中
当代様は生まれたときからこうだった訳ではありません。
ちゃんとした人間でした。
寧ろ、鬼や畜生よりろくでなししかいなかった家で、当代様だけはきちんとしたひとでした。
育ちがいいのもあるのでしょう。
当代様はこの家の長子で、それは神様の生まれ変わりのように大事にされていました。
この家は代々ねんねん様を祀る神職の家ですから、その当代様が神の遣いとされるのは何ら不思議ではありません。
食うものも着るものも一番上等で、先代様しか読めなかった祝詞も小さい時分から習いつけておりました。
この家の奴僕が産んだ犬以下のやつがれにも優しくしてくれたのは当代様だけでした。
当代様の弟や妹は嫉妬深く心根の汚い者ばかりでしたが、当代様が自分たちよりよく扱われていることに不思議と怒りはしませんでした。
その所以を知ったのはしばらく先です。
やつがれが何かにつけて殴られているのを見かねた当代様が、自分のところにいればよいと私を奴僕にしてくださいました。
生まれて初めて幸せなときでした。
まだ白い毛ではなく黒く長かった当代様の髪を結い、土と桑ではなく筍やら南から取り寄せた小海老を散らした強飯を拵えたり、これがずっと続けばいいと思いました。
ですが、当代様の弟妹がいよいよもうすぐだと嗤うのを聞いて、何かよくない予感がしました。
当代様に聞いても最初ははぐらかされましたが、毎日食い下がるうちに仕方ないと教えてくださいました。
この家で祀るねんねん様とは何処でも聞いたこともないような神様でした。
白く太い毛の生えた蚕のような神様で、捻転から来たとか、手足がなく寝転がっているからとか、名前の由来は定かではありませんでした。
ひとつわかっていることは、ねんねん様はこの村を呪っているということです。
話に寄れば、ねんねん様は昔、当代様のようにただの人間だったそうです。
徳の高いお坊さんでしたが、身分を隠してこの村の地主に泊まったとき、よく深い村人に殺され、手足を切られて崖から捨てられてしまったそうです。
地主とは当代様のご先祖でした。当代様とは似ても似つかぬ悪辣な家人たちは、確かにその血を引いていてもおかしくありません。
それから半月、初めは地主の家の者たちが次々と、その後は村人たちが、動けなくなりました。
飴が溶けるように手足が短くなり、目鼻も衰え、口だけの化け物のようになって這いずるようになったそうです。
途方に暮れた村人たちの前に、崖の方からねんねん様が現れました。地主のひとり息子が、当代様のように優しい方だったのでしょう、自分が咎を負うので村人を許してくれまいかと懇願したそうです。
ねんねん様が身を折り、地主の息子の頭に自分の頭を擦りつけました。地主の息子は一瞬で小さなねんねん様に変わってしまったそうです。
それから、この家の長子は神のように育てられ、十八を迎えたら儀式を行って、次のねんねん様になるというのです。
やつがれは青ざめて、そうしたら、と問うと、当代様は事もなさげに頷きました。
我が家は到底償いきれないところをこうして許してもらっているのだ、寧ろありがたく思わなければと仰いました。
それでいいのかと聞くと、無論と答えがありました。
今まで自分は家と村の者に神のように扱ってもらい、一生分の贅沢をした。これからはそのお返しをしなければ。村の守り神になれるのだから、名誉なことだ。そう言うのです。
それから、当代様はやつがれの頭に触れました。
唯一の心残りはお前だ、私がいなくなってからいじめられないか心配だと仰いました。
当代様は桐の箱から金の飾りやら何やらを出して、これを全てやるから、儀式の夜にこの村から逃げ出してしまえと、やつがれに全てくださったのです。
次にもうひとつの桐の箱を見せてくれて、これは渡せない、どれも儀式で使うものだから、儀式は大変なものでひとつでも間違えば取り返しがつかなくなるとお笑いになりました。箱の中のひとつの錫は、当代様がやつがれにくださったものとよく似ていました。
錫の他にも様々なものが入っていました。どれも古いものの豪奢で値の張る逸品だとわかる金細工でしたか、ひとつだけ不釣り合いな白い針子のようなものがありました。蚕の繭でした。
村では稲作だけでなく養蚕も行っていましたから、やつがれも見たことがありましたが、何故この中にあるのかわかりませんでした。
当代様は、ねんねん様は蚕によく似たお姿だからこれをお祀りするのだと言いました。
蚕とはひとがいなければ生きていけず、蛹から生まれた蛾は口もなく、飯も食わずにやがて絹になる繭だけを残して死んでいくそうです。
ひとに使われるためだけに生まれた虫のようで、やつがれに似ていると思いました。
ですが、当代様は己こそ蚕のようなものだと言いました。
村のひとの手を借りて今まで生きてきたのだから、ねんねん様になった後はひとを守って村の生きていくのだと言うのです。
やつがれは泣きたくなりました。
一番心の綺麗な当代様がひとでなくなるのも、当代様が守り神になるというのに、その弟妹がまるで惨死を待つように嗤うのも悔しかったのです。
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