第9話 自覚

とにかくだと思った。

だが、だった。


2023年4月18日 3時20分


ホテルに到着し。荷物を置いてすぐに、上司Xとホテル前にある24時間営業のコンビニに行き。2リットルの水を買って部屋に到着した瞬間。僕はベッドに倒れこんだ。


疲労困憊という言葉を、今日超えた気がする。


濃く、辛い1日だった。

これから急いで寝ても、明日の8時前には起きなくてはならない。

とにか風呂に浸かりたかった。が、このホテルはどうやら浴槽なしのシャワーしかないらしい。

芋虫のように体をゆっくりと起こし、体を引きずるようにシャワー室へと向かう。

汗を吸って不快極まる服をもそもそと脱ぎ、お世辞にも綺麗と言えないシャワー室へと入る。


シャワーヘッドが壊れていた。


( ………………。)


まぁ、手に持てばいいか……。


一瞬折れかけたが、気合で持ち直して無駄な思考を消す。

深く考えたり、細かいクレームを考えること自体億劫だった。

全てがどうでもいいやと感じ。事務的に汗を流そうと決める。


頭を洗い、上半身を洗い。

ふと、下半身を洗おうとして、アレが眼に映った。


「………………腫れ、またちょっと大きくなってないか?」


チャンギ空港で見たときよりも、気持ち膨らんでいるように見える。

そういえば、鈍痛が戻ってきた気がした。

熱いシャワーを浴びて気が緩んだ結果、血行の促進によっていろいろなことを思い出す。

(あれ……もしかして……なんかやばくないかこれ?)


チラリと、昔読んだ嫌なネット記事を思い出す。

「タマがなんか痛いんだが」という話から始まって、どんどん腫れて痛くなり、半日後病院に駆け込んだら手術となり。最後はタマを摘出して大惨事になったという記事だ。


「えっ、あれ……えっ???」


急速に思考が戻り。事の重大さに気づく。

だ。6時間半も離れた異国マレーシアだ。

海外は当然、日本の保険証など使えない。海外の医療保険など、電撃出張過ぎて入っていない。

もってきたお金は、日本円にしてわずか580リンギット(約1万8000円分)だけだ。

英語も中国語もマレー語もできない。会社の人だって仕事があるし、車がないと店にすらいけない国だ。しかも、帰国のフライトまではあと4日もある。


「もしかして……僕、……?」


心臓の鼓動が、ありえないくらい大きくなった。

脚が少し震え、妙に喉が渇いたのを覚えている。

とにかく、怖かった。

深夜3時過ぎなのだ。上司Xに今から相談するわけにもいかない。


シャワーを切り上げ、なんとか部屋に戻る。

ぐるぐると嫌な考えが脳を走っては、何もできないことに絶望した。

よしんば医者に担ぎ込まれても、莫大な医療費が請求されるかもしれない。

1週間前の引っ越しで貯金のほぼ全額を使い切っていた僕は、余裕などあるわけがなかった。


いや、と思い直す。


あのネットの記事は、という症例だ。

精巣につながる精索という血管を含んだ管が、玉袋のなかで何回もねじれ、懐死するという病気だ。

これは精巣の腫脹が起きた後、吐き気、めまい、激痛を伴う。

発症から12時間で完全にアウトという話のはずだから、少なくとも24時間以上問題ない身としては、重症ではないはずだ。


未だタマの方は鈍痛。腫れてはいるが、押したりしない限りは問題なかった。

むしろ、腕に痣ができたときの方が痛いぐらいだ。


無駄知識で最悪の可能性をつぶしながら、無理やり落ち着きを取り戻す。

正直、今すぐ日本に帰りたかった。

震えた足を叱咤し、旅行バッグから医療品のミニポーチを出す。


鬱用の精神安定剤。睡眠導入剤。痛み止め兼解熱剤のロキソニン。


(やれることは、これしかない。)

僕は口の中に薬を放り込み。がぶりと水を飲んだ。


薬の力を借りているとはいえ、やっていることが野生動物のそれである。

しかし、現状に対して僕ができることはこれだけだった。


―――僕は無力だった。


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