第2話 ジャムバターがお好き
朝が来てしまった。どうやら夢ではなかったらしい。一人暮らし、ベッドも何もかも一人分しかなく、エリーの寝場所もここしかなかった。
ソファーで寝ようとしたのだが、上掛けも一人分しかない。冬の終わりには寒すぎる。それでも今日一日くらいはと我慢しようとしたのだが、エリーがなぜ一緒に寝ないのか、という顔で悲しそうにしていたので仕方なく一緒に眠ったのだ。仕方なくである。
狭くて眠りにくいだろうに、俺の脇にちょこんと埋まってすやすや寝息を立てている。長い髪を引っ張ってしまいそうで身動きが全く取れない。どうしようかと思っていたら、ぱちりと目を覚まして朝の挨拶をされた。おはよう、なんてお客さんや店員以外に言ったのはいつぶりだろうか。
「ヤキインってどんなのですか? ……えっ怖い。ドレイってそんな風なんだ。ぼくは観賞用だったんですよ。でも酷いことをして使い潰した主人の話は一度だけ、聞いたことがありますけどねー」
固いパンを千切れず悪戦苦闘していたので、ナイフで切ってジャムとバターを塗って手渡してやった。まるで近所の噂話のように滑らかに語られるエリーの過去の話。簡素な朝食と対照的に、朝からヘビーなものだった。
「お前は本当に、主人に嫌なことをされてはいなかったのか。辛かった記憶は?」
「うーん……なにかあった気はします、でも仲間がいたから。顔も名前も思い出せませんが。みんな同じ境遇だし、優しかったですよ。仲良くなってもご主人が変わるたび、みーんな入れ替わっちゃいますが」
その都度、奴隷同士で助け合っていたらしい。こいつにそういう仲間がいて良かった。俺が内心で少しホッとしたのも束の間、パンをかじったエリーの手が細かく震えだした。なんだ。どうした。不味かったのか。それとも食べてはいけないものだったのか。
「おい、どうした! ダメなら皿に吐き出せ、ほら!」
エリーはぷるぷると首を横に振った。出されたものは必ず食べるよう躾られているのだろう。俺は手に持ったパンだけでも下ろさせようと手首を掴んだ。しかし、しっかりと固定されたように動かない。さっきはパンを千切るのにも難儀していたくせに、この力はどこから来ているのだ。
そのままガフガフと口に入れてしまったが、翆の目にはうっすら涙が浮かんでいる。身体の震えはまだ収まらない。これはどうしたらいい。安静にさせておくのがいいか、すぐに治療院へ連れて行くべきなのか。
「これ、このパンに塗ってあるやつ。すっごく美味しいです! これ何で出来てるんですか? 果物とミルクの味がしてほんとに美味しい!! 素晴らしい組み合わせ!!」
──感動していただけだった。
まあ何事もなくて良かったが、どのみち治療院にはすぐ連れて行かなくてはならないだろう。どういう状態で置かれていたのか、見た目だけではわからないからだ。
観賞用とはいえど奴隷である。具合が悪くなっても金のかかる治療などは後回しにされていたかもしれない。痛そうにしている仕草はないが、どこかに古傷を抱えているかもしれない。
しかしフランカおばちゃんのワンピースはやはり丈が長すぎた。これでは外出できそうにない。どうしよう、と思っていたときに外の呼び鈴の高い音が鳴り響いた。
「ひええ!! あんたどうしたんだねこの子! かんわいいねえー! ひゃー、おっきなおめめ! 綺麗な色だねえ! ……あんたどっかから攫ってきたんじゃないだろうね」
「バカ言ってんじゃねえ!! ちょっと色々あって預かってんだよ。頼むよおばちゃん、この子の着替えとか色々お願いしたいんだよ」
「ああ、だからうちの娘の古着がないかって言ってたんだね。大体はワンピースしかないけど寒くないかねえ? もっと色々持ってきてあげようね。ささ、こっちおいで! いやあほんとに可愛いこと!」
エリーは俺とおばちゃんを戸惑ったように交互に見たあと、一緒に空き部屋へ消えていった。『裾を引きずってるじゃないか、あの人も気が利かないね』とか『下着もあたしのじゃないか。あんた細いからすぐ落ちてきて大変だったろ』など、聞いてもいいのかわからない話し声が聞こえていたが、そのうち『あらまっ』という今日一番のおばちゃんのでかい声が響いた。どうやら性別に気づいたようだ。
「お待たせー。見なよあんた、わりと小綺麗なものを持ってきたつもりだったけどね、ワンピースがボロに見えるよ。……あんた本当に攫ってきたんじゃないだろうね」
「あーもー、だから違ぇって。連れ帰ってどうしようってんだよ。男だって。わかってんだろおばちゃん」
「いやあ、わからないよ。いや性別はわかったけどね、男同士だろうが当たり前に結婚する世の中じゃないか。あんた引く手あまたの魔術師のくせに女っ気がないと思ったら。はーあ、そういうことかい」
ニヤニヤ笑いながら茶化してくるおばちゃんの横に立つエリーは、まあその、非常に可愛かった。確かにお嬢様が庶民の服を着せられている様相だ。物語の中で継母に嫌がらせをされているご令嬢のようである。
「あとでローブを持ってくるからさ、外に出るときはそれを着せてやんなよ。ちょっと目を離したらあっという間に連れ去られそうだ。気を付けな。あと、あんたお得意の魔道具ね。色々しっかりつけてやんなよ」
「……わかってんよ」
「じゃあまたあとで、エリーちゃん! そのお兄さんに変なことされたらちゃんとあたしに言うんだよ!」
「するわけねーだろ!! さっさと帰れ!!」
『おー怖!』と最後まで無駄口を叩き続けるおばちゃんを見送ってからエリーの方を振り返ると、何やら鏡の前でくるくると回っていた。ワンピースの裾を摘まんで広げたり、後ろ姿を確認したりで忙しそうだ。気に入ったか、と聞いたら『はい』と言ってはにかんでいた。……良かったな。
「お屋敷でもこういう服を着てました。でも、それはぼくのじゃないんです。それは君のだとはっきり言われていないときは、出て行くときに置いていくって決まりがあって。さっきフランカさんに全部あげるって言われてすごく嬉しかったです」
ワンピースの裾を揺らしながら語るエリーは本当に嬉しそうで、見知らぬ屋敷の主人を今すぐ張り倒したくなった。しかし話を聞いていると、言われたことやされたことの記憶は生々しいのに、最近まで接していたはずの人物の名前などの記憶だけはなんだか妙に曖昧である。
その辺をエリーに確認しても、『昨日まで一緒にいたはずの人の顔や名前がどうしても出てこなくって』と不思議そうに語っていた。
……部分的に記憶が欠けたこの症状。ひとつだけ心当たりがある。
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