「正直びっくりしたよぉ。イオちゃん、絶対やらないって言うと思ってたから」

「私もそのつもりだったんだけどね」

 数日後、私はくるくるちゃんの住む部屋にいた。くるくるちゃんの部屋は彼女の突飛な言動とは裏腹に、必要最低限の物しか置かれておらず生活感がまるでない。家具や家電は黒を基調としたシンプルなデザインで統一されていて、可愛らしさや女の子らしさとは一切面の部屋である。

 くるくるちゃんの部屋を訪れるのは初めてではない。

 彼女はパパ活やそれ以外の非常識な行動の話を、何の抵抗もなく普通の声量でする。ある時、外でそういう話をするのは恥ずかしいと私が言ったら、くるくるちゃんは「仕方ないなぁ」と言ってこの部屋に上げてくれたのだ。以来、彼女の部屋は時々訪れている。今日も、外でパパ活の話は憚られるだろうとくるくるちゃんが連れてきてくれたのだった。

「どういう心境の変化なの? ま、あたしとしては嬉しいし、理由は何だっていいんだけどね。そんなことより乾杯しよっか!」

「またそれやるんだ」

 渋々コーヒーカップを持ち上げて、くるくるちゃんのティーカップに軽くぶつける。チン、と涼しい音が鳴った。

「この間もやってたけど何なの、それ」

「いいからいいから。今日も楽しい一日になるように、乾杯!」

「もう午後なんだけど」

 何が乾杯なのかは相変わらずよく分からないが、作法に沿ってコーヒーを一口飲む。くるくるちゃんもそれに倣った。

「イオちゃんは育ちいいよね。こんな意味わかんない乾杯でもマナー守るもんね」

「育ちがいいとか悪いとか言うの、今あんまりよくないらしいよ」

「そうなの? パパと話すとき気を付けよっと」

 くるくるちゃんは意外とそういうのを気にする。生き方そのものは破滅的で意味不明なのに、それ以外は案外常識的だったりするのだ。

「なんかさぁ、変な気分だね」

「何が?」

「イオちゃんがこの部屋にいるの」

「そう? たまに来てるじゃん」

 私が首を傾げると、この話は終わりとばかりに彼女はおもむろに立ち上がって、「ちょっと物取ってくる」と隣の部屋に姿を消した。言うだけ言って答えをくれる気は毛頭なかったらしい。

 ……ついて行けない。

「イオちゃーん! クッキーと和三盆あるんだけどどっち食べるー?」

 隣の部屋から聞こえてきた問いに、

「和三盆ー!」

 と投げ返し、手元のコーヒーを見て即座に後悔した。


「で、本題だけど」

 山盛りの和三盆をもそもそと食べながら、くるくるちゃんは切り出した。

「イオちゃんがパパ活のお誘いを受けてくれて、あたしとっても嬉しい。さっきも言ったけど、絶対に断られると思ってたから」

「まぁ……くるくるちゃんと会ったあと家に帰って、思うところがあったというか」

「そーなんだ?」

「あんたと遊んだあとって家がすごく窮屈に感じるんだよね。あんた自由すぎるから」

「それって誉め言葉?」

「いや別に」

 むぅ、とくるくるちゃんがふくれる。

「今すぐ家を出ていくとか、そんな気は全然ないんだけど。……いつでも家を出られる、それこそあんたの言うように『自分の足だけで立つための力が』あれば、多少は気が楽になるのかなって」

「なるほどねぇ~」

 くるくるちゃんは満足そうに頷く。

「イオちゃんが自分のこと話してくれるの珍しいね。説得した甲斐があるってもんだよ!」

「や……くるくるちゃんには、言っといた方がいいのかなって」

「理由は何だっていいよぉ。あたしはイオちゃんが話してくれたっていう事実が嬉しいだけだからね! ……てなわけでね、嬉しかったからあたし、張り切っちゃって」

 そう言って彼女は、テーブルの下から分厚い紙の束を取り出した。漫画だったら「ドン!」と効果音がついているところだ。

「……『これからはじめる! パパ活初心者ポケットブック』……?」

「作っちゃいましたー! ついでに特別講座もご用意しましたー! 今から授業をします!」

 どうだ! とばかりに、得意げに胸を張るくるくるちゃん。ほめてほめて! と尻尾を振る、撫でられ待ちのポメラニアンの幻覚が見える。

「……どこから突っ込んだらいいのか分からないけど」

 私は、テーブル上の紙束を指さした。

「ポケットブックっていう重量感ではないよね」

「あ、やっぱり?」

 自覚はあったらしい。

「なんか作ってるうちに楽しくなっちゃって。情報商材として売れるかな?」

「すぐ怪しい商売に手を出そうとするんだから……」

 情報商材までやり出したらいよいよというかんじだ。彼女はこの間「家に薬があるからいつでも死ねる!」みたいなことを言っていたが、彼女の死因は絶対に自殺ではなく他殺だと思う。もしくは獄中死。くるくるちゃんが人から恨みを買って夜道で刺されるのと警察に捕まるの、どっちが先だと思う? 私は刺される方に千円かな。

「じゃ、さっそく月収六十万のこのあたしが、特別パパ活基礎講座を開催しようと思うんだけど! 聞いてくれるかな~?」

「いいとも~」

 ネタが古い。絶対パパの影響じゃん。

「イオちゃんよく今の拾えたね。パパにモテるよ」

「全然嬉しくない」

 私が顔を顰めると、くるくるちゃんはおかしそうに笑った。



「それじゃ始めるよ、第一回! パパ活基礎教養講座! いえ~い!」

 高らかな宣言と共にくるくるちゃんは立ち上がり、どこからともなくホワイトボードを転がしてきた。……え?

「どっから出てきたのそれ!」

「いやいやいや。講座といえばホワイトボードだよね。イオちゃん常識ないの?」

 くるくるちゃんにだけは言われたくないよ。

 更にポケットから黒縁の伊達メガネを取り出して装着するくるくるちゃん。彼女は普段眼鏡なんてしないし、恐らくこのためにわざわざ買ってきたのだ。仕込みに気合が入りすぎていて怖い。

「ちなみにパワポで資料も作っといたからね。後ろの本棚に刺さってるから取って使ってね」

「ねぇもしかして暇なの?」

 呆れている私を完全に無視して、くるくるちゃんは黒いペンのキャップをキュポンと取った。

「まずパパを探します。古くは掲示板や雑誌を使いましたが、今は専用のマッチングアプリを使うのが主流です。でも今回はあたしがイオちゃんに直接パパを紹介するので、パパ探し編は割愛します」

「ああ、なんかそんなこと言ってたね」

 私は数日前の、「一番最初のパパはあたしが紹介したげるよ。いい人だし、安全な人だって保証する」という彼女の言葉を思い出す。

「パパが見つかったらいよいよパパと会います! 一回目にパパと会うことを『顔合わせ』と呼びます」

 くるくるちゃんはボードに「①顔合わせ」と書く。メモをしようと資料に目を落とすと、既にゴシック体で「顔合わせ」と書いてあった。用意周到すぎる。

「顔合わせは、お互いにどんな人なのかな~? っていう確認をする会です! 顔合わせでお互いまた会いたいと思ったら二回目以降も会います。ご飯食べたり買い物したりっていうより、喫茶店とかで軽くお茶するかんじで、時間も三十分くらいのことが多いかな」

 私はシャーペンで「お茶、短時間」と資料に書き込む。

「お手当は……あっ、パパ活でもらうお小遣いのことを『お手当』って呼ぶんだけど、顔合わせだと五千円から一万円くらいの人が多いね。二回目の約束は顔合わせしてるうちに取り付けられるとベリーグッドです! 日が経つと冷静になっちゃうしね」

 ちょっとした小技まで教えてくれる。万全な支援体制だ。もしかして外堀埋められてる?

「二回目会っちゃえば普通の男女のデートとそんなに変わらないかな。お金が発生すること以外は。ご飯食べるなりお買い物行くなり映画見に行くなり、好きにすればいいよ。まぁでも一番オーソドックスなのはお食事かな? お買い物に行けたらいろいろ買ってもらえてラッキーってかんじ。お手当は一万円から二万円が相場ってかんじだね」

「ふむふむ」

 私がメモを取る間に、くるくるちゃんは伊達メガネをついと持ち上げる。顔が綺麗なのでそれなりに様になっているのが腹立たしい。

「先生~、質問」

「先生は質問じゃありません! イオちゃん、どうぞ」

「パパ活とはいえ男女の関係なんですよね? デート以上のことを求められたりしないんですか?」

 挙手をした私をくるくるちゃんはペンでびしっと指した。

「大変いい質問ですね! くるくる先生も今からその話をしようと思っていました!」

「くるくる先生……」

 赤ペン先生みたいな語感だな。

「結論から言うと、めっちゃあります! 資料の二枚目をご覧ください!」

「そんな元気に宣言する内容?」

 資料の二枚目では「『大人』にご用心!」の文字と共に、フリー素材のイラストが注意喚起のポーズをしている。

「『大人』?」

「そう。正直に言うよ? ご飯やデートだけで夢のようにお金が稼げた時代って、結構前に終わってるんだよね。だから今のパパ活市場って、援助交際の温床……っていうか、ほぼ援助交際だと言っても過言じゃないんだ」

「えっ」

 それは話が違う。私は身体を売ってまでお金を稼ぐ気はないのだ。そもそもお金に困っているわけじゃない。実家暮らしの学生だし。

「先生、私やっぱり……」

「でも希望はあります‼」

 帰ります、と言おうとした私の声を遮って、くるくる先生はバン! とホワイドボードを叩く。そこにはいつの間に書いたのやら、「『大人』しないための三つの約束」と赤字で記されていた。

「もうお気づきだとは思うけど、『大人』ってのはエッチなことの隠語として使われている言葉です。『大人の関係』と言ったりもします。そして、まあ三回くらい会うと大抵は『大人』を持ち掛けられます。でも断っちゃって全然オッケー!」

「そうなの? キレられたりしない?」

「たまにそういう人もいるけど……少なくともあたしがイオちゃんに紹介する人は大丈夫。だってあたしも断ったし」

「そんなこと言われてもなぁ……」

 それなら安心安全! とはならないでしょ。

「まぁまぁ、安心してよ。お金を介してるとはいえ人間関係だよ。相手が同意してないことはできない、当たり前だよね。それに、稼いでる子ほど『大人』してないし」

「そうなの?」

「うん。もちろんパパ側は『大人』したいと思ってるに決まってるんだけど、それ以上に『この子に嫌われてもう会えなくなるのは嫌だ』と思わせてるんだよね。で、狙ってそういうことができる子は、お手当の交渉もできるしプレゼントも上手におねだりできる。ま、あたしのことなんだけど」

 得意げに胸を張るくるくるちゃん。それはまぁ、凄いスキルなのかもしれない。そんな凄いことができるならもっと他に真っ当なお金稼ぎがあったんじゃないの、とは思うけれど。

「ま、イオちゃんはあたしみたいな完璧超人美少女にならなくて大丈夫だよ。『大人』しないための約束は三つ! ここテストに出るからメモしてよね」

「はい先生」

「一つ! 密室に行かない!」

 急に現実的な話になったな。私でも分かる、丸見えの地雷だ。

「意外と雰囲気に流されちゃったりするからね。……あと、やってるうちにお金への執着が大きくなっちゃって、みんなやってるしいいやと思っちゃう子も。当たり前だけど、『大人』の方がお手当が高いから」

 なるほど。私は身体は売らない、と思っているが、パパ活と援助交際の境界がない、というくるくるちゃんの話を聞く限り、その選択をする子は結構多いのだろう。気を付けよう、と私は手元の資料にメモを取った。

「二つ! 序盤のうちに相手の希望を聞く!」

「相手の希望?」

「そう。まあ、『大人』したくないってパパは滅多にいないけどね。だから、『大人できると思って会ってたのに話が違う!』ってなる前にテキトーにフェードアウトして、『大人はなくてもいい』って人とだけ会い続けるのが一番安全だね」

「不満が募って恨まれたら何されるか分からないもんね」

 私は夜道でおじさんに包丁を刺されるくるくるちゃんの姿を思い浮かべながら、答えた。

「そゆこと! 実際はこんなクリーンなやり方してる子は少ないけどね。詐欺まがいのやり方でのらりくらりと『大人』を交わして会い続ける……なんて珍しくない話、っていうかそっちが主流。でもイオちゃんは急ぎでお金が欲しいわけじゃないんだから、そんなことしないでいいよ」

「なるほどね」

 くるくるちゃんはその「詐欺まがい」のやり方をしているんだろうか。包丁が刺さったまま「見て見てイオちゃん! さっき刺された~!」と自慢しに来るくるくるちゃんの様子を想像して、思わず吹き出しそうになる。

「……イオちゃん、何か失礼なこと考えてない?」

「き、気のせいだよ」

 危ない。顔に出ていただろうか。

 今の話を聞いているとくるくるちゃんはかなり上手いことパパを転がしているようだし、もしかしたら人心掌握とかに長けているのかもしれない。普段は微塵もそんな雰囲気を見せないけれど……末恐ろしい子だ。

「まぁいいや。三つ目はねぇ、『色恋営業』しないこと!」

「色恋……営業?」

 聞き慣れない単語だが、何となく意味の想像はつく。相手に気があると思わせるような態度を取って相手からお金を引き出すこと、みたいな意味だと思う。

「そう。これはありとあらゆるトラブルの元だからねぇ。『お手当とかなしで普通に会わない?』とか言われたりするよ。普通って何だよっていうね」

「でもそれってそういうものじゃないの? 疑似恋愛を売るっていうか」

「う~ん、まぁそうなんだけどね」

 くるくるちゃんは少し考える仕草をして、言った。

「色恋営業が一番やりやすいっていうか、オーソドックスだと思うよ。あたしも相手がイオちゃんじゃなかったら色恋営業を勧めると思う。でもトラブルに発展しやすいのは本当。こんなこと勧めておいて何だけど、あたしイオちゃんに危ない目に遭ってほしいわけじゃないから。……あと、あたしがイオちゃんに紹介する人には色恋営業は通じないかも、と思って」

「そうなの?」

「うーん」

 またも考える仕草をするくるくるちゃん。

「なんか……いい人ではあるんだけどね」

「というと?」

「有り体に言っちゃえばすごい変人なんだよ。こう言ったら聞こえが悪いけど、貴重なお金持ちの金づるを、イオちゃん相手とはいえ横流しにするってことで察して。あたしには扱いきれなかったの」

 本当に聞こえが悪いな。

「扱いきれないってどういうこと? もう会わないって言われたの?」

「いや、あたしから言った。ほら、あたしって超カワイイじゃん? だから凄くあたしに会いたいって思ってもらってなきゃやる気出ないんだよねぇ」

 くるくるちゃんは一年分の幸せが逃げそうなため息をつき、伊達メガネを投げ捨てるとごろんと横になった。講座はもういいんだろうか。

 くるくるちゃんの言い分は傲慢にも聞こえるけれど、彼女が「超カワイイ」のは事実だ。自分を魅力的に見せるのも上手いし、好き勝手にやっているようで相手の地雷を踏むようなことは絶対にしない。過剰な好奇心に裏打ちされた豊富な経験で、刺激的な話題にも事欠かない。一緒にいて飽きない子だと思う。

 そんな彼女を相手にして、物足りないと思った人を、私が相手にできるのだろうか?

「あたしはさぁ、正攻法っていうか、正統派美少女としてパパを相手にしてるだけで、イオちゃんに話したりSNSに投稿したりするようなことをパパに言ったりはしないよ」

 私の考えたことを見透かしたように、くるくるちゃんは言った。

「くるくるちゃんの可愛さならそれで充分でしょ。そもそもくるくるちゃんの面白さは一般受けしないし」

「相手が一般的じゃないんだよぉ!」

 頭を抱えて叫ぶくるくるちゃん。

「そんな人、私にも無理だよ」

「いや、イオちゃんならいけるんだよ。イオちゃん、変な子だもん」

 失礼なことを言いながら、大の字になって天井を見つめる彼女。何となく私もつられて天井を見た。安アパート特有の変な染みを隅に見つけた。

 清潔で統一感のあるこの部屋には、およそ不似合いな染みだった。

「あたしはさぁ、カワイイから普通の男の人ならイチコロなんだよ。でも変な人ってどうしたらいいか分からなくてあたしの手には負えないの。相手も変わった女の子……いわゆる『おもしれー女』を探してる、って言ってたし。あーあ、金持ちって変な奴ばっかで嫌んなっちゃう」

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