「いいのかい!」

 ぱぁ、と義人さんの笑顔が輝く。うーん、まばゆい……現役の若者よりずっとイキイキとした笑顔を浴びせられ、現役の若者こと私は思わず目を細める。

「あ、あんまり目立つようなことは嫌ですからね!」

「分かっているさ。ありがとう、僕の我が儘に付き合ってくれて。……でもさ、伊予さん」

 義人さんは声を潜めて、

「バレちゃいけない関係、世の中的にはダメな関係だけど今日だけ堂々とデートする……みたいなの、ちょっと青春っぽいと思わないかい?」

 そう言ってニヤリと笑う。……まったくこの人には敵わない。私はため息をついて、「マルキューはそっちじゃないですよ」と義人さんの手を握り、そして引いた。




 マルキューなどという一軍女子の巣窟に足を踏み入れるのは当然はじめてだったが、館内に入って十秒もしないうちに激しく後悔することとなった。何だこの建物は。顔面偏差値が一定以上でオシャレで明るい性格の若い女しか入れないルールでもあるのか?

 ふと心配になって義人さんの方を見ると、私に負けず劣らず顔面蒼白で唖然としている。そりゃそうだ、と私は思った。何せ建物内に入ってから一度も義人さん以外の男性を見かけていない。

「ねえ、伊予さん、僕が悪かった。やっぱり場所を変えよう」

 そんなことを耳打ちしてくる始末である。

 私といえば腹を括ったというか一周回ったというか、とにかく何かが吹っ切れて謎の開き直りをしていた。ここまで来たのなら槍が降ろうと視線が刺さろうと、何が何でも「シブヤのマルキューでお買い物デート」を完遂してやろうという気持ちになっていた。意地になっていた、と言ってもいい。

 私は義人さんの腕を掴んでぐいと身体を引き寄せ、そのまま腕を絡ませた。

「なに怖気づいてるの。今日は私の好きな服を買ってくれる約束でしょ、

 わざと大きめの声でそんなことを言ってみる。義人さんは一瞬驚いたような顔をしたあと、ほっとしたような、少し嬉しそうな顔をして、答えた。

「そうだったね、。どこの店の服が欲しいんだい?」

「私、マルキューのことあんまりよく知らないんだ。下の階から順番に見て回りたいんだけど、いい?」

「もちろん」

 義人さんが頷いたので、私たちは一階から順番に店を見て回ることにした。

 はじめて来た建物をじっくり見たいのは本当だったが、一階ずつ見て回るのは、事前にくるくるちゃんから教えてもらった店を探すためでもあった。くるくるちゃんが「渋谷のマルキューにも入ってる」と言っていたのを思い出したのだ。店名を一軒ずつ確認しながら、義人さんの腕を引いて歩を進める。キラキラオシャレ女子が着るような服屋しか入っていないのだと思っていたが、意外にもロリータや地雷系の服を売っている店も散見された。パパと会わない日のくるくるちゃんがたまに地雷系の服を着ているので、服に疎い私でも何となく馴染みがある。地雷系の服をじっと見ていると、義人さんに「伊予ちゃんはそういう服が好きなのかい?」と尋ねられた。

「いえ……じゃなかった、ううん。私じゃなくて友達が好きなんだよね。……逆にさ、義人叔父さんはどういう格好の女の子が好きなの?」

「ぼ、僕かい? ……そうだなぁ……」

 義人さんは辺りを見回して、「ああ、あのお店の服なんかは好きだな」と指差した。ふんわりとした生地の、フェミニンで清楚系な服を売っている店だ。義人さんは変人だが、女の子の服の好みは意外と正統派らしい。

「ふぅーん、叔父さんああいうのが好きなんだ」

 言って、私はその店へと入る。

「伊予ちゃん、僕の好みじゃなくて伊予ちゃんが着たい服を買えばいいんだよ?」

 義人さんがそう止めるが、ここでも私はくるくるちゃんの言葉を思い出す。「イオちゃんがいいなと思った服じゃなくて、オヂの反応が良かった服をおねだりしてみせる行事だからね、これ」――そう、これは私の好きな服ではなく義人さんの好きな服を買うイベントなのだ。それに、単に私が服に無頓着なので、着たい服をと言われても困ってしまう。

 私は少し考えて、妙案を思いつく。義人さんの方を振り返って、いたずらっぽく笑ってみせた。

「私、小さい頃から言ってるでしょ。将来は義人叔父さんのお嫁さんになりたい、って。だから叔父さんに可愛いと思ってもらえる服が欲しいの」

 少しからかっただけのつもりだったが、どうやら思いのほか刺さったらしい。義人さんがそっぽを向いて、

「……伊予ちゃんはそろそろ同年代の恋人を作りなさいね」

 なんて言うものだから、おかしくて吹き出してしまった。

 それから私と義人さんは、そのお店でしばらく服を選んで楽しんだ。「これなんてどうだい」「えぇー、ちょっと派手じゃない? こっちはどう?」「悪くないが、若い子が着るには少し地味だと僕は思うがね」なんてワイワイやっていたら、もうとっくに周りの目なんてどうでも良くなってしまった。それでも親戚の叔父さんごっこはやめなかったけれど。口に出して言っていたら、本当に小さい頃から大好きな叔父さんと買い物に来ているような気分になってしまったからだ。実際のところ我が家は親戚づきあいをしないし、本物の叔父ともほとんど会ったことがないが、小さい頃から仲良くしている親戚がいたらこんなかんじなんだろうな、なんて思ったりする。

「伊予ちゃん、伊予ちゃん」

 義人さんがちょいちょいと手招きをする。

「何? 義人叔父さん」

「買わなくてもいいからさ、この服を試着してみてくれないだろうか。絶対に似合うと思うし、伊予ちゃんが着ているところを見てみたくて」

 そう言った義人さんが手にしていたのは、ふんわりとしたかんじのワンピースだった。シフォン生地、と言うんだろうか? レースっぽいデザインの刺繍がされており、大人っぽさの中に少女性もあるデザインだ。可愛らしい服だとは思うが、自分一人だったら気後れしてまず選ばないであろう服でもある。

 私は義人さんから服を受け取ると、「すみません」と店員さんに声をかけた。

「試着室を借りたいんですが」

「どうぞ! お履き物を脱いでお上がりください」

 店員さんがカーテンを閉め、私はまったく身分不相応なワンピースを持った鏡の中の自分自身と二人きりになってしまった。

 あの客、ブスの癖にあんな可愛い服着るんだ、とか何とか、自意識過剰だとは分かっていても店員さん相手にそんな被害妄想をせずにはいられない。パキっとした新品の服は肌に馴染まなくて、やっぱり私なんかが持つべきものではないんだな、と冷静にさせられる。一人だったら絶対に試着なんてしない。誰が着ても普通くらいにはなるファストファッションを試着もせずに買うのが、私の常だった。

 しかし今日は、なぜだかそんなに嫌な気持ちにはならない。店員さん相手に卑屈な妄想をすることもなく、まっすぐ目を見て試着室を貸してほしいと言えた。これはどうしたことなのだろう――少し考えて、お金のためにやっているという割り切りがあったからだ、と思い至った。仕事みたいなものだから、私の意思じゃないから。「仕事だから」という意識は過剰な自意識を殺してくれる。お金のためというのは何も悪いことばかりではない。

 ワンピースに袖を通して、試着室から顔を出す。

「着てみまし……着てみたよ、義人叔父さん。どう?」

 義人さんは触っていたスマホから顔を上げ、私をしげしげと眺めた。

 そして一言、

「可愛い」

 とだけ呟いた。それしか言わないのがかえってリアルで、私は思わず笑顔になった。

 ――そうか。この服を着ている私は可愛いのか。

「店員さん、この服ください。着ていくので値札を切ってもらえますか」

「い、伊予さん、本当にこれでいいのかい。僕の好みに合わせなくたって」

 思わず「親戚の叔父さんと姪っ子ごっこ」を忘れる義人さんに、私は微笑んだ。

「いいんです。私が義人さんに、可愛いって思われたいと思ったから」

 これは本心だった。義人さんの可愛い面を私が見つけるばかりで悔しいのもそうだが、義人さんに可愛いと思われるための服なら――つまり「お金のため」「仕事だから」の意識でいれば、素の私ではとても着られない「可愛い」を、身に纏うことができると思ったからだ。本当は可愛くなってみたい私を邪魔する自意識を、お金のためと思えば無視していられる。

 以前くるくるちゃんに言われた、パパ活で私にいい影響があるというのはこのことだったのかもしれない。

「伊予さん、素敵だ。よく似合っている」

 お会計を済ませた義人さんが、改めて私にそう言った。

「義人さんが選んでくれたんだから当たり前です。私が垢抜けたオシャレ女子になるまで、ちゃんと見届けてくださいね」

 義人さんは「もちろん」と笑った。

 その後も私たちは、マルキューのウィンドウショッピングを楽しんだ。様々な系統の服を見るうちに、こういう服は格好いいな、この店の服は可愛いな、とだんだん自分の好みが分かってくる。たぶん普通はこういう作業を、雑誌なんかを読んで早いうちからやっておくものなのだろう。周回遅れではあるかもしれないが、今まで興味がなかったものを知っていくのは楽しかった。

「義人さん。私、今まで服をバカにしてました」

「何だい、藪から棒に」

「重要なのは魂の部分――自分が何を考えて、どういう思想を持っているか、それだけだって思っていたんです。深い部分について話すことのない知り合いとの会話の時に出る性格とか、服とか、魂より外側の部分はどうでもいいって思っていました」

「極端だね。伊予さんらしいけど」

「でも、今日義人さんと服を見ていて、思ったんです。自分の魂の部分が大事なら、それを適切に飾ってあげることも悪くないんじゃないかって。ファッションは一番見えやすい自己表現だって言いますし」

「興味深いね」

 義人さんは顎の下に手を当てて、言う。

「伊予さんに服を買っておいて何だが、僕もいま伊予さんが言ったような考えの持ち主でね。以前僕は伊予さんに『自分の容姿にお金をかけるのは得意ではない』というようなことを言ったと思うが、それはまさに伊予さんが言ったようなことなんだ。内面以上に重要なことなどないと思っているから、外面を蔑ろにしがちだ。――でも、今の伊予さんの言葉で、僕も考えを少し改めたよ」

「改めるなんて、そんな。どちらかが間違ってるわけじゃないですし、服をちゃんとした方がいいなんてただの一般論です」

「ああ、一般論さ。でもそんな一般論を僕は、四十幾つにもなるまで聞き入れられなかったわけでね。それを今日やっと受け入れることができた。伊予さんが僕を納得させるような言葉をくれたおかげだ」

 嬉しい。義人さんが私の可愛げのない物言いを褒めてくれること、私が義人さんに影響を与えられたこと。義人さんは私を認めてくれているけれど、私は義人さんには到底届かないと心のどこかでは思っているから、一太刀浴びせられたようでつい頬が緩んでしまう。

 一人でニヤニヤする私をよそに、義人さんは続けた。

「僕のような、偏屈で凝り固まった思想を持つ年寄りの考えを改めさせるのは難しい。でも伊予さんは、いつだって僕の中に新しい風を吹き込んでくれるね」

「な……何ですか、藪から棒に」

 さっきの意趣返しのつもりで義人さんに言われた言葉をそのまま返すが、義人さんは気にも留めない。

「互いが高め合える関係というのは理想的だ。僕はずっと伊予さんのような女性を探していたのかもしれない」

「こんな人の多いところで恥ずかしいこと言わないでください!」

「恥ずかしいかね」

「なんか、告白みたいでしたよ。今の」

「えぇ。僕は真面目に言ってるのに……」

 せっかくシブヤのマルキューにいるというのに、話していることが普段と何ら変わらない気がするのはなぜだろう。明るい土地で明るいイベントを行っても、やっている当人が二人とも暗いのだから敵わない。

 しかし一方で、私たちが私たちのまま青春を取り戻せているような気もしていた。どうしてだろうか、今の会話に青春らしい要素なんて一つもなかったのに。ただ偏屈な二人組がやっと少しだけ容姿に気を遣おうという気になっただけの話が、なぜ私の心の内をこんなに波立たせるのか、不思議でならなかった。そしてその波立ちは決して嫌なものではない。少しこそばゆく、面映ゆく、暖かなものだった。

「……ところで、伊予さん」

「何です?」

「さっきから僕たち、いろいろと言われていないかい」

 暖かだった空気が一気に冷える。

 聞き耳を立てると、確かに「あの人たちパパ活じゃない?」「うわ、ないわぁ」などという囁き声が聞こえてきた。まったく人の方を露骨にチラチラと見て、なんて失敬な輩なのだろう。しかし本当にパパ活なのだから反論のしようがなかった。

「本当だ。それに、建物に入ったときより私たち浮いてるかんじがしますね。なんででしょう」

「たぶん、伊予さんの服装が変わって綺麗なかんじになったから……」

 なるほど。確かに芋臭い女の子とおじさんが一緒にいてもあぁ親子でお買い物かぁという感想にしかならないが、隣にいるのが小綺麗な女の子なら一気に関係性が疑わしくなる。疑わしいというかまぁ事実なんだけど……などと考えていると、どうやら義人さんも同じことを思っていたらしい。心なしか元気のない声音で私に言った。

「まぁパパ活であることは否定しようもないんだが、こうもヒソヒソと囁かれると心に来るものがあるね」

 そうなのだ。パパ活だと指を差されることよりも、パパ活が悪いことであるかのようにヒソヒソと囁かれることの方が辛い。パパ活を始める前、不安になって調べたことがあるけれど、パパ活自体は法に触れてはいない。パパが既婚者であった場合や、贈与税の控除ラインを超えた場合は別だが、義人さんはずっと独身だし私も贈与税が発生するほどお金をもらってはいない。

 私たちが後ろ指を差される道理なんてないはずだ。

 義人さんと出会って、くるくるちゃんと仲を深められたこの行いを、笑われたくない。社会がどう思うかなんてクソ食らえだ。倫理から外れようと何だろうと、私は私のやっていることを悪いことだなんて思いたくはない。

「走りましょう、義人さん!」

「えっ」

 気づけば私は義人さんの手を取って、マルキューの館内を全速力で駆けていた。こんな場所からは逃げてしまおう。私たちの関係を笑う人たちと同じ場所にいる必要なんてない。このまま走り続けて倫理さえ振り切ってしまえたら、私はきっと余分なもの全部捨てて身軽になれる。「倫理を捨ててみなよ!」とくるくるちゃんの声が聞こえる気がする。

 マルキューを出て、スクランブル交差点を渡って、駅前の広場を突っ切って、人の少ない壁際まで行ってやっと私は立ち止まった。

「い、伊予さん……四十代には少しキツい運動だったよ……」

「すみません」

 義人さんが息切れしている。私は素直に謝罪した。

「いや、いいんだ。僕に気を遣ってくれたんだろう」

「いえ、私がそうしたかったから……」

「そうかい。しかし僕は嬉しかったがね。こんなに素敵な女性に手を引かれて渋谷の交差点を渡るなんて、あまりにも青春じゃあないか!」

 義人さんは笑った。私もつられて笑い返した。

 この人となら、きっと倫理を外れても楽しい。そんなことを思ってしまう程度には、私は義人さんを魅力的に思っていることに嫌でも気づかされる。試着室で卑屈にならずに済んだ理由は、何もお金のためだけではない。義人さんがいてくれたからでもあるのだ。

 世間から見た私たちの関係がどんなに後ろ暗いものであろうと、義人さんが隣にいるという事実は私の背筋を伸ばしてくれる。もちろん私たちはお金の関係、割り切った関係だ。むしろ私たちの間には、お金という縮まらない距離が保たれていることが重要であるとすら思っていた。義人さんみたいな魅力的な人に、お金を払ってもらう価値が私にある――その事実が私を堂々といさせてくれる。私をいい女にしてくれる。

 お金の関係だからこそ、私は義人さんが好きなのだ。


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