非課税の恋
木染維月
Ⅰ
贈与税-贈与税は国税の一つ。個人からの贈与により取得した財産の価額を基に課される租税であり、財産を贈与した方ではなく財産を受け取った方に納税義務がある「受贈者課税方式」が採用されている。(中略)
贈与税の基礎控除は、年110万円である 。その金額までの贈与なら課税されない(申告の必要もない)。
-Wikipediaより引用
贈与税の抜け穴は幾つか存在するが、最も分かりやすく手っ取り早いのは「タンス貯金」である。
贈与税対策として、年間百十万円を超えないように分割して贈与する、株や不動産で贈与する、などの方法はよく知られている。この方法であれば脱税にはならない。一方タンス貯金による税金対策は正直れっきとした脱税だ。だが、仮に正直に納税するとして、私たちはこのお金を何だと言って申告すれば良いのだろう?
現金手渡し、額は一回五千円から上は数百万円単位まで。血の繋がりもない、互いに本名すら知らない、どちらかが連絡手段を絶てばそれで終わり。そんな相手からの「贈与」、とてもではないがお国に申告することなんてできない。
タンス貯金であれば、よほどのことがない限りバレることはない。銀行口座に預金してはいけないのは、決して少額ではないお金の動きが記録として残ってしまうからだ。
お食事一回一万円。血ではなくお金で繋がっている歳上の男の人を、私たちは「パパ」と呼ぶ。
◆
『なるべく自分のことを話したくない。否定されるくらいなら開示しない方がマシだから』
『自分のことを話さないように人間関係をやる秘訣は、ひたすら相手に喋らせること。人はみんな喋りたがりだから。誰だって自分のことを聞いて欲しくて、分かって欲しくてたまらない』
『だから私はそれを引き出すような言葉をかけ続ける。それをすれば確かに喋らずに済むけれど、誰の人生にもそれなりの重さがある。それを一方的に浴び続ければ疲れるのは当然』
『だから一人で勝手に疲れて、一人で勝手に相手と対等な人間関係を築けない。そのうちいつか一人になって死ぬんだろうな』
「はぁ……」
たぷたぷと文字を打ち込んでいたスマホから手を離して、私はため息をついた。こんな春の穏やかな午後にはおよそ似つかわしくない、憂鬱なため息だった。
人に話せないことを吐き出すのに、SNSはもってこいのツールだ。スマホで文字を打ち込んでいると、脳から指先へ、思考が直接排泄されてゆく気がする。溜まって澱んだ思考を排泄すれば、もっさりと満開に咲いた桜が散ってすっきりしてゆくように、私の頭も幾分軽くなるような気になるのだ。
今日は大学も休みで、特にすることもなく、日長一日公園のベンチでスマホを触っていた。私は暇さえあればずっとスマホを触っている。正確に言うなら、匿名のSNSをやっている。人はみんな喋りたがりだ。私だって例に漏れない。ただ人間を相手にそれをやれないってだけだ。幸せそうな家族やカップルを見てモヤッとした気持ちになりながらもわざわざ公園のベンチに座っているのは、ここが家の外で一日中無料で座っていられる場所だからだ。
走り回る子供たちの声が脳を揺らして、私は少しだけ顔を顰めた。慣れたこととはいえ少々居心地が悪い。場所を移そうかと腰を上げかけると、見計らったようにスマホがピコンと鳴った。
見ると、メッセージの通知だった。
『イオちゃんやっほー! 突然なんだけど割のいいバイトの話があるんだけど、どう?』
SNSはいい。どんなに自分のことを喋っても、どこの誰の話だか分からない。それなら知られても怖くない、何となくそう思える。小ぢんまりとしたアカウントだから、わざわざ私に「あなた変ですよ」なんてリプライを飛ばしてくる輩もそうそういない。ここでは誰も私を否定しない。
メッセージを送ってきたのは、そのSNSで繋がっている女の子だった。私は彼女のことを、ユーザーネームの一部を取って「くるくるちゃん」と呼んでいた。
『怪しい話?』
即座に返信をする。『怪しい話?』と疑問形で返したものの、絶対怪しい話に違いはなかった。何せそれを言っているのは他でもないくるくるちゃんなのだ。
『さっきの呟き見て思い出したんだよね。イオちゃん、人の話聞くの得意じゃん? いいお仕事紹介できるよ〜』
『勘弁してよ。好きで得意になったわけじゃない』
『まぁまぁ、そう言わずに話だけ聞いてみない? 時給はなんとびっくり一万円!』
すごいでしょ? とこちらを覗き込むくるくるちゃんの表情が目に浮かぶようだ。私は顔を顰めた。時給一万円なんて怪しいにも程がある。妙にキリがいい数字だし、バカが考えた高時給バイトってかんじだ。
くるくるちゃんは顔がいい。たまに載せている自撮り写真からひしひしとそれが伝わってくる。それでいて妙な方向に好奇心が強くて、いつも危ないことに首を突っ込んでは、面白おかしくその出来事を書き綴って投稿している。仲良くなってからはたまに電話をしているが、私が何を言っても「でも面白いでしょ?」と不敵に笑って聞かない。護身術に心得があるわけでも防犯グッズを携帯しているわけでもなく、本当に危ないことに巻き込まれたら彼女には対抗手段がない。それなのに彼女はいつも「自分は絶対に大丈夫」という根拠のない自信に溢れていて、私はヒヤヒヤさせられっぱなしだった。
『くるくるちゃん、また危ないことしてるの? そろそろ本当にヤバい目に遭うよ。可愛いんだから』
メッセージを送ると、
『そう! あたしカワイイの。だからへーき』
と、意味の分からない答えが帰ってきた。私はため息をついて、
『危ないバイトなら私はやらない』
とだけ返した。くるくるちゃんからの返信は途絶えてしまった。
少し素っ気なさすぎたか、と頭の片隅で反省しながら、私はスマホから顔を上げた。休日の公園は今日も家族連ればかりで、父と子のキャッチボールとか、そういうぼんやりとした幸せがふよふよと漂っている。ちょうど今日の気温くらいの、良く言えば暖かく、悪く言えば生ぬるい、そんな幸せだ。羨ましいような、別にそうでもないような、もにょっとした気持ちにさせられる。
植え込みに咲く黄色い花をぼんやり眺めていたら、スマホが震えた。くるくるちゃんから返信が来ていた。
『時給上限なし! 履歴書不要、身分証明書不要、親へ連絡が行く心配ナシ! 個人事業のため職場の人間関係も一切ナシ! ドタキャン可能! 勤務時間自由! 時々まかない付き! 今ならあたしが事業ノウハウ全部教えます!』
『何? その怪しい条件全部乗せみたいな仕事』
『えぇー。面白そうだと思わない?』
『全然わからん。私はいいよ、お金困ってないから』
お金に困っていない、というのは強がりでも何でもなく本当だった。ぬくぬく実家暮らしで特に友達もおらず、欲しいものもなく、美容にも興味がない。交際費も洋服代も化粧品代もかからない私は、先日ついに飲食のアルバイトを辞めたばかりだった。
『お金なんていくらあっても困らないじゃん! あたしがめついから、本当はこんないい稼ぎ方教えたくないんだよ。でもどうしてもイオちゃんにやってほしいから断腸の思いで言ってるの!』
『断腸の思いしてまで言ってくれなくていいよ』
『話だけでも聞いて! ねぇ、ほんとにイオちゃんに向いてるんだよ。イオちゃんがいくら稼げるかあたし見たいの』
『知らないって……だいたいバイトで稼げる金額なんて見たいほどのもんじゃないでしょ』
私は既にくるくるちゃんとのやり取りに飽き始めていた。私がどんなにそのバイトに向いているか知らないが、私はくるくるちゃんと違って危ないことに興味はないのだ。だいたいお金お金って、バカみたいじゃないか。学生のお小遣いなんて無駄遣いされておしまいなのに、稼いでどうしようっていうんだ。
『イオちゃんが百万稼ぐのにどれくらいかかるか、教えてあげよっか』
『百万って、そんな大きい数字出して』
時給一万円とか百万稼ぐとか、さっきから出てくる数字が完全に阿呆のそれだ。付き合っていられないと思いつつ、返信を待つ。
『まぁ……そうだな、イオちゃんなら三ヶ月ちょいってところかな』
『はぁ? そんなことある?』
三ヶ月で百万。
半年で二百万。
少しだけ心が揺らぐ。
『これはマジな話だよ。何ならもっと稼げるかも』
『くるくるちゃんもそれくらい稼いでるの?』
『え〜? あたしは月に六十万くらい』
あまりの金額に目眩がする。手取り十三万で暮らしているOLさんが聞いたらぶっ倒れそうだ。
『なんでそんなに稼げるの? そんなに稼げるならみんなやるはずだよね? 真面目に働いてる人がバカみたいじゃん』
『そりゃあリスク込みの金額だからだよ。でもあたしはお金が欲しいからやってる。ねぇイオちゃん、お金って翼だよ? お金あったらどこにでも行けるんだから。親元からも離れられる』
──親元からも離れられる。
心臓がどくんと跳ねた。親元を離れるなんて、今まで考えてみもしなかった。大学を卒業するまで養ってもらえるし、養われなきゃいけないと思っていた。でも、もしそんな夢みたいな稼ぎ方ができるなら、翼がもらえるなら、私は──。
『くるくるちゃん。私、そのバイトの話、詳しく聞きたい』
気付けば私はそんなメッセージを送っていた。
返事はすぐに来た。
『おっけー。会って話そ、新宿まで来られる?』
◆
「久しぶり〜! 元気してた?」
ぶんぶんと手を振りながら現れた彼女は相変わらずとんでもない美人で、少し幼さの残るぱっちりとした顔立ちの上に、整える程度の化粧を乗せていた。
新宿の小さな喫茶店。いつも薄暗くて煙草臭く、若い客はほとんどいない。ここはくるくるちゃんのお気に入りの喫茶店で、私たちが会う時はいつもここを使っていた。
「まぁそこそこ。……くるくるちゃんは元気そうだね」
「まぁね〜。さっきも一仕事して稼いできたから」
じゃーん、と財布から万札を五枚取り出して、私の目の前でこれ見よがしに広げる。
「随分景気がいいんだね。奢ってくれるの?」
「まさかぁ。割り勘に決まってるでしょ」
私がおちょくるように言うと、くるくるちゃんは少し顔を顰めていそいそとお札をしまう。
注文を取りに来た店員さんに、私はブラックコーヒー、くるくるちゃんは紅茶を頼んだ。落ち着いたざわめきと緩慢な午後の空気、店内を漂うコーヒーの香り。この店でのくるくるちゃんの存在は、森林の中でギラギラと輝くミラーボールのように、なんだか不釣り合いだし、不穏だ。
しかし当のくるくるちゃんはそれを気にするふうでもなく、「さっきのメッセージの話の続きだけど」と話し始めた。
「いつまでもぼかしてても仕方ないから言っちゃうけど、あたしがさっきから言ってるバイトってパパ活のことなんだよね」
「ほらやっぱり! そんなことだと思った! 帰りまーす」
「ちょっと待ってちょっと待って! 座って! せめてコーヒー代置いてって!」
席を立ちかける私をくるくるちゃんが慌てて止める。気にするのはコーヒー代か。
「私はやらないよ。っていうか、くるくるちゃんもそういうことするのやめた方がいいんじゃない? 変な人が来るかもしれないし、危ないじゃん」
「危ないって、例えば?」
「なんか、ほら……無理やりホテルとか連れて行かれるかもしれないし、最悪殺されるかも」
「ホテルは別にいいよぉ。できればその分のお代は欲しいけど。子供ができちゃっても堕ろす分くらいの持ち合わせはあるし。殺されるのは嫌だけど、こういうのってお店通しても殺される時は殺されるじゃん? この間デリヘル嬢がお客さんに殺されたの、ニュースで見なかった?」
「ああ、見た見た。……見たけど、そうじゃなくて」
彼女はずっとこんな調子だ。頭の中の、倫理観とかを司っているところのネジが一本、いや全部だろうか、とにかく外れているんだと思う。
「若さと性を搾取されてるんだよ。悔しくないの?」
「何言ってんの? お互い納得してるんだから正当な取り引きじゃん」
私はそうは思えない。くるくるちゃんのそういう破滅的なところは、遠くから見る分には凄く自由に見えるしとても魅力的だ。けれど近くに来ると、どうしてもそうは思えなくなってしまう。
くるくるちゃんとSNSで繋がったのは、くるくるちゃんのそんな魅力に惹かれたからだけど──それでも今は、やめて欲しいと思ってしまう。自分の生き方や考え方に口出しされないところが匿名SNSのいいところだと思ってやっている割に、我ながら身勝手なことだと思う。
そんな私の考えを見透かしたように、くるくるちゃんは言った。
「勘弁してよね。あたしの生き方が好きだと思ったからあたしと繋がってくれたんでしょ? あたしはあたしのこういうところを魅力的だと思ってほしいし面白いと思ってほしいのに、変なこと言わないで」
「ごめん」
釈然としないながらもとりあえず謝罪の言葉を口にした、ちょうどそのタイミングで頼んだ飲み物が運ばれてきた。あまり丁寧とは言えない仕草で目の前に置かれたカップから、ふわりと珈琲の香りが立ちのぼる。
「イオちゃん、乾杯しよ」
「何それ。喫茶店で乾杯なんて聞いたことない」
「いいからいいから。今日という日に乾杯!」
言われるがまま、私はコーヒーカップをくるくるちゃんのカップと合わせた。ちん、といい音がして、隣のテーブルに座るおじさんが怪訝そうにこちらを見た。くるくるちゃんは満足そうに笑った。
「で、話を戻すけど。イオちゃんはやらないやらないって言うけど、ちょっと迷ってるからわざわざ新宿まで来てくれたんでしょ?」
「まぁ否定はできないよ。でもやらないと思う。ちょっと話だけ聞いてみたいと思っただけで」
「上々! 話だけ聞いてくれればいいよ。無理強いしたいわけじゃないし、イオちゃんが決めてくれればいい」
そう言ってくるくるちゃんは紅茶を一口啜る。私もそれに倣って、珈琲に口をつけた。
「正直なこと言うとね、どうだっていいの。別にイオちゃんが稼げようが稼げまいが」
「えぇ……? 私がいくら稼げるか見たいって言ったじゃん」
「そりゃ少しは興味あるけど。でもこんなバイトを勧めた本当の理由は、イオちゃんにいい影響があると思ったから」
「はぁ?」
いい影響? パパ活で、私に?
「狂ってるよ、くるくるちゃん」
「まぁ話は最後まで聞いてよ。イオちゃんは人のこと嫌いでしょ? なんで人のことが嫌い?」
「それは……接客してるみたいで、疲れるから」
「そうだよね。イオちゃん前に投稿してたよね、自己開示が怖いから相手にばっかり喋らせちゃうけど、聞き手ばかりやるのは楽しくないし疲れるって。でもSNSで知り合ったあたしと会うのは平気なんだ?」
「うん。だって、本名も住所も学校も知らないでしょ。私がどこの誰だか分かってない人に何知られても怖くないよ」
「うんうん、そうだよね」
くるくるちゃんは楽しそうに頷いている。
「連絡先もSNSしか知らないから、もし嫌になったらブロックしちゃえばもう二度と会わないし、会えない。そういうところも分かりやすくて好きだな。嫌われてるかもって気にしながら会う必要がないから」
「わかるぅ。あたしもSNSのそこが好き!」
くひひっ、とくるくるちゃんは笑う。
「どうしてそんなこと聞いたの?」
私の疑問に、くるくるちゃんは待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「今聞いたことがまさに、イオちゃんがパパ活に向いてる理由だからだよ!」
「……どういうこと?」
全然話が見えてこない。
くるくるちゃんはまた紅茶を一口啜ると、指を一本立てて説明を始めた。
「いい? まずね、パパ活は基本的にお金以外は全部嘘なの。名前も住所も学校も、感情だってホントのこと言ったらダメ。パパ側だって、常識のある人なら分かってるよ。お金だけを支柱にして成り立ってる恋愛ごっこ、好意もどき。もちろん常識のない人もたまにいるけど……でも会う前のメッセージでそういう人は八割くらい分かるから、常識のない人に会ったら運が悪かったと思って諦めるしかないね」
「八割か。結構しょっぱくない?」
「そうでもないよ。それにおかしな人だったら、二回目は会わなきゃいいからね。人気の多いところで会えば、相手も危害を加えることはできないし。それから嫌になったらブロックすればいいのも魅力的だよねぇ」
「うーん、それはちょっといいかもしれないけど」
話を聞きはするものの、じゃあやってみようかなという気には流石になれず、適当な相槌を打つ。それにしても友達にこんなに熱心にパパ活を勧めるなんて、一体どういう神経をしているんだ?
「イオちゃんが人間関係が嫌いな理由、全部ないんだよ。イオちゃんって知ってる人より知らない人と話す方が得意なタイプでしょ?」
「うん、まぁ」
「興味があるんだよね。他人の人生の話ばっかり聞かされて人間がすっかり嫌になったイオちゃんが、真実ばっかりの話の重みを押し付けられるのに嫌気が差してるイオちゃんが、全部嘘の、吹けば飛ぶくらい軽くて脆い人間関係をやった時に何を喋るのかなって。SNSよりもっと秘匿された立場の中から喋るんだよ。きっとイオちゃんにいい影響があると思うんだけどな」
珍しく真面目にくるくるちゃんが話すものだから、私はすっかり調子が狂ってしまった。正直、くるくるちゃんがそこまで考えて私にその危なっかしいバイトを勧めてきているとは思わなかったのだ。だからといって友達に勧めるものとしては絶対おかしいし、相変わらず倫理観が狂っていると思うが、それでも私はやってもいいかな、と少し心が揺れ始めていた。
「……で、でも、危ないんじゃない?」
「まぁそれは、ね。普通にやったら危ないよ。でもその辺はこのあたしが、月に六十万稼いでるこのあたしが全部教えてあげる。あと、一番最初のパパはあたしが紹介したげるよ。いい人だし、安全な人だって保証する」
「それは……ありがたい話かもしれないけど。うーん」
パパ活のパパを紹介してもらうことがありがたいなんて言ったら、くるくるちゃんの狂った倫理観に呑まれてしまいそうだ。彼女にはそういう不思議な魅力がある。が、絶対にああはなりたくない。
黙ってしまった私に対して、くるくるちゃんは少し気まずそうにする。所在無い場を保たせるように、くるくるちゃんは紅茶を一口啜った。私もそれに倣う。
「……分かってるよ? あたしの倫理観がバグってることくらい。友達にこういうこと勧めるのもおかしいって分かってる。あたしはあたしのこういうところ、面白いと思ってるしすごく好きだけど、他の人にこうなってほしいとは思わない。だから断ってくれても全然いいの」
「自覚あるんだ」
「そりゃあね。さすがに」
くるくるちゃんは肩を竦める。
「でもさ、自分の足で立ちたくない? 今すぐじゃなくても、いつでも自分の足だけで歩ける力がほしくない?」
自分の足で立つ。
それは私にとって、結構魅力的な響きだった。自分一人だけで生きていけると分かっていたら、煩わしい人間関係なんてやる必要はないのだ。今すぐじゃなくたって、いつでも自分の力だけで生きていくことができると分かれば幾分かは楽になる気がする。
「……あたし、家に薬があるの。二百錠くらい飲んだら死ねるやつが、ちょうど二百錠。あたしはいつでも死ねるし、いつでも一人で生きていけるの」
「それは……」
「『最悪死ねばいいじゃん』なんてイオちゃんにも思ってもらいたいわけじゃないよ! ただ、それと同じ理屈で、最悪どうにでもなるっていう自信をイオちゃんにもあげたいっていうか、なんていうか……『最悪どうにでもなる』って思ったらどれくらい自由になれるか、イオちゃんにも感じてほしいっていうか」
いつだって歯に衣着せぬくるくるちゃんが、珍しく口ごもっている。
きっと彼女にとってこれは、本当に善意百パーセントの提案なのだろう。他人の目を気にせず、他人の意見を跳ね除けて生きているくるくるちゃんが、他人である私を思いやってしてくれた提案。私のことを精一杯考えてしてくれた提案が、「パパ活しない?」だったのだ。
「……本当、狂ってるよ、くるくるちゃん」
「そうだね。ありがと」
「この流れで褒められたと思えるその神経、見習いたいね」
私はため息をついた。
「ちょっと考えさせて。たぶんやらないと思うけど」
「おお! 考えてくれるんだ?」
「まあ一応。……くるくるちゃんが私のこと考えてくれたのは分かったし」
「んふふ」
くるくるちゃんは笑って、指先で髪をくるくると巻いた。
「あのねイオちゃん」
「何?」
「いくら熱心に言われたからってパパ活の誘いを『考えてみる』なんて、イオちゃんも結構狂ってるよ」
◆
自宅に着く頃にはすっかり暗くなっていて、辺りからは夕飯の支度の匂いがした。
閑静な住宅街。条例で決まっているのかと思うくらい白い家ばかり建つ中で、ひときわ白く塗られた家を目指して歩く。最近、塗装工事を終えたばかりなのだ。玄関脇を占拠しているオシャレな植物群は、この時間になると黒い影になって不気味だ。五月になれば毛虫が大量に糞を落とすし、夏になれば羽虫の群れが顔面に直撃する。ポストの上で光るオシャレな電灯はすっかり誘蛾灯の役割を果たしている。もっとも本当に蛾を誘うだけで、殺虫の効果はないのだが。
鍵をひねる前に一呼吸。今日は大学の友達のミカちゃんと遊んできたんだよ。そう、駅前のカラオケで。うん。ちょっと遅くなってごめんね。頭の中で適当な作り話をする。
ドアを開ける。
「ただいま」
声をかけると、洗濯物を畳んでいた母が顔を出した。
「あらおかえり。今日ちょっと遅かったんじゃない? どこ行ってたの?」
特に怒ってはいない。この程度の時間で怒られることは滅多にないが、虫の居所が悪ければ普通に怒鳴られる。ただ、怒られるだけでそれ以上の何か――家から閉め出されたり、暴力を振るわれたり、そういうことは特にない。
「友達と駅前のカラオケ行ってた。ごめん、遅くなって」
「友達って誰?」
「ミカちゃん。大学の子」
「ふうん」
それ以上は特に何も言われなかった。私は自室に行って、鞄を下ろす。
くるくるちゃんと遊んだ日は必ず「ミカちゃん」の名前を出す。「ミカちゃん」は大学進学を期に上京してきた地方出身の子で、入学式の日に席が隣だったのをきっかけに友達になった。ボランティアサークルに入っていて、彼氏はおらず、なんか大人しいかんじの子である。遊ぶときはカラオケやショッピングをすることが多い。
母にくるくるちゃんのことを話したことはない。母の世代はインターネット上での出会いに不信感が強いからだ。言っても怒られたり心配させたりするだけだからちょっと伏せているだけで、これは別に嘘とかではない。たぶん。
この家には、パパ活を勧めてくるような狂った友人を持つ娘はいない。
「ご飯できてるよ」
母の呼ぶ声がして、私は「はーい」と言いダイニングルームへ向かった。
「あ、サバの味噌煮」
「そう、あんたがこの間食べたいって言ってたの思い出してね。サバ安かったし」
「えー、嬉しい。ありがとうね」
母は満足そうに笑っている。
「今日お父さんは?」
「出張。福岡だって」
「そうなんだ」
優しいんだよな、と、サバの皮を剝がしながら思う。家のことによく気が付き、家族のことをよく把握して、季節行事は欠かさない。いつも家族を優先するし、間違ったことがあればちゃんと叱ってくれる。私が小さい頃は車で習い事の送迎までしてくれていたし、今も父を駅まで熱心に送迎している。
不満に思うことなんてない。
「そういえばね、お隣の息子さん、国立大学に受かったんだって」
「そうなんだ。良かったね、勉強頑張ってたもんね」
「あんたもあれくらいの大学に受かってくれると嬉しかったんだけどねぇ」
「そうだね」
「あんなに塾に行かせたのにねぇ。何が悪かったのかしらね」
「さぁ……」
「さぁって何よ。もうちょっと真面目に勉強してくれてもよかったんじゃない?」
「…………」
「お隣の息子さん、あの大学だったらかなりの大企業に就職できるでしょうね。あんた学歴はイマイチなんだから、資格なり何なり取っておきなさいよ。大学で講座とかないの?」
「……簿記の講座があるけど、必修の授業と被ってるから今期は取れないよ」
味噌煮の味噌に、取り切れなかった白身のカスが浮いている。
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