ニヒト・ハウプシュール

和田ひろぴー

第1話

 ツクツクボウシが鳴き始めた頃、尋(ひろし)はとある小学校の説明会に顔を出していた。体育館には何十人かの保護者や教育産業の関係者達が出席していたが、事前の通達もあり、席は疎らだった。

「えー、斯様な訳でして、省による制定に従い、本校も二学期より、公教育のあり方を改める運びとなりました。」

壇上では、教頭らしき人物が用紙を読み上げながら、お座なりの弁を述べていた。別段、出席者の側からも発言は無く、シャンシャン総会といった感じで、説明会は定刻を少し切り上げて閉会した。

「此処も・・か。」

尋は入室の際に配られた用紙を丸めながら席を立って、体育館の外に出た。照りつける夏の日差しの中、グランドには運動部の練習する風景は全く無かった。

「また、我々の所にも生徒が回ってくるんですかね?。」

同業者と思しき人物が話しかけてきた。

「まあ、学校が機能しなくなるということは、お鉢が回ってくるかもですね。」

そういって、尋は長話になりそうなのを避けて、早足で学校を後にした。

 話は一年ほど前に遡る。学校の現場で教員不足が問題になり、ニュースでも取り上げられていた。過酷な労働条件と薄給に加え、生徒の保護者達からはクレームの嵐が矢継ぎ早になされ、公教育の現場は疲弊しきっていた。しかし、最も問題だったのは、子供達の素行であった。保護者は学校の側に環境の悪化を招く要因があると豪語していたが、実際は、一部の子供が騒ぎ立てて授業を妨害し、それに連動して多くの子供達が授業が無くなることを暗に喜んでいる有様だった。その様子を携帯で隠し撮りした動画が次々にネット上にアップされ、もはや問題の要因を探る以前に、そのような現象が常態化していることが鮮明になっていった。そんな矢先、

「現行を鑑み、公教育の停止を一時的に行います。」

と、管轄の大臣が発表したのだった。勿論、初めこそ保護者達から猛反対の声は上がったが、授業中に騒いでいる我が子の動画を見せつけられた保護者達は、ぐうの音も出なかった。教育の機会を提供しているにもかかわらず、それをふいにしているのは一体誰なのか。いうまでも無かった。

「なかなか思い切ったことをするなあ。」

事務所にいた尋の同僚講師が、携帯でニュースを見ながら呟いた。とある下町にある学習塾で、尋は講師としてバイトをしていた。

「まあ、遅かれ早かれだったかな。昔は労働力として見られていた子供達を、教育の機会を与えるって名目で救い出して、全員に公教育を提供するってのが謳い文句だったようだけど、当初の有難味は何処へやら・・って感じかな。」

「でも、それだと、憲法との兼ね合いが問題になるんでは?。」

尋の説明を聞いて、同僚が義務についての疑問を呈すると、

「それをいったら、武力を保持しないって書いてあっても、実際には持ってるって現実もあるし、解釈の玉虫色は全てに及ぶってことかな。」

そういいながら、尋は今日行う授業の下準備を始めた。テキストを開いて、説明に手間取りそうな関数の問題を入念にチェックした。

「でも、後進国が国力をアップさせるために、教育の重要性を謳って発展したって例が・・、」

同僚がそういいかけたとき、

「ああ、確かにそういう例はあるよなあ。でも、そんな風に教育を施して、その内、どれ程の割合がその恩恵に肖ることが出来たと思う?。」

数値的な説明になりそうと解った同僚は口を噤んだ。

「かつての日本だって、同じ状況だったんだぜ。で、一応、いい所までは上がっていったが、結局は今の有様だろ?。つまりは、どんなに機会を広く設けたところで、達成率は一定なのさ。それに、考えてもみろよ。子供って、勉強をやりたがる生き物か?。」

「それは確かに・・。」

子供とは、遊びこそが本分の生き物といった考えは、大人達の共通認識だった。

「ま、確かに昔は躾って名目で、子供を教師や校則に従わせることの出来る時代背景があったけど、今じゃ、矢鱈と体罰だ、パワハラだって五月蠅いだろ?。権利意識を誤解した成れの果てってやつさ。」

尋は皮肉たっぷりに、しかし、的確に本質を突いて同僚に語った。

「でもな、こっちにも生徒が回ってくるってことは、やっぱり、どっか教育にもいい所があるって、保護者は踏んでるんだろ。」

「それってやっぱり、就職とか収入ですかね?。」

そういう同僚に、尋はテキストを丸めて額をポンと叩いた。

「保護者と同じ次元でもの考えてどうする!。それが必要なのは、国の礎を担う一部の子供だけさ。今度の大臣、知ってるか?。出身母体。」

「いえ。」

「我々と同じさ。」

「すると、教育産業の人ってことですか?。」

「そう。だから、あんな大胆なことを、やってのけれたんだろうな。我々が常日頃から見て来て、そして感じてたことを、国権の場で実現したって訳さ。」

そういうと、尋は下準備を続けた。例の決定が発表されて以降、確かに何処の塾も一時的に特需が起こった。学校で勉強を教えて貰えなくなると思った保護者は、我が子を連れて、挙って押しかけてきた。尋のいる教室でも同様のことが起きたが、しかし、対応は極めて冷静であった。


二人が話していると、教室長がやって来た。

「えー、今日も入塾希望者が数名来る予定になっているから、尋さん、面談の方、お願いします。」

尋は自分がするのかといった表情を一瞬見せたが、了解すると、直ぐに立ち上がって玄関に近い教室に向かった。そして、机を並び換えて互いが向かい合わせになるようにした。そして、パンフレットを机の上に置いて、希望者が来るのを待った。程なくして、

「御免下さい。」

そういって、子供連れの母親がドアを開けて入ってきた。

「面談の予約をしていた者ですが。」

「お待ちしてました。どうぞこちらへ。」

尋は如何にも手慣れた風に、親子を教室へ誘った。そして着席すると、

「今日担当します、尋です。」

そういうと一例して、手元にあるパンフレットを二部手渡した。通常なら塾の概要や料金体系の説明をすると同時に、子供の学年や成績についての話から行う所だが、この一年は、新たな公教育停止についての説明を求められることがほとんどだった。

「あの、うちの子が通っていた学校も、正直、授業が騒がしかったんですが、それでも勉強は必要だと思うんです。ですので・・、」

母親の言葉を聞いて、

「仰る通りです。物事を考える力を身に付けるのは、とても重要な作業です。なので、学校の側も、それが適切に行えるような体制作りをしているところだと思います。で、お母さん。要点だけお話します。今回、こちらに通われたいとのことですが、それは、子供さん本人の希望ですか?。それとも、お家で話し合われて、お母さん方が決めたことですか?。」

と、今回の制定に批判めいたことはいわず、端的に生徒の意志かどうかを、尋は子供の目を見てたずねた。すると、子供は真っ直ぐ尋を見返した後、母親の方を向いて顔を上げた。

「この子がいきたいといいましたので。」

「解りました。では、コースについて説明します。」

子供の様子と母親の返事を聞いて、尋はようやく入塾に関する説明を始めた。実は大臣の発表が行われるよりも前に、業界内では既に公教育の停止に関する噂が立っていた。尋を含むこの塾でも、その情報はキャッチしていた。そして、学習塾は公教育が、いや、そのシステムがあってこそ成り立つ業界だという認識を持っていた。故に、省が新たな編成を行ったとしても、批判をするだけ時間の無駄であり、新たなシステムの利点を如何に把握し、先んじて実践するかが急務だと考えていた。そして、その結論が、子供自身の意志という結論に達した。それ以降、尋のいる塾では、面談の際に、明確な意思確認を行うようになっていた。

「料金等についての説明は以上です。」

尋は説明を終えると、親子を玄関まで見送った。すると、外には既に次の親子連れが待っていた。

「あの、面談の予約をした者ですが。」

「あ、お待ちしてました。どうぞこちらへ。」

尋は先ほどと同じように手際良く、親子連れを教室へ誘った。そして、新たなパンフレットを持って来て席に座ると、

「面談を担当します、尋です。」

そういって、パンフレットを二部手渡した。すると、母親はパンフレットを開いたが、子供は両手を膝の上に置いたままだった。尋はその様子を観察しながら、母親の言葉を待った。すると、

「あの、うちの子、全く勉強が出来なくて。それなのに、学校が授業をしないって話が出たもので、どうすればいいのかと・・。」

母親は困ったような表情で、子供を見つめた。しかし、子供の方は母親の心配など、何処吹く風といった様子だった。すると、尋は子供の方を見ながら、

「ボク、何年生?。」

とたずねた。

「小4。」

「勉強は好き?。」

「うーん、きらい。」

尋の質問に答えた子供の言葉に、母親はしまったといった表情をしたが、

「そっかあ。そりゃそうだよね。じゃあ、何が好き?。」

尋は質問を続けた。

「虫!。」

「虫かあ。甲虫かい?。」

「うん。クワガタとか。」

「何クワガタ?。オオクワ?。」

「ヒラタ!。」

それを聞いて、尋は母親の方を向いて話し出した。

「今日来られたのは、お母さんのご希望でですか?。」

「ええ。このままではマズいんじゃ無いかと思って、ご相談に・・。」

「なるほど。」

そういうと、尋は公教育に関する新たな編成についての説明を始めた。

「お母さん。これからの学校は、勉強を希望する子供を中心に教育を施すというシステムに代わります。あるいは、勉強に限らず、何かに興味を持って学びたいと思っている子供に対して、勉強の方に少しずつ軌道修正していくようにしていきます。彼は後者の方でなら、学校側も引き続き授業はしてくれると思います。ですので、試問のときには、今彼がいったように、自分が興味のあるものをアピールするようにして下さい。」

そういうと、尋はパンフレットを回収した。母親は一瞬不思議そうな顔をしたが、

「解りました。どうも有り難う御座いました。」

といって、席を立った。

「また何か解らないことがありましたら、おたずね下さい。」

そういって、尋は親子を見送った。試問とは、新学期が始まる際に、子供の意思を確かめるために行われる、資格試験のようなものであった。簡単な口頭試問ではあったが、今後、公教育を受けられるか否かを決める、重要な制度になっていた。


 面談を終えた尋の元に、同僚がやって来て、

「今度の子は、どうですかね?。」

と、感触をたずねた。

「ま、最初の子は入塾かな。で、後の子は難しい・・かな。」

尋は淡々と答えた。

「勉強したいと望む子だけが教育を受けられるのは、理にはかなってますけど。果たして子供にそんな判断が出来るんでしょうかね?。」

「学年が低いと、まず無理だろうな。でも、自らで学ぶ意志の無い子を無理に集めた結果が、学級崩壊と今回の制度に繋がった訳だから、意思確認は篩(ふるい)としては、いいんじゃないかな。」

そういうと、尋は教室の机を元通りの配置に直して、事務所に引き上げて来た。

「ご苦労さん。どうだった?。」

「はい。一人は学ぶ気満々でしたが、もう一人は真逆ですね。」

「そうか。じゃあ、教材の手配は一人分でいいかな。」

そういいながら、教室長は書庫へ在庫の確認にいった。

「さっきの話なんですけど、学び直しの制度はあるみたいですけど、早い段階で教育の機会を逸した子供達が、再び学ぼうとする意識って、芽生えますかね?。」

同僚は、未だに今度の制度に対しては懐疑的だった。尋は再びテキストの下調べをしながら、

「まあ、そもそも、一律に同年齢に同内容の授業を施すこと自体、不自然なのさ。人間の成長段階や精神年齢なんて、人それぞれだし。でも、制度として社会に巣立っていく人間を、個々に合わせて教えるには、それだけ人手も手間もかかるしな。結局は、効率重視で、結果、粗雑なものになってしまったと。だから、一旦、やる気重視で様子を見ようって感じなのかもな。」

尋の説明に、同僚はあまり納得のいった表情を見せなかったが、テキストに集中する姿に、それ以上はたずねなかった。実はこのとき、尋はテキストのことよりも、二人目の子供のことを考えていた。

「ヒラタクワガタ・・かあ。」

男の子が昆虫好きであるのは、よくあることであったし、大人でさえも、オオクワガタに夢中になる者は少なくは無かった。しかし、尋は敢えてヒラタの名をいった子供の姿が、何故か忘れられなかった。彼も、今でこそ塾講師をしているが、此処へ来るまでの道のりは、平坦なものでは無かった。荒れていた学校の中で、なんとか学生生活を送り、良からぬ世界へ身を窶す仲間が少なくなかったが、尋は自身の夢を叶えるべく、どうにか勉強して進学をした。しかし、それでも進んだ高校では成績的に躓き、卒業する頃には単位が全然足りていなかった。夢は実現したいが、そのためには卒業して、大学に受からねばと想えば思うほど、理想と現実の乖離は尋を戸惑わせた。結局、学校側の意向もあって、なんとか卒業はさせてもらえたが、それ以降も、大学に進むまでには、随分と遠回りをすることになった。大学進学は、大抵が現役合格、悪くても一浪が殆どである。医学部のような難関で特殊な進路を希望する場合は、何浪も重ねる者もあったが、それ以外は二浪目までには進学を断念する。学力が伸びないとか、そういうことでは無く、結局は周囲の目であった。その点、尋は一浪目から予備校こそ通わせてもらっていたが、ろくに勉強もせず、虚ろな日々を送っていた。半ば精神を病み、書店にいっては哲学書や宗教書、あるいは精神分析の本を手に取っては読み漁っていた。そんな様子が世間や周囲とかけ離れていることを、尋は特に気にはしなかった。

「変わり者のオレが、此処にいる・・。」

焦りが無い訳では無かったが、今ジタバタしても、どうにもならない、そんな直感だけが彼を支配していた。

「好きな生き物の研究の道。でも、そこへ再び戻るには、何かが足らない。欠けている。」

ちゃんと勉強をしろという言葉通りに軌道修正が出来れば、それほど簡単なことは無い。自身が何らかの甘えや野放図な状態であることは、十分自覚はしていた。しかし、やはり、何かが足らなかった。それでも、生き物に対する熱意のようなものだけは、不思議と失わなかった。それも、普通の生き物では無く、一見すると、みんなが目を留めないような、そんな生き物にばっかり、彼は夢中になっていた。そういう、一風変わった所が、昔の自身の姿と重なったのだろう。尋は数学のテキストこそ開いてはいたが、目線は櫟の木に止まって樹液を吸うヒラタクワガタを見つめていた。無論、頭の中で。そんな風に、夢想が一段落した頃、

「さて、生徒を迎える準備をするか。」

と、誰にいうでも無く、尋は立ち上がって事務所を出た。そして、早々やって来る生徒達に、

「こんにちわー。」

と、挨拶をしながら迎え入れた。

「こんちわ。」

「こんちわ。」

言葉の拙い低学年の子達がぞくぞくとやって来た。


 低学年、特に一、二年生に対しては、今回の措置は緩やかになっていた。自らの意志で学ぶということを、まだ十分には判断出来ないというのが理由だった。子供とは周りの色んなものに興味を示し、そういうものと関わりながら、少しずつ自身と環境との間に関係性を築いていく。仮に、躾が不十分で素行や行儀が悪かったとしても、それこそが人間の幼少期本来の普通な姿であると、尋も考えていた。

「じゃあ、授業をやるよー。」

尋はテキストを抱えながら教室に入っていき、生徒達と言葉を交わした。

「せんせー。今日、体育の時間に、足擦りむいたー。」

「そっか。それは大変だったな。で、痛くは無い?。」

生徒は少し擦りむいた膝を見たが、

「うん、平気!。」

と、元気よく答えた。それを見て尋も、

「OK!。」

と、親指を立てて差し出した。

授業中も、楽しく教科書の内容を語ったり、板書に面白い絵を描きながらと、生徒を喜ばせた。みんな、ときにはキャッキャと騒ぎながら、あるいは真剣に問題を解きながらと、そうこうしているうちに、あっという間に授業は終了時間になった。

「えー、もう終わり?。」

と、残念がる生徒もいたが、

「はーい、次のお兄ちゃんお姉ちゃんが来るからね。今日はここまで。」

尋はそういって、生徒達を送り出した。

表では保護者が迎えに来る子、一人で帰っていく子、様々だった。そんな様子を、尋は何か思う所があるかのように眺めていた。

「尋さんはの授業は、いつも賑やかで楽しそうですね。」

同僚が何気にかけた言葉だったが、

「本当に、そう思うか?。」

と、意味ありげな返事をすると、尋は直ぐに次の授業の準備にかかった。さっきの言葉が気になった同僚が、尋の後を追って来つつ、

「さっきの、あれ、どういう意味で・・、」

と、同僚が尋ねようとしたが、

「子供とはいえ、健気なんだよ。元気を装う子もいるしな。そうやって、仮面ってのは形成されてくのかもな。」

尋はそういって、気持ちを切り替えるべく話を切り上げた。事務所に戻って一服していると、直ぐに高学年の子達がやって来た。尋はとんぼ返りで玄関にいき、

「こんにちわ。」

といいながら、生徒達を迎え入れた。同僚は裏へ回り、自転車整理をした。そして、生徒の集団が一段落すると、尋はすぐにテキストを抱えて教室に向かった。

「はい、こんにちはー。」

「こんにちわー。」

挨拶を済ませると、尋はテキストを開いて、前回の授業で出していた宿題のチェックを始めた。以前であれば、ちゃんと宿題をやっている子と、そうで無い子を見分けて、叱ったり、理由を聞いたりという作業が当たり前のようにあったが、今は違った。全員がちゃんとやっていた。場合によっては難問のところを途中までしかやれていない子供もいたが、今日はそうでは無かった。

「OK。全員やれてるね。解り難い問題があった子は、手を挙げて。」

念のために尋は生徒にたずねたが、生徒は真っ直ぐ尋の方を見つめて、誰一人手を挙げなかった。それを確認すると、尋は新しい単元の所に進み、

「今日は比例のお話・・。」

そういって、式の作り方や、問題の解き方を、最初は例を示しながら説明した。その後は、要点だけを説明して、残りは生徒達自身にやらせた。以前であれば、この段階に至るまでにも、騒いでいたり、集中していない子が多くいたが、今は全員が申し合わせたようにテキストに集中していた。ある意味、機械的でもあった。確かに授業は格段に進めやすくなった。それはそうである。集中出来ない、勉強をしようとしない子を意図的に排除していたからだ。仕事としては非常にやり易くはなった。テキストもスムースに進む。質問があっても。的を射たものばかりで、聞き逃したりだとか、そういうものでは無かった。いわば、理想的な授業が行えていた。それでも尋は、授業の導入部は、これまでと変わらずに、具体的で少し面白い要素を取り入れた説明をしていた。もはや、そこまで面白い演出は必要無いのかも知れない。しかし、尋はそういう語りをやめなかった。そして、淡々と問題を解いている子供達を見つめながら、複雑な感情に駆られていた。

「率・・かあ。」

尋は大臣が掲げる、あるスローガンを思い出していた。従来の授業は、いわばコスパが非常に悪かった。いくら教育を提供し、施しても、それが結実する率を、尋も暗に考えてはいた。しかし、それを大臣が政策の一環として強行しようとは、夢にも思っていなかった。

「教員のなり手が著しく減少した今、それが国民から突きつけられた教育に対する一つの答えであると私どもは判断し、真摯に受け止めました。従って、真に教育を望む割合、その層への確実なる教育効果を目指し、新たな制度を導入することとなりました。」

尋は、その発表の際、具体的な割合を、数値として示さないように、心で願った。彼は知っていたからだった。社会を構成する人員のうち、どれ程が教育の恩恵に肖り、国の礎となって、この国をリードしているのかを。


 平等をスローガンとして掲げ、そして謳う組織は多い。しかし、それはあくまで機会の話である。チャンスは一様に平等であるべきだろう。しかし、現実問題、そのチャンスをものに出来る割合や、あるいはチャンスが訪れる割合でさえ、既に不均衡である。つまりは、スタートライン以前に、差はついている。しかし、大抵の場合は、その辺りをボヤかせて、さも努力すれば須く報われるように演出をして来た。それが公教育の場であり、結果、身につかないものをいくら宛がわれても、かえって空しさが募ったのだろうか。そのことを自身の姿として向き合うのを拒絶すべく、代わりに他を否定することで、自身を正当化しようと、子供達は無意識に行動したのだろう。そんな荒んだ状況を打開する術として、現実を突きつける形で登場したのが今の大臣だった。

「世界の富を握っているのは、ごく数パーセントの富裕層。しかもそれは、どの地域でも同一の割合にでは無く、地球を南北に分けてみた場合、北部に偏在的に分布している。そして、そんな国々の中でも、さらに所得によって分断された教育効果の実態がある。それでも、世界の経済は一部が主要な部門を担い、グローバル化と称してやってのけている。」

尋は、その事実を何かの報道で目にはしたことがあった。しかし、例えこの国がその中にあったとしても、自身の生活圏や属する現場に、具体的に突きつけられるとは、夢にも思っていなかった。

「それは確かなんだよ、大臣。」

尋はその事実や数値的な意味を理解はしていた。故に、彼女の提言が遅かれ早かれ実施されることも、概ね予想はしていた。そして何より、対部分はその決定に従順でさえあった。その意味では、大臣にとっても、尋にとっても、言葉は悪いが、思う壺である。

「でも、大臣。そのことを、敢えて数字を掲げて、実施するのが、本当にいいことなのかな・・。」

生徒の席と席の間を巡回しながら、尋はテキストの進み具合をチェックしていった。途中、手が止まって考え込んでいる子供には、

「ここは、こうして考えてみてごらん。」

と、的確かつ端的なヒントを与えて、再び巡回をした。かつてとは異なり、説明に多くの時間を取られる子供が少なくなった今、尋は大臣の目論むポリシーと、その方向性に同調していた自分、そして、そのことに何処となく懐疑的な直感が働く自分との間(はざま)に立たされているのを感じていた。そして、時計を見ながら、

「はい。今日はここまで。今やっているページの残りが、それぞれ宿題ね。」

尋は授業を終えると、入り口付近に立って生徒達を見送った。

「さよならー。」

「さよならー。」

授業が終わって、帰りがけに談笑する友達同士の姿や、自身に語りかけてくる人懐っこい生徒を見ると、尋は何か救われたような気持ちになった。

「尋先生、ちょっといいですか?。」

振り返ると、教室長が声を掛けてきた。

「この後のシフトなんだけど、特進クラスを見て欲しいんだ。」

「え?、昇先生は?。」

「さっき連絡が入ってね。体調を崩して、来られなくなったらしい。いつものクラスは他の人に頼むから、頼むよ。」

「はい・・。」

少し休憩の時間をおいて、夜は中学生がやって来る。特に三年生は夏休みが終わる頃から受験モードに入るのが一般的だ。しかし、難関校を希望する子は、それでは遅すぎる。夏休み前から既に講習でスパートをかけていた。尋も数学で何コマかは受け持ったが、なかなか高いモチベーションだった。

「特進ですか。相変わらず信頼されてますね。ボクなんか、テキスト見ただけで圧倒されちゃいますよ・・。」

同僚が何気に話しかけてきたが、尋は急な依頼に、それどころではなくなった。

「あと、自転車整理、頼むよ。」

そういうと、尋は事務所に戻って特進クラスの日誌を開けた。そして、前回やっていたページを確認すると、直ぐさまテキストを持って来て、今日やるところの予習を始めた。

「二次関数と図形かあ・・。」

尋の表情が厳しくなった。その辺に置いてあるメモ紙と鉛筆を取ると、尋は順番に問題を解いていった。

「一問目と二問目、あと、三問目も何とかはなるか。」

そう呟きながら、尋は問題を解き進めていった。そうやって、少し余裕を持って、今日やる予定の問題プラス一、二問を解き終えたとき、

「尋先生、済まないけど、後の英語もお願いするよ。」

と、教室長が立て続けに特進の二コマを依頼してきた。尋は特に表情も変えずに、

「解りました。」

と即答した。そして、数学のテキストを本棚に戻し、代わりに英語のテキストを開いて、日誌と前回のページを照合させた後、直ぐにテキストを本棚に戻した。作業時間としては八対二、いや九対一の割合であったが、問題は時間の長短では無かった。そして、とある生徒の顔を思い浮かべながら、授業のシミュレーションを行った。

「やっぱ、アイツ・・だな。」

尋はそう呟くと、カバンから菓子パンを一つ取りだし、サッと口に押し込んだ。


 塾講師には、ゆっくりと夕飯を食べる時間など無い。中学生達は食事を終えてからやって来る子がほとんどだが、夕方から授業をこなしている尋達には、エネルギーチ補給程度の時間がギリギリだった。

「さて、いくか。」

尋は数学のテキストを持って、特進クラスの教室に向かった。ドアを開け、

「こんばんわ。」

いつもの昇先生とは違うことに、生徒達は特に顔色は変えなかった。尋は出席者の確認を済ませると、テキストを開いて例題の説明を始めた。

「この問題の場合、式は以下のようになるから・・、」

式とグラフを端的に書き、そこに図形を重ね合わせて解法の工夫すべき点を丁寧に説明した。板書を真剣に見つめる子、ノートを取る子、中にはわざと上の空を装う子もいた。そのような子は、概して数学が得意と自負している子達であった。新たな制度以前にも、このような子は少ないながらも、常に一定の割合で教室にはいた。そんな子達を、尋は特に窘めることも無く、淡々と説明を進めた。そして、

「じゃあ、次の問題から、各自やってみようか。はい、スタート。」

尋の号令がかかると、生徒達は一斉に問題に取り掛かった。いくら特進クラスの生徒とはいえ、手こずる問題が目白押しなテキストに、生徒達は四苦八苦していた。講師とて例外では無かった。数学という教科に魅入られていなければ、大抵は苦労した。大人になって世に出た際に、具体的に数学を使うような局面など、数学者や塾講師以外には殆ど無い。しかし、学校や受験の世界においては、数学は常に王者の如く君臨している。それほどに、人間の思考を鍛える上では重要な科目だからであった。そして、そういう思考をセンスとして持ち合わせている割合は、残念ながら高くは無かった。尋は自身がたまたま理系出身であったため、受験の際に真剣に取り組んだことで、この科目に多く触れる機会があった。

「一番と二番までは、まあ、解けてるな・・。」

生徒の席の間を巡回しながら、尋は出来具合を確かめていった。そんな中、最後列に座っていた生徒は、腕組みをしながら別の科目のテキストを見ていた。尋は彼の答案を何気に見てみた。

「完答・・か。」

スピードといい、正確さといい、申し分の無い出来映えだった。尋はこの生徒を何年か前から見ていた。その当時から、一際異彩を放ってはいたが、正直、彼のことを好きにはなれなかった。ある日の授業で、彼が同級生に、

「お前、こんな問題も出来ないのか?。」

と、得意げに語る彼を、尋は見た。何なら少し笑みさえ浮かべていた彼を見て、

「その笑顔が、泣きっ面にならなければいいがな・・。」

と、尋は心の中で呟いた。その後、彼は特進クラスに召集され、久々の再会となった。何教室かある中から、成績優秀な生徒が一堂に集められ、此処では難関校に挑むべく、一般の子らとは異なるテキストを、ハイペースで授業が行われていた。そんな状況を、生徒達も自覚をしているようで、得もいえぬ雰囲気が、このクラスには漂っていた。それを称して、尋は、

「特権階級の特権意識・・かあ。」

と、そっと呟いた。久しく会っていなかった子らは、やはり以前とは雰囲気が異なっていた。成長期ということもあって、背格好や声が短期間で変わっていたのもあったが、どうやら原因は、昇先生にあるようだった。彼が担当するクラスは、総じて瞬く間に成績が上がることで知られていた。塾の側も、保護者も、そのことを一様に喜んだ。しかし、たまに休むことがあり、その都度、教室長か尋が代講を務めたが、その際、独特な違和感があることに、尋は気付いていた。

「子供の目から、生気が失せている・・。」

落ち着き払って、淡々と問題に取り組む姿勢は、先生達にとっては好都合だろうが、尋はそのような、子供らしさを失った様子を懸念していた。

「彼は、昇先生は一体、生徒達に何を話しているんだろう?。」

常々尋は疑問に思っていた。同僚達とは比較的フランクに話す尋ではあったが、昇先生とは、挨拶以外には殆ど言葉を交わさなかった。色白で俯き加減で物静か。長い七三の前髪を時折かき分けながら、静かに読書をしているか、目を閉じて瞑想しているだけの、一風変わった先生だった。そして、必ず授業の三十秒前に席を立ち、教室に向かっていって、まるで何も語っていないかのように、静かに授業を始める。それが昇先生のスタイルだった。叱るでも無く、湧かすでも無く、解法のポイントを力説するでも無く、兎角、不気味なほどに静かに授業は進められていた。そして、授業が終わった際に、ドアを開けて退室する昇先生の姿を、尋は何度か見たことがあった。開かれたドアの向こうを、昇先生越しに眺めた尋には、その光景が異様に映った。

「まるで、マシン製造機じゃないか。」

授業で何かを得たとか、自身が頑張って問題が解けたとか、そのような感情が一切伝わってこない、そんな冷淡な目が幾つも並んでいた。


 しかし、中には尋のことを懐かしそうに眺める生徒もいた。小学生の頃から面倒を見ていて、それがいつの間にか、成績優秀という理由で、特進クラスに召集された子達だった。

「難しそうか?。」

「はい。」

尋は巡回しながら、時折、そういう子らに声を掛けた。例の、最後列に座っていた生徒も、尋には親しげな目線を送っていた。

「余裕で解けたか。」

「ええ。まあ。」

口では謙遜している風であったが、相変わらず尊大な雰囲気は隠し切れていなかった。すると尋は、メモ紙に小さな図形を書いて、

「この問題の、斜線の部分の面積を出してみな。」

そういって、生徒のテキストの上にポンと置いた。これが、尋と彼との小さな戦いであった。高を括る生徒をねじ伏せようという気持ちと、それでも頑張ってなんとか解いてみろという叱咤激励の入り混じった、二人だけの関係であった。途端に彼は目つきが変わり、

「うーん・・。」

と唸りだした。尋は、してやったりという顔で、巡回を続けた。一通り見回った後、尋は黒板の前に戻り、

「じゃ、解答いくぞー。」

そういうと、解き方を板書して、ポイントになる部分に赤と黄色のチョークで線を引いた。そして、何の説明も加えずに、これと思う部分に青色でまるをした。そして、

「全問正解の人、手を挙げて。」

尋がそういうと、半分弱の生徒が手を挙げた。

「よーし。間違えた人は、後で青色のまるの所を見返してごらん。」

そういって、次の問題に進んだ。何気に手を挙げさせたのは、彼らへの承認欲求と競争心を共に満たす行為だった。問題が解けたことへの優越感、出来なかったことへの焦燥感が、同時に露わになる。その瞬間を、尋は演出した。そして、後者の生徒に対するフォローも忘れなかった。青いまるとして。そんな風に、尋の授業は生徒の気持ちを掴みながら進めるスタイルだった。前半の授業が終了すると、生徒達の顔に幾分、表情が戻っていた。授業を終えて、尋は事務所に戻った。

「特進の生徒、どうでした?。」

同僚が尋にたずねた。

「どうって?。」

「何か、雰囲気が変じゃ無かったですか?。」

「うーん、どうだろう。ま、難しいことをやってるからね。」

尋は彼の質問の意図は分かっていたが、わざと話を逸(はぐ)らしたら。講師間のいざこざを増長させるのはよくないというのもあったが、何より、例え昇先生の授業を受けた子らが妙な雰囲気になってはいても、結果、学力が向上していることは否めない。それと同じだけのことをせずに、別の批判のネタを探らせるのは、講師のスキル向上の妨げになると考えていたからだった。

「さて、英語、いくか。」

尋は僅かな休憩を取った後、再び特進クラスに向かった。そして、ドアを開けると、

「はい。英語おー。」

そういいながら、小さなメモ紙を全員に配った。そして、五つの日本語を箇条書きにし、

「はい、この日本語を英訳してー。」

そういって、尋は黒板の脇に立って、

「時間は六分。用意、スタート。」

と、生徒に拍車を掛けた。昇先生と全く異なるスタイルに、声を出して驚く生徒もいたが、大半は腕試しといわんばかりに真剣に取り組んだ。此処に集う生徒達なら、学校の定期テストで英語の答案が高得点なのは承知だった。故に、難易度の高いテキストを渡したところで、恐らく結果は同じであろうことも、尋は踏まえていた。それだけに、日頃やり慣れていない英作文を、敢えてさせることで、英語が出来るのが当たり前だという気持ちを打ち消そうとしたのだった。

「はい、終了ーっ。」

すると、尋は次々に英語の出来そうな子を指名して、解答をいわせた。そして、それを板書して、別の子を指名して、

「この文章、何処が間違ってる?。」

と、端的にたずねた。もし、訂正箇所が正しければ、

「OK。」

と短く答え、逆に、しどろもどろしているようだったら、

「はい、此処はこう!。」

と、訂正箇所をわざと強いめに書き直した。この段階で、殆どの生徒は、自身が英語力があることが如何に錯覚であるかを思い知らされる。と同時に、これから学ぶテキストに対して、謙虚になれる。それが尋の狙いだった。そこには、尋の一つの思いがあった。数学とは異なり、英語は語学であはあるが、学問では無い。英語圏のネイティブ達は、日夜、英語を喋っている。つまりは、日々ずっと使い続けていれば、誰でも身につく。それを、点数で優劣を付けるのはおかしいと、尋は常々思っていた。また、どんなに一定レベルまで到達したと思っても、さらに難しい単語や言い回し、あるいは著者の思想を理解する上で、より高度な英語が必要になることを、尋は十分に知っていた。

「努力の量に比例して成績が上がるのが勉強なら、英語はその最たる科目。そして、終わりの無い科目。」

尋は英作文の小テストで一喜一憂する生徒達を見ながら、特権意識がリセットされたのを確認して、授業に移った。


 数学とは違って、英語は教科に対するセンスがほぼ問われない科目だった。得意な生徒をどいうしても追い越すことの出来ない数学の時間は、特に優秀な生徒を除いては、半ば諦めムードが漂っていた。しかし、英語の時間になると、全ての生徒に平等感のようなものが生まれる。生徒達は一斉に問題に取り組んだ。やや難しめのテキストではあったが、穴埋め問題や並び換え問題、そして長文読解問題と、生徒達は次々にこなしていった。

「うんうん。」

尋は机の間を巡回しながら、みんなが一様に正解を書いているのを見て、あらためて感心した。学力的に優秀な子は、総じて英語が得意であるのを、尋は知っていた。しかし、そんな中、所々が空所の生徒が一人いた。例の、数学が得意な尊大な生徒だった。尋がまだ彼を教えていた頃は、他の科目同様、英語も結構出来てはいた。しかし、特進クラスに選ばれる前後に、彼は得意な科目に夢中になる傍ら、あまり好きでは無い英語を疎かにしていたのだろう。

「此処、解らないか?。」

尋は小声で指摘した。彼のプライドを慮ってのことだった。そして、そっとヒントになるワードを述べると、彼は途端に解答を書き込んだ。そして、尋は巡回を続けた。人には得意・不得意がある。科目によって、それが出ることも大いにある。しかし、尋には気になる点があった。

「上位校の理数科を狙うなら、英語の不出来は致命的・・。」

公立高校の受験、ことに理数科を狙う場合、英語、数学、国語の三科目が配点比率が大きい。他の科目の倍であった。そして、数学が得意といい切れる程の生徒は一握り視界いないのが一般的だった。故に、殆どの生徒は残りの二科目の点数を上げることに励んだ。数学の不出来を補うために。しかし、尋の住む地域では、特に数学が難しかった。恐らく、一番難易度は高い。すると、どんなに数学が上位な子であっても、当日の試験で満点か、それに近い点を採ることの出来る生徒が殆どいない。尋はそのことを仕事柄、よく知っていた。ということは、

「当日、数学が出来ると高を括ってると、まずしくじる・・。」

そのような構図は目に見えていた。これまでにも、同様のスタンスで挑み、試験の結果に泣きを見る子も幾人もいた。かつては、そのような子達には前もって、そんなままでいると、どういう目に遭うかを、それとなく伝えたこともあった。しかし如何せん、聞く耳は持たなかった。プライドが邪魔をしていたからだった。そして、学校の定期テストでは満点近い点を誇っていた子らが、理数科から爪弾きにされた瞬間、女子であれば、堰を切ったように泣き崩れた。その度に尋は、

「いわんこっちゃ無い・・。」

と、心の中で呟いた。しかし、これも長い人生の中に訪れる経験の一つでしかない。そのことを、自身の中でどう受け止め、そして、その挫折を糧に、どう這い上がっていくか。真価とは、そういうときにこそ問われるものである。

「また今度も、同じ光景を見ることになるのか。」

そう思いながらも、尋は彼に、それ以上のことは告げなかった。やがて、終了の時刻になって、

「はい。今日はここまで。」

と、尋が号令を掛けて、授業が終了した。

「先生、これ。」

そういって、さっき渡した数学のメモ紙を持って、彼がやって来た。

「おー。解けてるな。」

尋にそういわれて、彼は嬉しそうに帰っていった。そして、

「先生、また授業やってくれるの?。」

と、昇先生の代打以外にも授業をするように請われる声もあった。

「うん、まあ、そのうちに、ね。」

それを聞いて喜ぶ生徒もいたが、中には安堵の表情を浮かべる子もいた。尋は何気に、

「どうして?。」

とたずねた。すると、とある生徒が、

「ちょっとお話があるんです。」

といって、何科もの有り気な表情で尋に打ち明けた。

「解った。みんなを送り出すから、少し待ってね。」

そういうと、生徒達を教室の出口まで誘導し、最後尾に自分とその生徒だけになるようにした。そして、みんなが出ていったのを見計らって、尋はその子を教卓の辺りに誘った。

「話って?。」

「実は、昇先生のことなんですけど・・、」

尋は、いつかは来るであろう瞬間が来たと、そんな風に感じた。

「昇先生が、何?。」

「はい。とっても冷静に、ポイントを突いた説明をしてくれて、少し難しめですけど、テストで点もよく取れるようにはなったんです。ただ・・、」

尋は黙って聞き続けた。

「滅多に雑談はしないんですけど、たまに話す内容がちょっと・・。」

「どんな感じの話を?。」

すると、生徒は途端に唇を震わせて、

「怖いんです。何か。もの凄く。上手くいえないんですけど、ガラスで血管を切り裂かれるような、そんな感じがして。」

彼女の震える様子を見て、尋は労りながら、ゆっくりとたずねた。

「無理にじゃなくていいから、思い出せる範囲で、どんな話をされたか、聞かせてくれるかな?。」

「お前達は、頭脳のみに存在価値が見出されている。そして、そうなるべくして、選ばれている。だから、選ばれたことを誇りに思え。でも、その頭脳に陰りの疑いが見られた瞬間、お前達の存在価値は消え去るって。」

そういうと、彼女は泣きそうになって、両手で顔を覆った。


「存在価値・・かあ。」

尋は呟きながら、しかし、彼なら如何にもいいそうだなと思った。控え室であった時も、殆ど言葉を交わすことの無い同僚ではあったが、たまに聞く彼の言葉に、尋も常々違和感は感じていた。

「そうかあ。勉強って、色んな捉え方をする人がいるからなあ。で、キミは勉強は好き?。」

尋は優しくたずねた。彼女は覆っていた手を下げて、少し不思議そうな顔をしたが、

「はい。」

と、小さく頷いた。

「なら、キミの存在価値は証明されてる。といっても、昇先生のいう存在価値じゃ無くって、好きなものに打ち込んで、ちゃんと自分の未来を見据えてる、そういう存在価値ね。」

尋がそういうと、曇っていた彼女の顔がいっぺんに晴れた。

「はいっ。」

元気に返事をしながら、彼女は一例すると、教室を後にした。尋は板書を消した後、教卓の周りを片づけつつ、教室の明かりを落とした。

「ふーっ。やれやれ。」

そういいながら、尋はテキストを小脇に抱えて控え室に下りてきた。そして、校舎の玄関に出て、生徒達を見送った。そして、控え室に戻ろうとした時、

「先生、これ。」

と、数学の時間に尋からメモを受け取った生徒が、それを持ってやって来た。

「おー、どれどれ・・。」

尋は問題を必死に解こうと、計算式でびっしりのメモ紙から、解答部分を見つけた。そして、

「正解!。」

「よっしゃー!。」

尋の言葉に、生徒は両手を握り締めてガッツポーズをした。

「難問だけど、よくやった。その感じで、英語にも熱を注いどけよ。」

「はい。」

そういうと、彼はにこやかに帰っていった。数学の試練に応えることが、彼の承認欲求となり、尋が応じることで、彼の欲求は満たされた。そして、まるで子供のような笑顔を見せたが、同時に、それが解けたことが、彼のステータスシンボルにもなってしまう。

「謙虚でいろっていったところで、他人(ひと)に出来ないことが自分に出来たら、そりゃ天狗にもなるわなあ・・。」

そんな独り言をいいながら、尋は看板を仕舞ってシャッターを下ろすと、控え室に戻ってきた。

「どうでした?。特進クラスは?。」

早速、同僚が再び聞いてきた。

「うん。久しぶりに見たけど、みんな頑張ってたかな。」

すると、

「何かいつもと違って、時折笑い声も聞こえてきて、随分楽しそうでしたね。」

同僚は殊更に昇先生の授業が日頃から変な感じなのかを伝えたかったようにいった。

「以前から見てた生徒と久々の再会だもん。そりゃ多少は盛り上がるさ。」

「多少って、終わった途端、みんなニコニコ顔でしたよ。」

「なら、結構じゃないか。」

そういうと、尋は同僚の肩をポンと叩いて、帰り支度を始めた。

「じゃ、お先に失礼します。」

尋はそういうと、自転車にまたがって家路に就いた。途中、特進クラスの生徒達のことを思い浮かべながら。

「確かに、今度の制度は彼らの存在価値をいっそう高めるようなもんだからなあ。」

通常の義務教育のときも、成績優秀者は何かと特典に恵まれていた。授業料の免除や特待生制度。そういったものが、問題は含みつつも既に存在していたのに、何を今さら精鋭制を強める必要があるのかと。彼らの学力が、やがては高度な思考力となって、様々な現場で活躍が期待出来るのは確かに良いことだろう。そして、そういう社会の上層部にいることの出来る優越感を過度に感じさせるのは、後々に問題にもなるだろうと、尋は考えていた。しかし、最も危惧するのは、実はそちらの方では無かった。

「うん。やっぱ、そーなるよなあ・・。」

尋は近くのコンビニ辺りで自転車を止めて、缶コーヒーでも買おうと思った。すると、

「よう、先生。」

見ると、少し前まで尋のいる教室に通っていた元生徒が、数人の集団と一緒にたむろしていた。

「おう。元気か?。」

「元気だけはバリバリよ!。」

そういって、彼は力こぶを尋に見せた。二の腕には洒落たタトゥーが入っていた。

「で、今、どうしてる?。」

「どうって、学校も特に来なくていいっていうし、仲間と遊んでるよ。」

そういって、他の連中を見た。駐車場にしゃがみ込んで、足元には幾つもの吸い殻を落としながら、みんな虚ろな目で尋を見上げていた。

「ところで先生、」

「ん?。何だ?。」

「オレ、別に勉強好きじゃ無えから、学校いかねーのはいいんだけど、でも、働きたくても、ダメだっていうじゃん?。バイトだと大した稼ぎにもならねーし、早く兄貴や親爺みたいに現場出てーんだけど、何とかなんねーのかな?。」

彼の言葉は、最もだった。

「うーん、そうだよなー。何もしないのが一番退屈で辛いしな。」

「そうなんだよ。」

「で、勿論、こっそりとは?。」

「手伝ってるよ。内緒だけどな。」

尋は彼が生徒だった頃から、勉強の方はイマイチだが、ものの道理は弁(わきま)えているのは知っていた。

「じゃ、一足お先に、社会勉強は出来てるって訳か。」

「えへへ。」

そういいながら、彼は右手の親指を尋に向けて差し出した。


「じゃーな。」

尋は右手を挙げてコンビニへ入っていった。そして、商品棚から缶コーヒーを手に取ると、レジに並んだ。尋の二人前には少しヤンチャそうな少年の二人組みが支払いをしていたが、突然、

「オレが何したってんだ?。お?。」

と、一人がアルバイトの店員に凄みだした。

「いや、ですから、そちらの商品の支払いを・・。」

どうやら、買わずにポケットへ忍ばせた商品を、店員は見逃さなかったようだった。そのことを諫められた少年が、逆ギレをしたのだった。店員は女性で、少年が激高したことで、恐怖で顔が強張っていた。もう一人の少年も店員に詰め寄り、事態はさらに悪くなりそうだった。すると、

「あの、ちょっとすいません。」

尋は前で順番を待っている客に会釈して、もう一つ前に進むと、

「ごめんなさい。レジの時間がかかりそうだったら、ボク、これ一つなので。」

そういって、わざと少年の間に割り込んだ。

「何だ、お前?。」

咄嗟のことに、少年達は困惑したが、今度は急に尋に絡み出した。

「お前じゃない。尋だ。」

そういうと、尋は店員さんに、

「あのカメラ、生きてるよね?。だったら、映像がちゃんと残ってるんじゃ無いかな?。」

そういって、店内の防犯カメラを指さしながら、店員にウインクした。すると、店員も尋の合図を理解したようで、

「ええ。録画されるようになってます。」

と、さっきよりは少し強い口調でハッキリと答えた。

「じゃあ、丁度いいから、一緒に確認しようか。」

そういうと、尋は少年達を睨んだ。すると、

「チッ。」

少年の一人が舌打ちをして、尋を睨み返した。そして、持っていた商品全ての代金をちゃんと支払った。そして、尋のことを睨んだまま、店を出ていった。

「どうもすいません。」

店員が涙目でお礼をいうと、

「いえいえ。ちゃんと代金も貰えたし、通報とかしなくて済んだし、万事OKってことで。」

と、尋はコーヒー代を支払って、表に出た。すると突然、

「テメー、さっきはよくもっ!。」

と、先ほどの少年二人が横から現れて、尋の肩を掴んで引っ張ろうとした。すると、尋は彼らの握ってない方の手が手ぶらなのを見ると、

「わー、オレ、やられちゃうのかなー?。」

と、少し大きめの声を出しながら、駐車場の真ん中までやって来た。それに気付いた元教え子とその仲間が、尋の方をふり向いた。そして、元教え子が近づいて来たとき、

「この子ら、キミの友達?。」

と、尋は確認した。

「ううん、違う。」

元教え子がそういうと、

「ごちゃごちゃとうるせーんだよ!。」

と、両脇の少年が語気を強めた。それを見て、

「先生、手貸そうか?。」

元教え子は聞いたが、

「いや、いいや。」

そういって、両手の拳を軽く握ったかと思うと、

「スパッ。」

と、瞬時に二人に握られた両肩の腕をはたき落とした。二人は地面につんのめりながら倒れそうになった。すると、今度は尋が彼らの襟元をグッと掴んで、倒れそうになるのを止めて、急にフワッと持ち上げた。余りのことに、少年達は目を丸くした。そして、尋は両側の少年と肩を組むと、

「今、このままだったら、ちゃんとレジも済んでるし、誰も何も起きてない。だよね?。」

そういって、尋は少年達を代わる代わる見た。少年達は小刻みに頷いた。

「そして、ボクも別に腹は立ててない。キミたちは?。」

そういって、尋はまた代わる代わる彼らを見た。少年達は合わせたように首を横に振った。

「よかった。じゃあ、気をつけて帰ってね。」

そういうと、尋は彼らの背中を軽く押した。少年達は慌てて何処かへいってしまった。

「先生、やるー!。」

元教え子は、尋の腕っ節に感心した。

「話の分かる子らで、よかったよ。ま、キミが現場仕事続けたら、そのうち抜かれるよ。」

そういいながら、尋は缶コーヒーを持ったまま、自転車にまたがって手を振りつつ駐車場を後にした。そして、ペダルを漕ぎながら、尋は少し複雑な思いだった。若い時は何かあった時のために、矢鱈と体を鍛えてはいた。しかし、元来、喧嘩好きとかそういう性格では無かったし、あのような状況に出くわすことは殆ど無かった。だが、いざそのような状況で多少でも力を発揮すると、どうも釈然としない違和感が残るのを、尋は知っていた。だからこそ、出来るだけ穏便に済ませるように、尋は努めていた。しかし、

「うーん、何処を見ても、たむろする子が増えたなあ・・。」

コンビニが至る所に乱立する今、残念な光景はそこかしこで見られるようになった。これが、新たな改革の、もう一つの側面であった。今はその始まり。そのうち、治安の維持に人手と費用が費やされ、やがては人々の層の間に、分断された溝が出来てしまうだろうと、尋は危惧していた。


「ウー、ウー。」

街中に響くパトカーのサイレンも、以前よりは聞く機会が増えた。別に何処かへ逃げるでも無く、たむろしている子供達は素直に職質を受けているようだった。

「ま、確かに、抵抗してすぐに銃を突きつけられる心配は無いか。」

治安という観点と、社会に対する従順さという点では、この国は安全で大人しい国民性ではある。今回の教育制度再編も、殆ど騒ぎ立てることも無かった。教育への期待度とは、途上国のような環境であればあるほど大きいのだろう。反面、先進国、殊にこの国では、教育の供給過多が顕著だった。貧困からの脱出の手段として、教育を施すことが第一義とされたのは、最早かつての時代であり、学校を出たからといって、いい就職先や稼ぎが保証されていない中、公教育の現場が荒むのは、ある意味必然的ではあったのだろうと、尋は考えていた。

「その点、ああいう子は、先見の明があるってことかもなあ。」

尋は先ほど会った、元教え子のことを思い出していた。昔ながらの手に食を付けるべく、その道に懸命に進もうとする姿勢は、どのような時代においても確実で心強い。そして、何より逞しい。

「これからは、そういう層の人口が増えるってことかな。」

しかし、尋は同時に、彼の後ろにいた仲間達の目つきも、気にはなっていた。

「アイツと違って、彼ら、やっぱ虚ろだったなあ・・。」

尋は順風満帆でここまでやって来た訳では無かったので、その折々で、あまり宜しくない経験や光景も比較的目にはしてきた。彼は、淡々としたタイムスケジュールで毎日を過ごすようになっていた。しかし、それは何気なくでは無かった。

「空白の時間が、最も精神を荒廃させる・・。」

そういう思いからだった。何かに打ち込んでいたり、あるいはノルマとして日々の作業なり課題がある場合、人はそれと向き合い、時間を過ごす。そして、疲労感と共に一日を終え、家に戻って休息を得る。しかし、そういうものが無い場合、人は取り敢えず何かを求めて暇を潰そうとする。出来れば刺激のある、欲求を満たすべき何かを。その嗜好の延長線上には、欲の増大が往々にしてある。つまり、より強い刺激、より強い娯楽、そういうものが、自身の欲求を充足する術へとエスカレートする。尋の周りにかつて居た友人達も、初めはちょっとした悪さをしながら暇つぶしをして過ごしていた。その頃までは、尋も一緒に過ごしてはいた。しかし、それだけでは満足出来なくなった友人達は、次第に虚ろな目つきのまま、危険な行為を繰り返すようになっていった。日々争い、他者を傷つけ、自身も傷つき、そして行いの規模も大きくなり、やがては、その筋の入り口を潜っていった。古風ではあったが、そのような世界が、新たにやって来た若者達に、自分達の礼儀を叩き込み、その世界のシノギで食べていけるように育て上げていった。勿論、そのようなアングラな層を問題視する声も決して少なくは無い。しかし、

「それでも、そこを安住の地と選んだ者達を、どうして批判など出来る?。もし、批判が是であるというのなら、そのような世界にいってしまう人間を作り出さないために、批判者たちは一体どんなことをやってきたんだ?。」

と、尋は考えていた。そして、これからは、そのようなオーソドックスな道にでは無く、虚ろなままに日々を過ごし損ねる層がどんどんと生産されてしまう。そうなった場合、彼らに然るべき生き様を提示するのは、一体何なんだろうと、尋は憂慮していた。

 部屋に戻ると、尋は冷蔵庫から食事の用意を取り出し、レンジで温めながらPC画面で動画を見ていた。

「この教育制度改革について、みなさんの意見をお聞きしたい。」

とある討論番組の抜粋だった。司会者が義務教育の段階的廃止をテーマに取り上げ、有識者に順に問うていった。在り来たりの話しか出来ないパネラーはどんどん割愛されていった。そして、

「資本主義を根底に置くならば、当然の帰結ですね。」

そう、若いパネラーが述べると、司会者は興味を抱いたように、

「それはつまり、どういうことですか?。」

と、更なる説明を求めた。尋は温まったピラフを食べながら、PCのボリュームを上げた。

「制度改正前も今も、社会を比較的高い次元で担う割合は、概ね20パーセントほどというのは知られています。それ以外の層は、特に新たなプロダクツを産まなくても、消費という形で経済を回すのに貢献しています。その意味においては、必要な要素ではありますが、ただそれだけです。」

尋はピラフを書き込みながら、彼の話に聞き入った。そして、

「蟻と同じ・・かあ。」

と呟きながら、ペットボトルのジュースを飲んだ。生物畑出身の尋は、その辺りの理論については、比較的詳しかった。社会性のある昆虫、蟻や蜂などは、一つの巨大な巣を形成する際、生まれた時から役割が決定付けられている。巣の中で働く者、外敵から巣を守る者、そして、ひたすら産卵して子孫を増やす者。その全てが雌で形成されているが、時折、牡が生まれて、何十ペアが他所の地へと飛んでいき、新たな巣を形成して、社会を作り上げる。しかし、そんな風に働いているのは、実は全体の二割だというのだ。


「では、その二割を生み出すために必要な教育だけを施せばいいということですか?。」

司会者は鋭く切り込んだ。

「端的にいうと、そうです。ただ・・、」

と若いパネラーがいいかけたところで、

「そんなの横暴です。」

と、別の女性パネラーが感情むき出して反論を始めた。通常のディベートのルールなら、発言者がいい終えてから次の発言をするところを、司会者は演出も兼ねて、敢えてその女性に喋らせた。

「教育とは、みんなにとって平等に行われるべきものです。だからこその戦後改革であって、現場の先生方が今なお努力されてるんです。」

その声に賛同するかのように、黙って頷く中年のパネラーも複数いた。しかし、若いパネラーは、彼女が一頻り話し終えると、

「これなんですよ。教育の残念な一例は。」

と、冷笑しながら淡々と述べた。

「それはつまり?。」

司会者は敢えて掘り下げるべく、若いパネラーに真意の説明を再度求めた。

「私の話は、現在の状況を比率で述べたものであり、精査されたデータです。そして、その割合というのが常に存在するということは、教育の成果である二割に及ばない、つまりは今の話を論理的に理解すら出来ない割合が八割存在するということです。現実論と努力目標論を混同してしまうような。」

それを聞いて、女性パネラーは激高して、

「それはワタシに対する人格攻撃ですか?。」

と目を吊り上げた。しかし、若いパネラーは、

「ワタシはアナタが如何なる人格化は存じ上げないし、そんなことを此処で述べる必要性もありません。ただ、現時点で、アナタがこの話に対して全く理解をしていないのは、画面を通じて視聴者に証明された、ただそれだけです。」

そう述べると、自身の満足度に対しても、また、番組の視聴者を獲得することに対しても、これ以上この女性と議論することの不毛さを表情に表し、同世代の別のパネラーに、よりデータに即した話題を振った。司会者はもう少しこのバトルを続けさせたかったようだったが、若いパネラーのシャットアウト振りが余りのものだったので、結局は若者にイニシアチブを取らせるより他無いと思ったようだった。

「エグいなあ・・。」

ピラフを食べ終えた尋は、別に女性パネラーに感情移入していた訳では無かったが、彼女のこれまでの行いが、たかだかこの数分の間に、全てが否定されているかの様に映った。そして、

「これが、二割の現実でもあるんだよなあ・・。」

と、とある生徒の顔を浮かべながら、残りのジュースを飲み干した。その後も、尋はその動画を見るとは無しに見ていたが、彼女が発言する姿はほとんど見られなかった。若い世代が古い世代を如何に追い落としていくかのイベントにすらなっているようだった。司会者も、番組のバランス上、拮抗した議論を演出しようとしていたが、先の若者が手練れの論客であったがために、何をいっても全て論破される風であった。そんな中、

「ところで、アナタはこの件に関しては、どうお考えですか?。」

と、比較的年配の男性パネリストに、司会者は意見を求めた。この男性は、番組中、腕組みをしながら、殆ど言葉を発すること無く議論を見守っていた。しかし、組まれた腕をテーブルの上に置くと、

「ワタシは、戦時下において生き残る術しか見つめてこなかった者ですから、制度や抽象的な概念とかは解りません。ただ・・、」

そういいながら眼光鋭く目を見開くと、

「過ぎたるは及ばざるがごとしで、逸脱した優秀さは、死期を早めます。それが、どの戦場においても変わらぬ真理でした。」

そういって、再び腕組みをしながら目を閉じた。司会者は、その男性が見て来た光景、知り得た事実をもう少し引き出したかったのか、

「つまり、彼らのような若者が出現しつつ持て囃されるのは、この国が平和であることの裏返しだと?。」

そういって、男性に再度発言を求めた。男性は目を閉じて腕組みをしたまま、

「人が人を殺し合わない。結構なことじゃ無いですか。」

その一言で、スタジオの空気は凍りついた。いくら若造が理屈を述べ立てたところで、お前の運命など、どうにでもなるといわんばかりの、圧倒的な迫力がその男性の背後から、薄明るい炎のようなものとなって立ちこめているようにさえ見えた。

「じゃあ、この国にいる限り、ボクは安全ってことですね。」

若者は少し臆しながらも、負け惜しみのようにいい放った。すると、

「その限り・・が、早まったようですがね。」

と、男性は身動きせずに答えた。そのとき尋は、この男性パネラーの名前を検索しながら、素性を調べ始めていた。

「軍事アナリスト。元傭兵。戦歴は・・、」

その経歴を見れば見るほど、何故彼がこの番組に呼ばれたのかという違和感と同時に、得もいえない興味を尋は覚えた。


 翌日、尋は書店に向かい、例の男性パネラーの著書を探しにいった。ネット通販で購入してもよかったが、近所の本屋には置いて無さそうな本だったので、足を伸ばして繁華街にある大きな本屋に向かった。地下鉄を乗り継ぎ、駅を下りると賑やかな表通りを避けて、比較的近道な裏通りを通った。

「やっぱり・・かあ。」

暫く通ってなかったその道は、午前中だというのに中学生らしき集団が幾つかたむろしていた。学校へいく必要性が失われると、斯くも休息に荒むものかと、尋はあらためて思った。と、突然、

「やんのか!、こらあ!。」

と、声を荒げて揉め出す中学生の姿があった。互いにたむろする集団は七、八人ずつはいた。仲裁に入るには、例え相手が中学生であっても、若干危険な感じがしたが、尋は徐に彼らに近付いていって、少し様子を窺った。すると、

「何見てんだよ!、オッサン!。」

一人の少年がこちらに突っかかってきた。尋は小さく両手を挙げながら、

「いや、何かあったら止めてあげようかと・・。はは。」

と、苦笑いしながら答えたが、

「うるせえ。こっち来い!。」

と、少年は尋の右腕に掴みかかった。尋は一瞬躊躇ったが、捕まれた右腕をぐるんと回して相手の手を解くと、今度は少年の左脇の下に自身の右手を入れると、片腕で相手の体を持ち上げた。

「痛ててて!。」

「そういうことは、相手見てしような。」

そう諭していると、彼の声を聞きつけた仲間が集まってきた。

「おいおい、どうした?。」

さっきまで揉めていた両陣営が、みんな尋の所に集まってきた。尋は持ち上げていた少年の腕を放した。

「てめー!、何してくれてんだよ!。」

駆けつけてきた少年の一人が尋に凄んだ。

「あ、仲良くなったんなら、良かった良かった。じゃあ、ボクはこれで。」

と、引き攣った笑顔でその場を立ち去ろうとしたが、

「ふざけんな!、こらあ!。」

と、たちまち囲まれてしまった。子供相手にこれ以上揉めるのも何だしと、尋が困っていると、

「カチャッ。」

と、金属音のような音が響いた。一人の少年が何やら光る物を取り出したらしかった。

「いけないんだ。」

そういうと、尋は壁を背にしながら、その少年の側に正面を向けた。流石にその少年のやり過ぎを止めようとする仲間もいたが、彼は少しハイになっているようだった。そして、

「死ねやっ!。」

そういうと、刃先を向けて少年が突っ込んで来た。すると、尋は左に半歩ずれて体をかわすと、

「ドコッ!。」

と、少年の右顎辺りに足刀をぶち込んだ。

「うっ。」

と唸りながら、少年は光る物を落として、前のめりに倒れた。そして、彼の口元から流れ出た血が地面に広がった。と、そのとき、

「こらっ!。お前達、何をしている!。」

と、通りの向こうから制服姿の警官が駆けてきた。少年達は呆然として立っていたが、

「早くっ!。この子を連れて逃げろ!。」

と、尋は仲間達にそういった。ハッとした少年達は倒れている仲間を両肩に担ぐと、三々五々に散っていった。

「オレもこうしちゃ・・。」

と、尋も警官と反対側の通路に向かって走ると、角をサッと曲がって上着を脱いだ。そして、別の路地に入って行方を眩ました。

「ふーっ、参ったなあ・・。葉っぱまで出回ってるのかあ。」

そういいながら、尋は裏通りを歩きつつ、さっきのことを思い出していた。教育の低下と治安の悪化が、まるで強い相関係数を持っているかのような瞬間を、尋は目の当たりにした。そうこうしてるうちに、尋は書店に着いた。

「さて、例の軍事アナリストのコーナーは・・と。」

人気の討論番組に出るだけのことはあって、彼の書籍に関する特設コーナーがあった。幾つかある著書の中から、尋は最新刊を手に取って読んでみた。

「どんなに瓦礫の山になった廃墟であっても、そこに人が集い、暮らす限りは、子をもうけ、居着こうとする。そして、憎しみの連鎖に身を委ねて戦い続ける者、そのような連鎖に終止符を打つべく、学びの機会を求める者に別れる。」

前書きの部分の一説を読んで、尋は本を閉じた。そして、そのままレジに持っていき、その本を購入した。ブックカバーも何も付けて貰わず、尋は帰りの電車の中で、ひたすらその本を読んだ。無我夢中で読んだ。

「この人、ただの兵隊じゃ無いな・・。」

経歴や渡り歩いた戦場の部分を見た限りでは、彼は上級士官とか、そういう人物では無さそうだった。寧ろ、最前線で命のやり取りをしているような雰囲気だった。しかし、殺伐とした内容では無く、彼の目は常に戦渦に巻き込まれた一般市民を捉えていた。そして、ことあるごとに、何か援助の方法を、あるいは、奮戦が去った地域で、如何なる復興が可能かについて述べられていた。そうやって築き上げた安住の地も、いずれは脆く崩れ去る。それでも彼は、またそのような暮らしを立て直すべく、その地で奮闘していた。


 自身がただ単に学んだことを伝えてるだけでは、机上の空論ではないか。尋は常々そう考えていたが、今手にしている本の著者は違う。自分が見たことも無いような過酷な状況下で、教育の必要性を述べている。尋は夕べ見た討論番組で語る他のパネラーには目もくれなかったが、唯一、彼の言葉だけが直接突き刺さった。そして、実際の文章では、狂気と混沌が支配するであろう戦場を、淡々かつ理路整然と分析し、今、何をどう行うべきかを述べている。

「彼の目にした惨状と、落ち着き払ったこの論理は、一体何だ?。」

尋はますます、この本の著者に対して興味を深めた。

「あれ?、何だ、これ?。」

尋は、レジを済ませた際に、店員が何か小さなパンフレットのようなものを手渡したのを思い出した。それが本の一番後ろに挟まっていた。

「サイン会のお知らせ?。」

見ると、それはこの本の著者がサイン会を行うお知らせであった。尋は思わず二度見した。

「え、何々?、場所は、この近くだな。え?、しかも、今日?。」

尋は驚いた。今自身がいる場所から、そう遠く無いところに、この本の著者がいるらしかった。尋は慌てて電車を降り、その場所に向かった。

「此処か。」

そこはとあるホテルのロビーだった。その一角に、ちょっとした人だかりが出来ていて、その前方で著者が折りたたみ机に積まれた書籍を置きながら、列を成してやって来る人達にサインをしていた。やはり人気討論番組に呼ばれるだけあって、認知度はかなり高いようだった。

「有り難う御座います。」

著書を持って訪れる人達は、にこやかに著者と握手を交わしていた。中には一緒の所を撮影する人もあった。著者の男性は迷彩服のシャツに白い上着を着ながら、静かに笑いつつレンズの方を向いていた。しかし、

「やはり、眼光は鋭いなあ・・。」

尋は、彼の目つき、雰囲気、身のこなしのどれ一つをとってみても、隙の無いことに気がついた。人の流れは暫く続いたが、尋は別に彼のサインが欲しい訳では無かった。そして、サインが一段落すると、司会者が彼にマイクを向けつつ、幾つかの質問に答えてもらっていた。やがて、イベントが終了近くになると、

「では、この辺で、サイン会は終了したいと思います。」

司会者がそういうと、会場に拍手が起こり、著者は一例すると、脇へ退場していった。尋はこのときとばかりに、一番前の方へ歩んでいって、

「すみません。ボク、尋といいます。昨日の討論会を拝見しまして、すぐに本を買いに走りました。」

と、緊張しつつも、少し興奮気味に著者に語りかけた。

「あ、そうでしたか。それはどうも。で、サインですか?。」

「いえ、サインでは無く、出来たら直接お話を伺いたいなと思いまして。急に、どうもすみません。」

尋は自分でも、昨日から今に至るまでのことが勇み足的であるとの自覚はあった。ましてや、先ほどのちょっとした騒動が、彼の行動に拍車をかけていることも、何となく感じてはいた。恐らくは忙しい方なので、断られるかと思いきや、

「解りました。午後の飛行機までには、まだ時間がありますから、よければその辺でお茶でも飲みながら。」

彼は快諾してくれた。そして、一緒に来たスタッフや出版関係の人に二言三言伝えると、

「さ、いきましょう。」

と、尋と一緒に近くの喫茶店まで歩き出した。そして、ホテルの横の路地を通ると、小さな喫茶店に入った。

「ホテルのティールームは高いですからね。」

といいながら、にこやかにいった。先ほどとは打って変わって、尋の目の前にいる男性は、柔和で感じのいい、ごく普通の人だった。

「急なことなのに、本当にすみません。」

「いえ。実は、よくあることなので。で、今は何を?。」

「はい。塾で講師をしてます。」

「あー、なるほど。」

そこへ、ウエイターが注文を聞きに来た。

「ホット。ブラックで。」

「ボクは紅茶を。」

注文を伝えると、彼は再び話し始めた。

「そうですか。教育産業や学校関係者の方からは、正直、お話は多いです。昨日の討論会も、そういう主旨ってことで呼ばれました。でも・・、」

そういいかけたとき、

「あの、アナタは職業軍人というか、そういうのが主体な方かなと、最初はそう思いました。でも、著書を読ませてもらって、凄く教育の復興というか、教育そのものに関して造形が深いなと感じまして。」

尋の圧に、彼は苦笑いしながら、

「造詣だなんて、そんな・・。確かに、依頼があれば飛んでいって前線で戦うのがボクの仕事です。でも、常に戦うなんて、ましては二十四時間、気を張ってるなんて無理な話です。なので、戦闘が止めば、大抵はそこで暮らす人達と一緒に、何かを直したり、そういう風にして過ごしていますね。」

「やはり、教育が始めから無い環境だからこそ、戦闘が起き易いんですかね?。あるいは、どんなに荒廃したような環境でも、そこに人が居たら、教育って求められるものなんですかね?。」

尋は時間の無い彼を思って、兎に角、思いの程を伝えたい気持ちに溢れていた。


 彼は口元を押さえると、少し考えて、

「うーん、僕は歴史には詳しくは無いですが、文明の発祥と教育は同義だったのかなとは思いますね。ただし、みんなにとってという、公教育の概念は、かなり後になってからなのかな。過酷な状況にあればあるほど、誰しもそこから脱したいと願う。そのときに、力や祈りだけではどうしようも無い現実というのもある。そのことを知ると、人は現実を変えるために必要な術を学ぼうとします。その瞬間が、一番需要が高いのかな。教育の。」

彼の言葉は、目から鱗であった。

「じゃあ、この国も、そのような過酷な環境、例えば平和が乱れるような状況にならないと、真の教育に対する需要は生まれないってことですかね?。」

尋は論を急いだ。すると、

「いや、この国も、十分に教育の需要はあると思います。現に、高度に教育を施されて、水準も決して低くは無い。しかし、ただそれだけのような気がします。」

彼の言葉に、端的にたずねた。

「つまり、高さの問題では無いと?。」

「そうですね。高みを望む、この国の若者って、一体、その先に何を見据えているのかなとは、思いますね。お恥ずかしい話ですが、ボクもかつては、そういう感慨を持ってました。それなりに学んだつもりはあったんですが、そのことを活かせる何かが、自分には全く足りていないんじゃないかって。」

「それで戦場に?。」

「いえ。それは直接は関係無かったですね。最初は。単なる義憤というか、僕の親族も、こういう仕事をしている者が多かったので。その辺りは、自然に感化されてたのかも知れませんね。つまり、大きな動機があった訳では無いんです。たまたまです。そして、実際の戦場には、兵士以外の人々が、とりわけ、子供達が多く残されて蔑ろにされているのに気付きました。だから、教育の方に目がいったのは、後付けかな。そこで、休戦時に、子供達に何気に勉強を教えてたら、反響が凄かったんです。」

「その状況が、この国とは全く違っていたと?。」

「ええ。本当に、教育に飢(かつ)えていますからね。あちらの子供達は。だから、ちょっとしたことでも、学ぶと途端に目を輝かせる。ボクはバイト程度に、こちらでも勉強を教えてた時期もありましたが、全然違いますね。食いつきが。」

その言葉を聞いて、尋は手が震えた。すると、

「尋さん。恐らくアナタも、御同様の経験はしておられるんじゃ無いかな。そして、飢える状況こそが、真の教育の目覚めの契機になるって風に考えておらえるのでは?。」

彼はまるで、尋の心の奥底を完璧にいい当てたかのように述べた。

「え?、どうしてそれが?。」

尋は、図星過ぎて、逆に彼にたずねた。

「はは。そういう方が多いからです。過酷な状況を生み出すことが、教育の進化を再発見する近道というか、そのようなお考えの方が。でも・・、」

そういうと、彼の表情が一瞬にして無になった。

「それは地獄です・・。」

尋は一瞬、大変申し訳ないという感慨を強く抱いた。彼にそのような記憶を呼び覚まさせてしまうとは。

「すいません。」

「いえ。いいんです。それがボクの仕事ですから。アナタは、そこまで過酷な状況では無く、恐らく、現行の制度が教育の荒廃を助長する、そのように感じておられるんでは無いですかね?。」

「・・はい。」

「戦場には、敵味方があります。憎悪の念と、憎しみの連鎖。これが地獄を継続させる機動力です。しかし、これから訪れるであろう、この国の荒廃には、敵がいません。いや、見えないといった方がいいのかな。いずれにしても、具体的に憎しみに駆られる対象が無い。その点は大きく違う。となると、これは戦争とは質を異にする状況です。」

尋は彼の分析と推察が、一語一句、貴重なものとして耳から脳に染み込んできた。しかし、同時に、単に受け身になって彼の言葉を待つだけでは失礼と思い、自ら考える所を発した。

「敵では無いものとは一体何かを考えると、別に構造的な対立軸が無いのに、荒れた若者達は、苛立ちのようなものを一様に抱えてますね。」

「そう。その通り。戦場でも苛立ちを募らせる者はいます。しかし、それは死に直結する。冷静さを欠くからです。この国では、平和という同じ状況下にあっても、苛立たない者と、そうで無い者に別れる。そういう層の違いを作り出してしまうところが、一つの問題点というか、原因なのかも知れませんね。」

そのとき、尋に一つの感覚が生まれた。

「実感。これですかね?。生きているという実感。」

「うん・・。」

彼は先ほどの無とは異なる、別の複雑な表情を見せた。そして、

「それは・・、あるのかも知れません。正直、ボクも認めたくは無いんですが、同僚に、戦場は違えど、何度も出くわすことがあるんですが、どんなに酷く怪我をしても、その彼は再び、戦場に舞い戻ってくる。幸い、ボクはそのような負傷を負ったことことが無いんですが、もしそうなったら、ボクは恐怖心から、その場には近付かないだろうとは感じてます。しかし、彼はそうじゃ無い。では、一体、何故と思ったんですが・・、」

彼の言葉に、尋は固唾を飲んだ。


「死と生が隣合わせにあるということは、それ自体、極度の緊張状態です。恐らく、アドレナリンは最大に出ているのでしょう。そして、身に迫る危険が去ったとしても、そのときの経験と記憶は脳に刻まれる。最も恐怖と感じたはずなのに、そこには生も両立している。こんな状況は無い方がいいはずなのに、それほどの強い刺激じゃ無いと、もはや生を実感出来なくなっているのかも知れない。これも申し上げ難いんですが、普通は、そうなるよりも随分手前で、精神がやられます。そして、長期的な療養を強いられる。でも、その方がまだマシかもしれません。それで何とか社会に戻れる人もいますが・・。」

「では、先ほどの傷を負った人達は?。」

尋がそう尋ねると、彼は暗い表情になって、小さく首を横に振った。

「次の戦場には、もういませんでした。薬物だそうです。」

彼の沈む様子を見て、

「辛いお話を思い出させて、どうもすみません。」

と、尋は詫びた。

「いえ。大丈夫です。そういう仕事ですから。」

彼は毅然とはしていた。しかし、あまり表情は晴れてなかった。尋は話を元に戻そうとした。

「あの、さっきの話なんですが、この国の子供達が苛立ちを募らせるのは、日々の生活、特に学校での実感が持てていないってことなんですかね?。」

「ええ。それはあると思います。荒廃した国土から学校を再建するのは、容易なことではありません。そして、日々の生活、仕事以前の食糧と飲み水の確保で大半の時間は費やされますが、それでも親たちは、子供に教育を受けさせることを望みます。そのような所では、子供も労働力として見られてますが、少しでも時間があれば読み書きをさせようという動きはあります。そして何より、子供達自身がそれを望んでいます。」

尋は前のめりになりながら、彼の話を聞いた。

「その部分の差が、一番大きいってことですかね?。努力の末に学べるかどうかのギリギリの環境が、必然的に学習意欲を高めさせるというか。」

「そうかも知れませんね。生きることと食べ物や飲み水を確保すること、そして学ぶことが並立しているからこそ、一日の限られた時間の中で、必要な優先順位が自然と出来ているのでしょう。ボクはそう思います。そして、」

尋はあまり彼を足止めするのも申し訳無いという気持ちと、自身にとって必要なことは十分に聞くことが出来たと思っていたが、彼は最後につけ足そうとした。

「あれだけ過酷な状況にありながら、人々や子供達の目から希望の光が消えることはありません。だからボクもこうして、何度も現地に通っているのだと思います。」

その言葉は、尋の頭上に、何か明るいものとなって降り注ぐ動機となった。しかし、

「なるほど。でも、逆をいえば、この国では希望の光が見えなくなってしまっている、そういうことでもあると。」

そう結論づけようとしたとき、

「いえ、如何なる状況下でも、希望は常に霞みやすく、消え入りやすい。だから、藻掻くしか無いんじゃないでしょうか。そして、そういうのがシンプルであるほど、分かり易い、そういうことなのかな・・と。」

彼は今、自身が直面している、最も率直な感慨を述べた。

「はい。すいません。どうも有り難う御座いました。」

尋は少なからず感動していた。最後の言葉を聞けなかったら、恐らくは暗澹たる思いのまま、此処を後にしていたかも知れない。しかし、自身と同じ、教育に携わる者でありながら、彼は実践者であり、求道者として、自身よりも先を、険しい道を歩んでいる。そう思えたからだった。

「あの、また現地に?。」

「はい。数日はこちらで過ごしますが、また戻ります。」

「どうか、お気を付けて。」

「有り難う御座います。ボクも久しぶりに、真っ正面な意見を聞かせてもらって、自身を見つめ直す、いい機会になりました。お互い、場所は違いますが、やれることからやっていきましょう。」

そういうと、彼は尋に握手を求めた。その手触りで、彼が如何に日頃から力の籠もった作業を必要とする環境にいるのかが窺えた。厚い皮、そして、握力と熱量。こういう人が、命の最前線で日々、何かを創り出しているのだろうと、尋は理屈抜きで感じた。そして、彼はテーブルの上にある紙をサッと取った。

「あの、ボクがお誘いしたんだから、ボクが払います。」

尋がそういうと、彼はニコッと笑って、

「いえ、ここはボクに払わせて下さい。楽しい機会を頂いたのは、ボクの方だから。」

そういうと、彼は足早にレジへ向かった。尋は決して討論会の続きを、議論の白黒を付けるつもりで来た訳では無かったが、彼の魅力の何たるかを目の当たりにした。得もいえぬ、心地良い敗北感がそこにはあった。


 電車に揺られながら、尋は買った本を読みながら職場の教室に向かった。イメージ先行で、姿と言動に触発されて買った本だったが、幸いにも著者本人に会う機会を得て、これまでの活字とは異なり、読む言葉一つ一つに彼の息吹のようなものを感じた。

「でも、戦場の悲惨さを目の当たりにしているんだよなあ。」

喫茶店で話した際の彼は、総じて穏やかで物腰の柔らかい、気さくなキャラであったが、時折見せる無の表情が、彼の見て来たものの何たるかを物語っているようにも見えた。

「さて、ボクにはボクの戦場・・ならぬ、仕事が、かあ。」

そうこうしているうちに、尋を乗せた電車は駅に着いた。改札を抜けて教室に向かっていると、

「あれ?、昇先生?。」

尋は偶然にも、彼と同じ電車に乗っていたらしかった。すると、

「あ、こんにちは。」

といいながら、前髪をかき分けながら、静かに会釈をした。

「お体の具合、もう大丈夫なんですか?。」

尋は心配そうにたずねた。

「ええ。すいません。」

「昨日、教室長に頼まれて、ボクが代講をしました。」

「そうでしたか。それはどうも有り難う御座います。」

そう語ったっきり、二人は無言のまま教室まで向かった。普段から取りたてて会話の無い二人が、今日のように偶然であったとしても、そのようになるのはごく自然であった。しかし、尋には昨日の生徒達の様子が頭を過っていた。彼の留守に期せずして聞いた、生徒からの評判。そのことを、彼に伝えるべきかどうか。アルバイトの学生が下手な授業をしてクレームを受けたのとは訳が違う。スキルの至らない部分を訂正させるような、そういう次元の問題では無かった。

「あの・・、」

「?。」

尋は敢えてたずねてみた。

「昇先生は、生徒とは普段は話とかは、なさらないんですか?。」

何気ない感じで聞いたつもりだったが、それが彼には殊の外、驚きのようだった。

「・・・話、ですか?。ええ。」

確かに、授業以外で彼が積極的に生徒達とコミュニケーションを取っている姿を、尋も見たことが無かった。会話を続ける糸口が全く掴めなかった。しかし、

「二学期以降の、義務教育の段階的廃止って、どうなっていくんですかね?。」

今、一番この業界でホットと思われる話題を、尋は振ってみた。

「ま、大臣が決めたことですからね。」

やはり、それ以上の言葉は返ってこなかった。尋は、自身が嫌われているのかと、疑いさえした。しかし、普段からそのようなスタンスなのが、昇先生であった。

「何か、余計なお喋りしましたね。どうもすみません。」

尋には別に非は無かったが、無駄口を詫びた。すると、

「いえ、そんな。人と話すのが苦手なんです。だから、話してもらえて、嬉しかったです。」

彼から意外な言葉が返ってきた。彼から何となく壁を作っていたと思い込んでいた尋にとって、その言葉は少なからず驚きであった。教室までには、まだ少し距離があった。尋は彼を飲みの席に誘ったとしても、恐らくは断られるであろうと思い、今のうちに色々と聞いてみようと考えた。

「特進の生徒達、ピリッとしていて、凄くよく出来ますね。」

「はい。近隣の中学から、優秀な子が集まってますからね。」

「勿論、それもありますが、先生の指導で、凄く磨きがかかってるというか、切れ味がよくなっている感じが・・、」

そういいかけたとき、昇先生は立ち止まった。

「お世辞はよして下さい。」

一瞬、空気が凍りついた。やはり、彼とは距離を置いて、無駄話は排除すべきだったと尋は思った。

「ボクが教えて、子供達が出来るようになる、そういう側面はある。でも、それだけです。」

尋はお茶を濁すことも出来ただろうが、そうはしなかった。

「あの、ボクはお世辞はいえません。先生が見ている子供達がさらに引き締まった感じになっている。それ以前の彼らを見ていて、あなたのクラスに送り出したからこそ、それが解るんです。」

尋は蝋梅しかけていた彼に、真摯に答えた。

「それに、これは正直、伝えようか迷ったんですが、先生の指導というか、お話が厳しくて精神的に少し怖いっていう生徒がいました。でも、そこまでの言葉って、相手を思う気持ちが無ければ、普通はいえないと思うんです。だから、そのように生徒にはフォローはしました。もし、余計なことと思われたんなら、すみません。」

尋は頭を下げた。昇先生は、暫し黙ったままだった。そして、

「すいませんでした。何か感情的になって。」

昇先生は静かに詫びた。

「いえ、そんな。」

それ以上は話をしない方が、今日の所はいいかなと尋は思った。しかし、

「僕の人生は、恐怖に縛られることの連続でした・・。」

昇先生は語り始めた。

「小さい頃から、母は執拗にボクに勉強をさせようとしました。幸い、勉強が嫌いでは無かったので、母の期待に応えることは難しいことでは無かった。そして、そうやって学びの成果を称賛されることが、ボクと母の生き甲斐になっていた。あるときまでは・・。」

そこまでの話を聞いて、尋は予想通りな展開だと感じた。


「そのときの父は、本当の父ではありませんでした。ワタシが幼少の頃から素っ気ないのを感じていたので、後にそう聞かされても、特に驚きませんでした。しかし、ワタシが受験を終えた頃、母は亡くなりました。病死でした。勿論、悲しいということは頭の中では解っていましたが、それをどう表現していいのか、全く感覚が持てませんでした。他に相談する相手も無く、血の繋がった家族は、既に存在しない。祖父母の存在も知らずに育ちましたから。戸籍上の父は、ワタシの面倒を見るといってくれましたが、ワタシは断りました。学力のお陰で、様々な資金を得ることが出来、自立が可能だったからです。これでワタシは自由になれる。そう思い、誰からも煩わされること無く、一人で暮らしました。」

尋は彼の話とも、告白ともつかない語りを、黙って聞いた。

「しかし、ワタシには自由が一体何なのか、全く解りませんでした。誰からも、何の束縛も無い。それが自由だと思い込んでいました。しかし、現実は違った。幼少の頃に形成され、培われた人格や価値観は、その後もワタシ自身の中心構造として、面々と受け継がれていく、そして、それは決して消えることの無いものだと、後々になって気付きました。ワタシは、どんなに開けた視界の元に立たされたとしても、これまで歩んできた狭い木の橋の上を、相変わらず歩んでいくしかないんだと。それはある意味、絶望にも似ていました。でも、不思議なことに、そんなワタシを、社会は必要としてくれました。修めた学問が、卒業した学籍が、ワタシを自然とそのような方向に導いてくれました。そういう選択に、ワタシは一切苦労はしませんでした。しかし、ただ、それだけでした。」

学歴社会の申し子。尋はそんな言葉が頭を過った。彼だけでは無い。仕事柄、そのような人間を、尋は何人も見て来た。自身が学生だった頃、同様に学力で優遇された連中が、後に、必ずしも順風満帆な人生を送れなかった姿も、幾度となく見て来た。幸か不幸か、尋は、そのような立場にスムースに辿りつけるような人間では無かった。

「でも、それが、凄いことだったんだと思います。多くが望んで努力しても、なかなか達成出来ないような、そんな地平に、先生は立った。勿論、自身の努力があったからこそ。そして、それが後進の育成にとって、大いに役立っている。やっぱり、凄いことですよ。」

尋は、本心で、そう語った。

「確かに、自分でもそう思えるほど、相当努力はしたとは思います。しかし、人と気持ちをを交わす術を、話をして打ち解け合う経験を、ボクは全くして来ませんでした。いや、出来なかった。反面、ワタシの肩書きは、例えワタシが黙っていても、ワタシの居場所を勝手に作っていってくれます。そういうのが、煩わしさを排除し、同時に快適な居場所を自動的に作ってくれるものになってしまって、ボクはそれに甘えてしまってたんだと思います。でも、今さら、どうすることも出来ない。どうすることも・・・。」

そういうと、昇先生は酷く落ち込んだ。

「あの、変ないい方ですけど、それでいいんじゃないですかね?。人と関わり合うことなんて、上手くいかないのが普通というか、そうやって悩むのが、寧ろ自然かなと、ボクは思います。アナタのように、生徒に勉強や受験の厳しい現実を見せつけて、敷居は決して低くないと思わせる。でも、だからこそ、どうやって強い気持ちで突き進むべきか、そういう姿勢を示す人も、絶対に必要です。我々は、そういうことの担い手だと思うんです。」

尋の言葉に、昇先生はふと尋を見上げた。

「アナタは厳しい壁として、生徒の前に立ちはだかるべきなのかな・・って。何か、悪役みたいに仕立てて申し訳無いけど、でも、それが質を保たせるために最も大切なことの一つだと、ボクは思います。ボクにはアナタほどのシビアな指導は出来ない。ボクには、それだけの能力が無いからです。だから、ボクにはボクが出来る仕事や役割でやていく。それぞれが必要とされる形で。で、何となく協力しながら。ね。」

そういうと、尋は特に笑うでも無く、普段通りの、しかし、幾分、柔和な顔で彼を見た。

「何だろう・・。こんな風に、面と向かって人と話して、自分の気持ちというか、心の中を語った記憶って、ボクにはありません。恐らく、怖かったんだろうと・・。でも、お話出来て、本当に良かったような、そんな気がします。すいません。お時間を取らせてしまって。」

そういって、詫びようとする昇先生に対して、

「いえいえ。あの、ボクたち、仲間ですから。」

そういいながら、尋は彼の方をポンと叩いた。

「さて、今日も仕事にいきましょうか。」

「ええ。」

彼がどのように受け止めたのかは解らないが、尋には、昇先生はこれまで通り、いつもの昇先生でいてもらうのが、彼にとっても、教室にとっても自然なことだろうと考えた。生徒にとっては、若干違和感を覚えるであろうし、若い同僚にとっては、厳しい手本になるであろうと思いながら。


 珍しく、尋と昇先生の二人が同時に出勤したのを見て、教室長は少なからず驚いた。

「あ!。こんにちは・・。」

二人も同じく挨拶をした。すると、

「尋先生、ちょっとお話が。」

そういって、教室長が彼だけを別の所へ連れていこうとしたので、ひょっとして昇先生についての話かと勘ぐり、

「あの、どういったお話ですか?。」

と、その場にいるみんなに聞こえるように、敢えて尋ねた。

「うん。今後のターゲットに関する話というのが出てね。」

教室長は雇われの身だった。オーナーや、彼が属する協会内で、今後に関する市場調査的な話が話題に上ったとのことだった。その調査の進め方に関する方針を、教室長は比較的話しやすい尋としたいようだった。

「だったら、学力の層別というのが、これからも注視されると思いますので、昇先生も交えてお話した方が・・。」

尋は先ほどの昇先生との腹を割った話の記憶が、まだ新しかった。それだけに、このような機会を通じて、彼も交えた話を行った方がよいと考えた。

「うん、それもそうだな。昇先生、いいですか?。」

「ええ、勿論。」

昇先生は尋が水を向けてくれたことに気付くと、二つ返事で引き受けた。

三人はまだ生徒が来ていない小さな教室に入ると、戸を閉めて小会議を始めた。

「これまでもそうだったんだけど、学力の高い生徒を中心としたコースを設定するのが、他塾でも主流になると、オーナーは踏んでいるようなんだ。」

「はい。それはボクも思います。」

尋は答え、昇先生は静かに頷いた。

「で、もう一つ、省による新たな編成により、従来の義務教育からあぶれた層が、かなりの割合で出て来る。勿論、学校側が何らかの受け皿も用意するだろうけど、逆に、段階的に廃止することも考えられる。その場合、町の教室が、その層を受け入れるのか、つまり、マーケットとして需要があると見るべきか。その辺りに関しては、まだ明確な姿勢を打ち出している所が無いのが現状だ。それについて、意見を聴取する前に、キミたちの考えを聞きたいと思ってね。」

これまでは、全ての子供に公教育を施すのが前提であったため、学校では十分な学力や理解を得られなかった子供達をサポートすべく、需要があった。町に教室が溢れたのも、その背景があったからだ。しかし、客観的に一定の割合のみが学力を備えて、その後の社会をそれなりのポジションで担うというシステムを推す省の考え方では、それ以外の子供達に勉強を施し、学力を備えさせるという価値観そのものが希薄になる。そして何より、そのことを危惧するような反対の声は、予想以上に低いという現実もあった。

「ボクが見るレベルの生徒達は、再編以前も、そして今も需要のある子達です。その保護者も、教育費に糸目を付けないのも事実です。其処だけをターゲットにするのであれば、他の部門は採算上無駄と考えるのであれば、もはや市場価値は無いかと。」

相変わらず、冷酷にも聞こえるほどの、本質を突いた論を、昇先生は表情一つ変えずに答えた。

「なるほど。その方がスリム化も出来て、生き残りに耐え得るかもなあ。尋先生は、どうかな?。」

尋は、蟻の巣の理論を思い出していた。比較的高度な社会を持つ昆虫が、巣の中で役割分担を担っているものの、今ひとつ役割が不明で、然程働きもしないが巣の中に存在している割合が、実は少なくないというものだった。

「確かに、少子化が解消されなければ、教育という産業自体、マーケットは先細りになります。そうなると、究極的には必要な層というか、カテゴリーのみに絞らざるを得ないでしょうね。でも、まだ其処には至ってませんし、それが今後、どのように変化するかも、教育にかかっている部分は大きいかと思います。恐らく、他塾は突然のことに、横並びで様子見状態だと思います。だから、」

其処まで聞いて、教室長は興味津々になっていた。昇先生は相変わらず冷静な様相だったが、首を少しだけ片側に傾けていた。集中している証拠だった。

「もし可能ならば、先手を打って、公教育の場から切り離された層を、積極的に受け入れるというのが、戦略たり得るかな・・と。」

「して、その根拠は?。」

教室長は前のめりでたずねた。

「多様性・・ですね。高いレベルの教育が施されたそうが、全般的に、つまり、広い範囲で活躍しているのかというと、優秀さが故に、逆に限られた場に限定されている可能性が高い。しかし、世の中は、そんな彼らが就けるような職種や業種だけでは無い。そして、そのような様々な職場環境に色んな人材がいるからこそ、総体的に成り立っている。その層は、これまで公教育があったからこそ、そんな風に出来ていたのかも知れない。」

「逆にいうと、そんな教育の施し方だったからこそ、その程度にしか成り立たなかった・・。」

尋がいい終えると同時に、昇先生が指摘した。しかし、尋はそれを批判とは捉えず、

「その通り。つまり、まだ結果は出てないということです。だからこそ、周りが躊躇する中、敢えて姿勢を示す。人は動くものに付き従うものです。」

と、蟻の理論を直接的にはいわずに、思う所を述べた。


 教室長は、二人の意見を聞きつつ、

「なるほどなあ。正直、他所も、そして此処の上の方も、意見は割れてるみたいだ。何せ、前例の無いことだからなあ。」

そういって、中立的な立場であることを伺わせた。

「あの、教室長はどのようにお考えで?。」

尋が何気にたずねた。

「うーん、ボクは雇われの身だから、ま、上の決定に従うのみかな。まあ、でも、正直、義務教育の段階的廃止を打ち出したときに、こんなに反対する声が小さかったのには驚いたなあ。もっと声高に義務教育の継続をといってくれたら、我々もこんな風に悩まなくて済んだんだけどなあ。」

教室長は、何処までも組織というものに従順なんだなと、尋は感じていた。彼が聞きたかったのは、そういう浅い部分では無かった。教育の機会がこのように失われることで、これから先、どのような問題が生じるか、そして、そうならないためには、どのような戦略が必要か。そういう求心力のような声を聞きたかったと、諦め半分で望んでいた。その点、昇先生はやはり的確であった。省の打ち出した策が、如何に現実を見極めた上で実施されたのか、そして、その実施以前と現在に大差が無いのであれば、今回の再編は有効であるというスタンスを明示していた。

 数日後、事態は急展開を迎えた。尋達が勤めている教室の所属を巡って、ちょっとした問題が起きていた。そのことを知らずに尋が出勤すると、

「尋先生、聞きましたか?。」

「ん?、何を?。」

若輩の同僚が早速話を持ち出した。

「不採算の教室は、全て教室長に払い下げで、比較的生徒数の多い教室は、本部が直営するとのことですよ。」

「へー、そうなんだ。」

尋が属するこの教室は、この地域では比較的生徒数が多く、採算性は十分に見込まれていた。

「で、此処は?。」

「それが、まだ結論が出ていないんだそうです。」

「え?、何で?。規模的には、本部が直営するキャパなはずだけど。」

通常、景気がいいときは、会社などの様々な組織は、分割しながら展開するのが一般的である。教育産業も例外では無く、教育熱が高ければ、それが追い風となって教室数は増加する。そして、それぞれのエリアごと、あるいは各教室に経営を委託するなどの形態をとる。逆に、景気が悪ければ、不採算な部門の赤字を食い止めるため、規模を縮小しながら、生命線となる部署だけを温存する。当然、尋の属する教室は、後者の扱いになると予想はされた。

「あの、ボクも詳しくは聞いてないんですが、教室長が上と揉めたとか・・。」

「え?、何、それ?。」

意外だった。極めて中立的で従順だと思っていた教室長のイメージが、此処へ来て一気に謎なキャラへと変わった。すると、

「あ、尋先生、ちょっといいかな?。」

と、奥から教室長が現れると、尋を呼んだ。いわれるがままに、尋は教室長といつもの別室へ向かった。

「あの、何となく聞いてるとは思うんだけど・・、」

尋は敢えて口を挟まなかった。

「現在、傘下の教室は本部から切り離すか、逆に吸収されるかの、どちらかになったんだけど、此処は吸収されて、本部が経営を一本化でって、いってきてね。で、結論からいうと、それを突っぱねて、独立の方向でいこうと考えてる。」

先ほど、同僚からはあらましを聞いてはいたが、教室張本人からその事実を伝えられて、尋は少なからず驚いた。その決定がということよりも、寧ろ、どっち付かず的なキャラの教室長が、何故こうも心変わりをしたのかが、不思議で仕方なかった。尋には経営のことや、契約上の問題などは一切解らなかったが、

「あの、一つ伺ってもいいですか?。」

「うん。何?。」

「何故、そのようにしようと考えられたんですか?。」

最もな質問だった。すると、

「理由はキミだよ。この前のミーティングで、キミがいってくれたことを、そのまま本部の会議でも上げたんだ。勿論、昇先生の意見もね。でも、反応が良くなくてね。というか、明らかに二の足を踏んでたんだ。何かを決定して、どう進むかっていう、決断力がかなり落ちてるなって。ボクは組織に身を寄せながら安定を望むタイプだから、それだけに、不安定な様子を見せられると、どうしても不安になってね。でも、キミたちの意見は、全く迷いが無かった。尋先生も昇先生も、意見は違えど、明確な方向性と、何より、その根拠を述べていた。それほどの力が、今の本部には見られなかった。だから、君たちの意見が反映されるかどうかよりも、屋台骨が揺らぐ不安にばかり右往左往する組織の意見なんか、申し訳無いけど尊重は出来ないなって。ね。」

本来ならば、此処で清々しささへ感じられるような決断だったかも知れない。しかし、尋はそうでは無かった。自身のちょっとした発言が、この教室の今後を決めるかも知れない事態になろうとしている。そのことを、尋は重圧に感じた。


 経営という観点からすれば、今後もこの教室が立ちゆくか否かは、数値を追いながら、堅実な方法で進んでいけば、それなりに生き残ることは出来るのかも知れない。そのことを、教室長が具体性を持って行えれば。しかし、尋は彼の経営能力については、正直、ほぼ知らなかった。本部が決める運営に忠実に乗っかりながら、舵取りとも呼べるかどうか解らない状態を、此処まで維持してきただけにしか見えなかった。それは即ち、彼の能力が未知数であって、評価の仕様が無いということでもあった。

「それで、話し合いは今後スムースには、」

と尋がいいかけたとき、

「まあ、いかないだろうね。既に、独立に際しての条件も突きつけてきたからね。」

教室長は、あっさりと現状を答えた。

「それはどんな?。」

「特進クラスの生徒をよこせって。ま、それがドル箱になるのは昔も今も同じだからね。」

尋自身は、生徒の学力レベルに対する拘りは無かった。どんな生徒が来ようとも、その都度、必要な教務内容を教える。それが講師の務めだという認識があった。しかし、現実には、やはり高いレベルの教育を施すことの出来る教育産業に、注目度と富は集まる。子供の将来を見据えて、保護者達が大枚を叩くのは必然的な現象である。先行投資といっても憚らない状況でもあろう。後に、それなりの職業に就いて高所得を上げれば、それまでに費やした費用は十分に回収出来る。概して、社会の比較的上層を閉める割合においては、そのような価値観に基づいたヒエラルキー的思考は今なお根強い。尋は、その側面についての異論は特に無かった。そのような高いレベルの層が社会の中枢的部分を担うといわれても、それはその通りだとも考えていた。ただ、生物種として人間を捕らえた場合、社会をいう構造を形成しながら進化・発展を遂げることが出来たのは、その優秀さが故だけでは決して無いだろうという考えが、彼の脳裏を支配していた。寧ろ、そのような理論が一つの信念となって、自身の行動を規定する論拠となっていた面も少なくは無かった。

「あの、もし話が拗れて事態が長引けば、双方共に損失は大きいかなと。保護者はお家騒動的なことを嫌います。特に、子供を通わせている環境に、そのような生々しい出来事が起きるのを、決して見せたくは無いと考えるでしょう。そうなってしまうと、他所へ流れる子も少なくは無いかと。」

尋は、かつて他塾でも経験した、経営陣と講師の対立が引き起こす問題を目の当たりにしていたので、そういうことに対しては、ある意味敏感だった。冒険心や革新的なことは二の次で、兎角、子供が属する環境に対しては保守的なものを求めるのが親心であった。

「うん。それはボクもそう思った。だから、その件については、本部の条件を呑もうかとは考えている。ただ、その際・・、」

と教室長がいいかけたとき、

「昇先生・・ですね?。」

と、尋は察して答えた。

「うん。その通り。彼の指導を、本部も高く評価している。彼が本部の側に移れば、特進クラスの生徒達もそれに従って動くだろう。そして、彼自身も、よりレベルの高い子供を指導出来る環境で、自身の能力を発揮出来るだろうね。」

二人は、まだ何らかの決定が成されていない状況ではあったが、先々のことを、特に昇先生の動向という点から議論を進めた。

「ところで、」

教室長が話題を切り替えるのかと思っていたら、

「尋先生、昇先生のことで、何か聞いてることは無いですか?。此処だけの話、クレーム的なことで。」

尋は、やはりといった感慨を持った。遅かれ速かれ、教室長の耳には届くような話題ではあったし、自身は密告をするつもりは無かったが、いつまでも伏せておくのも、問題を先延ばしにするだけかとも考えた。

「ええ。生徒が昇先生の指導というか、雑談の際に零す話題が少し辛辣過ぎて怖いという声はありましたね。」

「やはり・・なあ。実は、以前からもボクの所には同じ意見が届いていたんだよ。親御さん達からね。有能な人手はあるけど、いまいち、社会性には欠けるのかなあ。」

そういうと、教室長は難しい顔をした。もし、独立の話がより具体的になれば、彼の処遇が大きなウエイトを占めるからだった。特進クラスの子供達と一緒に本部に移ってくれれば、ドル箱を手放す代わりに、厄介の種を抱えずに済む。反対に、彼を中心に、新たな特進クラスを作るという選択肢もあるが、辛辣な言葉という問題を再び抱え込むことになる。

「こういうことは、戦略的に考えない方がいいのかと。」

教室長の求心力をまだ十分には信用していない尋は、自身の考えを率直に述べた。

「昇先生がどうされるかは、彼自身の問題です。なので、これ以上は彼を抜きに話しても、あまり意味が無いかと。」

頭を鍛えるのは、策を弄するためでは無い、それが尋の考えであった。

「そうだな。続きは彼が来てからということで。」

そういうと、二人は教室の明かりを消して退室した。


「尋先生、一体、何の話を?。」

若い同僚が、早速たずねてきた。

「うーん、まあ、これからについて・・かな。」

「これから、此処、どうなっちゃうんですかね?。」

彼の厚顔無恥な様子を見た尋は、

「キミはまず、どうしたい?。」

と、端的にたずねた。まさかそのように聞き返されると思っていなかった同僚は、殊の外、驚いた。

「ぼ、ボクですか?。そりゃ、まあ、えーっと・・、」

何も考えず、興味だけをぶつけてくる姿勢に、

「どうなるかじゃ無くて、どうするか。まずそれが在りきじゃないのかな。」

と、尋は釘を刺した。

「で、尋先生は、どうされるんですか?。」

同僚は尋の忠告に、聞く耳を持たなかった。あきれ顔で何をいってやろうかと思っている所へ、

「こんにちわ。」

と、昇先生が出勤して来た。

「あ、こんにちわ。」

尋は挨拶を返しながら、昇先生が現在の職場の状況をどの程度把握しているのかを推測しながら、先ほどの話を自身が切り出そうかと少し悩んだ。

「あの、昇先生。教室長からお話はいってますかね?。」

尋は敢えて聞いてみた。

「ええ。伺ってます。」

流石に彼にも関わることなので、教室長も寝耳に水という訳にはいかなかったのだろう。

「尋先生は、どうなさるおつもりですか?。」

珍しく、昇先生がたずねてきた。この前の話で、打ち解け合った風に捉えていたのかなと、尋は思った。

「ボクは、何も変わりないです。生徒がいれば、授業をする。ただ、それだけです。例え何処であっても。」

「そうですか。」

「昇先生は、本部の方からお話が?。」

「いえ、直接には無いです。数日前、教室長から少し。」

二人が話して、若い同僚がそれを聞いているところへ、

「あ、昇先生、丁度よかった。ちょっとお話、いいですか?。」

と、教室長がやって来て、別室で話をしようとした。すると、

「あの、尋先生も一緒に、いいですか?。」

と、昇先生は尋も同席する同意を教室長に求めた。

「うん、そうだね。じゃあ、尋先生も来てくれる?。」

「はい。」

と、尋は昇先生共々、再び空き教室に入っていった。学童机を囲むように三人が腰掛けると、

「この際だから、此処にいる我々三人は共通認識を持とうと思う。この教室の独立に関しては、それぞれ別個には話はしてあるんだけど、特進クラスを本部にって話は概ね飲むしか無いかなと。で、ボクと尋先生は、此処を引き続きやっていこうかなとは考えてるんだけどね。あ、勿論、尋先生の同意があればだけど。」

そういうと、教室長は尋を見た。

「はい。」

尋は短く返事をして頷いた。

「で、昇先生は、特進クラスを指導し続けているし、本部もキミが特進クラスと共に移るのを歓迎している風ではあるんだけど、その辺りは、どうかな?。率直なところを聞かせて欲しい。」

教室長は、少し前に尋と交わしていた話の続きを、昇先生の返事に求めた。

「はい。レベルの高い子達を指導するのは、やり甲斐がありますし、ボクもその方が慣れています。」

それを聞いて、教室長は尋に目配せをして、やはりなという表情をした。ところが、

「しかし、そういう子達は、例え指導者が誰であっても、ある程度自分で勉強するものです。能力があって、向上心がある者は、概ねそのような行動をします。なので、ほんの僅かの指導で済みます。いい換えれば、その指導はボクで無くてもいい。代わりは他に沢山います。」

教室長は、再び尋に目配せをした。というより、意外な返事に、虚を突かれたといった感じだった。

「なので、このお話は、お断りしようと思ってます。」

「ということは、特進クラスの生徒を本部に、そして、キミは此処に残ると?。」

「ええ。」

教室長は、冷静を装ってはいたが、そのシミュレーションを持ち合わせていなかったことは、ありありと窺えた。尋は、自身の今後やスタンスに特に変わりは無かったので、例え周囲がどうであれ、自分はやるべき事をすればいいとは思っていた。しかし、昇先生の決断に対して、少なからず疑問があった。彼が本部に移った方がいい理由は幾つもある。これまでに築き上げた生徒との信頼関係。そして、彼自身への評価。代わりが他にいるというのも、教務内容の上ではそうかもしれなかったが、やはり人と人との絆は、そう簡単には切れるものでは無い。なのに、何故、残るという判断をしたのか。

「あの、立ち入った話ですいませんが、こちらに残りたいと思った、一番の理由は何だったんですか?。」

尋は核心部分をたずねた。極めてプライベートで失礼な質問かも知れないし、回答を拒まれても当然だと、尋は思った。しかし、以外にも、

「それは、先日、尋先生とお話ししたからです。あの時、ボク自身の問題について、直面することが出来たように感じました。そして、それを克復するためには、これまでとは違う、お座なりでは無い生き方が自分には必要ではないかと、そう思いました。」

と、昇先生は幾分上気した表情で、ハキハキと答えた。


 彼の目は期待で満ちているように見えた。昇先生は明らかに、冒険を求めている。高いレベルの生徒を難易度の高い志望校へ送り込む作業も、確かに冒険ではあった。しかし、昇先生にとっては、そんなのは寧ろ日常茶飯であった。政府が音頭を取って改革を掲げてる今、彼の中にも、状況や自身を変革させる何かが必要であると、常日頃からは感じているようであった。そして、それが先日の尋との会話で、どうやら開花したらしかった。

「そうでしたか。」

尋は、彼の返事をしっかりと聞き届けたように振る舞った。しかし、内心は教室長のときと同様、これは荷が重い状況が増えたという感慨でいっぱいだった。新たな船出というのは、人を興奮させる。そして、それは時として我を忘れさせる危険な状況でもある。脳内ホルモンが分泌されて高揚感を与えると、現実が見えているようで見えなくなってしまう。尋はそのことを経験則で知っていた。

「あの、教室長。では、そのような方向で、本部との話し合いを進めるのは、可能ですか?。」

「ああ。職業選択の自由は保障されてるからね。何より、自分の人生を自分で判断して進んでいくことが、これからの我々に求められることだしね。じゃあ、本部には、その旨、伝えておくよ。」

そういうと、三人は席を立って明かりを落とすと、退室した。二人が先に、そして、尋が一番最後に部屋を出た。心なしか、二人の足取りは幾分軽いように見えた。反面、尋は摺り足のようにしながら、静かに歩いた。教室長は珍しく、昇先生と話し込みながら歩いていた。その様子を尋は後ろで眺めながら、何ともいえない、暗澹たる気持ちになっていた。

「自分の責任で経営の舵取りをしたことの無い教室長と、自身の能力以外の分野に踏み出したことの無い、ハイソな生徒ばかりを見て来た講師。冷や水を浴びせるが如く、そういう現実を突きつけるのは、今の彼らには残酷かな・・。」

尋は心の中でそう思った。と同時に、生徒にチャレンジ精神を謳うのであれば、指導する側の人間にも、同じようにチャレンジをさせるのも、ある意味、思いやりでは無いのかとも考えた。そのためには、自身が彼らをサポートすべく、協力体制でこれまで以上に動く必要があるだろうと、そう尋は思った。しかし、このときの判断が、後に尋を苦しめることになるのだった。

 その後、独立についての話し合いは、殊の外順調に行われた。名称を変更しての、教室の維持は可能になり、その辺りのことは滞りなく済んだ。保護者への事前連絡と説明会を行うことで、特進クラスの教育環境の場所は変われど、内容は保たれる点も、十分に説明の後、理解は得られた。これで概ね問題無しと思われたが、

「先生、ボクたち、どうしても本部にいかなきゃダメなの?。」

と、特進クラスの生徒が何人か、尋の元にやって来てたずねた。

「うん。これからは、もっと授業内容が厳しくなる。そのためにも、さらに上のレベルのことを学べる環境にいくのは、大切なことだよ。」

尋は、保護者に説明した内容と同じことを伝えたが、子供達の受け止め方は、大人とは異なっていた。生徒達は、クラスが離れて間接的ではあっても、尋の顔を見ることで、自分達の心の中に精神的繋がりを築いていたのだった。故に、移動せざるを得ない子供達は、一様に寂しそうだった。

「大人の事情が、こんな形で子供達に負担になってしまっては・・。」

尋は忸怩たる思いが拭えなかった。それは自分達の力の無さでもあった。

「本部の授業で解らないことがあったら、いつでも聞きにおいで。」

そういって、生徒を励ますのが精一杯だった。実際は、両教室の取り決めで、異動後の生徒が双方の教室にいくことは控えるようにとの通達が講師にはあった。なので、尋の言葉は慰めにもならなかったかも知れない。しかし尋には、其処まで杓子定規に徹することは出来なかった。悶々とした尋の気持ちとは反対に、教室長は新体制に向かって、意気揚々と事を進めていた。

「尋先生、ちょっといいですか?。」

全体ミーティングとは別に、尋は教室長の相談相手として、たびたび呼ばれていた。

「特進クラスの生徒が一斉にいなくなると、当然、今年度の進学実績は下がると思うんだ。だから、新たに学力の高い子を募集する必要があると思うんだ。」

教室長の心配は、ある意味当然ではあった。しかし、通常時でも、募集をかけて新規に生徒が集まるといった状況は、そんなには無い。確かに省による新たな制度への過渡期で、若干の需要は見込めるかも知れないが、特進クラスレベルの生徒は、自分達で育ててこそ意味があると、尋は考えていた。

「あの、これは生徒達に聞いてからって前提なんですが、塾内で新クラスを作る場合、上位のクラスに移ることを希望する生徒がどれほどいるか、それ次第ですね。」

「なるほど・・なあ。よし。早速やってみようか。」

尋の言葉に、教室長は速やかに動こうという雰囲気だった。


 翌日から早速、教室長は小中学生共にクラス分けのテストを実施した。まだ新たな特進クラスを作ると決定した訳では無かったが、善は急げという感じだった。同時に実施した懇談と保護者へのお知らせの配布が功を奏したこともあって、上位クラスの新設は、概ね好意的に受け止められた。子供達を除いては。

「先生、ボクたち別のクラスになっちゃうの?。」

ある日の授業中、小学生の生徒が尋にたずねた。

「うん。まだはっきり決まった訳じゃ無いけどね。」

「えー、やだー!。折角仲間が集まって楽しいのに。」

成績別のクラス設置や、対外的に進学校であることのアピールは、確かに子供達自身の社会には関係の無いことである。勉強出来る子、出来ない子。スポーツの出来る子、出来ない子。活発な子や控えめな子。それぞれの個性が集まって、クラスという中で小社会を築いている。それを壊してしまうのは、大人の事情から生じる、下らないヒエラルキーである。尋は塾の常識として、成績上位の子供が集う教室は、総じて集客力が高くて盤石であるのは知っていた。なので、教室長の要望も、最もだとは考えていた。しかし、こんな風に子供達の声を直に聞いては、流石に心が揺れた。いや、寧ろ、その方が真理を捉えているとさえ思った。互いが互いを補い合う、そういうものを学んでこそ、教育や成長では無いのかと。しかし、舵取り役は自分では無い。経営を担う者が決めることである。そして、自分はその決定に従いつつ、淡々と役割をこなす。そうやって縁の下を支えるのだと。尋はあらためて自身の立場を確認した。そんなあるとき、

「尋先生、クラス分けの話を伺ったんですが。」

昇先生がたずねてきた。

「ええ。まだ本決まりじゃ無いそうですが、また新たに特進クラスを作って、上位者の指導をってことになると思います。また活躍の場が出来ますね。昇先生。」

尋はそういって、彼の力が発揮出来る環境の再現に喜んだ。しかし、

「あの、実はボク、そういう生徒ばっかり見て来たので、自身の幅というか、教えることの出来る生徒の対象が狭かったと思うんです。なので、今が大変なときだから、ボクも色んな生徒を面倒見る、そういうお手伝いがしたいんです。」

昇先生は、そう打ち明けた。向上心のある若者が、自身のスキルを高めたいのであれば、それはとても評価の出来る、前向きな気持ちだと受け止めたであろう。しかし、

「なるほど。それは確かにそうかもですね。色んなクラスを見られる講師がいた方が、教室長も助かりますもんね。」

尋は彼に賛同している風な返事はした。しかし、草創期のモチベーションをそのまま信じてもいいものかという危惧が、微かに尋の脳裏を過った。尋は様々なクラスや生徒を受け持った経験があった。それ故、その大変さも沢山見て来た。それが出来なくて、配置換えをされて他所へいく先生も多く見て来た。それだけに、果たして昇先生にヤンチャな生徒が見られるのか、不安というよりは賭けであった。

「解りました。教室長にも相談してみて、そのようなシフトが可能かどうか、検討してもらいましょう。ね。」

「はい。有り難う御座います。」

案ずるより産むが易しというが、産んだ結果がどうなるかは、出たとこ勝負である。そして、その勝負を行うか否かの決定権は、教室長にある。それにGOサインが出たとして、例え上手くいかなかった場合も、そのフォローは自分に回ってくるのだろうと、尋はその辺りまで織り込み済みで、昇先生の背中を押すことにした。

「なるほど・・なあ。それは確かにいい考えですよね。じゃあ、昇先生、基本は特進クラスの担当で、それ以外の空いてる曜日で、通常クラスの生徒も見てもらいましょう。その方が、こちらとしても助かるし。」

教室長の返事は殊の外、良好だった。昇先生も、自身の希望を聞き届けてもらえて、幾分、上機嫌に見えた。何も知らない若手の同僚は、そんな状況を興奮気味に捉えていた。そして尋は、例え何が起きても、狼狽えずにやっていくしか無いといった風に、緊張感を悟られないように日々を過ごしていた。

 数日後、特進クラスの新設と移動が発表され、子供達自身の願いも虚しく、新シフトの授業が始まった。ただ、意外だったのは、公教育の実施が狭くなるのを懸念した保護者達が動き出したことだった。生徒の増加であった。

「尋先生、何か幸先いいですね。独立で低調だった生徒数が、再び増加傾向に転じましたよ。」

教室長はにこやかだったが、尋は表情を崩さなかった。確かに数的には増加であり、増えた人数分だけ利益は入っては来る。しかし、問題はその負担である。どのような学力の子が入ってくるのか。そして何より、仮に手のかかる子が大挙して入ってきた場合、受け入れ体制が十分なのか。尋の不安は尽きなかった。


 入塾前の面接は、これまで通りに日頃の素行に関する話を十分に聞き出した上で可否を決めるようにはしていた。しかし、

「尋先生。独立後の仕切り直しなので、少し大風呂敷で生徒を受け入れようと思うんです。」

と、教室長が今までよりもやや緩い基準で生徒を入れるようにとの指示があった。確かに省が提唱する流れに反する指針で、新たな方向性を築いていくという理念は立派ではあったが、尋は現実面を心配しつつも、彼の指示に従った。すると、初めこそ大人しくしていた生徒も、少し経てば次第に本性を現すようになっていった。

「新しく来た子が、何か騒がしいですね。」

若手の同僚が、案の定、問題提起をした。

「叱ってはみたかい?。」

「いえ。大声で喋る訳では無いので、そのまま授業を進めてるんですが、いつまで経っても喋るのをやめないですね。」

「まあ、学校でも、ずっとそうだったんだろうな。懇談で先生から注意されても、今の親は、逆に先生を責めることも少なくないからなあ。そりゃ、教員のなり手がいなくなる訳だ。まあ、でも、そのままじゃ他の生徒にも迷惑だから、一度叱ってみてごらん。それでもダメなら、ボクが直接その子と話すよ。」

最近は、叱り慣れていない先生も少なくは無いので、その辺りの匙加減は専ら尋の領域になっていた。彼は、かつては大声で怒鳴るということもあったが、最近は喋る生徒の横に立って、ひたすら静かに睨み付けるという手法を採っていた。これをされれば、空気を読めない子供も、大人の怒りを肌で感じて、大抵は黙る。もし、それでも喋り続ける場合は、問題が別の所にある。技と反抗的になっている、つまり、心に何か問題を抱えていて、そのことが子供自身で処理出来ずに、そのような形で発露している場合である。そういうとき、尋は叱責せずに、何気に生徒と距離を縮めつつ、その子が抱える心のやりきれない原因をともに探ってみたりということもするが、決して効果の程がいい訳では無かった。

「最終的には、人間、平行線のままってのが、ま、往々にしてあるな。」

尋はそんな風に思いつつ、やるせなさと同時に、この仕事に対する慣れのようなものを心の中に構築していった。そんな矢先、事件が起きた。

「キャーッ!。」

尋が授業をしている教室の向かい側で、どうやら生徒の悲鳴らしき声が聞こえてきた。

「ちょっとキミたち。今やっているページの問題を各自、解くように。」

と、ざわつきかけた生徒を一瞬で制しつつ、尋は向かいの教室にいった。

「コンコン。」

尋はノックをしつつ、向かいのドアを開けた。すると、其処には仁王立ちになった昇先生と、その足元で蹲る一人の男子生徒の姿があった。

「血・・。」

足元のカーペットには、明らかにドス黒い液体が広がっていた。尋は直ぐさま、呆然としている昇先生の両肩を持つと、一旦彼を外へ連れ出した。

「此処で待ってて下さい。」

そういうと、またすぐに教室に戻って、蹲っている生徒に駆け寄り、ティッシュで出血しているらし部分をそっと押さえて、

「大丈夫か?。いけるか?。」

と、様子を見ながら、生徒を起こした。そして、少し落ち着くと、生徒を椅子に座らせ、床の血をティッシュで出来るだけ拭い取った。そして、

「みんな、一旦落ち着いて座って。いいかい?。」

と、優しく声をかけて、生徒達を落ち着かせた。そして、怪我をしている生徒の様子を見つつ、

「痛いか?。もし無理そうなら、帰る用意をしような。」

と、生徒にいった。

「他の人達は、一旦深呼吸をしようか。はい、吸ってー。吐いてー。」

恐怖で強張っている子、涙目で震えている子もいたが、尋のいう通りに呼吸を整えると、生徒達も少しずつ表情を取り戻していった。

「よーし。落ち着いた人から、さっきまでやってた問題の続きを、少しずつでいいから、やってごらん。」

「はーい。」

尋の指示に、返事が出来るようになった生徒も出だした。

「じゃあ、すぐ来るから、ちょっと待っててね。」

そういうと、尋は教室を出て、廊下で待たせていた昇先生と一緒に事務室に戻った。

「座って下さい。」

尋はまだ呆然としている昇先生を椅子に座らせると、

「どうしました?。」

と、優しくたずねた。

「生徒を、殴りました。」

と、其処へ教室長が駆けつけてきて、

「尋先生、一体何が?。」

と、慌ててたずねた。尋は教室長の耳元で、事の概要を伝えると、

「じゃあ、ボクは教室に戻りますね。」

そういうと、昇先生が受け持っていた教室に駆け上がっていった。

「ゴメン。血は止まったかい?。」

「はい。」

生徒の怪我は大したことは無さそうだった。しかし、尋は事の重大さを十分に認識していた。そして、怪我をしている生徒を帰らせるべく、荷物をまとめて横の生徒にそれを運ぶように指示した。そうやって、段取りよく怪我人を連れ出しつつ、尋は荷物を運んできた顔見知りの生徒に、

「何があった?。」

と、率直にたずねた。

「あの子がずっとうるさかったから、先生が怒ったら、逆に文句をいい返したんだ。すると、先生が切れて、あの子をグーで思いっきり殴ったの。」

そういうことかと、尋は天を仰いだ。起こるべくして起きた出来事だった。


 尋は怪我をした生徒を教室長に任せると、保護者に連絡を取って事情を説明した。

「有り難う。キミは教室に戻って、みんなとテキストの続きをやっててね。」

「うん。」

荷物を持ってきてくれた生徒を教室に戻すと、尋は昇先生のもとへいった。

「あの、落ち着きましたか。」

「はい。」

尋の質問に、昇先生は極めて冷静な様子に戻っていた。

「最初から、何があったかを説明してもらえますか?。」

「さっき、教室長にも話したんですが・・、」

と、昇先生は、自身が生徒の暴言にカッとなって手を挙げた顛末を淡々と語り始めた。

「なるほど。それで、一番最初に、その生徒が暴言をいう前に、昇先生はどんなお話をされてたんですか?。」

尋の質問に、彼は口籠もった。

「何か、いい難いことが、やっぱりありましたか?。」

尋は優しく問いかけ続けた。すると、

「今回の独立騒動が、ボクに責任があるって、生徒がいったんです。」

「責任?。」

「ええ。その生徒、特進クラスに仲のいい友達がいたらしいんですが、彼と離ればなれになったのは、ボクのせいだといったんです。勿論、ボクには関係ありません。しかし、特進の子達を連れていって隠したのは、お前だって、彼が罵ってきたので、ボクも初めは我慢してたんですが・・、」

「その後も、その生徒が何かいったんですね?。」

尋は、昇先生が再び冷静さを失っているのを見逃さなかった。彼は唇を震わせながら、

「お前みたいな賢いだけのヤツには、人の気持ちなんか分からないんだ・・って。」

「そういわれて、思わず手が出たと。」

「・・・はい。」

子供とは、幼いように見えて、実に残酷な一面を有する生き物である。直感的に、大人の本性を一瞬で見抜いて、一刀両断してしまう瞬間がある。大抵の大人は、例え痛いところを突かれても笑って誤魔化すが、彼は違う。昇先生は、寧ろ純粋培養に近い、秀才肌の人間だろう。鋭い子供の指摘に対する、何ら免疫力も持ち合わせてはいなかった。と、そのとき、

「すいません。うちの子が・・。」

と、怪我をした生徒の母親がやってきた。生徒は治療を終えて、すっかり落ち着いていたが、母親は衣服に付いた血を見て、顔色が真っ青になった。空かさず、教室長が謝罪と状況説明を行った。その横で、昇先生も起立して頭を項垂れた。事態は重大である。一人の大人が子供に対して一方的に暴力を振るって怪我を負わせた。傷害事件の範疇に達していることは疑い無い。教室長と昇先生にとっては幸先のいい船出に水を差されたように感じられたかも知れないが、尋はこのことが事件化することで、構造的な問題の提起になると考えていた。しかし、

「解りました。この度は、うちの子が申し訳無いことをしまして、どうもすみませんでした。」

と、母親は教室長と昇先生に詫びた。これには尋以下、他の講師も驚いた。

「いえ、怪我をさせたのは当方ですので、どのような責任も・・、」

「いえ。人の尊厳を傷つけるような言動は、例え子供であっても許されるものではありません。先生。ワタシが叱らなかった分、代わりに叱っていただき、どうも有り難う御座いました。」

時代錯誤のような光景であった。確かに昔の学校であれば、我が子が教師に叱られた場合、親はほとんどが、我が子に落ち度があったからこそ、そうなったのだと納得していた。しかし、今はそんな時代では無い。教室長は、せめて治療費をと申し出たが、母親は頑なに拒んだ。そして、今日の所は帰るが、以後も宜しくお願いしますと、親子共々頭を下げて帰っていった。そして、暫くは呆気に取られていた教室長が、

「いやあ、運が良かった・・って、捉えていいのかな?。」

と、的外れなことを口にした。尋は教室長の腕をそっと掴んで、静かに首を横に振りながら、教室長を直視した。

「あの親御さんが、そういっただけで、目撃者は教室の生徒全員です。」

と、状況の深刻さと明日以降に起こり得るシミュレーションを、尋は一瞬で思い描いた。そのことは、寧ろ昇先生の方が気付いているようだった。

「手をあげたのは、確実にボクです。そして、怪我を負わせたのも。この事実に代わりはありません。これから、どんなことが起きようとも、この責任はボクが負います。」

昇先生は覚悟のほどを述べると口を真一文字に結んだ。

「それはこの後、いや、明日の状況を見てから考えましょう。ボクは教室に戻ります。」

そういうと、尋は教室長と昇先生を残して、教室に駆け上がっていった。もはや尋にとっては、全ての状況に対処することが、ある種、自身の宿命のようにさえ感じていた。何も起きないことが、一番つまらない。不謹慎ないい方だが、人は何か問題が起きて、それをどう乗り越えるかで、成長も後退もする。全ての試練が機会であると、尋はそう考えていた。


 教室に駆け戻ると、

「はい、ゴメン。お待たせー。問題は解けたかな?。」

と、尋は各自にさせていた問題の進み具合を見て回った。ちゃんと解いている子もいれば、講師の不在中にサボっていたと思しき子もいた。そんな中、

「先生、昇先生、どうなっちゃうんですか?。」

と、とある生徒がたずねてきた。

「うん。それはこの後、話し合う。キミたちは正直、どう思った?。」

逆に尋がたずねると、

「怖かった。」

と、一人の女の子が直ぐさま発言した。

「でも、悪いのは明らかにアイツだぜ。先生にあんなこといったんだから。」

「それでも、暴力は良くないよ。」

それぞれの意見を出し合い、生徒は闊達に議論し始めた。

「なるほど。そりゃそうだよな。昔は、先生の時代は体罰は当たり前だったけど、今じゃ、それはダメな時代になってるしな。」

「そうでも無いよ、先生。」

尋の言葉に、別の生徒が発言した。

「学校でも、結構先生達が手をあげてるよ。」

「どんな風に?。」

「もう何年も前から、授業が荒れてて、みんな迷惑してたの。で、先生がそれを怒りにいくと、返り討ちに遭うこともあるけど、毅然と立ち向かう先生もいるよ。」

その状況は、必ずしも肯定的に捉える内容では無いかも知れない。しかし、人として至らぬ人間を叱る行為が、一律に暴力の排除という形で取り締まることが可能かという点に関しては、尋は懐疑的だった。

「そうかあ。まあ、理不尽なことに対しては、勇気を出して戦う必要が、場合によってはあるしなあ・・。」

そういいながら、尋はあることを思いついた。

「あの、さっきの騒ぎがある前の、昇先生の授業は、どうだった?。分かり易かった?。」

「うん。もっと冷たい先生だと思ったけど、丁寧に教えてくれた。」

「だよなー。しかも、あんな熱血漢だとは思わなかったよ。」

起きたことは、確かに事件性はあっただろう。そう立証されても仕方は無い。しかし、そのように事態を持っていくかどうかは、当事者と関係者が判断すればいい。ひろしは、世間の風潮とは一線を画する、そのような判断をしてみようと考えた。

「じゃあ、もし、今後も昇先生が授業をするってなったら、正直、反対の人はいる?。もし、いいにくかったら、後で先生にこっそりいってくれてもいいよ。」

尋は率直に生徒達に尋ねた。すると、

「昇先生がいいよ!。だって、オレ達を賢くしてくれるんだろ?。先生も、自分でそういってたよ。」

「うん。ホントは尋先生がいいけど、賢くしてくれるっていってたから、昇先生でもいい。」

尋の読み通り、今回の件を大袈裟に捉えるよりは、彼らの反応を率直に受け止めた形で話を進めた方がいいかもと、尋は感じた。

「解った。この後、先生達とちゃんと話して結論を出すね。じゃあ、この話は此処まで。問題の続きをやるぞー!。」

「はーい。」

尋は事なきを得たと感じつつ、授業の軌道修正を行った。そして、授業を終えて生徒を送り出したあと、尋は教室長と昇先生とで、話し合いをした。待ちわびたように、

「で、尋先生、生徒達の様子は、どうでした?。」

教室長が前のめりにたずねた。

「はい、生徒達の受け止め方は、殊の外、いい感じでした。」

尋は先ほどの子供達の意見を二人に伝えた。教室長はホットした表情をし、昇先生は少し複雑な表情をした。

「そうかー。親御さんといい、生徒達といい、天は我々に味方してくれたかな。」

まだ問題の本質を解っていない教室長の発言を、尋は諫めようとした。と、そのとき、

「教室長。それは違います。ボクがしたことは、刑法に触れています。子供を暴力で傷つけたのだから。その事実は変わりません。」

それを聞いて、教室長は自身の失言を反省した。

「はい。ボクも、それはその通りだと思います。でも、今回の親御さんと、生徒達の意見も、同時に事実です。やはり、手を焼いている荒れた状態を放置するのは良くないという認識が、みんなの中にもあるということが、今回ハッキリしました。次に、同じような手段を講じた場合、まずはアウトでしょうが、そのことを戒めとして各自が胸に刻んでおけば、再び前に進めるようには思います。」

尋は、事なかれでは無く、こういう事態が起きても、するべき事は何なのかを常に考えつつ、それでも前進する姿勢をとることを伝えた。

「うん。解った。ボクが至らなくて、すまなかった。以後のことは、再度、親御さんにも伝えておく。明日からの授業に備えよう。」

「はい。」

「はい。」

ミーティングを終え、三人は教室を後にした。帰る方向が同じだった尋と昇先生は、道すがら、話をした。

「今日は、本当に、すみませんでした。」

「いえ。そんな。実は、さっきはちゃんと伝えてなかったんですが・・、」

と、尋は生徒達の昇先生に対する率直な意見を伝えた。

「生徒達が、そんなことを・・。」

「はい。アナタがチャレンジしょうとしている姿勢が、早速子供達に伝わっているようですね。多少、いき過ぎましたけどね。」

そういうと、尋は昇先生を真っ直ぐ見て微笑んだ。昇先生は、何ともいえないといった表情ではあったが、明らかに何かが漲っているようだった。


 昇先生と別れた後、尋は帰る道すがら、今回の件について想いを馳せていた。生徒に怪我を負わせるほどの暴力が、このような形で収まるのは、ある意味ラッキーといえるだろう。また、親が躾を、子供達が何らかの正義を求めているということが潜在的にあるという側面が、結果としてこの件を一つの結論に導いたといえなくも無い。しかし、尋は何か釈然としなかった。

「互いに、それぞれの行為に至る要因が、今回の衝突を起こしたが、その結果が穏やかになったのは、やはり周囲の理解があったからだよなあ・・。逆に、もしも、周囲の誰かが一人でも受け入れる気持ちを持っていなければ、やはり問題は大きくなって、誰かが立場を失うことにはなっただろうな。」

もし、同じようなことが起きてしまえば、同じ結果に落ち着く可能性はまず無いと考えた方が良いだろう。そのためには、今回の事を、当事者の両名がどのように事態を重く受け止め、自身の内部の何処に原因を宿しているのかということと向き合えるかどうかだろう。尋はそう考えた。そして、それが難しいからこそ、同様の問題が残念な形で報じられることも少なくないと、尋は思っていた。

 公教育の現場は、益々教育の熱を失っていった。少子化に加えて、登校者数の減少は、学校から賑やかさを奪っていった。色んな子供達が、色んな感情をぶつけ合うという光景は、教室からも校庭からも姿を消し、大人しく教育を受けることの出来る子供達だけが、授業という学びの機会を得られた。反面、その機会を失った子供達は、益々街中に溢れた。午前中から行き場を失った子供達は、ただ単に遊ぶだけでは飽き足らず、次第に荒れていく人口も目に見えて増えだした。しかし、それらは子供全体の両極に過ぎず、中間層の子供達は。学校での失った機会を取り戻すべく、保護者が中心となって、塾やフリースクールなどに学びの場を求めた。無論、尋のいる塾も、例外では無かった。日増しに入塾希望者の面談も増えていき、教室長も尋達も、出勤早々は面談に負われた。そんなある日、

「尋先生、これからの面談についてなんですが・・、」

「はい。」

「もっと、こう、基準を緩めてみてはどうかなと思うんだ。」

「と、いいますと?。」

「うん。我々は、独立をしたのを機に、本部からの縛りから開放された。だから、我々独自のポリシーというのを持つようにしようと思うんだ。」

尋は一瞬、そのポリシーを聞こうかどうか迷った。組織の方向性を決める、極めて大事なものでもあるのを、そう軽々にたずねて、パッと答えるというようなことをしてもよいものかと。

「あの、会社組織でも定款というものを、議論に議論を重ねて作るようなので、そのようなものって感じですかね?。」

「うーん、それだと、法的というか、本部に属してるときと大して変わらないだろう?。だから、もう少し、ざっくばらんにというか。」

尋の問いに、教室長は現在、思っている所を単に述べた。それは、尋が聞きたかったことでは無かった。いや、寧ろ、聞きたくは無い話だった。尋は、敢えて芯になるものを作ることの重要性を説いたが、教室長は逆にそういうプロセスを重くは見ないのだということを在り在りと述べた。重かろうが軽かろうが、成功すればいいという考えもあるが、尋は決してそうでは無かった。先日の昇先生の騒ぎが結果、丸く収まったのも、偶然で片付けてはいけないという戒めのようなものが、尋にはあった。

「解りました。では、面談が終わってから、少し時間を取って話をしましょう。」

そういうと、尋は次の面談に向かった。というよりは、この場で話の続きをして、一番聞きたくない話になってしまった場合、今日の仕事に対するモチベーションを維持するのが難しいと思ったからだった。その後、数組の面談を終えて、尋が事務所に戻ってきたとき、教室長が早速といわんばかりに、尋の元にやって来た。

「さっきの話の続きなんだけど・・、」

しかし尋は、つい先程まで行っていた面談についての話の方が、優先順位が高いことを暗に覗わせた。

「あ、教室長。面談の結果を取りまとめておいたので、この内容については、いつ話をしましょうか?。」

「あ、それは後でいいから。」

教室長の言葉を聞いて、尋は彼の次のセリフを易々と予想した。

「解りました。で、話の続きとは?。」

「うん。塾の需要も高まってきてるから、これからどんどん生徒を増やしていこうと思うんだ。でね・・、」

全くの予想通りだった。それをポリシーというなら、それでもいい。ただ、そんなのが、芯を成して、組織を強い構造物が如くに支えていくなどとは、尋には全く思えなかった。尋の中で、何かの亀裂が生じる音がした瞬間だった。


 公教育の場は、その体制が学級崩壊等の荒廃が理由で、仕切り直しを図ろうとしている。その方法を、尋は決して望む形だとは思っていなかったが、だからといって、荒れの原因となった子供達を、何のポリシーも無く、単に頭数が収入と考えるような受け入れ方をするのは、公教育以上に酷いことになるのではと、尋は懸念していた。

「もし、このまま需要の高まりと並行して生徒数が増えた場合、教室の授業の状態というか、秩序はどのようにして保っていきます?。」

尋は最も危惧している部分をたずねた。

「それは、厳しく指導をして・・、」

「ですが、その指導方法は、学校の場でも廃止傾向にあったので、結果、省が発表した新体制になった訳ですから、再び躾やスパルタが売りになる可能性は、危険なように思うのですが。」

現場の指導に関しては、尋はその推移を知っていた。体罰の黙認が成されていた時代から、それが全面的に廃止され、歯痒いながらも、柔(やわ)な授業を行わざるを得ない状況を、尋は自身が生徒だった頃から、現在の指導する立場になった今まで、ずっと見て来た。そして、その方法論のメリット・デメリット、そして功罪についても、自分なりに分析を行い、自身の指導に生かしてきた。

「ま、それはそうだけど、何事も、やってみないと解らないだろう?。」

尋の正論に対し、教室長はぐうの音も出なかった。反面、一体、どこからそんな脳天気な発想が湧いてくるのかと、尋は肩透かしを食らった気分だった。しかし、何が経営の素養か、どういう人物が経営に向いているのかについては、尋自身、判断材料を持っていた訳では無かった。ひょっとしたら、このようなキャラの人の方が向いているのかも知れない。

「そうですね。解りました。では、面談の際のガイドラインを、具体的に決めておきましょうか。」

「いや、それも、尋先生の一存で決めてもらっていいと思うんだ。」

「は?。」

「いやね、昔は面談って、苦手科目とか、簡単な聞き取りだけで、すぐに入塾を決めてた訳だし、そういうスタイルに戻すって感じでいいんじゃ無いかなって。」

流石に尋も混乱した。教室長の申し出は、ある意味、完全な責任放棄である。しかし同時に、尋以下、現場の裁量権が広くなるという面もある。その場合、もし、自身の裁量で入塾させた子供が教室で妨害行為をした場合、その責任は、面談時の判断で入塾させた先生にあるということになってしまう。この疑問を、今目の前に居る人物にぶつけたところで、的確な、何より説得力のある回答は得られないだろうと、尋は察した。

「もし、このスタイルが成功するならば、それは偶然の産物だ。この塾、いや、この教室長が唱えるバックボーンのお陰では無い。正にカオスだ。でも、世の中とは、こんなものかも知れないなあ・・。」

尋は気持ちの落とし所を失った。というよりは、率直に呆れた。そして、

「解りました。」

と、一言残して、教材に目を通す作業に向けて、書庫へ移動した。すると、程なくして、

「尋先生、聞きました?。教室長のお話。」

「え?、何を?。」

後輩の同僚が、何がゴシップでも聞きつけたようにやって来た。

「いやね、兎に角、やることなすこと、全て場当たり的になってないかなって。」

「ま、縛りから開放されたんだから、自由度は上がるのは確かだし、新たなレールを敷かないんだったら、そうなっても当然かな。」

尋は、この話についてはあまり議論を好まなかった。最終的な決定権は教室長にある訳だし、自身はその指示に従うのが役割というか務めだと考えていた。

「ま、でも、気楽にはなるって感じかなあ。」

同僚は、教室長のスタンスについては、歓迎姿勢のようだった。

「本当に、そう思うか?。」

「え?、何がですか?。」

「まあ、いい。せいぜい自由を謳歌してみたらいいさ。」

尋はこれ以上、呆れたくは無かった。そして、今日の授業に必要な教材を見繕うと、それを手に取って、事務室に戻っていった。

「さて、昇先生は、どうお考えかな・・?。」

尋は彼ならどのよに、この事態を捉えるだろうかと考えてみた。極めてクールに、かつ構造的に捉えているのか、それとも案外、先の二人のような心境なのか、少し興味があった。

「こんにちは。」

「あ、こんにちは。」

まるで尋が吸い寄せたかのように、昇先生が出勤してきた。彼は、出勤するとすぐにコーヒーを入れて、自身のデスクで教材の下調べに入るのが常だった。当然、今日もルーティーンの所作で、デスクに着くと、下調べを始めた。これが彼のスタイルだし、自分までもが二人と同じく、浮き足立つのもどうかとは思ったが、

「あの、昇先生。」

「はい。」

やはり、辛抱たまらず、尋は彼に声をかけた。

「先生は、面談は?。」

「あ、はい。これからは出来れば担当するようにいわれました。」

「その際、入塾させるかどうかのライン的なお話って、出ましたか?。」

「ライン・・ですか?。ボーダーのような?。」

「ええ。まあ。」

「いえ、そういうのは特にはいわれませんでしたが、必要ですね。」

「そうですよね。もし、その辺りが緩くてもいいって風に教室長からいわれたなら、どうされます?。」

「それだと、先細りしますね。」

彼の解答は明快そのものだった。


 昇先生は、率直なところを語り始めた。

「僕がこれまでに見て来た生徒は、成績優秀者ばかりでした。そんな彼らをさらに伸ばして高い水準で合格させるには、スキルは要りますが、動機付けや方向付けは必要ありません。それは社会が保障してますから。社会が暗に提示する価値観に則って、親も子供も目的とする学校を受験校と定めて努力します。つまりは、そういうお膳立ては必要無いという事です。」

尋は彼の話に頷いた。

「しかし、それは学力が上の方にある層であって、割合的には高くは無い。その層に追随しようと、比較的学力が上位にある生徒も、ほぼ同様の価値観をゆうするので、やはり動機付け等はほとんど必要ありません。ですが、それ以外の過半数は、そういう訳にはいきません。何らかの方向付けを認識させるか、それに応じない場合は強いる必要性がある。」

「それが、これまでの公教育の手法だったと?。」

「その通り。体罰や叱咤が暗黙の了解であった時代なら、それも出来たでしょうが、今はそれは禁止されています。そして、それと同時に、目的意識の不明確な層は、学校で淡々と勉強を学ぶという行為に疑問を持つというか、単に辛抱してまで身に付ける必要性を感じなくなった。いわば、野生化状態です。そういう子供らを指導する際に、何のポリシーも持たずに利益を上げるためだけに受け入れるのは、無策の愚策です。」

やはり、昇先生の思考は本質をいい当てていた。淀みなく、立て板に水の如く雄弁に語った。

「ボクも概ね、昇先生の意見と同じです。」

「概ね・・といいますと?。」

尋の相づちに、昇先生は自身が完全に賛同を得た訳では無いという部分に引っかかったようだった。

「ポリシーというか、方針を定めずに、現場任せで入塾の基準を下げた上で、利益目的を優先して生徒を集めることは、その後の混乱を招くのを解っていながら、初めから手を打たないということです。故に、そのような事態になったら、混乱するのは現場です。勿論、子供達も同様です。ですが、残念ながら、我々にそれを決定する権限は無いですからね。なので、経営の責任を負う立場からの指示に従うか、それが嫌なら・・、」

「此処を去るしか無い。」

尋の言葉に、昇先生は結論を急いだ。しかし、

「そういうことです。でも、今は船出をした矢先です。先行き不安なのはいつものことですが、こんな時ほど、共通認識を持って船の進行を支えていく必要がありますね。」

と、先々のことを案ずるよりも、現実に触れながら対処するしかないということを、尋は暗に示した。

「あの、尋先生。大抵の方は、そのような表現を最後にしますよね?。やってみるしか無いというような言葉を。」

「ええ。」

「ですが、論理的に考えれば、自ずとどのような結論を迎えるかは、大抵は解るはずなんですが、それでもみんな、肝心な結論の部分についてはフォーカスを暈かすようなニュアンスになってしまう。ボクは昔からそれが不思議で・・。」

如何にも頭のいい人物のいいそうなことだった。尋はそう思いつつも、互いに腹を割っての間柄になっていた。

「先読みが出来れば、そんな風に感じるのは当然です。大抵の人は、先読みが出来ないから、結論を断定的にいわないか、あるいは責任逃れ・・かな。結論を暈かすことで悪くなるかも知れない事態から目を背けるというか。で、昇先生。アナタは賢い。論理的にも、データによる確率的にも、事態が何処に収束するかは比較的早くは解るでしょ?。」

「ええ、まあ。」

「なのに、アナタもボクも、こうしてこの教室で、どうなるのかは解らないけど、こうしてお互い、同僚として此処にいる。これは一体、何故なんでしょうね?。」

尋は別に反論するでも無く、彼の疑問とその矛盾について、端的に例示した。

「そういえば・・。まあ、強いていえば、生活のためですかね?。」

「はい。ボクだって、お金は必要です。そのために最善の方法が何かなんて、やっぱりはっきりとは解らない。寧ろ、それが、矛盾をはらんでいることの方が普通なのかな。だから、不確定要素が一杯で、この世は面白い・・ってことかな。」

それを聞いて、いつもはクールな昇先生が、ニコッとした。

「尋先生、やっぱり凄いですね!。ボク、聞き入っちゃいました。本当だ。ボクは論理と結論の正確さばかりに気を取られていました。」

「いや、昇先生。それは大事なことですよ。そういう人も、世の中には絶対必要です。役割分担かな。餅は餅屋というか。だからみんなで助け合うんですよ。」

「はい。」

「で、此処だけの話ですが、ボクも教室長の無策ぶりには危惧してます。なので、蜜に連携を取って、何とかしていきましょうね。」

尋は昇先生に耳打ちした。

「はい。」

昇先生はにこやかに頷いた。彼は尋から理屈だけでは無い部分を、逆に尋は少しでも先行きの明快なる部分を得たような気がしていた。


 さて、教室長を中心とした新たな体制は、尋達の予想通り、困難を極めた。現場任せの面談。需要に伴う生徒の増加は一見利益をもたらしているようにも見えるが、その後のケアにかかる手間暇を考えると、とても見合うものでは無かった、

「いやあ、いうことを聞かない生徒が多いですね・・。」

後輩の同僚は苛立ちと疲労が明らかに窺えた。

「ま、こういうのが本来の塾ではあるんだけどね。」

「そんなもんなんですか?。」

「ああ。だから昔は、学校でも塾でも、先生が遠慮無く生徒の顔や頭を引っぱたいてたんだよ。」

「じゃあ、恐怖支配ってことですか?。」

「うーん、それが、そうでもなかったんだな。」

尋はかつての体罰が許容されていた頃の話を同僚に聞かせた。勿論、理不尽な暴力もその中には含まれていただろうが、殴られた後も先生と生徒の信頼関係が、何処となく形成されていた。今から思えば奇妙な話ではあるが、従来、人間社会というのは原始の時代からそのような属するコミュニティーに適応するための儀礼的なものとして、そのような行為を用いていたのだろう。しかし、ここ数年、権利意識と理不尽さへの批判が急速に高まったことで、人類が培ったそのような手段は一気になりを潜めようとしていた。

「じゃあ、尋先生は現場から体罰が無くなることについては反対なんですか?。」

「いや、そうじゃ無い。時代の流れには逆らえないし、全体的に体罰を排除しようという傾向があるのなら、それに従うしか無いんじゃないかな。ただ・・、」

「ただ?。」

尋は社会のそのような背景に対する疑念を持っていた。

「人類の歴史よりも、昨今の状況の方がスパンとして遥かに短いから、この急速な体罰の排除が、逆にどのような形で社会によくない影響を及ぼすかは、これから証明されるのかもな。」

「なるほど・・。」

尋は、省が新体制を発表せざるを得なくなった要因に、公教育現場の荒廃、そして、そのさらなる要因に家庭等での躾の消失があると、かなり以前から睨んでいた。故に、再び公教育の受け入れ体制が復活するためには、その辺りについての方策を如何に打ち出すかにかかっているのではと考えていた。

 夕方になり、生徒達が次々とやって来ると、尋達は入り口で出迎えながら自転車整理を行った。

「こんにちわー。」

「こんにちわー。」

「はい、こんにちわ。」

殆ど全ての生徒は声の大小はあれど、挨拶を交わした。しかし、中には俯いたままで小さく会釈だけして、スッと教室に向かう子も少なくは無かった。一通りの生徒が集まると、すぐに授業が始まった。

「はーい、こんにちわ。」

この段階では、大抵教室はざわついている。かといって、その状態を放置すると、授業内容の導入までに時間を要してしまう。大声を上げてぴしゃりと黙らせるという、かつての方法論もあったが、尋は小さな計算用紙を生徒達に配ると、黒板に問題を書き始めた。

「はい。この前やった問題な。制限時間は五分。用意、始め!。」

そういうと、尋は時間を計った。この段階でまだ雑談をしている子もいるが、殆どの子はサッと問題に取り組んだ。そうすることで、雑談をする子を一瞬で少数派にするのだった。子供に限らず、この国では自身が少数派にされることを極端に嫌う傾向がある。その辺りの心理を、尋は巧みに利用した。そして、自分の喋り声が、この場の空気を乱す事に気付いた生徒も、仕方なく問題に取り組んだ。そして、

「はい。終了!。」

尋はキッチリ時間を区切って、早速正解を黒板に書いた。

「各自、マルをつけて、何点か紙の上に書いてねえ。」

正解が発表されるごとに、生徒達は一喜一憂した。

「OK。じゃあ、満点の人?。」

とたずねると、数人の生徒が得意げに右手を挙げた。

「じゃあ、一問間違いの人?。」

次いで、数人の生徒が右手を挙げた。

「これぐらいなら、まずまずかな。答えの直しは、間違った問題だけでいいから、後でやっとくといいよ。じゃあ、授業に入るよー。」

この段階で、生徒達は授業を受ける体制にすっかり入っていた。尋は別に、さっきの小テストを回収して点数を控える訳では無かった。授業を静粛な状態で始めるのが主たる目的ではあったが、何より、生徒達のモチベーションを上げることを模索していた。そして、本部が統制していた頃とは異なる、このような小テストの結果をデータとして記録・分析するといった煩雑な作業では無い、本当の意味での必要な小テストが実施出来る環境の大切さを、尋は噛みしめていた。彼は、良くない組織ほど、無駄に数値を収集して、それを後の何にも繋げないという愚かしさを知っていた。定期テストや、大きな模試には進路指導の際の重要なデータにはなるが、それもやはり、子供らが勉強をする上での、区切りと弾みだと尋は考えていた。


 これまでとは違い、各講師の裁量権が大幅に増した分、自己責任というのが伴っていった。普通なら、ペースノルマというのがあり、学校が定める教育指導要領に則って授業が進められるのと並行か、あるいは少し早いペースで塾の授業は行われる。統制の厳しい塾ほど、そのノルマに遅れないことが絶対命題とされる。そういう所は、大抵成績のいい生徒が在籍しているが、そのシステムの恩恵に肖ることの出来ない子供達は、付いていくことが出来ないのが現状であった。

「じゃあ、この問題、やってごらん。」

昇先生も、最初こそこれまで通りの授業を行っていたが、

「先生、これ、どうやって式を立てたらいいのか解らないです・・。」

と、以前とは異なり、あからさまに質問をする子が増えだした。以前の彼なら、そういう生徒を冷たく叱責したであろうが、

「そっかあ。じゃあ、問題から何処までなら式が立てれた?。」

「えっと、A君の歩く速さとかかった時間から、進んだ距離の式は作れました。」

「じゃあ、B君は、A君と同時に出発したかい?。」

「ううん。十分後。」

「じゃあ、A君が進むのにかかった時間がX分なら、B君はそれより十分短いんだから、何分って、式で表せる?。」

「うーんと・・、X−10。」

「よーし。それとB君の速さが解ってたら、進んだ距離の式が作れるな。」

「そっかー!。」

と、これまで彼が行っていた授業よりは明らかにペースダウンはしたであろうが、より具体的な説明を加えることで、生徒達の表情が明るくなっていくのを、彼自身も感じていた。そして、それぞれの教室で授業が終わると、先生達は一斉に生徒を見送るべく、玄関前に集まって、

「さようならー。」

「はい、お疲れさん。さようならー。」

と、挨拶をした。そして、玄関を閉めて事務所に戻ると、

「ふーっ。今日も終わりましたね。」

「ああ。」

「あの、子供達のペースなんですけど・・。」

と、若い同僚が、寛いでいた尋に質問をしてきた。

「解らない箇所を説明するのはいいんですけど、このままだと、定期テストまでにテキストの範囲が間に合わないんですが。」

それを聞いて、尋は、

「昇先生、彼がこんなこといってますが?。」

と、わざと話を昇先生に振った。

「残りのページ数を、テスト前日までの日にちで割り算してますか?。」

「いえ。」

「じゃあ、どうやって、一日に何ページ進むべきかを知るんですか?。」

「あ、それは・・。」

若い同僚は、いとも簡単に論破されてしまった。

「昇先生の方は、どうですか?。」

尋はたずねた。

「うん、やはり、これまでに比べて、説明に要する時間は増えましたね。」

「それについては、どうお考えです?。率直なところ。」

尋はさらに突っ込んでたずねた。彼から重要な何かを聞き出したかったからだった。

「今までは、当たり前のようにペースノルマがありました。そして、今はそこまでシビアでは無いですが、我々の中に無意識にペースノルマがあるのは事実です。それを基準として授業を進めるようにはなるでしょうが、果たしてそれでいいものかと・・。」

「と、いいますと?。」

「大事なのは、ノルマをこなすことなのか、それともやった内容を確実に理解させることなのか。その方針が定まってないということです。反面、裁量権だけが先に拡大してしまっている。これだと、各先生の能力ごとに、出る結果が異なりやすくなりますね。」

「じゃあ、そこは一様になる方がいいですかね?。これまでみたいに。」

尋は敢えて質問を重ねた。

「ワタシがこれまで受け持ってきた生徒達は、そのような選択を考える必要がありませんでした。速いペースでドンドン解くのが当たり前でしたから。しかし、今は違う。ワタシの中にある判断材料は、乏しいですね。尋先生はどうお考えですか?。」

「うーん、結論というか、現実問題、早い目のペースで授業をノルマ通り終わらせても、一定の割合で消化不良の子供は出てしまう。そして、その部分が未消化のまま、それぞれの進路に、子供達が別れて進学していく。その先の就職も。そして、今は、その階層化がさらにシビアになる状況となっているので、それを何とかするべく、思考力を高めるなり、現実に即した知識を養わせるなり、そういう部分の独自性が必要になってくるのかな・・と。」

二人の議論を聞いていた若い同僚は、

「へー。何だか、小難しい話になってきましたね。」

と、人ごとのような返事をした。

「キミはまず、ペースを掴めよな。」

「はい・・。」

尋は同僚を軽く叱責しつつ、

「まあ、でも、ペースの意識なんて、そんなにすぐに付くもんでも無いから、さっき昇先生がいわれたみたいに、割り算して数値化するなり、帯グラフにして、長さであとどれだけかとか、可視化するのが重要というか便利だよ。」

と、具体的なアドバイスを与えた。


「それにしても、どうやったら、そんな風になんでもパッと解決策が見つけられるんですか?。」

またもや後輩君が、妙な質問をぶつけてきた。

「やっぱり、キャリアの差なんですかね?。」

尋は何か言葉を発しようと思ったが、それを敢えて飲み込んで、昇先生の方を見て、暗に話を振った。すると、

「漫然とキャリアを積んでも、何の進歩もありません。」

即答だった。後輩君はぐうの音も出ないかと思いきや、

「やっぱり、お二方とも理系だから、そういうのがすぐに見通せちゃうんですかね。ボクは文系だから、そういうのがからっきし苦手で・・。」

「キミは、理系って、どんな風に見てるんだい?。」

流石に昇先生に答えさせるのは忍びないと思い、逆に尋がたずねた。

「そりゃやっぱり、賢いというか、何でもぱっと答えを導き出すというか。」

「文系だって偏差が高くて、数学や理科の科目を必要とする大学はいくらでもあるぞ?。」

尋がそういうと、後輩君は言葉に詰まった。すると、

「時計って、ありますよね?。あれは何のためにある物ですか?。」

と、昇先生が後輩君にたずねた。

「え?、それは時間を知るためで・・、」

「じゃあ、人は時間を、どうやって理解してるんですか?。」

「えっと、数字や針の位置を見て、理解してるのかと。」

「じゃあ、数字や針が、つまり、時計が発明されるより以前は、人はどうやって時間を知ったり、理解したりしてたんですかね?。」

「うーんと、日の出や日没とか、地面に立てた棒の陰が示す位置を見たり、あるいは砂や水が一定の速さで流れ落ちるのを見たり・・。」

「そう。つまり、人は時間を目で見えるようにしないと、理解は出来ないんです。具体的じゃ無いと。時間なんて目では見えない。もっといえば、正確な理解は不可能に近い。だから我々は、目に見えない解りにくいもの、つまり、抽象的なものを目で見えるようにして、理解しようとしているんです。」

「なるほど!。それが理系の仕事って訳ですね?。」

「違います。」

昇先生の極めて分かり易い説明で、後輩君は全てを理解した気になっていた。が、それに冷や水を浴びせるが如く、昇先生はぴしゃりと彼の誤解を指摘した。

「えー!。じゃあ、何が文系で、何が理系なんですか?。」

後輩君は困惑顔で二人を代わる代わる見つつ、たずねた。

「いや、それは、キミが最初にいい始めたんじゃなかったっけ?。」

尋はわざと意地悪にたずね返した。

「えっと、そりゃそうですけど、でも、ボクが文系と理系の差をいおうとしたら、二人ともそれを否定するようは話になって・・、」

「お?、気付いているじゃないか。」

「何がですか?。」

「キミの考えが否定されたってことに。」

「酷いなあ。」

尋は後輩君の顔をみて、思わず笑い出した。すると、

「理系や文系という分け方は、進学の際に科目を選択させる便宜上の指針し過ぎません。扱う現象が自然物なのか、人間の観念や概念なのかの差はあっても、それらを分析して、何らかの心理を見つけ出す作業は、どちらも同じです。そういう手法を、具体的に理論立てて説明するのが理系と思われ勝ちですが、人間はその思考方法以外には、物事を考えるようには出来ていません。即ち、人文も科学も、現象の扱い方は同じです。」

「でも、お二人は、やっぱり何でもスパスパと割り切って、すぐに答えを述べられるじゃないですか?。それは何故なんですか?。」

尋は昇先生と顔を見合わせた。そして、

「多分、癖だろうね。属していた環境の。別に理系だからって訳じゃ無くって、研究室でも、社会に出ても、求めに応じて、その都度答えを求められるだろ?。そういうのに慣れていっちゃうんだ。」

「でも、それは凄く便利でいいことじゃないですか?。」

「本当に、そう思うか?。」

尋の口癖が、また出た。

「何でも割り切れて正解のような考えや言葉がスラスラと出るんなら、ボクはもっと幸せになっててもよくないか?。それとも、ボクがそんなに幸せそうに見えるか?。」

「いや、そうでも・・。」

「何だと!。」

尋は追い詰めるように後輩君を笑いながら睨んだ。

「つまりは、そういうことです。文系か理系か、スラスラと分析的に、論理的にものがいえるか否かなんて、大差は無いってことです。現にボクも幸せとは思ってませんし。」

そういいながら、昇先生はぎこちなかったが、冗談をいった後のような笑みを浮かべた。

「よし!。今日は、不幸な者同士、飲みにでもいきますか?。」

尋は笑いながら提案した。

「いいですね。」

「賛成!。」

二人は賛同した。そして、片づけ物をサッと済ませると、駅の下にある赤提灯にやって来た。

「へい、いらっしゃい!。」

威勢のいい掛け声に誘われて、三人は奥の座敷に陣取った。そして、酒とアテを注文した。

「うわあ、何か不思議な面子ですね?。」

「そうか?、いつも顔を合わせてるじゃないか。」

「いや、こういう席に来るのがですよ。」

「確かに、そうですね。」

尋はたまに後輩君と、このような所に来ることはあったが、昇先生も交えては初めてだった。

「ワタシも正直、不慣れではあるんですが、今の職場は、何か妙に楽しく感じる瞬間がありまして・・。」

日頃は感情を表さない昇先生だったが、最近は少しずつ打ち解けてきたというか、自身の事を晒すようになっていた。


 酒が入ると、三人は饒舌になり、日頃の職場の様子から、それぞれが思い描く教育論について、熱く語り合った。

「尋先生!、学校の現場があんな風に、教育を放棄するって、一体どういうことですか?。」

後輩君は絡み酒だった。尋は仕方なく、

「まあ、教員のなり手も少なくなったし、現実問題、現場を回せなくなったってーのが、正直なところなんだろうな。人手不足のまま現状を維持しようとしたら、益々質も下がるしな。」

「そりゃね、学校が荒れて、そーいう面倒を見たくないってことで、辞めちゃうのは解らなくも無いっすよ。でも、そうやって辞める以前から、すでに質は下がっちゃってたってことじゃ無いっすか?。」

「ああ、確かにな。」

「じゃあ、その質の低下は、そもそも何が原因なんすか?。」

尋がいくら質問に答えても、後輩君の質問は節度無く続いた。

「人に質問ばっかして無えで、自分の頭で少しは考えてみろよ!。」

そういうと、尋は割り箸袋で後輩君の頭をバシバシと叩いた。

「動機・・でしょうね。」

昇先生は、ちびちびとお酒を飲みながら、冷静に答えた。

「高い志を持って学ぶ必要性を感じなくなった。だから、わざわざ面倒な勉強をするのに嫌気が差した。そんな層が増えたってことかな。」

「どうして、そーいうのが無くなっちゃったんすか?。」

後輩君は、今度は昇先生に絡み出した。

「豊かになったからでしょうね。どこの国のどの歴史を見ても、教育熱が高いのは、国情がシビアなときって、決まってますからね。かつてのユダヤも、少し前のインドも、そういう背景があったから、教育に対する先行投資的価値が培われた。」

その話を聞いて、今度は尋がたずねた。

「昇先生、ボクからも質問なんですが・・。」

「何でしょう?。」

「多分、以前は日本もその国の人々と同様に、シビアな状況から抜け出ようと、必死に勉学をして、結果、豊かになったってのはあると思うんですが、じゃあ、何故、その姿勢が続かなかったんでしょうかね?。他の所は長い歴史においても、その姿勢を維持しているからこそ、世界の金融のリーダー的存在になったり、IT関連で著しい成長を今も遂げてる。それに比べて、この国は失速というか、後退があからさまな感じがして・・。」

尋は、常日頃から疑問に思っている壮大なテーマを、敢えて昇先生に聞いてみた。

「そうですね。一つは、信仰に裏打ちされているってのが、あるのかな。その宗教の姿勢というか、教義が、現実に即して論理的であったというのがいわれてますね。そのような姿勢は、ある意味普遍的です。だから、色褪せないし、崩れない。対して、日本は敗戦で、教育観がリセットされたのが大きかったかも知れませんね。もし其処に、古からの信仰のようなものが残っていて、それと教育観が一致していたら、今のようにはならなかったかも知れない。」

「ってことは、やはり、某戦勝国の価値観が何もかも取り込まれすぎたってのが、大きかったんですかね?。大量生産、大量消費の。」

「確かに。今も、世を覆っている価値観は、金銭的な部分が大きいですからね。」

二人が真剣な議論を繰り広げていると、

「何だか小難しいなあ、もう。もっと楽しくいきましょうよっ!。」

と、後輩君が水を差した。

「いや、我々は十分に楽しいんだよ。これが。」

「じゃあ、数学の素数について、規則性があるかどうか、お話しましょうか?。」

尋を困らせる後輩君に、昇先生が話題を提供しようとしたところ、

「いや、それはご勘弁・・・。」

と、後輩君は這々の体で引き下がった。そんな具合に、三人が盛り上がっていると、

「へい、いらっしゃ・・、」

店主が入ってきた客に挨拶をしようとしたが、途中で言葉に詰まっていた。気になった三人は、同時に入り口を見た。

「五人だけど、いけるう?。」

明らかに中学生風の若者が店に入ってこようとした。

「すいません。お酒の提供は二十歳以上になりますが?。」

店主がそういうと、

「オレたちゃ二十歳だよ。」

そういうと、無理矢理店内に入り込もうとした。

「うわー。」

後輩君がその状況を見て、思わず声を上げた。店主は年配で、若者の勢いに押され気味だった。すると、

「あの、キミ達、お酒を飲むなら、御店主さんに年齢が解るものを提示して差し上げないと。」

と、尋が間に割って入った。そして、丁寧な口調で伝えた。

「何だ、オッサン?。何もんだ?。オメエこそ名乗れよ!。」

先頭の少年が威勢良く絡んできた。すると、尋は胸ポケットから何かを取り出す振りをして、

「解った。じゃあ、今からボクが身分を証明するものを提示するけど、そうすると、以降は公務執行ってことになる。どういうことか、解るね?。」

そういうと、尋は眼光鋭く、少年達を睨んだ。

「おい、何かヤベえぞ!。」

一人の少年がそういうと、

「じゃあ、いいや。」

と、他の少年達も店を出ていった。


「どうも、有り難う御座います。」

「いえ、そんな。また奥の席に、お酒、お願いします。」

店主のお礼に対し、尋は謙遜しつつ、追加の注文を頼むと席に戻った。

「尋先生、やりますね!。」

奥から様子を窺っていた後輩君が感心していった。

「ま、ハッタリも方便さ。」

「でも尋先生、最近、夜の風景が一変したというか、街中の荒廃が進んでいってるのが、目に見えて解りますよね。」

後輩君は、先の少年達のように、深夜徘徊をする若者が宜しくない感じで増えているのを危惧した。

「まあね。実は、先日も帰りしなに、コンビニでちょっと絡まれたしなあ。」

「え?、そんなことがあったんですか?。」

「うん。」

「で、どうしたんですか?。」

「どうって、まあ、適当に諭して感じかな・・。」

「手を出されたりとかは、無かったんですか?。」

「あったよ。」

尋は先日から立て続けに遭った被害について、掻い摘まんで説明をした。

「攻撃性が増してますね。」

昇先生も、以前と比較して、最近の様相についての違和感を述べた。

「それは感じたなあ。」

「じゃあ、尋先生みたいに、多少は武道の心得みたいなのが、これからはドンドン必要になってくるってことですかね?。」

「いや、それは違うな。」

「どうしてですか?。」

後輩君の相変わらずな短絡的な質問に、尋先生は答えるのに窮した。

「対処療法のみになってしまうからですよ。」

と、昇先生が助け船を出した。

「対処療法・・っすか?。」

「ええ。事態が起きてしまって、その都度対応してたら、根本解決にはならない。尋先生のように機転が利いたり腕が立つ人ばかりなら問題もその場では解消されるでしょうが、残念ながら、世の殆どの人は、そうでは無い。だから、常に戦うって訳にはいきません。どうしてそんな事態が起きるのか、その原因はどこにあるのかを分析して、その部分を構造的に変革させていく必要ガある。そういうことです。」

相変わらずの名答ぶりだった。

「構造的に・・ですか?。どんな風に?。」

「そんなの、パって答えられたら苦労しないよ!。」

尋は後輩君の頭を箸袋で叩いた。

「一番端的にいわれるのは、所得格差かな。地域ごとの所得層と教育の普及率、例えば進学率とを同じ地図の上に図示した場合、概ね重なる。つまり、所得を得ている地域ほど、教育がいき渡っていることが示される。逆にいうと、教育が不十分な地域は、所得が低い層が多い。加えて、犯罪の発生率も多い。そういう図式です。」

昇先生は、データに即した説明をした。

「じゃあ、そういう地域にお金をばら撒けばいいのかな?。」

「そうすると、どうなる?。現時点では、折角お金を貰っても、使い途や生活設計の知識は無い所に、お金だけを持ってくってことになるんだけど?。」

尋は、わざと後輩君に意地悪な質問をした。

「うーん、そうなると、やっぱ、遊興費とかにパッと使って、お金はすぐに無くなっちゃいますね。」

「じゃあ、そうならないようにするためには?。」

「えーっと、ちゃんとしたお金の使い道を教えるとか・・。」

「何を、どうやって教える?。具体的に。」

「うーんと、ちゃんと働いて所得を稼ぐって風に、生活設計も考えながら・・、」

「それが出来てたら、お金を給付される必要なんて、無いじゃん。」

「あ、そっかあ・・。」

「だろ?。今のままじゃ、イタチごっこになってしまう。」

尋は別に後輩君を論破するつもりは無かったが、この手の社会問題の難しさを暗に伝えようとした。

「これはシビアな話ですが、正直、改善は難しいです。大人に対しては。」

「え?、ダメなんですか?。」

昇先生の話に、後輩君は驚いた。

「生活習慣や価値観が固定してしまっては、そこから抜け出して、新たに建設的なものの考え方を行うのは厳しい。だから轍と称される。進めば進むほど、轍の深さは度を増して抜けられなくなる。ならば、そちらでは無く、まだ轍に嵌まる前か、嵌まって間無しの層にのみ目を向けて、改善策を行う。」

「つまり、子供に・・ってことですね?。」

後輩君の回答に、昇先生は静かに頷いた。

「でも、その方向性に対して、NOを打ち出したのが、今の大臣・・ですよね?。」

「そう。」

尋は珍しく、後輩君の回答に頷いた。

「確かに、教育現場の惨状から、諸費用等をカットしようという考えが起きるのは解る。でも、だからといって、それを実現してしまったら、結局は国の治安やモチベーションが低下して、荒廃の一途を辿る。」

「そういうことになるって、国は読んでなかったんですかね?。」

尋の説明に、後輩君は尋と昇先生を交互に見てたずねた。

「その辺りは、どうなんでしょうね?。ボクも正直、疑問には思ったんですが。」

尋は昇先生にたずねた。

「うーん、穿った見方をするならば、揺り戻しを期待してる節はあるかもですね。」

「揺り戻し?。」

昇先生の新たな説明に、後輩君は、またたずねた。尋もその話については興味深そうな表情で、昇先生を見つめた。


「政権運営というか、政治家は、自分を支持してくれている人や団体に、基本的に顔向けをしている。利益誘導ともいいますが、そういう所へ利益を与え続けるのは現実的に難しい。仮に一時、政権に留まったとして、その間は利益を誘導出来るが、もしそれが長期になると、憲法の理念に反するというか、特定の個人や団体にのみ利益をを与えることに対する批判が必ず起こります。また、そうならないためにも、選挙によって権力委譲の起き易い構造にしています。その辺りを短絡的に捉えている連中は、政権争いに躍起になりますが、中長期的に物事を構えて見ている、あるいは考えている連中は、例え権力が委譲されても、その都度、業界団体にバランス良く依存しながら資金提供を受けつつ、代わりに利益誘導も続けられる。そういう交互に移り変わる状態です。」

昇先生は難しい話を淡々と答えた。

「へー。そうなんだ。ボクなんか、政治家って表向きは利他的なことをいうけど、実際は利己的なことばかりやっているって風に考えてたなあ・・。」

「ま、それは傾向としては事実かもな。」

尋は後輩君の意見を認めつつ、

「政治家本人は、本当に利他的に活動を行ってるって信じてるんだろうな。でも、実際にやってみると、何かと経費もかかるだろうし、規定の賃金だけでは賄えないから、つい関連団体から何らかの形で資金を受け取っちゃうんだろうな。で、権限もあるもんだから、所謂口利きを行って、そういう方面に顔向けをするのが、いつしか仕事の本質みたくなっちゃうのかもな。」

と、彼の意見を後押しするように説明をした。

「じゃあ、今回の教育改革は、何処向けの利益を目論んでのことなんですかね?。」

後輩君が、やや鋭い質問をしてきた。

「そりゃ、このままの状態の先に起きる現象に対処する団体や業界に向けて・・かな。」

「このままの状態の先っていうと、治安が悪くなって、教育現場から子供が減っていくから・・、やっぱ公安とかですかね?。

尋のヒントを元に、後輩君が推測してみた。

「いや、その方面の仕事は、国家が体を成す上では必要な組織だが、如何せん、生産性が無い。何か作り出したりとか、してるか?、そういう所が。」

「いや、してません。寧ろ、言葉は悪いけど、金食い虫かな。と、なると・・。」

「そう。先の昇先生の話を拝借するならば、今回の改革は、仕組まれた可能性が考えられるな。学校に子供がいかなくなって、みんなが今後も学ばずに街中に溢れるだけか?。オレ達の職場は、どうなっていってる?。」

「ジリジリと生徒が増えていってる・・。ですね。」

「そう。従来ならば、景気の煽りを食らって、家計から教育費が割けない時など、入塾率は低かったよな。加えて少子化だろ?。先細りは必至だったしな。もし、そんな斜陽産業にリベンジの可能性があるとするならば、教育そのものの価値を謳っても、既に荒れてた現状から見て、みんなが再び教育に飛び付くとは思えない。となると、教育を受ける機会が物理的に減らされるって現象を起こせば、焦った人達は自ずと教育の場を求めて動き出す。そんな感じですかね?。」

尋は後輩君に説明しつつ、昇先生の方を見て、自身の理論を確認してもらうべく、たずねた。

「教育の提供が、公教育の場だけでは収まらなかったのは、受験が激化して学校では対処しきれなくなったのが背景にあります。そして、より受験に特化したものだけでは無く、公教育レベルの教務内容にもついていけない子供に対しても、復習という形で塾の需要というか存在意義が高まっていった。しかし、それも一定数以上の子供が存在していての話です。基本的には、資本主義は需要が無ければ成り立ちません。廃れるのが必至だった産業を無理にでも復興させるには、例え歪でも、需要を作り出す必要があった。現に、今の担当大臣は、我々と同じ教育産業畑出身。如何にも図式的というか、典型的ですね。あ、勿論、穿った見方をすればですけどね。」

昇先生の話と、先の尋の話が余りにも難しくなってきたと感じた後輩君は、突然、

「じゃあ、つまりのところ、今回の義務教育の廃止って、大臣がワザとやったってことですね?。」

と、結論づけてしまった。尋は慌てて後輩君の口を手で押さえた。昇先生も辺りの様子を窺った。

「いいか?。あくまで、推測!。そういうことは、本人が口を割るか、証拠でも無いと、タダの誹謗だ。だから、仮の話なの。あるいは、最初っから、そんな風には考えて無くって、偶然今んところ、そんな風になってるだけって考えとくの!。」

別に宴席での戯れ言を誰かに聞かれても構わないと、尋は思ってはいたが、何故かしら、現在の状況に対して、尋は妙に引っかかる部分があった。自身の中だけでは思い過ごしかもとも受け取れたが、昇先生の明快な解説が伴っては、偶然と捨て置くには少し怪しい気も、次第にし出した。


 宴もたけなわとなり、三人はそろそろ店を出ることにした。と、

「ちょっと待ってね。」

と、尋先生は店のドアを開けて、外の様子を窺った。

「よし、誰もいない。いこう。」

そういうと、勘定を済ませて、三人は店を出た。

「何を警戒してたんです?。」

「待ち伏せ。」

後輩君の質問に、尋は小声で答えた。

「え?、あんなこと位で?。」

「ああ。一旦事態が起きると、収拾が付かなくなるというか、根に持たれると、しつこいからなあ・・。」

尋は前日の出来事を含め、このような事態が続発していることを懸念しいた。そして、決して触れない、近付かないことしか方法論が無い点についても、何ともやり切れない気持ちを持っていた。

「このままでは、階層の分断化が進んで、スラムが発生しますね。」

昇先生が懸念の声を上げた。

「アメリカみたいにですか?。銃とか撃ち合ったり、ドラッグが横行したりの?。」

「いや、規制は世界一厳しいから、銃が出回ることは無いです。ただ、ドラッグについては、既に低年齢化も起きてるし、学校に通わなくなると、いくアテが無くなるから、暇を持て余したり、鬱憤が溜まったりすると、増加の一途を辿るかも知れませんね。」

「特に、アジア諸国と比べて、厳罰化が無いからなあ・・。」

後輩君のスラムに対するイメージは、アメリカの固定化されたものだったが、其処まで過激では無くとも、町の荒廃と経済や生産性の低下は、もう既に起きようとしていた。昇先生の解説に、尋も状況のやるせなさを吐露した。

「でも、そんなに薬物って、手に入るものなんですか?。」

後輩君は無垢な顔でたずねた。

「キミは本当に幸せ者だなあ。じゃあ、本当は良くないことだけど、ちょっと見せてやるか。」

そういうと、尋は盛り場から少し離れた高架下に二人を案内した。

「いいか?。あんまりジロジロ見るなよ。」

と、後輩君に注意を促すと、数十メートル先に地味な格好をした男性が立っているのを顎で差した。

「何すか?、あれ。」

「売人。」

「え?、何の?。」

「ヤクに決まってるだろ。」

「えっ!。」

尋は何気なく伝えたつもりだったが、後輩君は驚いた。すると、

「誰か男の所に近付いていきますね。」

「シーッ。見ててみな。現金と引き換えに、小さなものを手渡すから。」

尋のいった通り、近付いていった人物がお札らしきものを手渡すと、男はポシェットから小さい物を手渡して、二人ともサッと距離を置いた。

「うわっ!。あんな風に買えちゃうんですか?。」

「・・うん。残念ながらね。特に今はスマホがあるし、決まった場所で取引はしないらしいね。」

「ってことは、昔は特定の場所で行われてたと?。」

「うん。固定電話しか無かったからね。でも、最終的に手渡しってのは、あんまり変わってないかな。」

尋の説明に、後輩君はえらく関心を持った。

「何でそんなこと、知ってるんですか?。昔、やってたとか?。」

「馬鹿野郎っ。」

尋は後輩君の額を軽くピシャリと叩いた。

「ボクじゃ無いけど、同級生全員が、必ずしも真っ当に暮らしてるって訳じゃ無い。だから、そういう知り合いから、妙に漏れ伝わってくることもあるのさ。」

「へー。でも、ヤクって、どうやって入手してるんですかね?。」

後輩君がそういうと、

「昔は自分達で作ってたらしいです。」

と、昇先生が答えた。後輩君はさらに前のめりで関心を示した。

「日本に流通するものは、大麻、覚醒剤、コカイン、合成麻薬などがあります。最近では新手のドラッグ類も出て来てますが。で、大麻は日本でも自生しているし、室内でも栽培は比較的容易です。それに、合法化している国も少なくは無いので、海外の人と交流があった際に、意外にガードが低くて驚かれるようですが、それが切っ掛けで広まるケースが多いですね。」

「へー、そうなんだ。で、それって、接種すると、どうなるんですか?。」

「葉を乾燥させて、巻き煙草の要領で吸引すると、弛緩効果があるといわれてます。つまり、リラックス出来ると。」

「じゃあ、覚醒剤は?。」

「芥子の花の蕾から採取します。生産地はアジアから旧東ヨーロッパといわれてますね。かつては日本にも広く分布していたみたいです。蕾に刃物で傷を付けると樹液が出て来るので、それを少しずつ採取して、固めたり、精製したりします。使用方法は、吸引、接種、あと、直接飲料に混ぜて飲んでも効果はあるようです。効果は、パッと目覚めて、眠らなくて済むから覚醒といわれてますが、長期使用すると、恍惚感と虚脱感が交互に襲ってきて、やがて廃人になります。」

「うわーっ。何かのCMで見たのと同じっすね。」

「あと、コカインは中南米が原産で、葉から採取されるらしいですが、高価な上に、ルート的には、この国に持ち込むのは厳しいみたいです。その他の薬物は、ユーラシアの大国で生産されてるとは聞きますが、情報がアングラ化していて、状況はなかなか掴めていないようですね。」

昇先生は異様に詳しい解説を述べた。


 後輩君は感心しながら、

「でも、どうしてみんな、薬物に手を出すんですかね?。」

と、素朴にたずねた。すると、

「あのな、薬物の歴史とか、調べてみたこと無いのか?。」

と、あきれ顔に聞き返した。

「アヘン戦争とかなら学校で習いましたけど。三角貿易の。」

後輩君の極めて浅薄な知識に、尋は昇先生の顔を見つめて、助け船を求めた。

「文字や文章による伝達が行われるよりも、ずっと以前から薬物を含む植物の使用はあったとされてますね。所謂シャーマンっていう呪術師が気持ちを高揚させて、トランス状態に自身がなったり、周囲をさせる目的で用いられていたのが起源といわれてますが、恐らくは、それよりも遥かに古くから、気持ちが良くなる成分を含む植物などを、人類の祖先は既に知っていたんでしょう。そして、コミュニティーや村、国家が形成されて、文明が興ったのは、それよりも遥かに後のことだったんでしょう。だから、そういう機構や権力構造によって取り締まろうとしても、全く無くならない。成り立ちの歴史の深さが異なるといった方がいいかな。」

相変わらず、昇先生の博識ぶりが窺えた。

「そうだったんですか!。知らなかったなあ。」

あっけらかんと後輩君がいうと、

「それにな、現代社会はストレスフルな状況がイッパイだろ?。そして、逃れられない人間関係の苦しみとか、そういう様々な負の状況から抜け出そうにも、すぐには抜けられない。そんなときに薬物が近くにあると、使用中は、例え一時でも現実から逃れられる。いわば、短絡的快楽さ。その行為自体も、使用者の体を蝕むのに、そういう薬物は、闇社会の資金源としても大きなウエイトを占めてる。つまり、需要と供給のバランスが残念ながら成り立ってるのさ。」

尋は無知な荒廃君を若干睨みながら答えた。

「へー。でも、そうなったら、国としては秩序が乱れてしまうから、国力が落ちたりとか大変になっちゃう訳だし、何より、国が荒廃して、かつてアヘンで苦しんだ某国みたいになっちゃうんじゃ無いですか?。」

「それはありますね。」

昇先生は、そう遠く無い先に起こるであろう事態を予測しつつ、淡々と話し出した。

「国の荒廃は、もう既に起こっている、そう考えてもいいと思います。現に、子供達の素行が悪くなっているのに、義務教育の現場に子供達をつなぎ止めようとする動きが後退した。この部分はミスリードだと思います。しかし、だからといって、荒廃に対する危機感やモラルの高まりを良しとする価値観を啓蒙するには、状況はあまりに酷い。寧ろ、無秩序な方向に傾くのを暗に望む傾向があるのではと思う事もしばしばです。」

「そうですよね・・。教育に対するモチベーションの低下は、それ自体が単体で起きた現象では無い。その原因が別の、もっと根深いところにあるならば、教育はいいものだ、必要なものだと謳っても、見向きはされませんからね。」

二人の小難しいやり取りを遮る形で、

「でも、教育って、いいものなんですよね?。」

と、後輩君が口を挟んだ。

「いいもの・・かあ。」

尋は天を仰いだ。あまりに直球の暴投だったからだった。しかし、

「じゃあ、何で子供達はやりたがらない?。」

尋も直球で返した。

「えっと・・、それはあ・・、面倒だからじゃないですか?。」

「じゃあ、それは、いいものなのかな?。」

後輩君は言葉に窮した。

「いいか?。いいものと、必要なものとは、別物だ。勿論、オーバーラップしてる部分も少なからずあるが、勉強はそうでは無い。特に子供にとっては。彼らはそのことの真価を解ってない。寧ろ、苦行のように捉えてしまう。でも、何らかの形で教務内容を身に付けなければ、社会に出たときに労働力としてどの辺りに社会参加しながら経済活動を行うかが変わってくる。そういう位置取りの基盤として必要な事ではある。そういうことかな。」

尋は、単に論理の定義が不十分だった後輩君の至らなさを指摘しようとしたが、結果的に親切心が勝って、アレコレと説明を加えた。

「ところで昇先生。」

尋に感謝の言葉をいうどころか、後輩君はまたもや自身の好奇心が勝った。

「先生はさっき、妙に薬物に詳しいなって思ったんですが、ご自身で試してみたことは?。」

と、またもや大暴投の直球を投げた。しかし、返ってきた答えは意外なものだった。

「ありますよ。」

後輩君と尋は目が点になった。逆に、昇先生は何故そんなに不思議がられるのかが解らなかった。

「留学してたら、大抵はやるんじゃ無いですかね?。」

「留学・・・ですか?。」

「ええ。」

確かに、某国では日本に比べて一部の薬物に対してはボーダーが低いか、場合によっては合法とされている所もある。そういう環境に飛び込んだとき、それらが文化として行われていれば、同じように其処で暮らす人達と同様の経験をするのは、当たり前なことだろう。こちらの側の基準が正しいという考え方は、常に誤りを孕むものである。


「あの・・、」

「何か?。」

「ああいうのって、一回やったら、常習性とかは無いんですか?。」

後輩君が不思議そうにたずねた。

「まあ、種類にもよるでしょうね。ワタシは葉っぱとスノウを少しやっただけですね。付き合いでやっただけなので、その関係が無くなると、全くやらなくなりました。」

「じゃあ、常用する人は、そういう関係が何時までも続くからってことですか?」

「どうなんでしょう。一度で快感を得すぎた人は、再度するかもですが、大抵は、人間の関係性というか、社会構造と相関関係は強いですね。」

「関係性・・ですか?。」

「そうです。」

後輩君の質問が続き、昇先生は淡々と続けた。

「人間は孤独感に苛まれるのを極端に嫌います。だから、普通は誰かと関係性を持とうとします。しかし、それでも上手くいかないことも往々にしてある。あるいは、既に周囲が自立を阻む環境、例えば仕事が常に無い状態であったり、スラム化している場合、同時的に薬物が入り込んでいるか、あるいは蔓延していることが多いようです。ワタシが留学していたところは、特にそういう環境ではありませんでしたが、隣接はしていました。なので、地続きだと容易に入って来ちゃうようですね。」

昇先生は他の国々が深刻な薬物問題を抱えていることを説明した。尋は、薬物そのものの説明よりも、昇先生が留学した地域が社会階層によって分断化されつつも、近隣にスラムが存在することで薬物が広がる温床になっている点に耳を傾けつつ、懸念した。

「うーん、さっき見た光景は、残念ながらこの辺りでは以前からあるものですが、これからは、こういうことが頻発する危険性が高まるってことですかね。」

尋は、やはり公教育の提供が、何らかの形でそのような状況を抑制するブレーキになっているのではと、あらためて感じた。

「その点については、可能性としては考えられますね。ですが、この国も、敗戦や混沌とした時代は経験を経験している。なのに、他国と比べて、薬物の蔓延する度合いは高くないというのも、事実、あります。厳罰という意味では、他のアジア諸国の方が厳しいはずなのに、初犯で執行猶予程度のこの国の方が蔓延度が低いのは、実に不思議なことです。」

「それは、民度が高いからですかね?。」

後輩君が、また妙な単語を使って質問をした。昇先生は答えに窮した。

「あのね、それは正確な言葉じゃ無いんだよ。」

尋が後輩君を窘めた。

「え?、そうだったんですか?。」

「ああ。自国民と他国民を比較する際、何らかの基準を設けて比較しないと、感情的な対比にしかならない。極端にいえば、差別を助長しやすい単語ってことかな。」

「じゃあ、何て表現すれば・・、」

「ま、具体性は欠けるけど、文化レベルとか、知的レベルって風にはなるかな。」

「そうですね。外国にいけば、文化の相違というのはあからさまに実感しますね。そして、その文化圏の中にも、教育水準の差が地域的に生じていて、それらは経済性、つまり、裕福か貧困かで分断されている。そして、互いに交わらない現実が横たわっている。その隔絶した状況というのが、問題を長引かせる要因であるのは間違い無いでしょうね。」

「そうなんだ・・。じゃあ、この国って、そういう溝みたいなものが、あまりくっきりと存在してないってことなんですかね?。」

「うん。何せ小さい国だからね。局所的に問題とされる地域があっても、決して広くは無い。しかし、局所的なるが故に、地下に潜って存在してるってのはあるのかな。さっきみたいに。この辺りも、全体的には、あんな取引をやってるような地域じゃ無いけど、そういう行為が存在出来てるのは事実ってことかな。」

三人の議論、というよりは、後輩君に対する二人のレクチャーはその後も続いたが、好奇心が故というよりも、無知なるが故に好奇心が湧き上がることを、二人はあらためて感じていた。

 学校は静粛さを取り戻し、授業がスムースに行われている様子がニュースで伝えられるようになった。それは当然である。問題行動を起こす生徒を、法を背景に一掃したのだから。反面、午前中から行き場を失った子供達が街中に散見される様子は、一切報じられることは無かった。地域的な差もあって、全体的にそのような雰囲気が広がっていた訳では無いようで、地方や東の都市部周辺では事前に十分な警戒と準備が成されつつ、教育の改変が実施された。しかし、尋達がいる西の都市部では、荒んだ状況が目立っていったにも関わらず、その様子が伝えられることは無かった。地上波は報道統制が密かにしかれているようだったが、ネットでの拡散すら成されていないことに、尋はある種の不気味さを感じていた。

「このまま収まるとは、流石に思えないなあ・・。」

尋は、自身の周囲の状況が何らかの火種となってしまう可能性を懸念していた。


 学校側から通うことを暗に拒まれた子供達は、ますます学習塾への入塾を希望するようになっていった。他の教室では、公教育の現場が設けるボーダーに沿った形で、銃塾前に綿密に面談を行い、学力や素行に問題が無いと判断された子供だけが入塾を許可されていた。つまり、政府の意向を汲む形となっていった。一方、尋の属する教室や、そこと同調するスタンスの塾は、丁寧な面談は行いつつも、敷居を高く設けるということは無く、結果、生徒数は増えていった。と同時に、

「殊の外、学力の低下は著しいですね。」

「これは通常のペースで授業をしているどころでは無いですね。」

と、相当な学力の荒廃が見られる子供達に、如何にして新たに基礎学力を備えさせるかが急務となっていった。

「尋先生、この教材を使用しようかと思ってるんですが?。」

同僚が、本来の学年よりも一学年下げた教材を持って来て、それを授業に取り入れようと提案してきた。

「うーん、確かに抜けている基礎の部分を補うためには、そのような内容を挟むのは重要だけど、じゃあ、それだと、ますますペースは遅くなるよね?。」

「でも、このまま本来の学年の授業内容も並行して行うと、やるべき事が二倍になってしまって、結果、どちらも身につかなくなるのでは?。」

尋は既に、この手の質問を千度されてきた。かつては進学塾を謳う所が多かったため、ペースは塾側がイニシアチブを取っていた。つまり、スピーディーな授業が主流だった。ところが、学力の低下が表面化して来るにつれて、補習塾の需要も徐々に出てきた。それは一見、学校のペースに追いつけない子供達の救いの場のように思われたが、実は公教育の現場で行われる授業は、もっとも遅いスピードであった。それを基準として、着いて来られる子供向けの場所が、即ち公教育の現場だった。そして、そのスピードをさらに遅くしても、着いて来られない、いや、着いて来ようとする目的意識やポテンシャルを伴わない子供が急増したことが、学力低下の最大の問題であった。

「教室長は何と?。」

「いえ、それはまだ話してませんが・・。」

尋の質問に、同僚は案の定、独自の判断でカリキュラムを変えようとしていた。

「授業の中で、瞬間的に板書しながら復習問題をさせるのはいいと思うけど、テキストの決定と変更は、かなり基軸に関わることだから、一度相談した方がいいよ。」

その点に関しては、尋は比較的シビアに同僚に伝えた。講師の入れ替わりが激しい教室では、そのような行為が引き金となって、教室運営にトラブルが生じやすいことを、尋は知っていたからだった。そして、尋が今日の授業の準備をしていると、

「尋先生、ちょっといいかな?。」

と、早速、教室長から声がかかった。他でも無い、先の件だった。

「学力の低い子供達に、新たな教材を挟みたいという提案があったけど、駄目なのかな?。」

尋は、一瞬、耳を疑った。

「あの、現行のテキストを決めた時、教室長はその場には居なかったんですか?。」

「うん。社で決めてたことだからね。発言権とかも無かったし。」

尋は、やっぱりといった顔をしつつ、

「前の会社がこのテキストでいこうと決めた背景というのが、必ずあったとは思うんです。そして、そのテキストの消化を、時間配分と照らし合わせて遂行するのが重要なので、その部分の議論や意思統一が必要です。」

と、教材の決定という行為が、一年間の指導に際して如何に大切かということを伝えようとした。

「じゃあ、急に変更するのは良くないということかな?。」

「慎重に行う必要はあると思います。」

尋は、そうとだけ伝えて、授業の準備を再開しようとした。

「じゃあ、教材は今のままでいくとして、新たに来た子達の学力が著しく低い点については、どう対処すればいいかな?。」

教室長は、新たに大きな問題を持ち出してきた。尋は開いていたテキストを閉じて、

「一つの教室、一つの授業で、それぞれの学力層の子供達が満足のいく授業を提供するというのは、現実的に不可能です。従来は、公教育の場でスタンダード的な授業を一本ラインで行っていて、それに着いて来られる子供だけに意味のある授業となっていましたが、それでは駄目だというので、進学クラスやベーシッククラスといった風に、学力別にラインを複数化してました。つまり、学力に応じたラインを設置するのであれば、クラス分けをさらに行う必要があります。」

「つまり、特進クラスと従来のクラス以外に、さらにもう一つ設ける必要がってことか?。」

「はい。」

尋はかなり実現性の低い想定を提案した。学力別のクラスを多数設立するのは確かに理想的である。しかし、それだけ人手も人件費もかかる。そして何より、教育の現場は決して生産性の高い職場では無い。寧ろ、何らかの補助を得て、ようやく実現するものである。尋は、それを承知で案を述べた。


「そうか・・。それは重要な問題だなあ。尋先生は、どうすべきだと思う?。」

尋は逆に質問されることを想定していた。本来ならば、上司からこのような質問が来た場合、自身の能力や判断力を試されていると考えて、必死になって答えを述べようとするだろう。しかし、尋はそうはしなかった。それを決めるのが、みんなを率いるリーダーの務めだと考えていたからだった。さらにいえば、今は尋が逆に教室長の度量を試していた。

「ワタシは教室長の判断に従います。」

と、尋は端的に答えた。

「解った。じゃあ、もう一クラス増やす方向で考えてみるよ。」

その発言は、尋にも意外だった。その選択は、間違い無く授業のコマが増えることを意味する。つまり、其処に費用が生じる。いい換えれば、それだけのことをしても、一クラスを増やす意義があるという判断を、教室長はしたということだった。しかし、尋はその判断について憂慮した。様々な経験や英智に基づいた判断ならば、十分な説得力はある。しかし、ただ単に学力の異なる生徒達を、授業がし易いように機械的に分けるという作業を続けては、いずれは経費倒れに陥る。尋はその先に何が待っているかを知っていた。かつて勤めていた塾で、同様のことがあったからだった。その塾では、際限なくやり易いように授業のシフトを増やし続けた結果、経費が嵩むのに加え、講師のスキルが上がらないという事態に陥った。結果、経営が立ちゆかなくなり、尋は其処を去ることになったのだった。同じ轍を踏ませないようにするには、そのことを指摘するのが先決かも知れない。しかし、尋はそうはしなかった。

「では、講師を増やさずに、シフトを別曜日に設けて、そこで一クラス作るようにした方がいいですね。」

尋は何気に提案した。

「おお!、確かに。でも、それだと、そのコマを担当する人に負担がかかるなあ・・。」

教室長は経費よりも、労働量を見据えていた。それは賢明な判断ではあった。無闇にコマ数を増やして、人手は増やさないとなると、当然、一人当たりの労働量は増してくる。その分をペイすれば、形の上では報いたことにはなる。しかし、それはあくまで形の上での話である。そして、尋は知っていた。人が自信を報いられたと思える術には、金と精神があるということを。人は、ペイが十分に成されれば、かなり過酷な労働にも耐えることが出来る。ただし、ある程度までの話ではあるが。逆に、精神を充足させるだけのタスクであれば、人はペイに関係無く、その労働をやり遂げようとする。ただし、それもある程度までで、それ以上を強いると、人は消耗し、やがては憔悴仕切ってしまう。尋は、そういう、やり甲斐搾取を最も懸念していた。何事も、理想に燃えている当初は、夢や希望を抱いて人は懸命に働く。しかし、それが何ら成果をもたらさないと気付くと、辛坊の出来ない者から離れていく。そして、その後も同様のことを続けていくと、辛抱しても理想を実現したいという心と、そのために費やすエネルギーとの間に得もいえぬ開きを感じ、いつしかその理想が実現不可能な物と感じるようになる。その辺りを、丁度いい具合まで働かせようとするのが、やり甲斐搾取である。

「あの、尋先生。そのクラスを新設するのは、現在の基礎学力が壊滅的な今、本当に必要なことだとは思うんだ。かつて焼け野原だった時代に、その直後からでも、学校は例え後者が無くとも再開されたって話は聞いたことがある。今は、校舎も教材もあるけど、現実は脳内が焼け野原だろ?。この現実を変えていくには、それでもやっぱり教育って必要で大事なものなんだっていう、信念じゃ無いかな?。」

尋は教室長の言葉を聞いて、

「そうだと、ボクも思います。」

と、大きく頷いた。この人は、みんなを牽引していける何かを持っているかも知れない。其処には、具体的なビジョンも戦略も、いまいち乏しい感はある。しかし、少なくとも信念とは何かというのを、この人は知っている。尋はそう感じた。

「じゃあ、持ち回りでも何でも、まずは実施在りきの方向でいきましょう。」

尋は彼の、教室長の場当たり的なスタンスが嫌いでは無かった。いや、何事も最初から結果が見えていることなど何も無い。だからこそ、大抵の人は慎重になり過ぎて、新たな一歩を踏み出さない。それよりは、例え行き当たりばったりであっても、前に進む方が先決じゃないか。そんな風に、一本ネジの飛んでいるような、それでいて、根拠の無い自信が伝播していく様を、尋は心地良く感じていた。上手くいかないことも、往々にしてある。そういうものだからこそ、互いの至らぬ部分を補いつつやっていくのが仲間ではないか。尋は、先日の昇先生との話を思い出していた。今、目の前に仲間がいる。そして、その彼をサポートするのが、今の自身の務めなんだと。

「教室長。アナタはますます、教室長になっていきますね。」

「何だ、そりゃ?。」

尋は揶揄うでも無く、ただ素直に彼に感じたことが口をついて出た。


 実際には経営という経済基盤が安定して上手くいくことが全てではあるだろう。職場無くしては仕事は無い。しかし、いくら教室や制度が出来たからといって、教育を行い続けるには、建物や経済性を超えた何かが必要である。やる気や熱意、そのような抽象的な言葉では、それは到底実現し得ない。寧ろ、すぐ覚めてしまう。

「そのことが、好きで居続けられるかどうか。そして、教えようとする内容を、まだ理解していない子供達に、ちょっとでも実感を持てるように、具体的に説明出来るかどうか。これに尽きるよなあ・・。」

尋は常々そう考えていた。好きかどうかが解らないまでも、給与という形で何らかの支払いがあれば、人はその仕事を続ける。しかし、それが不透明になると、少しでも安定性の有無を確かめるべく、疑心暗鬼になる。行っている作業に対して信念が無いと、途端に揺らぐ。その点に関して、尋は教育の必要性、普遍性について独自の考えを持っていた。

「人類が学びを放棄したことは、一度も無い。文明を築き上げる際も、その担い手となる、教育を受けた人々が、それを為し得た。そして、その行為は時代が進んでも変わることは無い。人は学びを求める。」

そのことが、人類史上初のこととして否定されようとしているのが、ひょっとすれば今なのかも知れない。しかし、昨今の事態は、人類の教育を尊重してきた歴史に比べれば、極めて些末である。そして何より、一定の層は常に学びを欲している。教育の現場が荒れ、施すことが無駄になっているように見えるのは、別の何らかの要因が一時的に及ぼしているだけと考える方が、寧ろ自然であろう。ただ、直面している現象の当事者には、それが絶対であるかのように感じてしまう。

「人は律することを求める側面と、面倒として嫌う側面の両方がある。その領域の間にある境目を如何に認識させ、実践することの大切さを伝えるのも、教育の役割だろう。」

こんな風に、尋は小難しく論理的に、教育とは何なのか、その本質とは何処にあるのかと、暇を見つけては考えることがよくあった。しかし、教育論を論じることと、現場で教育に携わることは、同時進行のようで別物である。理論が実践の役に立たないことも往々にしてある。分析により、理論が得られるのは後になってからの話である。まずは実践在りきで、物事を進める必要がある。その際、求められるのが行動力である。

「オレの理屈も、教える現場があってこその話だよなあ・・。取り敢えずは、教室長を支えつつ、着いていくか。」

やり続けることの中にしか、答えは無い。尋はそう思いつつ、目の前にある作業に取り掛かった。

 結局は、後輩君の意見が発端となって、クラス編成が一つ加わった状態になったが、その分の仕事の負担が生じることになった。

「さて、キミのいってたように、基礎学力を補うべき子供のクラスが出来たぞ。これで学力差を心配しながら授業をすることは無くなったな。」

尋は後輩君にいった。

「はい。これで教えやすくなります。」

後輩君は目を輝かせて、そういった。すると、

「じゃあ、新設のクラスはキミが重点的に指導するのかな?。」

と、尋はたずねた。

「ええ。そのクラス用に教材も新たなものを使おうと思うので。」

「じゃあ、キミが作ろうとしてたプリントがあったろ?。あれ、持って来てごらん。」

尋はそういうと、少し前に後輩君が用意していた基礎問題が並んだプリントを持って来させた。

「この部分の説明って、生徒にどんな風に教えるの?。」

と、尋は数学の簡単な文章題を差して尋ねた。

「えっと、これは速さの問題だから、距離分の時間で・・、」

「距離分の時間って、距離÷時間の分数のことだよね?。じゃあ、何で距離を時間で割ると、速さになるの?。」

尋は、生徒が質問をしてきそうなことを、想定問答でたずねた。

「えっと、それは、速さを求めるときの公式で・・・、」

早々、後輩君は眉間に皺を寄せて脂汗をかき始めた。

「あの、尋先生。生徒がそんな質問を、してきますかね?。」

「じゃあ聞くけど、公式も知らない、覚えてない生徒に、その公式をどうやって教えるの?。」

尋は現実を突きつけた。

「えっと、だって、公式は公式だから・・。」

「な。そういうと思ったよ。まるで地面に雑草が生えてるように、初めから公式なんて、転がってる訳じゃ無いんだよ。その公式が、どんな風に発明されて、どういう風に役立つかを説明して、聞いてる側は初めて公式の何たるか、何処で使うのかを知るんだよ。そういう、当たり前のことを、当たり前じゃ無い所から教えるのが、今度作られるクラスの主な仕事だよ。上手く理解出来ない子供達は、どんな角度から質問をしてくるか、全く予想が付かない。だからこそ、どんな角度から質問が来ても、説明が出来るようにしておく必要があるのさ。」

尋の言葉に、後輩君は複雑な面持ちになった。

「そ、そんなこと、ボクに出来るんでしょうか・・?。」

尋は半笑いになりながら、

「出来るかじゃ無くて、やるんだよ。ま、いっぺん、速さの公式がどんな風に作られてるかを、何かで見ながら、自分なりに説明を組み立ててみな。」

そういうと、尋は後輩君の方をポンと叩いて自身の作業に戻った。


 相変わらず、新規入塾の需要は高く、学校で通常の授業を受けられない子供を何とかして欲しいと、保護者が引っ切りなしに訪れてくるようになった。そんな様子を見て、他塾も面談の際に高いボーダーを設けるのを、次第にやめるようになっていった。塾というのはどこか一箇所が一人勝ちしていても仕方が無い。全体として地域の教育レベルが上がる事が第一であるからだ。学力を付けて就職に優位な学歴を得るのは個人にとって必要なことだが、そのような動きが全体で起こることが、総じて国力の向上にも繋がる。それ故、教育は国の礎を成す作業と呼ばれる。

「尋先生、西の方で始まった、教育の無償化の動き、こちらの方にも波及して来ますかね?。」

教室長が今朝のニュースについてたずねてきた。

「うーん、そうですね。やはり、ただというのは魅力的でしょうからね。あと、何より、少子化ですから、実施がし易かったんでしょうね。例え財源が税金であっても。」

尋は、数年前から某市で実施された、塾代の助成制度のことを話した。毎月一万円程を上限として、私的な教育機関にかかる費用を市が負担するシステムが行われ、利用者は年々増えていった。その背景には、国の与党とは異なる等が、その市では市政を担うようになったため、ある意味、画期的な教育改革が成された。そして、今度は公立高校、さらには私立高校までもが、その助成制度の対象になっていった。高校教育の完全無償化である。

「私立高校というのは、かつては公立の滑り止めとまでいわれてましたよね?。」

「ええ。」

「なのに、偏差値の高い所では、公立よりも圧倒的に大学への合格実績がいいってのもあって、お金に糸目を付けずな私立需要もあったと思うんだけど、それが公立と同様に授業料が無償化されると、差別化って意味では、どうなんだろう?。」

教室長は自分で状況を分析するよりも、理屈立てて説明をする尋の意見を求める事が多かった。

「公立の最大の魅力は、授業料の安さでしたが、入学の際には、試験結果とは別に、素行などを評価した内申書の点数がものをいってましたね。で、その内申点が足りない、いわば素行があまり宜しくない生徒がいくのが私立って構図もあったようですけど、その辺りの差が、どんどん無くなっていくかもですね。」

「やっぱり、そうだよなー。でも、私立は公立に比べて、授業の進度とレベルは落とさないから、大学入試を視野に入れるなら、公立よりも私立の方が人気が出るってことには、なってくのかな?。」

「その可能性は高いと思いますね。まず何より、教員の立場が根本から違いますね。公立は公務員、私立は教員免許を持っているか、あるいは教えるスキルがあれば、その立場は問われません。給与に差があるならば、当然、高給をペイ出来る私立の方が、教員のモチベも上がるでしょうね。」

「そうかー。ま、でも、いずれにしても、学費の面で進学を諦めてた層が無くなるってのは、教育を受けられる総数が増えるってことであって、いいことではあるのかな。」

教室長は、無償化の動きに対して肯定的な受け止め方をしていた。尋はそれについては黙っていたが、横で話を聞いていた昇先生が、

「多分、それは違うと思います。」

と、あっさりと否定した。

「え?、どうして?。」

教室長は何故、自身の考えが否定されたのか、全く解らない様子だった。

「ただより高いものは無いからです。初めこそ、人は無償で貰えることに感謝を抱きます。ですが、それが常態化すると、ただで貰えることを当然と考えるようになります。残念ながら、それは心理的な問題です。つまり、贅沢を覚えてしまったら、経済状況が貧しくなっても、生活レベルを落とせないままでいるのと同じ心理です。」

昇先生は、相変わらず、立て板に水で説明をした。

「じゃあ、無償で教育を受けた人達が、感謝の念を抱かなくなると?。」

「はい。現に、公教育の場も、平和なこの国で税制も十分だから実現しているのに、みんな、それを当然のことと受け止めている。そして、いつでも施してもらえると勘違いしているから、面倒だといって授業を放棄するような現象が往々にして起きる。今回の教育改革も、その末に生じた、いわば因果応報な制度です。なので、それと同じような現象が、無償化を実施した地域では顕著に生じていくと思います。」

尋が危惧していながらも口にしなかったことを、昇先生は見事にいい放った。

「教育の贅沢病・・・かあ。」

教室長は、言い得て妙な表現をすると、腕組みをして考え込んだ。


 基礎学力の低下が甚だしいのに加えて、公教育の現場が荒れたことに端を発した改革も、結局は低学力層を切り捨てるという形で、塾などの外部への丸投げの状態になりつつあった。そのことを、教室長も痛感はしていた。

「尋先生、実際のところ、どうなんだろう?。確かに学校からあぶれた子供達が通塾してくれるのは、教室の利益にはなるとは思うけど、現実問題として、そういう層の子達に、学力を備えさせるのは、可能かな?。」

教室長は、教育現場が常に晒されている本質についてたずねた。

「うーん、実際的な話をいうと、完全にというのは、無理ですね。どうしても、相対的にってことにはなりますね。で、今は極端に悪い状態なので、それを少しでも上げていくようにするしか無いとは思います。」

「そうだよなー。我々のすべきことは、それに尽きるもんなあ。」

「そうですね。どんどん底上げが難しくなってきてますが、やるしか無いですからね。」

教室長と尋は、自分達がやろうとしていることに対して、決して疑いを持っている訳では無かった。ただ、過去と比較して、現状があまりにも酷くなっていることを目の当たりにしていたので、ついそのような話題が出てしまうのだった。

「あの、これは、以前いた塾であった話なんですが・・、」

と、昇先生が体験談を話し始めた。

「とある親御さんが、自分の子供の成績が上がらないといって、クレームというか、相談をしてきたんですが、まあ、この仕事をしていれば、ある話です。ですが、その子供について簡単に分析をしてみると、決められた曜日以外は教室に来ないし、家で勉強をしている様子は全く無かった。そして、中学生だったんですが、テスト前に集中的に対策を打っても、其処にも姿を見せず、決められた日しか来なかった。で、結局、点数は思うようには上がらなかった。実に当たり前な話ですが、それでも親の贔屓目とでもいうか、そのようなクレームはしばしばありました。」

「うん。此処でも御同様だよ。」

昇先生の話を聞いて、教室長も頷いた。

「あれは一体、どういう心理なんだろうなあ・・?。」

教室長が疑問を呈すると、

「羞恥心は、なりを潜めてますね。子供を預けて、お金を払ってるんだから、成績を上げて当然だろうって感じですかね。恐らく、其処には根本的かつ重要な背景があるのかな・・とは思いますね。」

「と、いうと?。」

「経済効率でしょうね。」

教室長の問いに、尋はちょっとした解説を始めた。

「よく、最小の努力で最大の効果をという言葉を聞きます。コスパがいいってやつですね。確かにそれは、経済的で効率がいいですが、勉強というのは、寧ろ、その対極にある作業です。最大限に努力しても、その効果の程が僅かにのみ現れたり、あるいは、現れるのに時間がかかるのが普通です。そのことを理解していないと、昇先生がいった親御さんのような発想になってしまうんでしょうね。」

尋がそういい終えると、

「そう、それ!。それなんだよなあ。努力の成果が現れるまで、みんな、辛坊が出来ないんだろうなあ・・。」

教室長がそういうと、

「あの、それは、ちょっと違うかも知れないですね。」

と、昇先生が水を差すようにいった。

「教育は、全員のためにあるものでは無い。これは現実です。」

何やら冷たい空気が、みんなの周りを包んだようだった。

「場所や機会の提供は、国の経済力がある所では普通に行われます。でも、それだけです。それを元に、施された教育を、自身の者に出来る割合は、半数以下、いや、もっと少ない。単純に、教科書の内容を完全に理解して、テストで回答出来る割合を考えてみれば、分かり易いと思います。つまり、教育とは、最高に記憶力や理解力のある子供を基準としています。そして、それに準ずる習熟率の子供は、その恩恵を受ける事が出来る。しかし、それ以下の層では、こんなことをやって、将来何の役に立つのかという疑問を抱いたまま、学校を卒業する。それが教育の本質です。」

「何か、身も蓋もない、いいかただなあ・・。」

昇先生の話を聞いて、教室長は、それが事実とはいえ、若干受け入れ難いというような顔をした。しかし、

「うん、ボクも概ね、同じようには思ってました。それぞれの子供に合ったものを、学校は提供出来ません。なので、どうしても、一律なものを宛がおうとする。その方が、相対評価が簡単だからです。その結果、相対値の高い生徒が、進学の際に学校を優位に選べて、その後の就職も優位に行える。ただ、その層に入れなかった子供達は、学校で学んだことを全て無駄に感じているのかというと、そうでは無い部分が少なからずあるかなと、ボクは思いますね。ただ、残念ながら、そういうのは数値化するのが難しいので、評価はし難いんですが。」

と、昇先生の話も十分肯定しつつ、尋は、それだけでは無い、教育現場の別の側面についても触れた。

「結局、全ての経験が、頭の中で想像力なんかに結びつくし、そういうものをベースにして、色んなものに興味が湧いたり、様々な方面に仕事として携わっていく。ぼんやりとした表現ですが、それが、総体的な人間の精神活動だったり、経済活動に繋がっていくんでしょうね。」


 教室長は尋の話を聞いて、ようやく希望のようなものを見出したようだった。

「学校で学んだことが、必ずしも進学や就職に直結出来なくても、それぞれの人生の中で、何らかの局面で役に立つ瞬間があるってことかな。それだったら、教育を全体的に施す意味があるというか、そうとでも思わなきゃ、やってられないよなあ。」

教室長の考えは、実利的というか、役に立つかどうかを基準にしていた。尋は、その点については、正直疑問を抱いていた。勿論、社会で何らかの評価を得られるべく、学ぶのが教育という側面なり期待感の持てる部分ではあるだろう。しかし、そういう多謝との関わりの上に成り立つものだけでは無い、もっと、個人の奥底に関わる精神性や、宇宙の果てに想いを馳せるような好奇心などは、寧ろ、実利とはほど遠いだろう。それでも、そのようなことを考え続けるためには、知識や様々な判断材料が必要になる。その場合の学びは、極めて個人的なものである。そういう所に、人は心震わせるのではないか。そして、より学びを求めるのではないか。そんな風に、尋は常々考えていた。だが、そのようなことを口にしても、同調されることは無いだろうという思いが先に立ち、尋は人に話すことは無かった。すると、

「我々は、学びの恩恵に肖った側の人間です。だからこうして、子供達に勉強を教えることを生業にすることが出来ている。しかし、世の過半数は、そうでは無いです。それでも教育というものが重宝されるのは、ある意味、幻想を抱いているのだと思います。学べば、明るい将来を手に入れられるという風に。」

昇先生の辛辣な分析が、また始まった。

「幻想・・ねえ。そうだよなあ。みんなが学んでも、みんなが同じように良い成績が得られる訳でも無いし、必ず幸福になれるって訳でも無いからなあ。でも、学ぶことによって、その辺りがちょっとでも変革させられるのであれば、学んでみようって。思うんだろうなあ。」

昇先生の話を、教室長は相変わらず頷きながら聞いていた。

「尋先生、どう思う?。」

「ボクですか?。あの、これは自分でも、少し変かなとは思ってるんですが、みんな、必ずといっていいほど、幸福を求める方向性を想定しますよね?。ボクは、それが正直、理にかなってないのかなって。」

教室長の質問に、尋は心の奥に抱いていたことを述べた。

「それはつまり?。」

「はい、人には幸福になる権利があるって文言は、憲法とかに書かれていますが、でも、人生のほぼ全てが順風満帆な人間なんて、まずいないと思います。大抵は上手くいかなかったり、自身を不幸の側にいることが解っていても、それに目を瞑っているのかなと。でも、逆に、そんなに幸福に満ちた人生を追い求めるのでは無く、普段というか、場合によっては不幸な人生をも肯定する方が、寧ろ気が楽になるのかなって。だから、人間は不幸になる権利もあるって。そう思うことで、自身の選択で人生を生きる事を、結果がどうあれ、肯定的に受け止めれるのかなって。」

尋がそういうと、教室長は少し考えて、

「うーん、何か実に奥の深い話だなあ・・。」

と、しみじみとした様子で答えた。すると、

「それはまるで、禅の教えのようですね。今を、そして、此処を受け入れる。其処には比較など一切存在しない。あるのは自身とそれを包む世界。そんな感じですね。」

昇先生の様々な分野に関する造詣の深さが、また窺えた。

「いやあ、其処までは考えて無かったですが、現状を肯定的に捉えるか、逆に否定的に捉えるかで、其処から先に対する取り組みや結果が変わってくるような気が、何となくしてたんです。現状が嫌で堪らないということも勿論ありますが、でも、そう感じている原因を見つめて対処しないと、同じことが繰り返されるようには思ったので。」

尋は謙遜しつつ、しかし、自身が経験的に辿り着いた心境のようなものを言葉にした。

「うーん、成る程なあ・・。刹那的に生きることが不幸になる権利かなと思ったけど、そうじゃ無くって、無闇に幸福を追いかけないって姿勢ってことかな?。それなら、何となく頷けるなあ。今のままでいいというと、努力や向上を怠ってる風にも聞こえるけど、そうじゃ無くって、目の前のことを、しっかり眼を見開いて受け止めるって姿勢は、やっぱり大事だもんなあ。」

教室長は、いつも最後は尋の言葉に救われるような感があった。しかし、そのことを感じていたのは、彼だけでは無かった。昇先生も、次第にニヒルなスタンスが懐柔していくのを、不思議な心持ちで受け止めつつあった。


 こんな風に、尋達は時間があれば密なコミュニケーションを取りつつ、教室の運営や方向性について話し合った。そして、義務教育の場からあぶれた子供達を受け入れながら、少しずつ規模を拡大させていった。それ故、基礎学力のほぼ無い子供達を教える大変さは、日を追うごとに増していった。周囲の同業者達は、あまり積極的にではなかったが、尋達と同様に、やはりあぶれた子供達を受け入れるようになっていった。

「やっぱり、進度がなかなかです。」

後輩君は、授業の度にカリキュラムが消化出来ないことを嘆いていた。これまでのやり方なら、理解不足の子に構わず、速度を保ちつつ淡々と授業を進めるというのが子本的なスタイルだったが、今は違う。基礎が伴っていない子供達に、それを補いながら授業を行う作業が中心になってきたので、必然的にペースは落ちる。そこで尋は、

「じゃあ、こう考えようか。虚数平面や微分方程式にまで辿りつける子が、どれ程いる?。」

と、後輩君にたずねた。

「うーん、そりゃ、多くは辿りつけないかと。」

「じゃあ、辿りつけなきゃ、教える必要は無いかな?。」

「いえ、四則計算とかは、日常生活でも必要になる計算だし、そういうのは要りますね。」

「だよね。じゃあ、何処までが必要で、どこからが必要無いか、線引きって、出来るかな?。」

「いや、それは・・。」

「うん。そうだよね。でも、通常、学校では決められた学年で、決められた内容まで到達することが求められる。教育指導要領ってやつだよね?。一応、便宜上、何年生までにどこまでを学ばせるって風に決められてるけど、実際、その通りに到達している子が少ないのであれば、それは、学べてない子が悪いのかな?。それとも、そんな一律な決め方が悪いのかな?。」

尋は、少し誘導じみた質問をした。

「それは、後者じゃないですかね?。」

「うん、ボクもそう思う。人の理解力なんて様々だし、成長段階も様々だから、いつ覚えられるようになるかなんて、決めてる方がおかしいかな。でも、だからといって、完全に覚えられるように、教育期間を何十年もってやってたら、社会に出て働く時間が削られちゃう。だから、ある程度の所まで習得したら、世に出るようになってる。で、学んだことを実施出来るそれぞれの場所で、人は働く。確かに、スピードを落とさないのは、学ぶモチベーションを下げさせない一つの方法論ではあるけど、完全さより、自分が何処までやれたかの方が重要かな。」

尋は一見、優しそうに答えつつも、実は両方のことをしっかりと実施するようにと、後輩君に暗に伝えていた。

「解りました。じゃあ、ペースを出来るだけ落とさないように、何とかやってみます。」

幾度となく尋に質問をしたり、みんなの話を聞く中で、後輩君は自身の発言が事実から出たことなのか、それとも単なる甘えから出たことなのかを、次第に見抜けるようになっていった。

「あの、一つ聞いていいですか?。尋先生は、勉強で苦労はしなかった方ですか?。」

「え?、どうして?。」

「だって、お話がいつも例え上手で具体的だから。あの、此処だけの話ですが、昇先生みたいなタイプだと、ご自身が優秀なのは解りますが、みんなに理解出来る、分かりやすい話が出来ているかというと、そうじゃ無いじゃないですか?。難しすぎるというか、抽象的というか。」

後輩君は、結構的を射た質問をしてきた。

「あの、極少数は、勉強で苦労なしな人もいるだろうけど、大抵は何らかの苦労はしてるんじゃないかな?。ボクもそうだし。小学校ぐらいまでは普通に出来たかなとは思うけど、中学校以降は、淡々と暗記して進んでいくスタイルには、あんまり付いていけて無かったかな。」

「じゃあ、何でそれが出来るようになったんですか?。やっぱり、努力のお陰とか?。」

尋は、後輩君の言葉が気にかかった。

「うーん、努力は確かにしたけど、その言葉で括っちゃうと、何をどう努力したかが解らなくなるだろ?。ボクは、高校ぐらいの時に、学校の速度と自身の理解力が完全に乖離しているのを実感して、それをどうやれば元に戻せるのか、既に解らなくなってたなあ。」

「じゃあ、それを、どうやって修復していったんですか?。」

「まあ、一言でいうと、申し訳無いけど、時間をかけて、ゆっくりと自身の理解と納得を結びつけながら学んだって感じかな。お陰で、何年も浪人はしたけどね。はは。」

尋は自身の身の上を語り出した。

「先にいっておくと、浪人は年数をかけて、すればするほど学力が上がるものじゃ無い。寧ろ逆だ。でも、そのことに気付いて、これを最後にというか、その一瞬を如何に真剣に取り組むかってのが解れば、後はひたすら、納得よりも先に決められたことを身に付けるという作業を行う。それしか無いっていうか、そうやって、ある程度トレーニングをしたら、定期的に模試とか小テストで、自身の到達度を測る。そういうのを、四の五のいわず、納得するってのを後回しにして淡々とやれる人が、スマートな人ってことなんだろうね。」

尋は勉強の極意のようなものを、後輩君にサラッと伝えた。


「そっかあ。じゃあ、勉強に困ってる子達も、尋先生みたいに、そんな風に自分のペースで学べる時間があれば、勉強が無駄にならないって訳ですね?。」

尋の話に、後輩君は目を輝かせながらいったが、

「さあ、それはどうかなあ・・。」

尋はあまり気乗りしない返事をした。

「申し訳無い事だけど、ボクが諦め駆けてた勉強に再び着手するようになったのは、ある意味、偶然だからね。そんな風に、みんながみんな、偶然を上手く拾えるって訳では無いと思う。だからこそ、勉強を提供する機会と場所は常に設置しておいて、そういう偶然であっても、それが少しでも多く生じるようにするのが、公教育という意味では本来必要なことなんだろうけどね。でも、現実問題、今はその逆のことを国が始めちゃってる。だから、我々のような者が、国に代わってその機会を担保する必要があるんだろうな。」

尋は、一生の間にある限られた時間の中で、如何に勉強というものに携わることが出来るかということの、いわば瞬きのようなものを大切にすべく、後輩君に諭した。

「そうかあ・・。折角の機会を、必ずしも、ものに出来るという訳では無いと言う意味が、少し解った気がします。そして、それでもやはり、尋先生が具体的に説明がするのが上手いというのも、よく解りました。」

後輩君は珍しく、矢鱈と質問をしてくる姿勢を切り替えたようだった。

 いつものように授業を終えると、尋達は生徒を送り出して、後片付けを始めた。

「尋先生、今日、この後、いいですか?。」

後輩君がたずねてきた。昼間にしていた話の続きを聞きたいらしかった。

「うん、いいよ。ちょっとならね。」

「ちょっとッスか?。」

「冗談さ。」

全ての作業を終えると、二人は近くの公園まで歩いていった。そして、尋は自販機で缶コーヒーを二つ買って、一つを後輩君に差し出した。

「はい、どうぞ。」

「あ、すいません。ボクから誘ったのに。」

二人は金属の柵の所に腰掛けると、話し始めた。

「今日、尋先生の老人時代のお話が出たので、ボク、そういうの、先生から聞いたことが無かったから、どんな浪人時代だったのかなと思って。」

後輩君は、会った人の人となりを尋ねるのが好きらしかった。

「キミは、現役で合格したの?。」

「あ、はい。」

「そっかあ・・。」

尋は、何か意味ありげな相づちを打つと、コーヒーを飲んだ。

「ボクのいってた高校は、偏差値的に中途半端な位置でね。入学当初はみんな、自分が進学出来ると思い込んでるけど、そのうち、学力の壁というか、現実に直面すると、半分近くは進学を諦めるような所だったなあ・・。」

「へー、そうなんですかあ。」

「でも、夢を諦めきれない連中は、自動的に予備校にいって、さらに進学を目指す。」

「じゃあ、それで先生も合格したんですか?。」

「いや。全然。擦りすらしなかったね。」

「え?、予備校にいったのに?。」

「はは。あのね、予備校って、それなりの基礎力が無いと、いっても意味は無いよ。で、当時のボクには、それすら無かった。」

「じゃあ、二浪したんですか?。」

後輩君がそうたずねると、尋は缶コーヒーを飲みながら、静かに指を四本立てた。

「え!、四浪ですか?。」

「そう。大抵は一年か二年浪人して、駄目ならまず諦める。でも、ボクの場合、初めの二年は真面に勉強どころか、放蕩三昧してたからなあ・・。」

「放蕩・・って?。」

「字の如くさ。夜の街をぶらぶら彷徨って、友達の家とか泊まり歩いたり。たまに家にも帰ったけどね。」

「じゃあ、その後、一念発起して勉強したと?。」

「いや、それが、そうでも無かったなあ。ただ、ある時に、真剣に勉強を始めようとしたけど、やっぱり基礎が無いってのに気付いてね。だから、予備校には通ったけど、解る授業だけ出て、それ以外は自習室でひたすら基礎問題を解いてたよ。申し訳無くも、有り難い時間を頂いたなあ。」

「なるほど・・。じゃあ、四年間ずっと勉強をしていた訳では、」

「全然。でも、これが最後だなあって気付いてからは、全身全霊で勉強したなあ。もしそれで駄目でも、もう悔いは無いって感じで。」

「じゃあ、それでようやく?。」

「うん。人生で、あれほど何かを真剣に学んだ記憶は、後にも先にも、一度っきりかなあ。そして、それが成功体験というか、自身の支柱のようなものには、なってるかな。」

尋がしみじみとそういうと、

「そうなる前と後とでは、何が一番変わったなって思います?。」

後輩君がたずねた。

「合格の前と後ってこと?。うーん、正直、合格の前後というよりは、最後の一年を始めるときに、心の中で、人生のシフトチェンジ的なイメージはあったかなあ。ボクは別に運命論者では無いけど、人間の人生って概ね、定められたレールの上を歩むものかな・・って思ってたなあ。でも、自身で人生を思い描いて、それを実現していくってことが果たして可能なのかどうかは、やっぱり自分で試してみるしか無いかなって。」

尋は、その時の記憶を、まるで昨日のことのように思い出していた。


「初めから、ある程度以上の記憶力や思考力が備わっている者には、勉強が出来ないっていうことの苦労は、なかなか解りにくいよね。人は別人の人生を歩む事は出来ないからね。でも、ボクの場合、自分が出来なくなった瞬間というものが確実にあった。それがそのままだったら、再び学ぶという選択肢というか、出会いは無かっただろうな。恐らくは、それよりも早い段階で、勉強に縁の無い人は、諦めに近い感情を抱いているんだろうなあ。ボクは、そこん所が、何故か、どうしても納得がいかなかった。ま、諦めが悪かったんだろうな。この先学ぶことを、理解して進む人生と、理解せずに進む人生。その二つの差というものが、この先、どのように開いていって、どんな風な人生をそれぞれが歩むのか。ボクは、何か大きな忘れ物をしたまま、その後の人生を過ごすのが、何となく、いや、無性に嫌だったような気がする。でも、すぐには学んだり理解することは出来ない。だから、自分に納得のいく言葉を見つけながら、何度も具体的に言葉を添えて、自身で説明しながら思考を前に進めていく。それが如何にのろまな学びか・・ってのは、ようく解ったよ。」

尋はそういいながら、コーヒーを飲んだ。

「なるほど。じゃあ、尋先生の説明が分かり易いのは、そういう苦労があったからこそってことなんですね?。」

「うん。そうかも知れないね。ボクはそういうのを、アナログ的思考って呼んでるけどね。」

「アナログ・・ですか?。」

「うん。デジタルっていうのは、高度に記号化された端的な言葉というか記号を最小に組み合わせた、殆ど感覚を伴わない思考って感じかな。コンピューターの電算処理が二進法という簡単な手段を組み合わせて行われるような。一方、アナログっていうのは、解らないことが出て来た時、そのことに対して不思議さや悔しさ、あるいは興味っていう感情を伴う、そういうものの考え方っていうか、つまりは、人が聞いて馴染みのある言葉として受け入れられる思考かな。ボクは自身がデジタル的に思考するのに、まあまあ早い段階で限界を感じた。数学や物理を学んでいくと、次第に数式だけの世界になっていって、極めて抽象的になっていく。そうなると、大抵の人間は、思考というよりも、感覚が追いつかなくなる。逆に、そういう感覚を無視しながら、概念や論理だけで淡々と前に進める人間が、デジタル脳なんだろうな。」

「よく、数学の無用論で取り上げられる話題ですね?。」

「そう。ボクも、自身に必要が無かったら、敢えて数学を学ぼうとは思わなかっただろうな。でも、自分が進みたい進路に、どうしても受験科目として組み込まれている以上、それを避けて通る訳にはいかない。だから、やむなく苦手だった数学もすることになったのさ。」

「え?、尋先生、数学、苦手だったんですか?。」

「そうだよ。」

後輩君は、日頃から数学を子供達に教えている尋の姿からは、想像出来ないといったような表情をした。

「小学校の算数までは、説明に具体的な物が出て来るだろ?。リンゴや車で数や速さを図示したり。でも、中学以降は、純粋にグラフや図しか出て来なくなるし、高校では図も出なくなって、数式やその変形ばかりの世界になっていく。そりゃ、日以上生活に馴染みの無いものばかりだから、苦手意識は募る一方さ。そうとは知らずに、解らなかった部分を復習したり、時間をかけて勉強したりってしなかったら、ますます学力は遠のいていく。そして、そういうものと縁を切ったとしても、日常生活で困ることは、殆ど無い。」

「確かに。」

後輩君も、尋の話に頷きながら、コーヒーを飲んだ。

「正直、数学なんて、我々のような仕事か、数学者でもない限り、大人になってからも、やってる人は、まずいないだろうな。でも、例え受験のためだけとはいえ、一度離れた数学を再び真剣に学び直していくと、この科目が如何に学問の基礎を成しているのかが、何となく解った気はしたな。」

「へー、どんな風にですか?。」

「数学の解法って、慣れたり上手くなると、端的な方を選ぶだろ?。そして、扱う現象が複雑に成る程、さらなる高度な数式や関数が必要になっていって、それを使いこなすには、さらに式を変形しながら思考を進める必要がある。そうすると、其処にこの世の仕組みみたいな物が見えてくるだろ?。」

「この世の仕組み・・・ですか?。」

尋の話は通常は具体的で分かり易かったが、流石に数学の話を同じように伝えようとしても、なかなか上手くはいかなかった。後輩君は、きょとんとした顔をした。

「まあ、ボクもよくは解らないけど、宇宙が球体をしていることを、数学的に証明した人物って、いるよね?。」

「えっと、ペレルマンのことですか?。」

「そう、それ。」

尋はとある天才数学者を例に挙げた。


「数学って科目は、兎角、取っつきの悪い科目だよね。学べば学ぶほど、数式が高度に抽象化していって、次第に頭がついていける割合が極端に減っていく。それで、選ばれし僅かな人達は、さらなる難問に挑む。確か、ペレルマンが挑んだのは、ポアンカレ予想ってやつだったかな。宇宙の端は、球体をしているって予想を立てたけど、それを証明すること無く、この世を去った。それが百年以上前だったかな。で、その後、幾多の数学者達が、その難問に挑戦したけど、誰もその答えを導き出すことは出来なかった。中には精神を病んで、挑戦どころでは無くなってしまった人もいたそうだ。」

「え?、数学のし過ぎで、頭が壊れちゃうんですか?。」

後輩君は、驚いた様子でたずねた。

「はは。別に数学じゃ無くても、頭や心が壊れちゃうことは、まあ、あるよ。ま、それはともかく、人間に本来備わった能力以上に脳を働かせ過ぎちゃうと、日常生活にも支障を来すんだろうな。で、先のペレルマンって若者が、一人黙々と、その難問に挑み続けて、そして、ついに、その証明を為し得たと。」

「じゃあ、宇宙は丸いってことですか?。」

「うーん、数学的にというか、理論的には、そのようにいえるってことかな。誰も、そんな所にいったことは無いし、それが正しいってことになるのかどうかは、ボクには解らないな。でも、彼には、ペレルマンには、この世の誰よりも、層である可能性が高いってことが、実感を持って理解が出来たんじゃないのかな。そして、それは彼の主観じゃ無くて、数式的な証明だから、客観性がある。つまり、いつ、何処で、誰がその検証を行っても、同じ結論に達する。それが、この世の仕組みを見出すってことなんじゃないかな。」

「なるほどなー。そこまでのことを発見出来て、やっぱり、それって最高の気持ちなんでしょうね?。」

「うん・・。それが、どうやら、そうでも無いらしいんだ。」

尋は熱の籠もった説明を繰り広げたが、後輩君が無邪気に賛同したことに対して、少し躊躇しつつも、その先の真実を述べ始めた。

「彼の発見と証明は、数学界のみならず、さまざまな科学の分野に影響をもたらしたとされている。でも、肝心の数学の世界で、そのことが十分に賞賛されなかったらしい。つまり、彼が説明しても、この世も誰も、彼の頭に付いていけなかったらしいんだ。」

「え?、そうなんですか?。」

「うん。彼が証明した数式が本当に正しいかの検証作業には、その後、数々の数学者によって何年もかかったみたいだし、何より、そんな大それた発見をしたというのに、その後、彼は忽然と姿を消したらしいしね。」

「そんな世紀の大発見をしたのに、何でなんですか?。」

後輩君は、やはり無邪気に尋に質問をするばかりだった。

「それはボクにも解らないよ。ただ、聞いた話では、かなり厭世的な生活になっていって、仕事も辞めて、殆ど誰とも会わず、気が向けば森でキノコ採りをするだけの毎日なんだとか。まあ、推測だけど、人間の脳が機能出来るのは、ある程度具体的な範囲と、一部の抽象的な範囲だけなのかもなあ。で、それを超えて、著しく抽象的な思考を行うには、まだ人間の脳は、そこまでは進化してないってことなのかもな。」

尋の話を聞いて、後輩君は少し神妙な表情になった。

「だったら、子供達に勉強を教えるってことは、その先に、そんな風に、頭を駆使しすぎて壊れてしまうって事もあるってのを、込みで伝えたり考えたりする必要があるってことかなあ・・。」

「うーん、それは、ちょっと違うかな。」

「え?、どうしてですか?。」

尋は後輩君の、つい短絡的な結論に走ってしまう部分を諫めた。

「別に数学だけじゃ無くても、何でも過度にしたら、無理がたたって体も心も壊れる。過労とかは、最も分かり易い例だよね。でも、そのことを否定的に捉えたら、人は努力を賞賛したり、限界に挑むってことをしなくなる。そういうチャレンジが無ければ、自身も社会も発展は無い。それでも敢えて挑むかどうかは、社会の問題では無く、個人の問題さ。」

「個人の・・ですか?。」

「そう。過労死が起きる背景は、会社が経済効率を優先するあまり、人間の健康に対して蔑ろになっているからで、そういうのが色んな職場全体を覆っているならば、それは社会を変える必要がある。でも、もし、そんな会社に就職してしまっても、その中で頑張るか、あるいは理不尽と思ってやめるか、あるいは、気付かずに消耗してしまって死に至るかは、個人の選択なんだよ。」

尋はそういうと、コーヒーを飲みながら、後輩君を見た。

「え、でも、その個人の生き方が間違わないように、社会が手を差し伸べる必要があるのでは?。」

「それは、干渉しすぎかもな。ボクだったら、無闇に健康に、幸福に生きろっていわれたら、やっぱり嫌だな。」

尋は、常に心の奥底に秘めている、人間には不幸になる権利もあるというのを、此処でも後輩に披露した。


「現実問題、世の中のみんなが幸福に生きるってのは無理だろ?。そうありたいと願う人が殆どだろうってのは解るけど。そして、ちょうどその境目のような所に居る人間を見た時に、上手くやれば幸せな方にいけるのにって思う人も、まあ、いるだろうね。でも、それをどちらにするかは、その境目にいるひと自身の問題さ。そして、その際、物事を考えて、何が自分にとって最適かを選ぶかどうかは、知識や思考力、つまり、判断材料にかかっているってのはあるだろうね。でも、それを駆使して幸福とされる方向に進むかどうかは、その人が置かれている価値観の問題ってことかな。」

「価値観・・かあ。」

尋の言葉に、後輩君は神妙な顔で考え込んだ。

「それは、その人自身が長い時間をかけて築き上げるものだし、その過程で、勉強というものが、どれほど関わっているのかは解らないけど、それが少しでも、その人にとっていい方向に進む役割を担ってるんなら、勉強というか、学びの機会を少しでも多く提供しておく価値はあるかな。ボクはそんな風に考えてる。」

そういうと、尋は勉強至上主義的とは、自身が一線を画していることを示唆した。

「じゃあ、勉強しない人はしない人で、それぞれに合った仕事をしていればいいってことですね?。」

尋は、後輩君のあっけらかんとした発想に、思わずコーヒーを吹き出しそうになった。やはり、どんなに力説をしてみた所で、真意の伝わらない者もいるというのを証明する結果になったと、尋は全身の力が抜けた。尋は、学校が限られた期間内に教務内容を学ばせようとするだけでは無く、世の中には、何時でも、何処でも、学びの気持ちをが心の中に起きれば、それを実現する機会があるということ、そして、それを通じて、自身とこの世の関わりや仕組みについて、より学びたいという知的好奇心がさらに芽吹く可能性を話してるつもりだったのだが・・。

「ま、そんだけ元気なら、それでいいや。」

そういうと、尋は後輩君の方をポンと叩いて立ち上がった。

「何すか?、それ・・。」

後輩君は、少し不服そうだったが、

「じゃあ聞くけど、健康に勝るものって、あるかい?。」

と、尋はたずねた。

「・・・いや、無いです。」

「だろ?。」

と、尋は後輩君が、さっきの話を全然理解していないことを、またもや確認出来てしまう結果となった。

「じゃ、いこうか。」

そういって、二人がその場を立ち去ろうとしたとき、

「ちょっとすみません。」

そういいながら、警官が二人近づいて来た。尋は、職質だと察すると、すぐにポケットから身分を証明するものを用意した。

「何ですか?。」

後輩君がぶっきらぼうに訪ねた。

「二、三、お伺いしたいことが・・。」

警官がそういうと、尋はカードを提示しながら、

「我々は、このすぐ傍にある学習塾の講師です。」

と、職質を手短に済ませようと、淡々と話した。しかし、

「何かあったんですか?。」

後輩君は、呼び止められたのを快く思って無かったのか、警官に質問を浴びせた。

「近所でちょっと騒ぎがありましたので、巡回をしてます。」

「騒ぎって、何の?。」

「子供達の騒ぎです。」

「じゃあ、ボク達、関係無いじゃないですか。ボク達が子供に見えます?。」

と、後輩君は、やけに警官に絡み出した。

「あ、いえ、そういう訳では・・。」

警官がたじろぐと、尋が間に割って入った。

「すみません。質問に答えますので、必要なことを聞いて下さい。」

と、少し作り笑顔で、警官が無闇に心象を損ねないように努めた。

すると、若い警官は明らかに嫌そうな顔をしながら、質問を始めた。後ろには少し年配の警官が立っていて、尋の方を見ると、少し申し訳なさそうに会釈をした。尋も後輩君の態度が明らかに空気を悪くしているのを気にかけて、後ろの警官に同じように会釈した。一通りの質問をした後、警官がお礼をいって立ち去ろうとしたとき、

「あの、もしよかったら参考までに。この辺りで、何があったんです?。」

と、尋は小声で年配の警官にたずねた。

「実は、傷害事件がありまして。被疑者は少年らしいんですが、刃物を持っているようなんです。」

思ったより事態が深刻だと解ると、

「あの、風体とか解ります?。もし同じ格好をしている子を見つけたら、すぐに通報出来ると思うので。」

と、尋は情報を聞き出そうとした。すると、警官は被疑者の服装と身体の特徴を尋に伝えた。

「解りました。少し注意して見ておきますね。どうも、ご苦労様です。」

「ご協力、感謝します。」

二人は互いに礼をいいあうと、その場を離れた。

「何で礼なんかいうんですか?。とんだ人違いなのに。」

後輩君は、まだ職質をされたことが気に入らなかったらしかった。

「ああいう風にするのが彼らの仕事だし、そうやって、町の治安を守ってくれてるんだよ。」

尋は当たり前ながらも重要なことを伝えようとしたが、後輩君の耳には届いていなかった。そして、そのことが、後の悲劇に繋がることになるのを、二人は知る由も無かった。


「やっぱり、学校って所が子供達を通わせておくことが、色んな意味で安全性を高めるってことなんですかね。」

後輩君が歩きながら尋にたずねた。

「うーん、あんまり大きな声ではいえないけど、家にも居場所がない場合、まずは学校って子も、結構いたからなあ。学びの機会に無縁であったとしても、何らかの居場所として、其処を提供しておくってのは必要だったろうな。」

目に見えて治安が悪くなっていく状況を、尋は如何ともし難いという風に捉えつつ、でも、自分達に何か出来ることはないのかと、そういう思いに駆られていた。

「でも、この国はまだ銃の規制があるから、そういった意味では、重犯罪が頻発しなくて、まだ良かったですね。」

後輩君は、この国の現状を、どうしても甘い目で見ているようだった。尋は、銃の有無は事件の程度には関わるが、規模やその拡大には何ら関係が無い、寧ろ、教育の放棄がその規模の拡大に繋がることを危惧していた。そんなことも、やはり後輩君に語るのは、何となく忍びなかった。と、その時、

「ふんっ!。」

と、尋達が歩いている道の真横にある暗い路地から、人影らしきものが飛び出してきた。

「ドンッ。」

すると、その影は後輩君の右横から彼にぶつかってきた。その拍子に、人影は少し躓き、二人の目の前に倒れそうになって、顔を見上げた。

「あ!。」

尋は思い出した。以前、繁華街で対峙した、あの少年だった。彼は右手に何かを持ったまま、慌ててその場を立ち去ろうとした。

「おい、キミ!。」

そういって、尋は少年を追いかけようとしたが、

「あれ?。何だろう・・。」

と、後輩君が奇妙なことをいい出した。

「ん?、どうした?。」

尋が振り返ると、後輩君は脇腹を押さえながら、その場に蹲った。

「痛てててて。何か、濡れてて・・、」

まさかと思って、尋は後輩君の脇腹辺りを見た。服は鮮血で染まっていた。尋は慌てて上着を脱ぐと、それを丸めて枕代わりにした。そして、後輩君を地面に横たえて、

「いいか?。今から救急車を呼ぶからな。しっかりするんだぞ!。」

尋は彼に聞こえるように大きな声でそういうと、少し震える手で携帯で救急車を呼んだ。場所と被害状況を簡単に伝えて、尋は一分足らずで電話を切った。そして後輩君の顔を見た時、

「おい!、しっかりしろ!。」

と、大声を出さないと聞こえないと思うほど、彼の顔からは血の気が失せていた。

「尋先生、オレ、どうなっちゃうのかな・・?。」

「大丈夫だから。大丈夫だから。」

尋は動揺を隠すように、しっかりした声で体に触れながら、彼に何度も声をかけた。その様子を見つけた警官が駆け寄ってきて、

「どうしました?。」

とたずねてきた。

「今し方、同僚が刺されたようなんです。」

尋は後輩君に聞こえないように、警官の耳元で状況を伝えた。

「犯人は、どんな感じでした?。」

警官が細やかな質問をしてきたが、尋は後輩君のことが気になって、それどころでは無かった。そして、

「犯人は少年で、この方向に走っていきました。」

と、少年が逃げた方向を指差した。そして、

「救急車は呼びましたし、ボクが此処にいますから。」

そういうと、警官は慌てて無線で連絡をしながら、尋が指差した方向に走っていった。その間も、後輩君は見る見る弱っていった。

「尋先生、さ、寒い・・、」

彼は掠れるような声で、尋に訴えた。

「大丈夫。オレがいるから!。救急車もすぐ来るからな!。」

そういいながら、尋は後輩来んの肩をギュッと握って元気づけようとした。しかし、それが本当に伝わるのか、最早尋には解らなかった。狼狽する自分、何に対してか解らないが、悔しい気持ちでいっぱいの自分、出来るものなら、自分が変わってやりたいと、本気で思う自分。色んな気持ちが交錯する中、ようやく、遠くから微かにサイレンの音が耳に入ってきた。

「ピーポーピーポー。」

すると、救急車が現れ、次いで、

「ウーッ。」

と、警察車両も猛スピードでやって来た。救急隊員は、後輩君の姿を見ると、必要な機材を素早く車から降ろし、彼をそっと担架に乗せながら、酸素吸入を始めた。

「通報された方ですか?。」

「はい。彼の同僚です。」

尋はそういうと、警官にこの場を離れていいか訪ね、そして、後輩君と一緒に救急車に乗った。仰向けになって何かいいたげに、後輩君は血だらけの手を動かしていたが、酸素マスクが邪魔をして、声が聞き取れなかった。尋は彼の手を取りながら、

「オレは此処にいるからな!。此処に!。」

と、何度も何度も彼の耳元で叫んだ。そして、車はほんの数分で近くの救急病院に到着したが、後ろのドアが開いて、隊員達が担架を下ろそうとした時には、彼は既にぐったりしていた。

「今から緊急手術に入りますので。」

待ち受けていた医師がそういいながら、付いてきた尋を待合室で制した。尋は訳が分からなかったが、

「宜しくお願いします。」

とだけ伝えた。その後、手術中のランプが点灯し、尋はドアの外で呆然としながら、立ち尽くしていた。


 尋はどうしていいか解らなかったが、無意識に横にあるソファーに腰をかけた。すると、さっきまで後輩君を元気づけることで必死だったのが、急に気が抜けたようになった。と同時に、足先から震えが来た。尋は急に怖くなった。無性に寒かった。そして、震えは足から上半身に伝わり、腕から肩口にかけて、摩らずにはいられなかった。その内、歯もガタガタと震えだした。

「畜生っ!、畜生っ!。」

何に対してか解らなかったが、尋は小声で何度もそういった。犯行に対するものなのか、自分に対する不甲斐なさなのか、言葉や理屈では片付けられない、何か途轍もなく嫌な感情が、一気に尋の全身を支配した。そして、

「ふんっ!。」

尋はそういう負なるものを振り払うべく、急に立ち上がった。すると、さっきまであれほど寒かった体が、一気に萌え滾るような感情に包まれた。そして、尋が手術室の前から歩み出した時、

「すみません。警察の者ですが、先ほど被害者の方と一緒におられた方ですね。」

と、刑事らしき人物が二人、尋の元にやって来た。

「はい。」

尋は二人とは目を合わさず、自分のいく先の方を見つめて、返事だけした。

「詳しくお話を聞きたいのですが、」

と、刑事は問いかけたが、尋は無性にこの場から立ち去りたくて、仕方が無かった。すると、

「おい・・、」

と、もう一人の刑事が、質問をした刑事に顎で挨拶をした。どうやら、尋のただならぬ様子を察知したようだった。

「尋さん!。」

すると、刑事は少し大きな声で尋の名を呼ぶと、両肩に手を置いた。

「はっ。」

尋は我に返ると、ようやく自身が二人の刑事に囲まれていることに気がついた。

「はい・・。」

尋が丁寧に返事をすると、

「いろいろ気持ちが昂ぶるのは分かります。ですが、我々も協力しますので、先ほど起きた事件について、そして、犯人の風体について、詳しく話して頂けますか?。」

と、刑事は優しく尋に語りかけた。

「あ、はい。」

そして、尋は先程遭遇した出来事の詳細、および、犯人の風体や特徴を可能な限り細かく思い出して、刑事に伝えた。すると、

「この犯人なんですが、見覚えはありますか?。」

もう一人の刑事が、尋にたずねた。

「・・いいえ。」

尋はそうとだけ答えた。一瞬、間があったのを刑事は少し不思議に思った様子だったが、

「ご協力、感謝します。」

そういうと、緊急配備中だったため、二人はすぐさま引き上げていった。尋は冷静さを取り戻すと、ソファーには座らずに、手術室の前で腕組みをしながら、ゆっくりと円を描くように歩き出した。そして、今、自分は必死で後輩君が回復することを、そして、犯人の顔を克明に思い出して、もし、警察よりも先に出会ったら、どうしてやろうかと考えていた。そして、もう何十周歩いただろうか、時間は深夜に達していた。すると、連絡を聞きつけた後輩君のご家族や、教室長、そして、昇先生も駆けつけた。尋は自身が連絡を取らなかったことを迂闊に思って、申し訳無く感じていたが、同時に、あれだけ混乱した感情の中にあっては、自身は本当にどうすることも出来なかったという気持ちも押し寄せてきた。

「尋先生、彼の様子は?。」

教室長がたずねた。

「すみません。連絡出来なくて。数時間前に手術室に入ったっきりで・・。」

「そうか・・。」

昇先生も近くに歩み寄ってきて、

「尋先生は、ご無事だったんですか?。」

とたずねた。

「ええ。急に彼だけが襲われて・・。」

「で、犯人は?。」

「現在も、逃走中のようです。」

昇先生は、ちょっと角度の違う不思議な質問を繰り返した。

「で、犯人の顔は、見ましたか?。」

「・・ええ。」

「それって、ひょっとして、見覚えのある顔だったとか?。」

尋は、何故昇先生は掲示のような質問をしてくるのかと思いつつも、

「実は、そうです。」

と、刑事にはいわなかった真実を、昇先生に伝えた。

「じゃあ、尋先生を付け狙った可能性がありますね。以前にトラブルというか、因縁めいたものは、ありましたか?。」

「うん、確かに。ちょっと絡まれたことがあって、事なきを得ようとしたんですが、なかなかしつこい少年で。」

「その時も、刃物を?。」

「ええ。」

質問を繰り返した後、昇先生は手で顎を撫でながら、少し考え事をしているようだった。そして、

「多分、その犯人、遠くには逃げてないですね。近くに潜伏している可能性の方が高いかも。」

「え?、それは一体、」

「もう一度、機会を伺ってる。そんなところでしょう。」

昇先生の推察は、先ほどの刑事とは比べものにならないぐらい鋭かった。そして、

「ところで、警察には全てをお話されましたか?。」

「・・・いいえ。犯人との面識については、一切。」

と、尋は昇先生の質問に、そう打ち明けた。

「なるほど。じゃあ、これは仮の話ですが、」

昇先生はそういうと、尋に顔を近付けて小声でいった。

「警察がアテにならないことは、往々にしてあります。そして、犯行が突発的では無く、周到に行われたのなら、高い確率で、また来ますね。身辺警護をしてくれないのであれば、我々が取り押さえた方が早いかも知れない。」

と、昇先生は驚くような提案をしてきた。


「此処で彼の無事を祈っても、我々に然程神通力があるとも思えません。彼らを助けるのは医師の仕事ですし、彼自身の気力の問題です。なので、我々は今すべきことをしましょう。」

昇先生の言葉は一見、冷たいようにも思えるが、尋にはその通りだと思えた。いや、寧ろ、彼の冷静な思考が有り難いとさえ感じた。あまりのことに、私憤から此処を飛び出して、すぐさま犯人を捜して仕返しをしようとしていた姿を、尋は覚えていた。どんなに理性的に振る舞おうとも、近しい人間が理不尽に命を落とすような羽目に遭っては、もはや自身では制御など不可能なこと。しかし、周りに冷静さを呼び覚ましてくれる人間がいてくれることで、社会は必要以上の争いをすること無く成り立たせることが出来る。尋はそう考えながら、

「じゃあ、やはりまずは犯人捜しってことで・・。」

尋がそういうと、昇先生は静かに頷いた。そして、

「どうしても犯人が本懐を遂げるべくかかってきた場合は、取り押さえるより他に仕方が無いでしょう。ですが、これから先、このようなことが少なからず起きる。ならば、その原因や構造的問題が何処にあるのかを、聞き出す必要があります。」

「うーん、果たして、冷静な話し合いが成立するかどうか・・。」

尋は、もし再び犯人と対峙した場合、その先に起こるであろう事態については懐疑的であった。しかし、社会の闇をそのまま放置した所で、光が差し込むことは無い。ならば、同じ悲劇が少しでも減る可能性に賭けてみてはどうかと、そう考え始めた。と、そこへ、

「あの、息子は、息子は無事なんでしょうか?。」

と、後輩君のご両親らしき方々が、着の身着のままで病院に駆けつけた。教室長が事前に連絡をしていたのだった。

「今、手術中です。」

教室長が宥めようとしたが、ご両親はおろおろするばかりだった。その様子を見た尋と昇先生は、眉間に皺を寄せた。

「今は、此処を動くべきでは無いですね。」

「・・ええ。」

二人はそういいながら、ご両親の状況が自分達の感情を昂ぶらせないように、互いに確認し合った。そして、待合室には、重く、長い沈黙の時が訪れた。ソファーに腰掛けたご両親は疲れ切った様子で、そして、教室長と尋、そして昇先生は立ったまま時間を過ごした。時折、昇先生が何処かへ携帯をかけに、その場から離れたは戻るといった行動を繰り返していた。そして、どれくらいの時が過ぎただろうか、

「パッ。」

と、手術中のライトが消えた。立っていた三人は、同時にその方向を見た。すると、執刀医らしき人物が中から出て来て、三人の方に向かって歩いてきた。尋は深呼吸をしながら、医師の様子を窺った。そして、

「あの、状況は?。」

尋が真っ先に口を開いた。すると医師はマスクを外しながら、

「予断を許さない状況ですが、一命は取り留めました。」

それを聞いた三人の顔に、表情が戻った。そして、疲労困憊の状態でソファーにかけていたご両親が立ち上がって、医師に縋りついた。

「有り難う御座います。有り難う御座います。」

二人は嗚咽していた。その様子を見ながら、尋は体に体温が戻るのを感じた。

「尋先生っ!。」

教室長が目に涙を浮かべながら尋の手を握った。尋も教室長の手を力強く握りかえした。そして、昇先生の方をふり向きながら、

「うん!。」

と、無言で大きく頷いた。昇先生も、力の籠もった目で、尋に向かって頷き返した。教室長はご両親に、尋が息子さんを此処まで運んだことを伝えた。

「すみません。どうも、有り難う御座いました。本当に、有り難う御座いました。」

そういいながら、ご両親は尋の手を取ってお礼をいった。しかし、尋には複雑な思いが渦巻いていた。犯人は、確実に自分を狙っていた。その犠牲に、後輩君がたまたまなってしまったことに対する申し訳なさ。そして何より、あれだけの深手を目の当たりにした尋は、正直、後輩君がもう駄目でなないかという、諦めのような、覚悟のような、そんな気持ちが心を支配していた。そして、それれが憤りとなって、直ぐさま犯人を見つけ出して、仕返しを敢行しようという状態に、自身をさせたのかも知れないと感じていた。そんな困惑を察してか、

「まずは、一番いい結果に落ち着きましたね。」

と、昇先生が尋の耳元で囁いた。それを聞いて、尋は自身の心の中にあった経緯や思いに囚われることよりも、幸いにして、本当に幸いにして訪れた結果に対して感謝すべきなのだろうと、ようやく気持ちに一区切りが付いた。すると、

「尋先生、ちょっといいですか?。」

と、昇先生が尋をみんなと少し離れた場所に誘った。

「はい?。」

「やはり非常線を張っているようなので、犯人はこの町からは逃げてないようです。」

と、先ほどの電話が知人からの情報であることを、昇先生は尋に伝えた。


 尋は自分が間違い無く待ち伏せされていることを理解していた。

「じゃあ、ちょっと教室長に挨拶してきます。」

尋はそういうと、教室長に後を任せて、自分達ははこの場を離れる旨を伝えた。

「いきましょうか。」

尋はそういうと、昇先生と共に病院を出た。表には警察の車両が止まっていたので、それを避けるように、スロープの陰からこっそり身を屈めて施設を後にした。

「それにしても、昇先生のお知り合いの方ってのが、気になりますね。」

尋は電話の相手のことをたずねた。

「あまり人にはいわないんですが、ボクには奇妙な友人がいます。」

「奇妙?。」

尋が不思議そうな顔でたずねた。

「ええ。犯罪心理学が専門のヤツなんですが、理論だけでは飽き足らず、気がつけば自身もそういう世界に身を窶していた、そんなヤツです。」

「はあ・・。研究熱心な方ですね。」

「いや、単に変わり者なだけです。」

昇先生の言葉は相変わらずだったが、それでいて端的だった。二人は話しながら、街中に出た。やはり普段よりは警官もパトカーも多かった。自分達と同じく、犯人を捜しているようだった。

「彼らには見つからないでしょう。」

昇先生はそういいながら、携帯をかけた。

「もしもし、ワタシです。何処にいけばいい?。」

そうたずねると、昇先生は小さく頷いて、電話を切った。

「いいですか?。普通に歩いて下さい。そして、三つ目のビルの角を急に曲がるので、注意して下さい。」

昇先生は手際良く尋に話した。尋は聞き逃すまいと、聞き耳を立てた。そして、ビルが近付いてくると、

「今です!。」

二人は急にビルの間にある細い路地に曲がった。すると、

「こっちです。」

と、半地下の階段から声がした。尋がその方を見ると、小さな鉄の扉が開かれ、中から蝶ネクタイをしたバーテン風の男性が二人を呼び込んだ。そして、彼に促されるがままに、二人は中に入っていった。

「ガシャン!。」

鉄の戸が閉ざされると、中は薄暗いバーのカウンター内部だった。そして、

「どうぞ、此方へ。」

彼は二人を店内にある細い階段の所に案内した。そこを登っていくと、急に開けた倉庫のような場所に出た。

「いいですか?。決して窓際に立たないで下さい。そして、陰伝いに、柱の所までいって下さい。」

二人はいわれるがままに、自身の陰を映さないように、壁の柱付近まで歩いていった。

「窓の向こうに、別のビルの角っこの一室が見えますか?。」

「ええ。」

「恐らく、ヤツやあそこに来ます。」

そう彼は断言した。尋は自分達が互いに挨拶も交わしていないのに、何故か旧知の仲のような、妙な親近感を覚えた。すると、

「何も挨拶無しじゃあれなので。此方が知人の翔(かける)です。翔君、こっちがj尋先生だ。」

そういいながら、昇先生が二人の紹介を代わりに務めた。

「どうも。」

「こちらこそ。」

「お噂はかねがね。」

翔は挨拶もそこそこに、尋のことを知っている旨のことをいった。

「噂って、何の・・?。」

「お強いんでしょ?。腕っ節。」

翔は向かいの角部屋から視線を外さすにたずねた。

「どっからそんな噂が?。」

「町で何か騒動を起こせば、大抵はこちらの耳に入ってきます。若い連中は血気盛んです。ですが、今回は流石に危なかったですね。」

翔は尋を気遣いながら、視線は相変わらず向かいのビルに釘付けだった。

「・・ええ。後輩には申し訳無い事をしました。」

「ならば、早速、敵討ちといきましょう。」

いきなり翔は、妙な提案をしてきた。直ぐさまバトルモードに持ち込むのは尋も本意では無かった。確かに、身内が手ひどい目に遭っていることに対する憤りはあった。しかし、同一平面で闘うのは決して得策では無いと、尋は考えていた。

「ところで、向かいのビル、あれは一体?。」

昇先生がたずねた。

「彼処は、此処いら一帯を縄張りに持つ組のカジノです。町で何か事を起こした場合、大抵は彼処に匿われる。今回も若いのが部屋を片付けていたから、恐らく誰かが来んでしょう。」

「なるほど。」

翔の言葉に、昇先生は頷いた。尋は二人のやり取りを聞く以前から、逆にたずねたいことが山ほどあった。

「なかなかでしょ?、彼。警察や興信所なんか、足元にも及ばないです。」

昇先生が淡々と答えた。尋は目の前の彼が如何なる人物かも不思議だったが、何より、どうしてこのような人物を昇先生が知っているのかの方が、ずっと気になった。すると、まるでそのことを察したかのように、

「彼とは、大学のサー来る時代からの友人です。」

と、昇先生は答えた。

「サークル?。一体、何の?。」

尋は好奇心のあまり、思わずたずねた。

「それは秘密です・・、といいたい所ですが、ま、要は、裏社会の探訪サークルです。」

何やらど偉い発言が、昇先生から飛び出した。興味はそそられる一方だったが、これ以上深入りしていいものか、尋の長考が始まった。


 と、その時、

「しーっ。向かいのビルに、動きがあるみたいです。」

翔が窓の外を見ながらいった。すると、向かいのビルの一室に、誰かが入ってくるのが見えた。一人はカジノの従業員風な格好をした男、そしてもう一人が、

「あ、あいつだ!。間違い無い。」

尋はその少年の顔を見て声を上げた。後輩君を刺して逃げた犯人だった。

「ビンゴですね。さて、どうするか・・。」

昇先生は翔の方を見ていった。

「このまま匿うのは危険だから、恐らく一日二日で高飛びさせる手はずを取るでしょう。それまでの間が勝負ですね。」

「勝負・・って?。」

翔の言葉を聞いて、尋がたずねた。

「勿論、ガラを攫って、ゲロさせるんです。」

「それって、犯人隠匿とか、そういう罪では?。」

尋は翔の手段を聞いて驚きつつも、冷静さを保とうとした。

「いえ、犯人を隠匿しているのはヤツらの方です。我々は、それを阻止する。ただし、一寸の間、彼から事情を聞く。ただそれだけです。」

翔も然る事ながら、昇先生もまるで手慣れた作業のように、尋に段取りを話した。すると、翔はその場を離れたかと思うと、手に何かを持って戻って来た。

「今のうちに、腹ごしらえを。」

そういうと、翔は二人にゼリー状の軽食を手渡した。

「あ、どうも。」

「サンキュー。」

翔は再び窓際に張り付いて、自分も軽食を口にしながら向こうの様子を窺った。

「どう出る?。車か、それとも・・、」

「非常線を張ってるから、車は難しいでしょう。恐らくは変装させて、徒歩で町を出る。そのはずです。」

昇先生の言葉に、翔は淡々と予測した。そんな言葉通りに事が運ぶのかと思った途端、

「動き出しました。」

翔がいった。見ると、少年はディーラー風の男から別の衣服を手渡され、それに着替えていた。そして、もう一人の風体の宜しくない男が、何処かに携帯で連絡を取っているようだった。

「早かったな。」

「ええ。いきますか。」

昇先生と翔は阿吽の呼吸で、行動開始の合図をした。そして、三人は下へ下りると、バーの裏から出て、向かいのビルの出口付近で姿を見られないように待機した。

「あそこから出て来ます。そのまま徒歩でいくか、別の迎えの者が来て一緒にいくか、どちらかでしょう。ボクはちょっと、用意をしてきますんで。」

翔はそういい残すと、その場から離れた。

「用意・・って、何を?。」

尋は昇先生にたずねた。

「攫う用意でしょう。あ、ヤツらが出て来ます。」

昇先生は、注意を怠らなかった。ディーラー風の男性と着替えを済ませた少年がドアから出て来た。そして、道路の反対側から別の風体の宜しくない男が現れた。ディーラー風の男性は男に耳打ちすると、少年を彼に託した。

「いきましょう。」

それを見て、昇先生は尋に彼らを尾行するようにいった。

「え、でも、翔さんは・・?。」

「彼なら大丈夫。」

尋に小声でそういうと、昇先生は尋に彼らとも、そして自分達も少し距離を置いて彼らの後を付けるようにいった。

「何か、ヤバく無いか?、これ・・。」

尋は恐怖心とも違和感ともつかない感情が襲ってきた。しかし、明らかに高揚していた。少年と男はかなりな距離を人目を気にしつつ歩いた。その後ろを、随分と距離を置いて尋と昇先生は後を付けた。そして、人気が無いところにまで来ると、男が少年に何かいったようだった。そして、男がその場を離れて携帯をかけようとしたその時、

「ガサッ。」

少年の斜め後ろにある植え込みから誰かが飛び出して、少年の腰辺りに当てた。

「バチバチッ。」

妙な放電音がしたかと思うと、少年は膝から崩れ落ちそうになった。すると、飛び出してきた人物は少年を抱えて、再び植え込みの中に消えていった。

「いきましょう!。」

昇先生は急いで回り道をしながら、先ほどの茂みのところまでいくように、尋に促した。二人は足音を出来るだけ立てないで、駆け足で植え込みの向こう側まで回っていった。と、そこには一台の車が止められていて、中には先ほどの少年が後部座席で横になっていた。そして、運転席には翔が乗っていた。

「さ、急いで。」

翔に促されるままに、二人は車に乗った。そして車は静かな夜道を走り出した。

「時間が無い。その当たりでいきましょう。」

そういうと、翔は小さな貸倉庫の建ち並ぶ一角に車を止めて、事前に借りてあった倉庫のシャッターを開けた。そして、その中にバックで車を入れると、再びシャッターを閉めた。その間、僅か十分弱。恐るべき手際の良さだった。さらに凄いのは此処からだった。昇先生はトランクを開けると、中からパイプ椅子を取り出し、気絶している少年を座らせると、後ろ手にして椅子に縛った。そして、昇先生と尋に、少年の後ろ側に来るように支持すると、気付け薬のようなものを取り出して、少年の鼻の辺りで瓶の蓋を開けた。

「うっ・・。」

倉庫内に微かな異臭が立ちこめた。少年が苦しそうに目を覚ますと、翔は少年の真横より少し後ろの方に中腰になりながら、少年の方にそっと手を置いた。

「動くな!。今から二、三、質問をする。大人しく指示に従えば、キミは無事に此処を出られる。解ったら静かに頷け。」

暗がりの中で、少年は訳が分からなかったようだったが、訳の分からぬ恐怖心から、指示に従って静かに頷いた。


「キミが誰か、ワタシには興味が無い。そして、キミは、助かることだけにしか興味が無い。そうだな?。」

少年の後ろから、昇先生が質問をした。少年は、黙って二回頷いた。

「犯行の動機は、一緒に歩いていた二人のうち、一人を刺そうと思った。そうだな。」

やはり少年は頷いた。

「しかし、やる相手を間違えた。だな?。」

少年は、小さく頷いた。すると、尋は身を乗り出して、何か声をかけようとした。しかし、昇先生が尋の方をグッと押さえて逸る気持ちを落ち着かせた。そして、

「此処からは喋ってもいい。」

そういうと、昇先生が質問を続けた。

「学校は、どうした?。」

「いってない。来なくていいっていわれたから。」

「で、仕方なく、街中で連んでるって訳か?。」

「・・うん。」

「そんなときに、キミ達に耳五月蠅い注意をする人物が現れた。そうか?。」

「・・うん。」

「で、生意気だから、やってやろうとしたが、返り討ちに遭った。だな?。」

「・・ああ。ぶっ殺してやろうと思った。」

少年は暗がりの中で恐怖を抱きつつも、何か武者震いをしているようにも見えた。

「また返り討ちに遭うかも知れないとは、考えなかったのか?。」

昇先生はたずねた。

「そんなの考えてたら、仕返しなんて出来ねーよ。」

それを聞いて、ようやく尋が口を開いた。

「じゃあ、今から仕返しをしてみるか?。」

そういいながら、昇先生は少年の前に回って、懐中電灯を付けた。

「あっ!。」

少年は驚いた様子を見せた。そして、呆然とする少年を他所に、尋は翔の方に向かって、少年の縄を解くように合図した。翔は一瞬躊躇ったが、尋の目を見て、ゆっくりと少年の縄を解いた。

「先にいっておく。お前が刺した人物が亡くなっていたら、お前は殺人罪で逮捕、起訴される。少年法も改正されたから、扱いは成人とほぼ同じだ。此処から無事に逃げるには、オレに完全に仕返しをし終えるしか無い。さもなくば、オレがお前を警察に突き出す。自由を賭けて、オレと闘うか?。選べ」

そういうと、尋は静かに少年の前に立ちはだかった。翔が尋を案じて加勢しようかと動いたが、昇先生は翔の肩を掴むと、首を横に振った。少年はまごついていた。前に会った時、尋の圧倒的なフィジカルを目の当たりにしていたからだった。すると、

「仮に、オレに勝って、此処から逃れられても、何処までいけるかは皆無だ。だが、お前がその頭を使って考えるのならば、それよりはマシな方法はある。」

尋は静かにそういった。少年は、恐怖と復讐心の入り混じった目をしていたが、尋の言葉に、何か思う所があるようだった。

「・・・それは何だ?。」

少年がたずねた。

「彼は助かったよ。お前はせいぜい傷害罪で逮捕されて、少年法の範疇で裁かれるだろう。ただし、被害者がどう思うか次第だがな。」

尋がそういうと、

「きっと恨んでるさ。そうに違いない。」

少年はそういうと、闘う姿勢を取ろうとした。すると、

「彼はオレの大事な仲間だ。その仲間がやられた。そのオレが、お前を痛い目に遭わせてるか?。」

尋はそういうと、少年を真っ直ぐ見た。少年は警戒しつつも、何かを考えているようだった。

「・・・いや。」

「それは、オレに仕返しをする気が無いからだ。」

少年の返事に、尋は理由を答えた。

「何で?、どうしてオレを憎んだり、やってやろうと思わないんだ?。」

少年は不思議そうにたずねた。

「キリが無いからさ。」

尋はあっさりと答えた。

「憎しみの連鎖は、憎しみを抱けば、果てしなく続く。そして、その後には屍が転がり続けるだけだ。みんな破滅したくって、そんな風にし続けるのかな?。本当に、それでいいのかな?。」

尋がそういうと、少年は尋を見つめたまま黙った。

「もしお前が、オレに飛び掛かってきても、オレは手を出すつもりは無いね。好きなだけオレを打ち負かして、全く未来の無い逃亡を続けたらいい。その先に破滅しか無くても、それはお前の人生だ。好きにすればいい。だが、もし、少しでもいい方向に進みたいのなら、今のお前に出来ることは一つだ。」

そういうと、尋は少年を真っ直ぐ見た。

「・・・一つ?。何だ、それは?。」

少年がたずねた。

「オレの仲間は死んで無い。そして、オレはお前に手は出してない。出すつもりも無い。そして今、ほんの少し時間を与えた。何のためか解るよな?。」

「・・・考えるため。」

「そう。まだ時間はある。何が最善の策か、そこでゆっくり考えるといいさ。」

そういいながら、尋は再び少年の後ろに回って、昇先生達の元に戻って座った。

「よう、少年。お前さっき、カジノの上の事務所にいたろ?。」

翔がたずねた。少年は、何で知ってるんだろうという表情をした。


 翔は再び少年の前に現れて、しゃがんだ。

「お前を匿ったり、逃がしてくれた連中な、これからもずっとお前のことを気にかけたり、面倒を見てくれるって、そう思ってんだろ?。」

少年の顔をしたから覗き込みながら、翔はたずねた。

「・・ああ。」

「そう信じて、お前と同じように色々やらかして、連中と関わった者が、その後、どうなっていったか、聞きたいか?。何でオレがそんなことを知ってるんだって、今お前は思ってるだろう?。オレはお前が彼処に出入りするよりもずっと以前から、彼処を見ていた。彼処の連中が誰なのか、構成員は何人で、そのうち、所在不明になった人間がどれ程なのか、どうしていなくなってしまったのか。そして、そういうことを、須く調べるのを生業としている者がいるということを、お前は知るはずも無い。そう。お前は無知だ。」

翔はそういうと、少年を真っ直ぐに睨んだ。

「無知はいいよな。何も知らねえんだから。その小さく限られた情報の中で、自分の信ずる、例え偽りの真実であっても、それにしがみ付いていれば、当面は楽しいからな。だが、それで終わりだ。お前よりも前にいなくなった者と同様に、やがてお前も短い人生を終える。勘違いするな。オレ達はそんなことはしない。お前の信ずる連中さんが、これまで通りに同じことをするだけだ。嘘だと思うんなら、オレ達が此処を去った後、再び連中のところに戻って自分の目で確かめるといい。まあ、気づいた時には、お前は山中か海中のどちらかに遺棄されてるだろうがな。」

そういいながら、翔はポケットから何枚かの写真を撮りだして、少年の足元にばら撒いた。

「こ、これは・・。」

そこには、少年も会ったことのある、かつての仲間達が写っていた。そして彼らはみな、何時の頃にかいなくなって、それっきりだった。

「おい!、彼らは何処だ?。何処にいるんだ?。」

少年は翔がいっていることは嘘では無いと確信した。

「さっきいっただろう。何処かで元気に暮らしているなら、何らかの連絡はあっても不思議じゃ無いはずだ。彼らの無事を信じて、ただひたすら連絡を待ってたらいいじゃねーか。なあ、少年。」

そういうと、翔は二人の所に戻って来て、

「さあ、いきましょうか。我々の用は、もう済みましたから。」

「そうだな。いきましょうか。」

翔の言葉に昇先生も頷くと、尋の方を見た。

「そうですね。彼が我々に用がないのなら、我々は此処にいても仕方が無い。」

尋はそういうと、二人に目配せをして、その場を立ち去ろうとした。

「ま、待てよ!。」

少年は慌てた声で、みんなを呼び止めた。

「オレに目をかけてくれて、居場所や金や、逃げる手はずまでしてくれたあの人達が、そんなに悪い連中なのか?。オレには解らない・・。」

少年は迷っていた。目の前にいる三人は、一件残酷な仕打ちをしているようで、実はそうでは無い。反面、これまで自分の味方になってくれていると信じていた連中は、実はそうでは無いと急に聞かされても、少年が混乱するのは当然だった。だが、足元に落ちている、かつての仲間の写真について、少年は翔の話をどうしても抗うことが出来なかった。すると、

「なあ、キミ。オレ達は甘い言葉はいわない。事実のみだ。何故だか解るか?。現実とは、それだけ厳しいものだからさ。だから、迂闊な誘いに乗って、足元を掬われないように、人は日々、考える。自分の頭でしっかりと。だが、自分だけでは何事も学べない。だから、学ぶべき場所に、習うべき人がいる。そしてキミはそれを否定して飛び出した。後は自らの責任で、自分の人生を切り開いていくもよし。だが、もし、自分が無知であるということに気付いたのなら、これからどうすればいいのか、少しは解っただろう?。そういうときのために、ボク達はいる。人生とは、一生、葛藤だ。迷いに迷って、やっとの思いで選んだものが間違いだってことは、往々にしてある。好きにするさ。」

昇先生はそういうと、二人の肩に手を回して、三人でそこから立ち去ろうとした。

「おっと。」

と、尋は何かを思い出したかのように、再び少年の元に歩み寄ってきた。そして、

「こいつを解かなきゃ、逃げることも出来ないよな。」

そういいながら、尋は少年を解放してやった。そして、

「さあ、逃げるんなら、逃げな。さっき彼がいったように、キミがそこにある写真の連中と同じようになるのは忍びないが、まあ、人生、不幸になる権利もある。ボクはそう思ってる。じゃあな。」

サバサバした様子で、尋も事が済んだといわんばかりに出口へ向かった。すると、少年は立ち去ろうとする三人の前に回り込むと、地面に座って土下座をした。

「オレは、オレはどうすればいい?。」

「それは自分で決めろよ。」

少年の言葉に、翔は吐き捨てた。


 しかし、尋は少年の前にしゃがんで、

「キミは、どうなりたい?。」

と、優しくたずねた。

「今の自分じゃ無い、自分になりたい・・。」

少年は顔を上げずにそういった。

「それは無理だ。」

尋は端的にいった。すると少年は顔を上げて、潤んだ目で尋を見つめた。

「どうして?。」

「人間はいつまで経っても、自分だからさ。過去の自分、今の自分、そして、この先の自分。みんな自分だ。過去や今を否定しても、何もならない。あるのは、今の自分、そして、それを見つめる自分。それをしっかりと見据えて、受け入れることが出来た者だけが、今の自分より少しだけ成長していける。解るか?。」

少年の疑問に、尋は優しく、しかし、真剣に答えた。

「・・・何となく。オレがしたことを、これから償えばいいのかな。」

「出来るか?。」

少年が生まれ変わろうとする瞬間に、尋達は立ち会った気がした。そして、尋は確認した。

「うん。」

尋の問いに、少年は真っ直ぐに尋を見て頷いた。その様子を後ろで見ていた二人は顔を見合わせて、静かに大きく頷いた。すると、

「よくいった!。」

翔が少年の元に歩み寄ってきて、肩に手を置いた。そして、

「いいか?、此処からが一番危険だ。外は連中の支配下だ。お前を再び取り戻そうと、ヤツらが網を張って待ち構えている。そのさらに外にいけば、警察の非常線に入り込むことが出来る。だが、それだけでも不十分だ。捕まったら、元も子もない。お前が自分の脚で署に飛び込んで、自身の罪を認めてゲロする。それが一番罪が軽減される近道だ。解るな?。」

翔は真剣な表情で少年にたずねた。

「うん。」

少年が力強く頷くのを見ると、

「外の様子を見てきます。合図があったら、ドアを開けて車に飛び込んで下さい。それまで、決して此処を動かないで下さい。」

翔はそういうと、二人に目配せをして、少しだけシャッターを開けて、外に飛び出した。その後、僅か数分の間ではあったが、二人にとって、いや、特に少年にとっては、無限に続く長い時間のように思われた。

「大丈夫ですかね?。」

尋が昇先生にたずねた。

「ええ。これが彼の裏の生業ですから。」

昇先生はそういうと、再び黙って、外の様子に聞き耳を立てた。時折、数人が走り去るような足音がしたが、その度に、三人は息を殺してシャッターの隙間を見つめた。すると、

「プルルル。」

昇先生の携帯が鳴った。彼はそれには出ずに、倉庫内にある車に乗り込むと、エンジンをかけた。

「さあ、乗って!。」

昇先生は二人に乗車するように促した。そして、次の瞬間、

「ガラガラガラッ!。」

シャッターが開いたかと思うと、左の出口に誰かが立っていた。翔だった。昇先生は急発進して倉庫から出ると、助手席のドアを開けた。そして、翔はシャッターを閉めると、開いてるドアから車に飛び乗った。

「急いで!。」

「OK!。」

翔と昇先生は阿吽の呼吸でその場から急発進で立ち去った。

「チッ。」

昇先生は舌打ちをしながら、バックミラーを見た。追っ手が掛かっていた。後方の左右からヘッドライトが四人の乗る車を照らしていた。

「運転、変わりましょうか?。」

「いや、時間が勿体ない。」

翔の申し出を、昇先生は断った。そして、アクセル全開で夜の街をフルスピードで駆け抜けた。

「流石に四人は重いかっ!。」

昇先生はそういいながらも、後方の車を引き離した。そして、

「掴まれっ!。」

そういうと、昇先生はサイドブレーキを引きながら急転回して垂直に曲がると、左の路地に入っていった。猛スピードで追尾してきた二台の車は、そのまま直進で通り過ぎていった。

「取り敢えず、後ろの追っ手は剥がした。このままいけるか・・。」

そういいながら、昇先生は猛スピードで直進した。すると、前の十字路の右側から、一台の車が進入してきた。すると、昇先生はそれを察していたのか、予め左に急ハンドルを切って、逆ハンドルにするとドリフトで侵入してきた車の鼻面を掠めて、見事に十字路を抜けた。

「ナイス!。まだ腕は落ちてませんね。」

翔は幾分上気した様子で、昇先生を見るとニヤッと笑った。

「あと数百メートルで署だ。いけるかっ。」

そういいかけた、その時、

「パンッ!。」

と、もの凄い爆音と共に、車が急に激しく揺れだした。昇先生は必死にハンドル操作をしたが、制御出来なかった。そして、街灯にぶつかる寸前で車は止まった。翔は助手席から飛び降りて車を調べた。

「パンクかっ。しかもご丁寧に、撒きビシだとよっ!。」

車は故意に止められたようだった。すると、そこいらの路地から、風体の割るそうな男共が数人駆け寄ってきた。瞬く間に、尋達の車は連中に取り囲まれた。

「お前は下りるな。いいな。」

翔は少年にそういった。そして、尋と昇先生も車から降りて、三人で連中達と対峙した。

「手間取らせやがって!。」

連中の拙攻が三人の元に近づいて来て、尋の胸ぐらを掴もうとした。と、その時、

「ドサッ!。」

あっという間に男が宙を舞ったかと思うと、思いっきり地面に叩き付けられた。尋は彼の腕を掴んで、一本背負いを食らわせた。

「野郎っ!。」

連中が一斉に三人に飛び掛かった。


 尋は掴みかかってくる相手の腕を取ると、次々と投げ技を繰り出した。

「ドサッ!。」

「ドタッ!。」

地面に叩き付けられた相手は、呻き声を上げながら、その場から動けなくなった。翔は殴りかかってくる相手をスウェイで躱したかと思うと、

「パシッ!。」

「パシッ!。」

と、全く見えないジャブで次々と相手をノックアウトしていった。

「ボクシング?。」

「昔、ちょっとね。」

尋の問いに、翔は一瞬振り返りながらそういった。昇先生は派手に乱闘をしていなかったが、気付けば数人が足元に蹲っていた。どうやら、かかってくる相手に、こっそり蹴りを食らわして倒していたようだった。なかなかの武闘派な三人だったが、相手の数はドンドン増えていき、三人はたちまち不利な状況に追い込まれた。それでも何とか奮闘したが、終いには連中が道具を持ち出し、三人は額や腕が傷だらけになった。車の中では、少年が震えながらその様子を見ていた。

「ドコッ!。」

「ガシャン!。」

時折、人間が車のボンネットやドアに激しくぶつかる音がした。その度に、少年は体を竦めた。正義感に駆られて勢い良く飛び出した三人だったが、やはり喧嘩のプロには勝てなかった。三人は荒い息をしながらそれぞれ道路に大の字になって倒れ込んだ。相手も相当やられてはいたが、圧倒的な数の優位があった。

「この野郎!。たかが三人で、これだけの人数とやりあえると、本気で思ったのか!。馬鹿野郎が。」

一人がそういいながら、尋の顔を踏んづけた。尋はされるがまま、靴底と地面の間に顔を挟まれた。

「ジリ。ジリ。」

アスファルトが砂を噛みながら何かを擦る音がした。と、次の瞬間、

「ドシャッ!。」

尋は急に体をずらしたかと思うと。顔を踏んだ相手の脛を取ると、思いっきりひっくり返した。そして、その男に馬乗りになると、

「何踏んでくれてんだ!、この野郎っ!。」

と、相手の顔面目掛けて、何度も何度も拳を振り下ろした。

「ヤメロ!、この野郎!。」

尋は周りにいた連中から袋だたきに遭った。しかし、尋は体勢を崩さず、ひたすら一人目掛けて拳を振り下ろし続けた。尋を止めようとして連中が彼一人に群がった隙に、倒れ込んでいた翔と昇先生は人垣の後ろから一人ずつ引き離すと、完全にのしてから、また次を引き離してのした。

「ちっとは互角になって来たかな?。」

「だな!。」

顔の形も留めない三人の乱闘は、それからも暫く続いた。と、そこへ、

「ウーッ、ウーッ。」

と、パトカーのサイレンが響いた。それを聞いた連中は、蜘蛛の子を散らすように退散していった。

「待てーっ!。」

数人の警官が連中の後を追っていき、続いて到着したパトカーから降りてきた警官が、尋達に向かって、

「おい、大丈夫か?。」

と、状況を確認した。すると、尋は息も絶え絶えに、

「へへ。」

と笑いながら、右手の親指を立てた。

「お巡りさん。あの車の中に、アナタ達の探していた少年が乗っています。それと、くれぐれも、彼は自分の意志で出頭するとのことなので、我々はそれに付き添ったまでですから。」

と、昇先生も血まみれの顔ではあったが、冷静に警官にその旨を伝えた。

「少年って、今日あった傷害事件のか?。」

警官の質問に、翔と昇先生が億劫そうに頷いた。

「解った。アナタ達は、此処にいて下さい。」

そういうと、警官は車のドアを開けて、中から少年を連れ出した。そして、彼に手錠をかけようとしたそのとき、昇先生が起き上がって、警官と少年に近付いていった。

「くれぐれも、自首ですから。よろしく。」

と、警官の目を直視して、そういった。

「解りました。」

警官はそういうと、手錠をかけるのをやめて、少年をパトカーに乗せた。すると、尋がパトカーの側に体を引きずりながら歩み寄ってきて、

「被害者の後輩には、ボクからキミのことを許すようにいってやるよ。そうすれば、キミの罪も少しは軽くなるはずだ。だから、最低限度の償いだけ、してこい。いいな?。」

尋は片方の目が開かない状態で、少年にそういった。少年は尋を真っ直ぐに見つめながら、力強く頷いた。そして、

「あの、どうして、そこまでしてくれるんですか?。」

少年は、不思議そうにたずねた。尋は少し考えて、

「してやったとか、そういうんじゃ無いな。けったくそ・・かな。オレ達がやりたいから、そうした。それだけだ。じゃあ。」

そういうと、尋は痛そうに微笑みながら、少年に手を振ってパトカーから離れた。

「あの、事情を伺いたいので、署までご同行願えますか?。」

警官が尋達にそういうと、

「どうしてもいかなきゃ駄目ですか?。ボク達、顔が痛いので、何か冷たい物で冷やしたいんですが・・。」

そういうと、尋は後日出頭する旨を伝えて、三人はその場を後にした。そして、昇先生は警官に車を署まで持っていってもらうように指示すると、

「じゃ、いきますか。」

と、三人は意気揚々と、夜の繁華街へ消えていった。


 三人は人目に付かないように裏路地を歩いた。すると、

「この面じゃ、何処へいっても目立ちます。ちょっといい店があるので、そこでほとぼりを冷ましましょう。」

そういうと、翔は二人を小さなバーへ案内した。

「いらっしゃい。」

「マスター、氷と水、あとタオルを三枚と、バーボン、ロックで。」

翔は手慣れた様子でオーダーすると、二人をカウンターの奥へ誘った。

「乱痴気騒ぎですか?。」

「ま、そんなとこです。」

マスターの問いに、翔は答えた。すると、すぐさま顔を冷やす用意がカウンターに置かれた。

「痛ててて。おー、冷てっ。」

三人は思い思いに氷をタオルで包むと、それを腫れた顔に当てて冷やし始めた。

「さ、景気づけに、いきましょう!。」

そういうと、翔は二人にバーボンのロックを差し出した。

「取り敢えず、乾杯!。」

三人はグラスを軽くぶつけると、それを一気に飲み干した。

「ところで翔さん、アナタは裏の事情にとても詳しいようですが、どうしてそのようなことを?。」

騒動に一段落付いた尋は、翔にたずねた。

「ワタシも昔はアナタや昇先生と同じ職業でした。ですが、どうしてもそういう制度からあぶれる連中が出て来る。最初はワタシも何とか手を打たねばと思ってはいましたが、キリが無かった。そしてあるとき、そういう連中は常に再生産されるってことに気付きました。ワタシのかつての専攻は心理学。その興味と相まって、結局は表に現れない社会や現象を観察するようになりました。」

「そして、今に至る・・と。」

「はい。」

すると、二人の会話を聞いていた昇先生が、

「で、何か収穫はあったかい?。」

と、二杯目を口にしながらたずねた。

「ええ。かなり。」

「それは、どんな?。」

「思考です。今日も、尋さんが示された、人間にものを考えさせるという行為。そのことでしか、人間は状況を変えつつ進むことが出来ない。無論、どんなに足掻いても駄目な時もあります。ですが、それは人間にしか出来ない行為です。今日のあの少年も、尋さんの手が差し伸べられなかったら、つまらない組織の末端で、使いっ走りにされた末に、路傍の石と化してたでしょう。」

翔はそういいながら、グラスを仰いだ。

「しかし、これからも公教育の場が出来のいい子の為に淘汰され続ければ、治安は悪化の一途を辿るのみだなあ・・。その度に、誰かが刺されたり、乱闘の末に事態を収拾しようとしても、今日みたいに上手くいく保証は何処にも無いな・・。」

尋は現状を半ば諦めの境地で振り返りつつ、グラスを仰いだ。

「じゃあ、この状況を終わらせてみましょうか?。」

と、突然、昇先生が提案した。

「え?、一体、どうやって?。」

尋は驚いた。すると、昇先生は翔の方を見て頷きながら合図を送った。

「実はですが、現大臣、アナタ達と同じ業界出身でしたよね?。」

翔がたずねた。

「ええ。」

「彼女は、公教育の門を狭めることで、外部に教育を求める子供達が溢れることを読んでいた。そして、そちらへの需要が増すように、最初から動いていた。そういうことは、考えられますよね?。」

翔の考えは、尋もかつて飲みの席で後輩達に語っていたことだった。

「では、もし、そういう計画が初めからあって、そのように利益誘導した証拠があったなら、大臣は一体、どんな顔色をしますかね?。」

そういうと、翔は尋の顔を見てニヤッと笑った。

「いや、そういうシミュレーションは想像に難くないけど、流石に証拠までは・・、」

尋がそういうと、昇先生は尋の肩に手を置いた。

「それは、我々表社会に生きる人間の発想です。ですが、彼は違う。だろ?。」

そういうと、昇先生も不敵な笑みを浮かべて、翔を見た。すると、

「まあ、こんな物が手元には来てますがね・・。」

そういうと、翔は数枚の用紙を取りだした。それは何かの議事録のようだった。

「これは・・!。」

尋は目を疑った。そこには、大臣の出身母体である教育産業の大手と、そこに集う同業他社の名前がズラッと並んでいた。

「この横の数字は?。」

「恐らく、動いた現ナマでしょう。」

尋は手で口元を覆って、驚きを隠そうとした。しかし、紙切れだけでは証拠能力が弱いと思っていたその時、

「因みに、これが一緒に添えられてた音声です。」

そういいながら、翔はカウンターに小さな録音装置を置くと、再生ボタンを押した。すると、そこからは報道で聞いた、あの大臣の声がハッキリと流れて来た。

「どうしてこんな物を?。」

尋は驚いて翔を見た。

「蛇の道は蛇です。こんな家業にどっぷり浸かったお陰で、こういう代物の入手には苦労しなくなりました。」

そういうと、翔はさらにグラスを仰いだ。

「ただ、ワタシが持っていた所で、何の役にも立たない。なので、機が熟するまで温存させておきました。」

そういうと、翔は尋を見てウィンクした。

「なるほど・・な。そういうことか。仕方が無い。解りました。」

尋はそういうと、グラスに並々とバーボンを注いで、三人で乾杯をした。

「では、早速、明日にでもいってみようかな。議員会館に。」

尋がそういうと、

「面白そうですね。我々も、お供して構いませんか?。」

昇先生がたずねた。

「これを持っていかれるのは構いませんが、その後は、どういう戦略で?。」

翔がたずねた。すると、尋がたずねた。

「勿論、コピーは取ってありますよね?。」

「はい。」

「じゃあ、もし、ボクに何かあったら、後はそれを好きなようにばら撒いて下さい。」

「で、尋さんは?。」

「出たとこ勝負です!。」

そういうと、尋はグラスを掲げて乾杯した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ニヒト・ハウプシュール 和田ひろぴー @wadahiroaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る