Ⅴ
「――っていうか、ちょっと前からあんた、妙に羽振りがいいんじゃない?」
「えっ」
ビクッ、と過剰なくらい肩が震えたのが、自分でも分かった。我ながら、なんて分かりやすい反応。これでは自白したのと同じようなものだ。
全身から嫌な汗が噴き出て、心臓が早鐘を打っている。
「最近よくお友達と出かけてるし。前はお金ないからってずっと家にいたのにねぇ。今はアルバイトもしてないでしょう? ファミレスは辞めたって言ってたものね」
「いや、それは……」
「それに、あんたの部屋に見たことない化粧品があったから。色気づいちゃって、これはいい人でもいるのかなと思ってね、お母さん興信所の人に調べてもらったの。お相手が変な家の人だったら困るでしょう。……でも、まさかこんなことになるとはね」
母はどこからともなくA4の茶封筒を取り出し、中身をゴソゴソと漁りだした。茶封筒の下の方には興信所の名前が書いてあった。
母は数枚の写真を取り出して、私の目の前に突きつけた。映っていたのは紛れもなく義人さんとくるくるちゃんで、私はもう逃げ場がないことを悟った。
そうだ。全部壊れてしまったんだ――私のせいで、この家は壊れてしまった。母がその優しさを私に向けることも、家族で季節行事を楽しむことも、二度とないんだ。
この写真数枚だけで、手に取るようにはっきりとその事実が分かった。
「お母さん、違うの。この人たちは悪くないの」
「何? これ、最近流行りのパパ活ってやつでしょう。で、この女の子がいろいろ吹き込んだのね。お母さん、パパ活が何なのか調べたの。援助交際と何が違うのかしらね。もう少し泳がせておけば、きっとホテルに入っていくところなんかも写真に取れたのね」
「違う!」
気づけば私は母の手から写真を奪い取っていた。違う。義人さんはそんなんじゃない。この人のことも、私とこの人との関係も、何も知らない母に勝手なことを言われるのが無性に腹立たしかった。
私は何をやっているのだろう。そんなことに腹を立てている場合じゃないのに。
分かってはいたけれど、止められなかった。
「義人さんはそんな人じゃない。何も知らないのに適当なこと言わないで!」
「何も知らないのはあんたじゃない。その人、あんたに義人って名乗ったの? それ、偽名よ。本名はね、」
「やめてよ! 名前なんかどうでもいいじゃん。本名を知ってたから何なの? 本名しか知らない関係なんかより、ずっと――」
ずっと……ずっと、何だ? 義人さんもくるくるちゃんも本名なんか知らないけれど、私との関係でそれが何か問題なんだろうか?
「ずっと、『本当』の関係だよ!」
――自分の大声で目が覚めた。
視界には白い天井があって、胸の真ん中のあたりにどうしようもない喪失感だけ生々しく残っていた。全身に嫌な汗をかいていたようで、少し体が冷えている。
「夢か……」
夢ではあったけれど、いつでも正夢になりかねない夢だ。酷い夢だと思った。自分が何をやっているか、嫌でも自覚的にさせられる。
そうだ。義人さんとはお金で繋がれた、非常識で最悪な関係性なんだ。たとえどんなに義人さんが私を気に入ってくれていて、どんなに私が義人さんを良く思っていたとしても。それでくるくるちゃんは、私に悪いことを吹き込んだ張本人ということになってしまうんだ。
私はベッドからのろのろと起き上がった。
大学に行かなくてはいけない。
大学の授業で憂鬱なことに順位をつけるとしたら、グループワークは上位五位にランクインする。まず人と会話しなければいけないのが面倒だ。座って講義だけ聞いていたいのに。その上グループワークで話した人間とは今後も会えば話をしなくてはならない。……しなくてはならない、と断定するような言葉では言い過ぎなようにも思えるが、これは「女性は化粧をしなくてはならない」と同じくらいの「しなくてはならない」だと私は思っている。誰も強制などしないけれど、世間体や立場や、そういうふわっとしたものを守るために、やらないわけにはいかないのだ。
くるくるちゃんや義人さんはきっとそういうことは気にしないんだろうな、と思う。くるくるちゃんは義人さんを扱いきれないと言ったが、なかなかどうしてあの二人はよく似ていた。ある種の純粋さとも言える少しだけ狂った瞳で、我が道だけをまっすぐ見つめて歩いている。
最近、あの二人のことばかり考えている気がする。人付き合いが好きな方ではない自覚があるけれど、あの二人のことはどうしてか好きだった。
「てかさぁ、期末レポートもう手つけてる?」
隣の女子大生Aに話しかけられ、私は渋々と意識を現実に向けた。明るい茶髪、デニムの太いズボンにニットベストみたいな服を着た、大学構内に一人いれば五百人はいるかんじの女の子だ。
「全然。私サークル入ってなくてさ、誰かから先輩のレポート回ってくるまで待とうかなって」
「あれ、知らない? 去年と課題違うから先輩のレポートはアテにできないよ」
「えぇ! そんなぁ」
今のは少し棒読みだったかも。
実際のところ、私は先輩のレポートや過去問をアテにしたことなどない。そもそも学部のメッセージグループに入っていないから、それらが回って来すらしないのだ。
会えば話す……というか話さざるを得ない相手はいるけれど、友達らしい友達は大学にはいない。SNSを始めて、ああ、簡単には消えられない場所に友人を作るのはやめよう、と思った。人嫌いのつもりはなかったけれど、簡単に繋いで切れるお手軽な人間関係を知ってしまったら、枷になるような人間関係はもう億劫でやれたものではない。
「ウチもレポート手つかずなんだよね。バイト忙しすぎてさぁ……でも来月彼氏とテーマパーク行くからお金要るじゃん? って思うとシフト減らせないんだよねぇ」
「そうなんだ。何のバイトやってるの?」
「居酒屋。そっちは?」
「あぁ、えっと………………フ、ファミレス?」
「なんで疑問形?」
しまった。前のバイトをやめた直後あたりから義人さんと会い始めたからお金には困らないし、アルバイトなんて久しくやっていない。後ろめたさから妙な間が開いてしまった。
「なんかさぁー、ウチそんなに体力ないし、結局月六万くらいが限界じゃない? 服もコスメも全然我慢できないし全然足りないっつーの、って思って。パパ活でもしよっかな」
「六万ってすごいね。私バイトでそんなに稼げないや」
「ホント? 意外といけるよ。……って、パパ活に突っ込んでよ! ウチがホントにパパ活やりたい人みたいになっちゃったじゃん!」
「あ、ごめん」
ああ、今の「パパ活」は「絶対にあり得ないこと」の意味で使われたのか。くるくるちゃんとの狂った会話に慣れすぎて咄嗟に分からなかった。
いつの間に「普通の女子大生」がこんなに遠くなってしまったのだろう。確かに義人さんと会ったりくるくるちゃんと仲良くしたりはしているけれど、私自身は至って普通の女子大生を貫いているつもりだった。朱に交われば赤くなる。私みたいに何もない、真っ白な人間なら尚のこと。周りの人間に、母親に、悟られるのも時間の問題なのかもしれない。今朝の夢を思い出した。代償は大きい。ただ会いたい人に会っているだけなのに。
私がやっていることは、そんなに悪いことなんだろうか。
「あー……、なんか、もしかして疲れてる? ウチめっちゃ喋りかけちゃった、ごめんね。ウチはレポート書いてるからそっちも好きな作業しな」
「ああ、うん……なんかごめんね」
女子大生Aに気を遣われてしまった。劣等感と情けなさに襲われて、すぐにでも教室から出ていきたい気分だった。いま流行りの「ピ逃げ」だと思われるのは心外だという極めて常識的な気持ちから、何とかこの硬い椅子に座っていられた。
何だか酷く疲れている気がして、私はため息をついた。
「ってことが今日あってね」
午後。
講義を終えて、いつもの喫茶店でくるくるちゃんと会う。コーヒーと紅茶で乾杯しようと、公衆の面前でパパ活の話をされようと、結局ここが一番心地良いと感じてしまう。彼女のことをミラーボールのようだと言ったことがあるけれど、その不穏な煌びやかさは、多少私が普通でいられないことくらい平気で隠してしまう。
「ふぅーん、いろいろ持ってると守るものも多くて大変なんだねぇ」
くるくるちゃんはといえば、興味深そうに相槌を打って頷いていた。たぶん本気で彼女には分からない感覚で、私の話は私から見たくるくるちゃんがそうであるように別世界の話なのだろう。
「くるくるちゃんは、そういうのはないの? 誰かにだけは何かを知られたくないとか」
「あたしはないね」
はっきりと断言するくるくるちゃん。そうだろうとは思っていたけれど、なんて力強い言い切りなのだろう。羨ましくすらある。
「ないっていうか、持たないようにしてる。知ってると思うけどあたし、縛られるのが嫌いだし、所属と責任がこの世で一番嫌いなんだよね。あたし以外の何かのせいでできないことがあるって最悪じゃない? そんなのあたしの人生じゃないって思うよ」
「言ってることは分かるけど。誰かにこう思われたくないとか、隠したいとか、ないの?」
「ない。そもそもオヂとイオちゃん以外に交友関係がない」
「パパを交友関係に含めるのはやめなさい」
しかしそれは意外な話だ。くるくるちゃんのSNSはそれなりにフォロワーがいるし、私以外にも大勢友達がいるのだと思っていた。
「自分以外のところに理由があるって『弱さ』だって普通に思わない? あたしは常に強くいたいからさぁ。……あと、それと似たような話で、物もあんまり持たないようにしてるんだ。イオちゃん、あたしの部屋に初めて来たとき物が少なくてびっくりしてたよね」
「うん。何ならくるくるちゃんの部屋に行くたびに改めて驚いてるよ。……物を持たないようにするのって、今の話とどういう関係?」
「家にも縛られたくないってこと。常に身軽でいたいからねぇ。ほら、物が多いと引っ越しとか大変じゃん? いつでもどこへでもふらっといなくなれるからこそ、あたしはここにいられるんだ。……まぁそれと、オヂに家がバレたときさっさと引っ越せるようにっていうのも少なからずあるんだけどね」
最後に現実的なことを言って舌を出すくるくるちゃん。顔がいいので、そんな漫画チックな仕草すら様になってしまう。
「……くるくるちゃん、いなくならないでよ? 私だって友達いないんだから」
「え~、何、イオちゃんあたしのこと好きなの? 嬉しいんだけど。……大丈夫だよ、イオちゃんの前からはいなくならないから。たぶんね。言ったでしょ、いつでもここを離れられるからこそずっとここにいられるって」
くるくるちゃんはにっこりと笑ってそう言った。彼女はこれでいて、素の反応とそうでない時とが意外と分かりやすい。これは後者だな、と私は思った。くるくるちゃんは、きっといつかいなくなる。
思えばそれは当然で、そういう気まぐれで刹那的なところがそもそも彼女の魅力なのだから、彼女を一箇所に留めておこうなんてナンセンスな話だった。終わりが分かっている関係は寂しいけれど、仲違いする前に彼女はきっと姿を消してくれる、私たちは友達のまま終われる――そんな確証で安心できてしまうなんて、私も大概くるくるちゃんに影響されてきているのかもしれない。死期に姿を消す猫みたいだな、と何となく思った。
「まぁ、さすがにあたしみたいになった方がいいとは思わないけど、イオちゃんも少し何か捨ててみれば? あたしからするとイオちゃんは全部守ろうとしすぎててしんどそうだよ。イオちゃんが守ろうとしてるもの、意外と大して大事じゃないかもよ?」
そうだろうか。私が守ろうとしているものは「普通の女子大生」の範疇にいるためには必要なものばかりだ。捨てられるものなんて何一つない。
「……くるくるちゃんなら、何を捨てる?」
「えぇ~、あたし? そうだなぁ……倫理とか?」
考えうる中で命の次に捨ててはいけないものをピンポイントで指定してきた。
「それは捨てたら全部狂うでしょ」
「いいじゃんいいじゃん、景気よく狂っちゃお。倫理なんて親とか幼少期の環境とかが勝手に作ったものなんだから、後生大事に持ってたってしょうがないよ! 国産のパソコン買ったとき勝手に初期から入ってる要らないソフトと一緒」
「どういう例えなの、それ」
確かに言いたいことは伝わるけど。
「倫理を捨ててみなよ! イオちゃん、きっと自由になれるよ!」
「狂ってるよ、くるくるちゃん。……くるくるちゃんってさ、懲役という代償を支払えば人殺してもいいと思ってそうだよね」
「ひど! 道に非ずと書いて非道いよ! 人聞き悪すぎ! 殺人はダメに決まってるじゃん、なぜならあたしが殺されたくないからね!」
それもそうか。殺人が法で禁じられていないと、彼女は既に五百回は殺されていそうだ。今まで何人から恨みを買ってきているのか、考えるのも恐ろしい。
背中にナイフが十五本くらい刺さったくるくるちゃんの姿を想像していると、「でもさ」とくるくるちゃんはふと真面目な声を出した。
「でもイオちゃんが悩んでることも分からなくはないなぁ。なんかさぁ、こういうこと始めたときって、周りの子と前みたいに喋れなくなって困るよね。価値観が違うとか、金銭感覚が合わないとか、そういう些細な差ばっかり気になって傷ついちゃうよね」
くるくるちゃんがこういう同調めいたことを言うのは珍しい。もしかして同情でもされているんだろうか? 大きなお世話だ、と意地になって、私は
「別に。なぜなら前から大学に友達などいないので」
と梯子を外した。我ながら大人げないことをする。少しだけ反省してくるくるちゃんの方を盗み見ると、
「えぇ~、そうなの? そうだったんだぁ。ふぅ~ん」
……なんでちょっと嬉しそうなんだ?
「もしかして馬鹿にしてる?」
「べつにぃ」
彼女は意地の悪いニヤニヤ笑いを浮かべている。何なんだ。友達いないのがそんなに悪かよ、馬鹿にしやがって。っていうかくるくるちゃんも他に友達いないってさっき自分で言ってなかったっけ?
……と言うと怒られそうなので、何も言わないでおいた。
……「倫理を捨ててみなよ」、か。
帰り道。ぽてぽてと足を投げ出して歩きながら、私は考えた。確かに倫理観ごと捨ててしまえば、いま守りたいもののほとんどは価値をなくすだろう。普通の大学生活、真っ当なルートの人生、家族関係。これらを守るべきだという考え方は、くるくるちゃんの言う通り、あくまで幼少期に作られた倫理観が下敷きにあるからこそのものだ。
でも果たして、倫理を捨てたら本当に楽になれるんだろうか?
くるくるちゃんは、「あたしは常に強く在りたいからさ」と言っていた。確かに私から見たら、くるくるちゃんは強い。でも本当に強かったら、わざわざ強く在ろうとする必要なんてないんじゃないだろうか。元の顔の上から同じ顔の仮面を被る人なんていない。
結局、私の手元には捨てられるものなんてない。きっとこれは、くるくるちゃんとの間にある埋められない差だし、この差があるからこそ上手くやっていけているような気もする。この重たい荷物を全部捨てて身軽になりたいとも思うけれど、捨てる決断をする強さも、捨てたものが必要になったとき買い戻す力も、私にはないのだ。だから私は一生、この荷物を背負っていくのだ。
暮れかけの日が影を長く伸ばしている。爪先に小石が当たって、コロコロと路傍を転がっていった。
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