Ⅲ
「なるべく清楚で綺麗系の、なんかちょっと高級そうな服装で来て」
というのが、くるくるちゃんからの注文だった。
パパと会ってきたその足の彼女と遊ぶことはたまにあったから、どういう服のことを言っているかは何となく分かった。そういう服がパパ活で王道であることもくるくるちゃんから聞いていた。私はなるべく高級そうに見える全然高級じゃない服を着て、約束の駅へと向かっていた。白いブラウスと花柄のスカート。普段高級なものばかり見ているお金持ちから見たら、こんな服が安物であることくらい簡単に分かってしまうんじゃないだろうか。
駅でくるくるちゃんと合流して、簡単に話を合わせてから例のパパと三人で会う、というのが今日の流れだと聞いていた。パパとは喫茶店で会う約束をくるくるちゃんから取り付けてあるらしい。
電車を降りると、私はくるくるちゃんに電話をかけた。ワンコールもしないうちに『もしもし』と彼女の声がする。喧噪の中、電話越しでも分かる、よく通る明るい声だ。
「着いたよ。どの辺にいる?」
『早かったね。南口の改札から出てきてくれる?』
「今ちょうどそっち側にいるから出るね。……あ、見えた」
スマホを耳に当てている、見覚えのある人影に向かって手を振る。彼女もすぐこちらに気づいて、ブンブンと手を振り返してきた。通話終了のボタンを押しながら改札を出ると、くるくるちゃんは「歩きスマホはダメだよ~」と言いながらこちらに駆け寄った。
「これからパパ活しようって人間の台詞じゃないね」
「何言ってるのイオちゃん。パパ活女にだってモラルはあるんだよぉ」
そうだろうか。学費と偽ってパパから何十万騙し取っただのという話を彼女から聞いたのは一度や二度ではないし、それがモラルある行動かと問われれば絶対に否だ。
「くるくるちゃんって変なところで常識的だよね」
「あっ! 待って、今日あたしのこと『くるくるちゃん』って呼ぶの禁止ね。そうだ、この話もしておかなきゃいけないんだった」
「私くるくるちゃんの本名知らないんだけど。なんて呼べばいいの?」
「本名なんかもっと呼んだらダメだよ!」
くるくるちゃんは驚いたように言って、「めっ」のポーズをした。よく考えたら当然のことかもしれない。今どき、同年代同士のマッチングアプリだって本名でやる人はいないだろう。
「あたし、今日イオちゃんに紹介するパパには『くるみ』って名乗ってるから。イオちゃんもそう呼んでね。イオちゃんも自分が名乗る適当な偽名考えて」
「意外とSNSのアカウント名と近いんだね。じゃあ私は……『伊予』とか?」
「いいんじゃない? 『伊予』ちゃん」
「そりゃどうも。『くるみ』ちゃん」
くるくるちゃん、もとい『くるみ』ちゃんはにっこり笑った。そして、いよはまだー、じゅーろくだからぁー、と歌いながらスマホを取り出し、何やら文字を打ち始める。そっと画面を覗き込むと、どうやら今日会うパパと連絡を取っているようだった。『今から例の子と一緒に喫茶店向かうね。伊予ちゃんって名前だから覚えておいて! あと十五分くらいで着くからね』――パパにはタメ口なのか。年上の人にタメ口で話すのは抵抗があるが、私にもできるだろうか。
即席で考えたにしては、この偽名は私によく馴染んだ。そもそも私は本名が好きじゃない。本名には恥ずかしい過去も薄っぺらな人間性も何もかも、隠したいものが重苦しくついて回る。匿名や偽名を使うと、それだけで本来の自分を半分くらい隠せている気がして、楽だ。
「さて、と。他にもいろいろと言っておかなきゃいけないことがあるんだよね。約束してる喫茶店までちょっと距離あるからさ、歩きながら話そっか」
「おっけー」
私たちは歩き始めた。
電車で通り過ぎることはあっても、降りたことはない駅だった。都心なだけあって人は多く、行き交う人々はサラリーマンから若者、主婦と様々だ。線路下の小汚い居酒屋、大型の商業施設、妙に小さなドラッグストア――およそ統一感のない建物が、所狭しと並び立っている。
知らない街はワクワクする。全身がむき出しの感受性になって鳥肌が立つ。大量の新しい情報が、体をふわりと浮かせる感覚がある。
「イオちゃん、この駅あんまり来ない?」
「うん。初めて降りたよ」
「うそ。土地勘あるところにすればよかったね。ごめん」
「いいよ別に。新鮮で楽しい」
「そういうことじゃなくてね……心配だなぁ。ていうか、あんな変人にイオちゃんみたいな美人さん勿体ない気がしてきた。やっぱ今日やめない?」
「くるくるちゃんが誘ったんでしょ。責任持ってよ。あと呼び方」
「そうだったね……」
くるくるちゃんは、額に手を当ててため息をついた。あんなに熱心に勧めてきた割には、彼女は今日の約束にあまり気乗りしていないようだ。彼女が何を考えているのかはイマイチ分からないが、とりあえず今日のことは約束だし、やっぱやめます、なんてわけにはいかない。「言っておかなきゃいけないことがあるんでしょ。早く話してよ」と促すと、「はぁい……」と不満げながら、彼女は話し始めた。
「今日のお相手は経営者……まぁ有り体に言っちゃえば社長さんで、名前は『
「『義人』さんね。趣味とかは?」
「仕事が趣味みたいなかんじっぽいから、仕事の話とか聞いたら喜ぶかもね。性格は落ち着いたかんじだけど、無口ではない……っていうか、めっちゃ喋るよ。ずっと淡々と喋ってくる。イオちゃん聞き役得意だから相性いいかもね」
「へぇ。正直パパ活のパパ相手とか何喋ったらいいか分からなかったし、相手が喋ってくれるのは助かるな」
「ちょっと怖いけどね。あの人の喋り方、全然抑揚ないから……メッセージでもそんなかんじ。見る?」
「見たい」
くるくるちゃんは「はいこれ」と、トーク画面を開いたスマホを投げ渡してきた。危ないからやめてほしい。落として壊れても責任取れないし。
見ると先ほどの『くるみ』ちゃんのメッセージに返信が来ていて、『了解しました。こちらは既に到着しています。仕事をしていますので、お好きなタイミングでいらしてください』と丁寧で簡素な文章である。
「あぁ……これで淡々と喋られたら確かにちょっと怖いのかも。でも丁寧そうな人だね。紳士的っていうか」
「メッセだけ見るとそうだねぇ。でもマジで変人だから。紳士なのは確かだけど……変態紳士ならぬ変人紳士ってかんじ」
「変人紳士……」
語感だけはいいな。
変人変人って、『くるみ』……いや、くるくるちゃんにだけは言われたくないだろう。まだ見ぬ『義人』さんに少しだけ同情をする。
「他のパパからのメッセージはこんなかんじじゃないの? お金持ちの人ってみんなある程度紳士的だと思ってたんだけど」
私が聞くと、くるくるちゃんはバケツ一杯分の苦虫をかみつぶしたような顔になった。可愛い顔にキュッと皺が寄って台無しである。SNSで見かけた変な顔のキャラクターを思い出した。
くるくるちゃんは横から手を伸ばすと無言のままスマホを操作して、別の人とのトーク画面を開いた。
『くるみチャン、今日は楽しかったネ! くるみちゃんの新しいお洋服、胸のところが開いてて、とってもエッチだった! オヂサン、ムラムラしてきちゃったナ♡』
『オハヨウ♡ くるみチャンは、今日は学校カナ? オヂサンはお仕事です。トホホ……。でも、週末に、くるみチャンと会えるから、オヂサン、お仕事頑張っちゃうナ! たくさん働いて、またくるみチャンに、えっちなお洋服買ってあげるからネ♡』
…………。
……………………?
「何、この…………何?」
「だからさぁ、フツーはこうなんだよね。これくらいあたしと会いたいと思っててくれなきゃ」
うん。
…………うん?
「もしかしてさっきの青汁一気飲みしたみたいな顔って、このオヂサンに対してじゃなくて……」
「『義人』さんに対してだよ。当たり前じゃん」
「じゃああのオヂサンからのメッセージは嫌じゃないの?」
「ぜんぜん」
背後に宇宙が広がるのを感じた。何も分からないしもう何も言うまい。
登場人物が全員狂ってやがる。
こんな人たちを相手にするのかと気が遠くなりかけたが、もしかしてこのくるくるちゃんをして変人と言わしめる『義人』さんは、一周回って常識人なんじゃなかろうか。マイナスとマイナスを掛け算したらプラスになる、みたいな理屈で。
よく分からない希望を抱きつつ、私とくるくるちゃんは喫茶店を目指して歩き続けた。
「着いたー!」
くるくるちゃんが宣言し、立ち止まった。確かに目の前には喫茶店がある。チェーン店ではあるものの価格帯は高めのお店で、学生が気軽に入ることはまずない。
「ただの顔合わせなのに、こんな高いところ……」
思わず私が呟くと、
「パパ達からしたら、たぶんあたしたちがスタバで待ち合わせする感覚とそんなに変わんないよ。ていうかあたしたちでも入れるようなお店だと相手も格好つかないしねぇ」
とくるくるちゃんは事もなげに答える。なるほど、高い店を選ぶのは相手の見栄や体裁のためでもあるのか。
「じゃあ入るよ。イオちゃん……じゃない、『伊予』ちゃん、心の準備はできてる?」
「……うん。いける」
正直心の準備なんて全くできていなかったが、一生完了しないタイプの準備だと分かっていたし、腹を括ってそう返事をした。ええい、ままよ。ここまで来たら引き返すわけにはいかないし、もうどうにでもなれ。
それに、いざとなったら隣にはくるくるちゃん……否、『くるみ』ちゃんがいてくれる。彼女さえいてくれれば何とでもなるはずだ。
『くるみ』ちゃんが店のドアを開ける。カランカラン、と小気味のいい音が鳴る。
「二名様ですか?」
執事風の制服を着た、感じの良い店員さん。店内を優雅に流れるクラシック。暗めの木目調で統一された店内に、光沢のある赤のソファと金のカトラリー類が映えている。絵に描いたような「高めの純喫茶」感に圧倒されて、思わずあたりを見回してしまう。
『くるみ』ちゃんはというと特に何の感慨もないらしく、慣れた調子で「待ち合わせです」と店員さんに伝えていた。
「ほら、『伊予』ちゃん行くよ」
小声で『くるみ』ちゃんに促される始末。先が思いやられる。
「あ、うん。ごめん」
「いいよぉ。ほら、あそこの奥の席に座ってる人ね。挨拶するから、『伊予』ちゃんも適当に合わせてね」
「分かった」
『くるみ』ちゃんの指さした先に座っているのは、少し小柄なこと以外は何も特筆すべきことのない、どこにでもいそうな四十代くらいのおじさんだった。メッセージで言っていたように仕事をしているのか、ノートパソコンを開いて背を丸め、何やらカタカタとやっている。私に分からないだけかもしれないが、見る限り着ているスーツや置いてある鞄が特に高級そうには見えず、身なりもだらしなくはないが、特段意識して綺麗にしているようには感じられない。つまるところ本当にその辺を歩いていそうなサラリーマンにしか見えず、この人が社長だなんてにわかには信じられない。
そんな、およそこの場には不似合いなおじさんに、しかし『くるみ』ちゃんは元気よく声をかけた。
「義人さん! こんにちは! 元気だった?」
『義人』さんは「うん?」と一声唸り、パソコンに何かを入力し、しばらく考えるような仕草をして、そしてパタンとパソコンを閉じた。その間、『くるみ』ちゃんはニコニコして立ったまま待っていた。
「ああ……君が、例の」
『義人』さんが顔を上げて、こちらを見る。
――目が合う。ぎょろりとした、爬虫類を思わせるような目。顔立ちそのものは優しそうなのに、目だけが落ち窪んで、常に何かを見抜こうとしているような、殺気にも似た何かを孕んでいる。
私は立ち竦んで、何も言えないままただ彼の目を見つめ返した。ああ、全部バレている。今この瞬間にも、何もかも、内臓の内側までをも見透かされて、精査されているんだ。私がつまらない人間だってことも、この人を怖いと思っていることも、今日の約束にさほど気乗りしていなかったことも、高級な喫茶店に慣れていないことも、何もかも……本当に何もかも!
「あの、私」
やっとの思いで口を開いた私の言葉を遮ったのは、『義人』さんだった。
「君が伊予さんだね。はじめまして。そんなところに立ってないでほら、座って座って。くるみちゃんも」
そこにはつい先ほどまでの、ビームが出そうなほどの眼光はもうなく、顔をくしゃっと歪めて笑う、人が良さそうでどこにでもいそうな四十代のおじさんがいるだけだった。私は困惑した。つい数秒前とは別の人と対峙しているとしか思えなかった。さっきまでの眼光ギラギラおじさんはどこにいってしまったんだ? 狐に化かされたような気分だ。
『くるみ』ちゃんはというと、
「はーい! 失礼しまーす」
と元気に返事をして、「義人」さんの向かい側の席へと腰かけていた。テーブルの下から『くるみ』ちゃんが「座って」とジェスチャーを送ってくる。私も慌てて、
「し、失礼します」
と『くるみ』ちゃんの隣に腰かけた。
「二人とも好きなもの頼んで。お昼は済んでる?」
「は、はい、済んでます」
「やったー! あたしデザート食べたいな。頼んでもいい?」
「どうぞ。伊予さんも遠慮しないでね」
「私はコーヒーだけで………」
スマートにメニューを手渡してくれる『義人』さんと全く遠慮のない『くるみ』ちゃん、二人の場慣れしたかんじに気圧されつつ、私はメニューを眺める。遠慮のつもりでコーヒーをと言ったものの、コーヒー一杯の値段は千円だと書いてある。いつも三百円のコーヒーを飲んでいる私は、なんかもう世界が違うしどうでもいいや、という気分になった。刺激が多すぎて既に疲れていたのだ。店に入ってからまだ五分と経っていないのに。
「じゃ、改めて紹介するね。この子は伊予ちゃん。あたしと同い年。こういうことするのは初めてだから優しくしてあげてね。伊予ちゃん、こちらは義人さん」
「伊予です。よろしくお願いします」
『くるみ』ちゃんの紹介を受けて頭を下げると、『義人』さんは
「義人です。伊予さん、よろしく」
と、同じく頭を下げた。
丁寧で優しいかんじの人。見かけこそ飾っていないけれど、動作なんかはスマートで気遣いができる人。年下の、しかもパパ活女が相手であっても、初対面の相手を急に「ちゃん」付けで呼んだりしない人。それが今のところの、『義人』さんに対する印象だった。
『くるみ』ちゃんは変人変人と散々連呼していたけれど、そんなに変わった人だろうか?
そんなことを考えていると、『義人』さんはおもむろに口を開いた。
「こういうことする女の子は金持ちおじさんなんか見飽きてるかなと思ってその辺にいそうなオッサンの格好をしてきてみたんだけど、君にはあんまり効果なかったみたいだね。初めてみたいだし。女の子は今日の僕みたいなおじさんのことを『キモオヂ』と呼ぶんだって?」
「えっ、いや」
「僕を最初に見たとき『とても社長には見えない』って思ったんじゃないかい? まぁ僕は社長とは言っても小さなところのだからこの格好で相応だとも言える。ただこういう普通のオッサンが相手で君が落胆するかどうか試してみたかった。結果としては君は場の雰囲気に圧倒されてそれどころではなかったようだけれどね」
一方的に、そして淡々と、息継ぎなしで喋ってくる。文章を押し並べているみたいだ。言葉遣いもちょっと文語的だし。
返事に窮していると、『くるみ』ちゃんが横から口を挟んだ。
「ちょっとちょっと! 義人さんいつもそんな格好じゃん。いかにもお金持ち~みたいな服着てたことないでしょ!」
「すまない。場を和ませようと思って」
「分かりにくいんだよ、義人さんの冗談は」
今のは冗談のつもりだったのか。分かりづらいにも程があるし、何ならちょっと怖かった。全然和んでないし。なるほど、変人と言われるわけである。
「彼女――くるみちゃんの言うように、悪いけれど僕はいつもこんな格好だ。高級なお店に行くときはそれなりの服を着るけれどね。『パパ』と言われてイメージするような人間じゃなくてがっかりしたかい?」
「いえ、そんなことは」
「そうだろう。君はそういう子だと一目見たときから思っていたよ。僕はね、高価な車や家、ブランド品、そういったものを持つことがステータスになる時代は終わったと思っているんだ。昔は情報が少なかったから価値観も一様で、お金はある種、絶対の指標になったわけだ。誰もが分かる幸せの象徴だった。でも今はインターネットが発達して価値観も多様化した。人それぞれの価値観が簡単に共有されるようになって、触れる機会も議論をする機会も増えた。有益な議論になることは多くないかもしれないけどね。そんなだからお金、車、家、ブランド品、果ては家庭でさえも数ある価値観の一つの中での幸せに過ぎなくなった。――というのが僕の考えでね」
一気にそれだけ喋ると、義人さんは「言いたいことは言った」とばかりにコーヒーを飲んだ。
私の返事待ちなのだ、と理解するのに少し時間がかかった。あまりにも一気にまくし立てられたし、何よりこの人がどういう返答を求めているのか分からなかった。喋りたいことを喋っただけで、返答なんか求めていない気さえした。何を言えばいいんだ。何も分からない。
逡巡の末、何も分からないので正直に感想を述べることにした。
「何というか……義人さんは、若々しいですね」
「というと?」
「さっき義人さんが言ったような価値観の若者は少なくないと思います。でも、義人さんはご自身が仰ったように、『お金が絶対の指標』だった時代を生きていた時間の方が長いじゃないですか。若いうちにできた価値観を変えるのって結構難しいことだと思うんです。ですから、その価値観と、時代に合わせて価値観をアップデートできること自体が、若々しいなと」
「それは褒めてもらったと受け取っていいのかな?」
「もちろんです」
「光栄だ」
義人さんは笑った。
可愛げの欠片もない返しだったけれど、義人さんは満足したようだった。よく分からないけれど、「え~、すごい、頭いいんですね」みたいな返しをするよりは正解だったように感じる。少なくともこの変な人に対しては。
私のイメージしていたパパ活とだいぶ違うけれど、こんなことでいいのだろうか。
「……今のお話で、思い出したんですけど」
もうここまで来れば物は試しだ、と、私は博打に出ることにした。普通に可愛い女の子みたいに取り繕っても手遅れだろうし、この人はたぶん普通に可愛い女の子なんか探していない。可愛い女の子を探しているだけなら『くるみ』ちゃんで満足しているはずだし。くるくるちゃんが彼を変人変人と言っていた意味が既に分かりかけていた。
変人同士仲良くやれれば僥倖だし、やれなければパパ活なんて知らない、普通の大学生に戻ればいいだけだ。
「昔、ギリシャでもそういう価値観が流行ったことがあるって聞いたことがあります。お金で買える幸せの指標を求めなくなって、幸せが多様化したって。それで、その時代にそういう価値観が流行ったのは経済が停滞していたからだって言われてて。……今って感染症が流行したりして、どこも不況じゃないですか。だからさっき義人さんが言ったような価値観が今流行ってるのも、それと似たような話なのかもしれないですね。歴史は繰り返すというか」
なんて可愛げのない話題なんだ。我ながらそう思う。
しかし義人さんは笑顔だった。
「それは興味深い話だな。面白い。こんな場でそんな話が聞けるとは思っていなかったよ。いい刺激になる」
やはりというか、義人さんはこういう話題は好きなようだった。私は安堵のため息をつく。こんなことを言って、怪訝な反応をされたら立ち直れないし。
話してみてよかった。
「君はやはり他の女の子とは違うね。こういう場に慣れていないっていうのもあるんだろうけど」
「それは……褒められてます? それとも貶されてます?」
「褒めているつもりだよ。パパ活慣れしてるなんて誉め言葉にはならないだろう」
それは確かにそうだ。
「――他の若い女の子たちだってね、僕らみたいなオッサンが想像するよりはいろいろと考えているだろう。何せ僕らより脳みそが若いんだから。ただ彼女たちはそのほとんどを口に出してはくれない。特にこういう場だとそうだ。当たり障りのないことを言って、僕みたいな金持ちのオッサンから適度に好かれることの方が大切だから。……ああ、もちろんそれが愚かなことだと言いたいわけじゃないよ」
「当たり障りのないこと以外を言って嫌われて、お金をもらえないことが彼女たちにとって一番のリスクですからね」
「そうそう! そうなんだ。考えたことを口に出さないっていうのは彼女らにとって、当然のリスク回避に過ぎない。賢いとさえ言える。ただ僕が探しているのはそういう子じゃなくってね。――その点、君は面白い。今の返しだってそうだ」
どうやらえらく気に入ってもらえているようだった。私は既に難しく考えることをやめて、ただ言いたいことを言っているだけなのに。涙ぐましい営業努力の末にパパを捕まえている世のパパ活女子たちにぶん殴られてしまいそうな気さえするくらいだ。隣に座っている子は例外かもしれないけど。
「僕はさっき、お金で買えるものが幸せに直結する時代は終わったと言ったね。そして、それに対して君も概ね同意見のようだった」
「はい。まあ、義人さんはそのお歳でそういう価値観だから変わってるってだけで、私みたいな若者がその価値観でいるぶんには何も珍しくないですが……」
「そうかね。というか、さらっと僕を変わってると断言したね? ……まあいい。しかし何であっても、持ってみないことには、それが自分にとって価値のあるものなのかそうでないのか判断することは難しい。若いうちは特にね。君も試しに持ってみるといい、判断に足る分は僕があげよう。僕なりのノブレスオブリージュだ。お金を持って得た快感が相対的な優越感なのか、それとも絶対的なものなのか、それを混同しない程度には君は賢そうだからね。いや、賢そうという表現は失礼だね。君は賢いと、現時点で僕は思っている」
義人さんはまた一気に喋ると、コーヒーに口をつけた。ありがとうございますと返すべきなのか少し迷っていると、義人さんは足元に置いていた鞄を持ち上げ、ゴソゴソと漁りだした。
「ああ、あった」
義人さんが手にしていたのは、お年玉がもらえていた頃以来見ていないポチ袋だった。
「ひとまずは今日の分を渡そう。『お手当』というやつだ。君にならもっと渡してもいいが、如何せん現金をあまり持ち歩かなくてね。『一』入っている。……パパ活では一万円を一と呼ぶのは知っていたかな?」
「いえ、初めて知りました」
「そうかい。なら覚えておくといい」
そう言って義人さんは、ポチ袋をこちらに手渡した。
この中に一万円が入っているんだ。コーヒーを奢ってもらって会話をして、思ったことをべらべらと喋っただけなのに。嬉しいよりも戸惑いの気持ちが勝って、しげしげとポチ袋を見つめてしまう。
「…………あっ、ありがとうございます」
「そんな神妙な顔をしながらお手当を受け取る子は初めて見たね。何か思うところでもあったかい?」
「なんか……楽しくお話をしただけなのに、こんなに頂いてしまっていいのかなって」
私がそう言うと、義人さんは「そりゃあ良かった!」と笑った。
「そう言ってもらえるのは大変光栄だけど、もし君が他のパパと会うことがあっても決してそう言わないことだね。『じゃあお金抜きで会おうよ』とか言われてしまうよ」
「そういうものですか」
「そういうものだ。僕はとても嬉しかったがね」
パパにパパ活のアドバイスをされてしまった。
義人さんはスマホを取り出すと、メッセージアプリのQRコードを表示させた。そしてこちらにそれを差し出すと、にっこりと笑って、言った。
「連絡先を交換しよう。伊予さんさえ良ければまた会いたいんだけれど、どうかな?」
「ね、イオちゃん、ノブレスオブリージュってなに?」
帰り道、くるくるちゃんが尋ねた。
「えーっと、なんか、財力とか地位がある人はそれを社会に還元する義務がある、みたいなこと。……くるくるちゃん、あの場で何も言わないから知ってるのかと思った」
「知らないよぉ、そんな難しそうな言葉。ていうか二人があんまりにも意気投合してるから、あたしが口挟む隙なかったよね。途中から完全に蚊帳の外だったし。ちょっと妬けちゃうんだけど」
そう言って膨れるくるくるちゃん。ごめんと謝りつつ、なんだかおかしくて笑ってしまう。
あの場を無事にやり切れたことへの安堵、面白い人と出会ったという興奮、そんな人に認めてもらえた達成感、そしてあの短時間で一万円を手にした背徳感と高揚感。それらが合わさって気分が高ぶっていた。顔が火照って、外気が最高に心地よかった。暮れかけの街には既に酔っ払いや仕事帰りの人たちがちらほらいて、みんながみんな私と同じように浮かれている気さえした。
「そういえば、くるくるちゃんは結構高い服とか鞄を持つよね」
「あ~、あたしはそうだね」
くるくるちゃんは、肩から下げているバッグを見つめた。有名なブランドの、財布とスマホを入れるのがやっとの小さなバッグだ。
「高級なもの持ってる女の子にはお金かけなきゃ、って相手が勝手に思ってくれるから。一種のブランディングだよね。イオちゃんや義人さんはそういう売り方するタイプじゃなさそうだし、欲しくなければ持たなくていいじゃない?」
くるくるちゃん、素で話せば絶対に義人さんと気が合ったのに、と私は思った。
私はあの人と意見が合ってしまったから正直に同意をしたけれど、あの人が本当に聞きたかったのは自分とは違う意見のはずだ。
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