ねんねん環獄
木古おうみ
上
田圃から戻ると、当代様が六尺余りある白指のような身体を折り曲げて倒れていました。
手足どころか頭や腹の境目もない、蚕に似た真っ白な身体は小刻みに震えておりました。柔らかな白い毛は汁に濡れていました。
「当代様!」
「やつがれです。当代様、貴方の奴僕です」
やつがれは当代様の身体を揺すりました。どちらが上下かわかりかねましたが、畳に接する丸めた餡のような目玉に気づいて、やつがれの右手に触れている方が頭だと思いました。
べっとりと濡れた毛束の間から微かな風が吹き、乾いている毛をそよそよと揺らしました。鼻もない当代様は、毛の奥の肌に空いた無数の溝で息をしているらしいのです。
粘った汁は頭の先端の裂け目から溢れておました。糸を引く水溜りに色褪せた井草が混じっています。間違えて畳を喰んだのでしょう。
やつがれは厨まで走り、お櫃を持って座敷に駆け戻りました。
お櫃の中の強飯を両手に握りしめ、当代様の口らしき裂け目に押し込みました。当代様は何度も上体を捩たので飯が飛び散りました。
毛の生えた大蛇のような腹に跨って、上から何度も押し込みます。当代様が反るたびに腹や腿を白い毛がくすぐりました。
押し込んだ飯が当代様の喉を硬く膨らませたかと思うと、両端の裂け目から粘液が噴き出しました。
畳に広がる粘液は井草だけでなく泥が混じっていて、襖も天井も嵐の後のような様になりました。
当代様は昼寝をしていた子どもが跳ね起きるように身体を折り曲げ、やつがれを弾き飛ばしました。そして、濡れた毛を震わせ、気孔からふうと息を吐きました。
当代様は何も映さない餡のような目を回すと、這ってやつがれの方へ来ました。
「腹が減っていらっしゃったんですね。朝餉を食べないものだから、田植えの最中ずっと気掛かりだったんです」
お櫃に残った強飯を差し出すと、当代様は頭を突っ込んで食べ始めました。長い胴の出っ張りから今飯がどこにあるのかよくわかるのも愛らしく、やつがれが戯れに膨らみを押すと当代様はきゅっと鳴きました。
強飯はひとの食うものではありません。
少しの餅米に稗と粟、それにたくさんの桑葉と土を練り込んだものです。当代様に土を食わせるのは気が引けましたが、これがないと食が進まないようでした。
飯が硬くて食べにくそうなので、水をかけてやると、裂け目から粘った音を立て始めました。
それから、手拭いを水に浸し、当代様の長い全身を表から裏まで拭きました。畳と障子を拭き、土色になった手拭いを縁側に起きますと、すっかり綺麗になった当代様が飯を食い終えたところでしたた。
まだ前後不覚なのでしょう。裏返った衣の袖が中々戻らないのを焦れるように身を捻りながら進むのが愛おしく、やつがれは頭を抱え込みました。
柔らかい毛は猫のようでしたが、村の畜生は大抵痩せ細っているので、当代様の方がよほど柔らかでした。
毛の奥に指を差し込むと、しっとりと湿って温かな肌が、昔一度だけもらった饅頭の皮のようでした。そっくり毛を払ってよく研いだ包丁を差し込めば、きっとさしたる抵抗もなく切れ、赤い肉が艶々と現れてさぞ美味かろうと思います。
当代様はそれを悟ったのか、きゅうと鳴いてやつがれの手から逃れました。
「やつがれが当代様を食うはずはございません」
そう言って、座布団を押すと、当代様はそれに頭を預けました。
そうしていると、ねんねん様そっくりでした。
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