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秤部と下校するという奇妙な思い出を手にして一週間が経った、七日ぶりの木曜日。あれから秤部とは一度も話していない。
あの時は変なことを口走ってしまったけれど、私と秤部を右と左で別つ道に救われ、会話を自然に打ち切れたのが幸いだ。
そして翌日、屋上に誰かが侵入したという話題は一切挙がらず、私は秤部を売らずに済んだものの、なんとなく話すきっかけを失って今に至る。
ぼんやり空を仰ぐ横顔を眺めていると、まるで時が巻き戻ったような錯覚にみまわれる。
なに考えてるか分からない宇宙人みたいなやつ。それに関しては今も変わらないけれど。
あいつ、意外と喋るんだよね。
一日のエネルギーをほぼ全て部活に充てている私は、相棒のクラリネットからはさぞ活発な女子に映っていることだろう。私はポテトサラダなら無限に食べられるし、クラリネットは永遠に吹いていられるのだ。
時間を忘れかけた頃、パートリーダーが休憩の合図を出した。本音としては必要ないけれど、悔しいことに私は一年生。部活動というのはどこも縦社会なのだ。
隣の同級生が「んはー」と息を吐いた。
「疲れたあ。すごいね針藤さん、全然余裕って感じ。経験者だっけ」
「まあ、一応。ただ長くやってるだけだよ」
いきなり話しかけられて驚いたものの、受ける側なら割と問題なく応じられる、はずだ。
「へぇーそうなの。そいえば意外なんだけど、お姉ちゃんは一緒じゃないんだね。双子だから同じもの好きになるのかと思った。双子でデュオって可愛くない? 針藤姉がうち入ってくれたら甲子園行けそうだよね」
私は言う。
「……姉は飽き性だから。入ってもすぐ辞めるよ」
途端に全身が鉛のように重くなった。体内で蠢く感情が気持ち悪い。
「そっかー残念。姉妹そろって私がいただこうと思ったのに。…………。ちょっと針藤さんツッコんでよー」
「え? あ、ごめん。もう一度言って」
「大丈夫……? 顔色ちょっと悪いよ。保健室行く?」
「平気。ありがとう」
私が答えると、同級生は訝しむように眉を顰めながらも引き下がった。
姉は様々な分野で秀でられる一方で一つへ執着しない。高水準に多彩な才能は器用貧乏を鼻で笑うほどで、傍から見れば笑えるくらいで、一つに集中すれば何であろうが大成すると断言できる。早く腰を落ち着けられる場所が見つかってくれたらいいな――なんて、私だけは口にしちゃいけないそれを、心の奥へ仕舞い込んだ。
ほどなく練習の再開が告げられた。残り時間の全て、私は胸の奥から湧き出るぐちゃぐちゃが混ざった息を吐き出し続けた。
帰り道の雰囲気は、私の好きなもの。
毎朝のぼることが億劫な坂道も、復路に限っては存在しない。ただ下るだけ。忘れ物をしなければ。
暮れなずむ空から零れてくるうら寂しさは、心地良さを伴って骨身へ染み入る。私はこの感傷を味わえる天然の清涼剤がお気に入りだ。どうしようもないやるせなさは、私の肌に合っているらしい。
癖になる物悲しさに背を押されて歩速をはやめ、地面を叩く子どもの足音がやがて聞こえなくなった頃、腹を空かせた公園を横切ろうとして、足が止まった。ガシャンと何かが倒れるような音が聞えてきたからだ。
一瞥して立ち去るつもりが、事情は変わりそれに歩み寄る羽目となった。
「なにやってんの」
「お。淡じゃん」
仰向けのまま私を見上げる秤部が、薄く笑んで手をひらひらさせた。傍らで一緒に自転車が寝転んでいる。荷台がついたよく見る形、ママチャリだったか、そんな愛称のやつ。
私の言いたいことを察したのか、平気な調子で秤部は続ける。
「やばいねこれ。買ったんだ、さっき」
立ち上がって服についた土を払いながら「そうだ」と私の顔を見た。
まさか。
「教えてよ、乗り方」
「無理。私も乗れないから」
そんなことだと思った。私は急ごしらえの返答でピンチを捻じ伏せる。
自転車なんて乗ったことが無いし、乗ったところで転ぶだけだ。
「大丈夫。ワタシが教えるよ。走るんだって」
「……はぁ。ほんと変なやつ」
自分の声が色づいていると気付いて恥ずかしくなった。
今まで出会った中でとびっきりの変なやつ。浮かれる私はきっと調子が狂ってる。
「変かな。淡じゃない? 変なの」
「どういうこと。はじめて言われた」
「ワタシの勝ち。言えばいいのにね、みんな」
「気遣うんだよ。あんたと違って」
肩に提げているカバンを下ろして、横たわる自転車を引き起こす。見れば見るほどこれがどうやって進むのか分からない。しかし老若男女に幅広く愛されている乗り物である以上、難しい物ではないはずだ。案外簡単に新たなスキルを習得できるかもしれない。
意を決してサドルに跨り、隣からぶつけられる期待が籠った眼差しを推進力に変える気勢で、思いっきりペダルを踏み込んだ。
転んだ。
「……なにこれ。危ないんだけど」
「おそろいだ」
私を見下ろす秤部の表情はどこか嬉しそうで、ちょっとムカつく。
「次、ワタシ」
「ちょっと待って。髪しばる」
「お。いい顔」
それから私たちは制服が汚れるのも気にせず何度も何度も転んだ。
結局大した実りの無いまま帰宅の運びとなって、自転車を押す秤部と、一週間前の
ように肩を並べていた。お互い甲乙つけがたいくらい汚れていて、とても年相応の女子高生とは言い難い有様だ。
「似合うじゃん、淡。真似しよっと」
「うるさい。秤部の方が汚れてるから」
そんなやりとりをしながら、顔を見合わせて笑った。私も多分笑えたはず。
すっかり空は橙色を排していて、本格的な夜がこれからやって来る。もうすぐ前に秤部と別れた場所だ。このまま別れるのも感じが悪いだろうから、ふと浮かんだ疑問を用いて会話を試みる。
「秤部さ、いつも家でなにしてんの」
自然な会話の導入に手応えを感じた私は、気が緩んだのか調子に乗ったのか、「答えたくないなら別にいいけど」なんて余計な添え物まで出してしまう。
すると秤部はたっぷり間を置いてこう言った。
「行こっか、うち」
「……汚れてるでしょ。迷惑かかるから行かない」
その申し出に内心すごく惹かれているけれど、この出で立ちが問題だ。自分の家でも入ることを躊躇うくらいには、髪も服も土で汚れている。
着替えでもあれば、なんていう私の心中を見通すように秤部は笑んだ。
「貸すから。決まり」
「……まあ、いいけど」
本当は願ってもない展開に嬉しくなった。でも素直を晒すのが照れくさくて気の無い風に言ってしまう。
気にした様子もなく秤部は私を先導する。街灯の数が減ってきた辺りで「ここ」と年季の入ったマンションを指さした。
駐輪場と思しき場所に汚れた自転車を置き、エレベーターに乗って文字の掠れたボタンを押す。呻き声のような重低音に連れられ上がった三階、降りて正面にある表札の無い三〇四号室が秤部の家だった。玄関で靴を脱ぐ前に、私は言う。
「じゃあ、悪いけど着替え貸して」
「おっけーおっけー。こっちこっち」
案内された脱衣所で待っていると、秤部が見慣れた衣服を手に戻ってきた。
学校指定の体操着だ。
「………………できれば別のにして」
「え。困った。それしかない」
嘘をついている風でもなく、顎に指を置いて唸り始めた。制服と体操着の二着だけで過ごしているなんて普通は信じない、でも秤部の私服を想像しろと言われたら、それはそれで困る。
「おかーさん。服かしてー。たくさーん」
「ちょ、待って。これでいいから。やめて、絶対」
まさかの親という選択肢を弾き出した秤部の手を掴み、綱引きよろしく引き止める。ただでさえ厚かましく上がり込んでいる身分なのに、これ以上印象を下げたくない。ついさっき気付いたけれど、今は絶賛ご飯時なのだ。人の家に遊びに行く際の決まり事をまとめた本が世に出たら、きっと売れると思う。
観念して体操着に着替え、借りたタオルで髪と足についた汚れを軽く落とすと、お母さんのカットソーを着こなす秤部に部屋まで案内された。中は色々様々な物がまとまりなく散乱している。サッカーボールがあると思えば、使った形跡のない化粧品、一昔前のゲーム機の上には古びた本とマグカップ。空っぽの鉢植えにはぬいぐるみと被り物。なにかの充電器や残り僅かなガムテープ、見たことない金属片だったりがあちこちに転がっている。
これだけ物で溢れているのに、机やベッドといった大きく生活感を感じられるものが皆無なのはどういうことだろう。
秤部はカバンを適当に放り投げ、好きに座ってと私を促す。空いてるスペースに腰を下ろすと、私も散らかった部屋の一部になった気がした。意外と落ち着く。私の部屋にはほとんど物がないから、この雑然とした空間は新鮮で悪くない。
新境地に浸っていると、急に秤部が呼び声をあげた。
「おかーさーん」
呼ばれた秤部母が、待ち構えていたかのように間髪入れず「どうしたの」と部屋を覗き込んでくる。突然の邂逅に驚かされ、私はぎゅっと口を結んだ。
秤部母は色白で儚げな、とても綺麗な人だった。この母にして娘在り、といった感じだ。その娘は「見て」とだけ告げてから黙ってしまう。
「お友達? そっか。イノセも隅に置けないね。残り少しだけど、娘と仲良くしてあげてね」
「は、はい。どうも、お邪魔してます。針藤淡っていいます」
しどろもどろな受け答え。なんとか及第点だと思いたい。
「淡ちゃん。なにか食べていくよね。えーっと、なんだっけあれ。イノセ、あなたが好きなやつ」
「天ぷら」
「そうそれ。淡ちゃんは天ぷら食べれる?」
「いえ、すぐ帰りますから。その……お構いなく」
丁重にお断りをしたつもりが、秤部母は「任された」とサムズアップして踵を返した。任された……? え、まさか母親もそういうタイプ? 秤部との会話に大分慣れてきたとはいえ、濃度そのまま目上の存在になられると手に負えない。この母にして娘在り、というのを改めて痛感させられた。
しかし、まあ。秤部にも家があって、親がいて、好きな食べ物がある。部屋に生活感はないけれど、それでも。
「秤部も普通に人間なんだね」
「そうかな。嬉しい」
自分から話さないだけで人間らしさをたくさん持っているんだ。
どこに潜んでいたのか将棋盤を抱きかかえながらはにかむ秤部。
馴染んでいる、というのは適切じゃなくて、なんていうか、そう、似合っていた。
似合うという言葉が似合わない秤部に、似合っている。意外にも。
いまならどうかな、チョークの音。
「で、秤部。あと少しってどういうこと」
いい雰囲気なのに悪いけれど、さっき秤部母が言った引っかかるワードを問い詰めることにした。私が既知であるとばかりに組み込まれていたものの、残念ながら寝耳に水というやつだ。
「転校するんだって。えーと、仕事がどうとかで。おとーさんがさ」
「なにそれ。高校って移るの難しいでしょ。大丈夫なの」
責めるように語気が強くなってしまい、落ち着こうとしたら、
「うちゅーじんですから」
ピースサインを向けられた。自慢げな顔と一緒に。
それを見て、私の中で心当たりが意気軒昂の声高らかに挙手したものだから、つい笑ってしまった。
「ふふっ。もしかして根に持ってたの?」
「もちつもたれつってやつ」
「違うからそれ」
「ゲームしよ。新しいやつ買ったから。めっちゃ動くよ」
自宅という味方を得たから――というわけでもなく、秤部は秤部らしく自分のペースに私を引きずり込む。
テレビが無いこの部屋でゲームを遊べるはずはなく、なんとリビングへ連れ出された。テーブルを挟むテレビとソファ、裾の余ったカーテンと、簡素ながら生活感のある空間だ。不規則に跳ねる油の音を奏でているキッチンからはリビングを見通せる造りになっていて、調理中の秤部母が私たちに気付いた。
「まだかかるよ。獲れたてだから。この魚類と草」
「だって。淡」
なんで私に言うの。
それ以上はなく、不満はゲームで語れと言わんばかりにコントローラーを手渡された。ゲームに疎い私でも、これがいま最新のものだということは分かる。スマホは持ってないのに、最先端は有している秤部だった。
二人掛けのソファに並んで腰掛け、起動したのは格闘ゲームだ。低学年くらいの時に姉と遊んで以来テレビゲームと縁がなかった私には、なかなかハードルが高い。
明々白々、火を見るよりも明らかに。結果は果たしてやっぱり私の惨敗。見るからに強そうな大男が、腰の曲がったお爺さん相手に手も足も出なかった。
「やーい。へたくそー」
抑揚弱く間延びした、それでいて楽しさの混じった声に煽られる。
正直それを言われるのは嫌いだけれど、秤部は許せた。すごく公平な言葉として受け取ることができるから。
「……コントローラーのせいじゃない? そっち使わせて」
「あいむおっけー。びりーぶびりーぶ」
私は努めて冷静に画面を見つめた。絶対こいつに一泡吹かせてやる。
かくして九個もの屈辱が積み重なったその時、秤部母に動きがあった。
「イノセ。お母さんもそれやりたい」
いつの間にか私たちの背後へ忍び寄っていたのだ。拗ねたように唇を尖らせている。
「天ぷらの方が楽しいでしょ」
「そんなことない。ゲームしたい」
「あの、離れて大丈夫なんですか?」
さっきまで秤部母が居た位置を見遣ると、火がかかったままの黒い鍋と山盛りの天ぷらがあった。
不安に腰を持ち上げられ、そのままキッチンの方へ見えない手に背を押される。
「淡、頼んだ」
「無理だから。やったことないし、どうするのこれ。なにこの箸。長すぎ」
「ふふっ。淡ちゃん、それ菜箸って言うんだよ。お母さん物知りでしょ」
うるさい、という言葉をギリギリ呑み込んで油に箸を突っ込む。
どうしよう取って良いんだよね。怖くて腰が引ける。油めっちゃ跳ねてるし、なんか飛び出してきそう。ちょっと、なにあいつら普通にゲームやってんの。
「は、はかりべ! 代わって! 今すぐ!」
「おしどりってさ。毎年パートナー変えるんだって。テレビが言ってた」
「秤部っ!」
私の懇願も虚しく秤部親子は手を止めない、どころかこっちを見ようともしない。甲斐甲斐しくよそ様の晩御飯を用意する私を蚊帳の外へ追いやって、微笑ましい家族団欒を見せつけてくる。
「淡ちゃんのおかげで今日は賑やかだね」
「どう? 一家に一人、針藤淡」
私はお腹に力を入れて、柄にもなく声を張り上げた。
「――うるさいっ!」
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