6
秤部家からの帰り道、見送りに出てくれた秤部と一緒に歩んでいる。なんのつもりか自転車も一緒だ。カゴのおかげでカバンを持たなくていいのはちょっと楽だけど。
次点で謎なのが、私は当然にしても秤部まで汚れた制服に着替えたこと。止めたけれど当然の如く聞き入れて貰えず、その際に秤部は替えの制服を持っていないという事実が発覚した。どう考えても着直さない方へ天秤は傾いているはずなのに、もたらされた結果から推し量ると、どうやら私が知るものと仕組みが違うらしい。
私の足取りは、幾分かマシになってきたとはいえ重かった。皿一杯に盛られた天ぷらをお腹いっぱいの二つ上くらいまでごちそうになったからだ。部活に入っていなければどうなっていたか。
隣を歩く帰宅部は、私よりたくさん食べていたはずなのに平気な顔をしている。秤部、意外とたくさん食べるやつ。
それにしても、人生でこんな唐突に天ぷらを揚げる日が転がり込んでくるとは思ってもいなかった。でも、やってみたら意外に簡単だったし、今度家族に振舞ってみようか。一つ引っかかっているのは、秤部母指導の下に作った私の処女作を秤部に食べられたこと。ちょっと恨んでる。
なんてこともあったけれど、楽しかったな。「またきてね」と言ってくれた秤部母の顔を思い出す。あれが素直な言葉だったと分かるから、心を引っかくひとしおの寂しさが拭えない。
「転校っていつ」
「もうすぐ」
吹けば飛ぶような、明日にでもいなくなりそうな声。
もうすぐ、秤部はいなくなる。どれだけ残されているか分からないけれど、私が思っているよりずっと早く、その時は来る気がした。もう一度くらい、欲張るなら五回くらい一緒に遊べたらいいな。
「……今日はありがと。お礼、改めてするから。お母さんにも伝えて」
腕時計を見ると時間は二十一時をまわっていて、いよいよ潮時と告げている。帰ったらまずお風呂に入って、汚れを落とさないと。
「切らないの? 髪の毛」
不意に、秤部が言った。
「なに急に。そんなに汚れてる?」
「間違われると嫌そうだから」
――――。言葉に詰まってしまう。意識の外から、ずけずけと。核心に踏み込まれて。
今まで分かりやすく顔に出したことは無い、つもりだ。「なんのこと?」と適当にはぐらかせばいい。
「……顔に出てた?」
「すごいよ。いつも」
「すごいんだ」
いつの話をしているのかは不明だけれど、秤部は意外に目聡く周囲を見ているらしい。
したり顔にも見える秤部の微笑を前にして、つまらない意地なんて砕けて消えた。
秤部の前だと私は調子が狂うんだ。簡単だと思っていたことが出来なかったり。難しいと思ったことがなんとかなったり。自転車はまだでも、天ぷらとか。
「だったら髪切ればいいじゃんって思うでしょ。色々あるんだよ、私なりに」
「聞くよ。話すと楽になるって言ってた。テレビが。取り調べっていうんでしょ」
違うけど。刑事ドラマでも見ただろう秤部が誤った知識をひけらかしながら、でも寄り添おうとしているような穏やかさを連れて、私の中を覗きこもうとする。
同じ地平に並び立って。すぐ近くから、ガラス玉みたいな目を私に向ける。
姉にさえ心の内を余さず打ち明けたことはない。姉だからこそ、それができない。どこまでいっても針藤苗は私の姉で、私は苗の妹だから。
けれど秤部は。どちらでもなく、それなのに、屈託のない笑顔で、迷いない声で私を淡と呼んでくれた。だったらいいかなと思った。
「……ほんとは。ほんとはさ、腕時計とか嫌いなの。髪も短いのが好き。邪魔くさいから。でもの姉ことは好きなんだ。嫌いになれたらもっと楽だったけど」
想いのままを思うまま吐き出す。誰にも言えなかった私の本当が、初めて形になっていく。
「姉のことが大切だからさ、苗の好きなものを私も大切にしたいんだよ」
嘘じゃない。でも違う。私の本音はそれだけじゃない。そんな理由だったらどれだけ良いだろう。
これ以上を明かすのはやっぱり怖くて躊躇った。話したからって自分を受け入れてくれるとは限らない。
ああ、嫌になる。
他人の為を理由にするやつは、結局自分が一番大切なんだって、本性を突き付けられる。等身大の私になんの価値もないから、人気者に縋ってるんだって。自分で背負わなければいけないのに。
顔を見られたくなくて秤部の前へ進み出た。けれど秤部はお構いなしで、得意技のように、デリカシーなく私と視線を繋げてくる。
「やっぱり似てない」
「やめて。見ないでよ。言わないで」
別れ道に差し掛かる。私と秤部の分岐点。
「じゃあね」と乱暴に言い捨てカバンを取り、振り払うため歩幅を広げる。大丈夫、一人になればすぐ元通りになる。
独りになりたいのに。
どうしてついてくるの。
「もういいから。家帰りなよ」
「自転車持ってきたから」
「乗れないでしょ。なんで持ってきたの」
すっかり汚れた鉄の乗り物が、街灯の光を弾いて存在を主張する。
やがて私たちを堂々待ち構える坂道が現れた。毎日下っている、長い長い坂。
「任せてよ。淡、後ろ」
サドルに跨った秤部が荷台を叩いて私に乗れと促した。バカなことを言い出した。真っすぐ走れもしないくせに、私を乗せて下るつもりらしい。途中で転ぶのは目に見えている。
なんの意味があるのか、私を殺したいのか、実戦が一番経験値を得られるとかそういうの?
様々な推測が渦巻いて視界が細くなる。
「大丈夫。怖いから、ワタシも」
顔色そのまま言ってのけると、わざとらしく眉を顰めて怖がっているアピールをする。
はぁ――――。肺の中身を全て吐き出すくらい大きなため息が私のものだと気付いた時には、固い荷台に腰掛けていた。秤部が私のカバンをカゴに収め、準備完了と息を吐く。
「死んだら恨むよ」
「任せて。知ってるんだ、聞き分けの良い医者」
「腕は」
「忘れた」
不安全部を詰め込んだ腕で秤部の腰を抱く。わざと強く締め付けてやったけれど、効果が薄そうだったのと自分の首を絞めることになりそうですぐやめた。
秤部が器用にバランスをとりながら両足で地面を蹴り、ギイッと軋む音を連れ少しずつ前へ進む。
じわじわと内臓を握られる感覚、早鐘を打つ心臓が丸ごと耳から飛び出してきそう。私いま口説かれてるのかな、と緊張がバカげた思考を連れてきて。
いよいよ。秤部の足が地面を離れたと同時、正面から来たぬるい風が頬を撫で――やがて勢いを増していく。反射で私は目を閉じた。両足で荷台を挟みこれでもかと秤部を抱きしめ体を預ける。一向に緩まないスピードに叫び出したい衝動が刺激され、腹筋は部活中と同じ具合。髪が好き放題に暴れまわり縛らなかったことを後悔した。そも、このバカげた行為を受け入れたのを後悔した。
ぞわりと粘ついた感覚に全身を撫でられる。
怖い怖い怖い怖い怖い! 気持ち悪い! こんなのバカのやることだ! 私はバカじゃない! 今も昨日もこれからも!
もういいから――私の、負けで! いいから!
「ブレーキ! はかりべっ!」
この下り坂の終点は左への急カーブ。いまどの辺りか分からないけれど、この速度で突っ込んで曲がれるはずがない。
秤部は私の制止を聞き流しやがったようで、耳元でめった切りにされる風の音は激しさを増すばかり。
嫌な――嫌で嫌で仕方ない予感がする。外れたらその時は喜んで自分の勘が鈍らだと笑おうじゃないか。
行き止まりとなるガードレールの向こう側には川が流れている。汚いことで有名な川だ。
まさか飛び込むつもりじゃないよね。あの汚ったない川に。あの臭っさい川に!
バカバカバカ! 冗談じゃないって! あ! 今更だけど! 車とか来たらどうすんの!
爪を立てて抗議するも虚しく、どころか信じられない声が聞こえてきた。
「――あっははははははは! 淡、くすぐったい!」
おっきな喜びをそのまま形にすれば、きっとこんな感じだ。それを、秤部が。誰が聞いても楽しそうだと分かるくらいに。
なに笑ってんの、秤部。今はやめてよ。顔を見られないのが残念で仕方ないじゃん。
思い切って目を開けてみたら、まさに終わりの瞬間だった。
夜闇に不釣り合いなドデカイ衝突音がして、望んでもない浮遊感を無理やり着せられる。身体が宙へ投げ出されたんだと壊滅寸前な平常心の残党が俯瞰して、当たり前を失った視界がぐるりと回り上下逆さまになった。手足は頼れるものを失ったまま空を切って。このまま遠くまで飛んでいけるんじゃないかって、そんな希望がほとばしる。
嘘。無理。最高点を記録した私の身体はやがて重力に掴まれた。あとは真っ逆さまに落ちるだけ。水辺だからかひんやりとした空気が気持ちいいな――なんて。
バシャン。強がってみるも、待ちわびたと言わんばかりの水面に背中を引っぱたかれた。衝撃で肺の中身をほとんど失った身体が、冷たいようなぬるいような水の中に沈んでいく。いま、絶対に手放しちゃいけないものが離れていく感覚はあったけれど、どうしようもなかった。
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